「かコよヶ駅前地下道」2/2
駅舎の中の椅子に腰かけて、友也は考える。
これからどうするか。
もう一度、電話を掛けてみるか。父親の携帯じゃなくて、他の家族とか、友達の携帯とか、あるいは家の電話に掛けてみたらどうだろう。でも、もしそうやってみて、さっきと同じことにしかならなかったら……。その可能性を思うと、再び電話を使うのもためらってしまう。あの気味の悪い沈黙は、もう聞きたくない。
何気なく、友也は駅舎の中を眺め回す。
木の壁に虫ピンで貼られたポスター……旅行関係のものだけでなく、『火の用心』と書いてあるものとか、生命保険のポスターとかも混じっている。旅行関係のやつは、いつも使っている駅にも貼られているポスターが、何枚もあった。古いポスターを貼りっぱなしにしているわけじゃないらしい。駅舎の真ん中には、キャスター付きのスタンドが二つ、背中合わせで置いてあり、透明なケースの中にはさまざまな旅行のパンフレットが入っていた。
天井の蛍光灯……端っこにクモの巣が張っていて、そこに埃と、光に寄ってきて絡まったのだろう、小さな羽虫の死骸がたくさんくっ付いている。あんまり掃除は行き届いていないようだけれど、電気はちゃんと灯っていて、おかげで、駅舎の中は不便を感じることのない明るさだった。
壁際の長椅子……細長い木箱を横にして置いたような形をしている。イスの上には、紺色とえんじ色の座布団が並べられている。明日電車が来るのだったら、あの長椅子の上で、座布団を掛け布団代わりに、一晩眠って待っていてもよかったのだけど――あっちのイスだと、壁が背もたれ代わりといった感じなので、もたれかかって座るのはちょっとつらそうだが、寝転ぶにはよさそうなのだ。少なくとも、自分が今座っているイスよりは、よほど寝床として適しているだろう。
駅舎の中のイスは二種類あって、友也が座っている入口近くのは、木製ではなく、プラスチックのイスだった。丸みのある形で、肘掛けはなくて、座る所と背もたれがひと続きになっているタイプのものだ。それが、入口の横の壁に四つ並んで据え付けられていた。オレンジ、水色、白、白の、四つのイス。友也は端から二番目の白いイスに座って、その隣の水色のイスに鞄を置いていた。
いつも利用する駅のイスが、ちょうどこれと同じようなイスだった。
座った瞬間はひやりと冷たくて、硬くつるつるとした、プラスチックの感触。
それは、友也にとっては、とても日常的なものなのに。
こうしていると、改札の向こうの、空っぽの線路の上に、今にも電車がやって来そうな気がするのに。
五秒間くらい、改札の向こうを見つめたあと。
友也はふう、と息をついた。
いつまでもここでこうしていたって、埒があかないんじゃあないか。
友也は鞄を引っ掴むと、体温と同じくらいにぬるまったプラスチックのイスから、勢いよく腰を上げた。
もう、こうなったらもう、本当に最後の手段だ。
歩いて帰ろう!
幸い、ここは駅なのだから。ひたすら線路に沿って歩いていけば、時間はかかるだろうが、道に迷うことは絶対にない。見晴らしだけはこんなにも良すぎる場所なのだし。
それで、途中でまた電話も掛けてみればいい。この駅から離れたら、さっきのようなおかしなことにならずに、ちゃんと電話が通じるところもあるかもしれない。なんとなく。
そう考えながら、友也は再び駅舎の外に出た。
そこで、ふと、立ち止まる。
目の前にぽっかりと口を開ける、地下道の入口。
そのコンクリートの壁には、雨染みのカビなのかなんなのか、すすけたような黒い汚れが滲んでいる。階段は、真ん中が自転車用のスロープになっていて、普通の建物にあるようなものよりも、倍くらい緩やかだ。一段一段の幅が広いその階段には、点字ブロックみたいなぽちぽちとした滑り止めが並んでおり、階段の表面には、紅茶をこぼした跡のような色が染みついている。
入口を覆う屋根には、『かコよヶ駅前地下道』と書かれたプレートが下げられていた。
友也は入口に近づき、階段の手前に立って、地下道の底を覗き込んだ。階段の下には平坦な通路が続いている。けれど、その通路は途中で曲がっていて、その先がどうなっているのかは、ここから見てもわからない。
何かあるのだろうか。この、地下道の先には。
帰る前に、一応、それも確認しておきたかった。
地上に何もないのなら、ひょっとしたら、この下には地下街でもあるのかもしれない。まあ、その可能性は低いだろうけど。でも、もし店の一つでも。いや、このさい自販機の一つでもいいから、あってほしい。いろいろ焦ったり不安になったりしたせいで、ちょっと喉が乾いてしまった。いつもは、食べ物や飲み物は家から持っていかず、大学の生協のコンビニで買っているので、今、手元には喉を潤せるものが何もないのだ。
これからしばらく歩くことになるのだから。そして、この荒れ野を抜けるまで、店や自販機なんて一つもないだろうから。飲み物を手に入れられる可能性が、ほんの少しでもあるのなら、それを捨て置くことはできない。
そう考えて、友也は、地下道に足を踏み入れた
たしっ。たしっ。たしっ。たしっ。
階段を下りていく、スニーカーの靴音が、地下道の中に反響する。
湿った空気のにおい。蛍光灯の明かり。コンクリートの壁と天井。
地下道は、入口に扉なんかなく、地上と繋がっているのに。地下道の中では、空気も、音も、光も、地上のそれとはすっかり変わってしまう。だからだろうか。こういう地下道が、屋内でもなければ、野外ともまた違う、なんだか不思議で、奇妙な空間に感じられるのは。
友也は、階段をいちばん下まで降りて、さらに先へと進んだ。
途中で曲がった通路。
上から見えなかった、その先には、まっすぐな長い通路が伸びていた。
通路の端までは、けっこう距離があるようだ。五十メートルくらいあるだろうか。こんな狭い空間だと、五十メートル走をした運動場を思い浮かべての距離感覚は、あんまり当てにならないかもしれないけど。
とりあえず、このまっすぐな通路の端まで行こう。それで、その先の道になんにもなさそうなら、そのときはいさぎよくあきらめて、今度こそ帰ることにしよう。
そうして友也は、トンネル状の長い通路を、しばらく歩いていった。
やがて、まっすぐな道の突き当たり、また通路の曲がる手前まで、たどり着いた。
この先に、いったい何があるのか。期待するようなものがあるのか、どうか。
友也はごくりと唾を飲んで、道の先を目にするために必要な、残りの数歩を、歩み切った。
折れ曲がった通路の、その先には。
――地上への階段があった。
「……へ?」
友也は、思わずぽかんと口を開けた。
地下道は、ここで終わりなのか。
拍子抜けした、というだけのことではない。それは、ひどくおかしなことだった。
だって、地上には、地下道の入口はあっても、その近くに出口なんてなかったのだから。五十メートルという距離は近くでもないかもしれないが、それでも、あの見晴らしのよい荒れ野で、五十メートルや百メートル向こうにある地下道の入口が見えない、なんてことがあるだろうか。
いったい、これはどういうことだ。
わけがわからなくなりながら、友也は、とにかく階段を上ってみた。
階段を上り切った、その先。
地下道の外の、地上。
そこにあったのは――荒れ野ではなかった。
ここにあるはずのないもの。
もしあったのなら、駅前から見えないはずのないもの。
でも、それは確かにそこにあった。
地下道を出たところには、たくさんの家が建ち並ぶ、街の景色が広がっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます