ここから本編

第1話 ~おかしな駅と時刻表の話~

「かコよヶ駅」1/2

 いつものように家を出て、いつもと同じ電車に乗ったはずだった。

 なのに、どうして。

 この電車は、いつまでも止まらずに走り続けているのだろう。


 時計を見ると、もうかれこれ三十分以上、走り続けているようだ。いつもなら、この電車は、五分ごとくらいに各駅に停まるはずなのに。いつもなら、二十分も経てば、とっくに目的地の駅に着いているはずなのに。

 電車を乗り間違えてしまったのだろうか。もしかして、快速に乗ってしまったとか。

 この時間帯に、この路線で、快速なんてなかった気がするけど。でも、ひょっとしたら、知らないうちに運行表ダイヤが変わっていたのかもしれないし。


 そうなのだろうか。

 どうなのだろうか。


 窓の外を流れていく景色は、見たことがあるような、ないような、どこにでもある普通の街並みだ。ずっと見ていても、この電車が今どこらへんを走っているのかは、よくわからない。

 いつも降りる駅の先には、こんな風景があっただろうか。ちょっと考えてみた。以前、居眠りして乗り過ごして、この路線の終点の駅まで行ってしまった、そのときのことを、思い出してみた。


 やっぱり、どうも違うようだ。

 あのとき行き着いた終点の駅は、街並みの隙間から海が見える、湾岸のそばにある駅だった。そして、そこから折り返すと、間もなくして、周りは何かの工場地帯みたいな景色になった。工場地帯を抜けたあと、電車はありふれた街並みを、見下ろして走りながら、いつも降りる駅まで戻っていった。そう。あの辺りの線路は、高架線なのだ。

 今この電車が走っている所は、高架線の上でもないし、工場地帯でもないし、近くに海があるようにも見えない。


 じゃあ、ここはどこなんだろう。

 いつも使う路線とは違う路線に、入り込んでしまったのだろうか。そういう電車に乗ってしまったのだろうか。いつもの駅からいつもの方面への電車に乗って、その先に路線が交わるような場所なんて、あったかどうか、わからないけれど。でも、たぶん、あったのだろう。現に今、この電車は知らない場所を走っているのだから。


 なんにせよ、電車が走っている間は、どうすることもできない。

 電車が駅に停まるのを、待つしかない。それまでは、いろいろ考えたってしょうがないのだ。

 次の駅に停まったら、そこで降りて、すぐに引き返さなければ。


 そう思いながら、友也ともやは持っていた本を開いて、クリップ型の栞を挟んだそのページに、再び目を落とした。

 それほど面白くもない本。大学の、レポートのための資料。

 これを読んで、今週中にレポートを提出しなければならないから、最近は電車に乗っている時間も利用して読み進めていた。面白くはないけど、だからこそ余計に、集中して読まないとなかなか頭に入ってこない。それで、本に集中しすぎていたせいで、電車を乗り間違えたことに、何十分も気づかなかったのだろう。きっとそうだ。


 まだ、電車は停まる気配がない。

 今日の一つめの講義には、もう間に合いそうになかった。

 友也は溜め息をついた。

 大学生になったときから、予想してはいた。いつかこういうことがあるんじゃないかと。


 だからこんなことにならないように、なるだけ毎日同じ時間に家を出て、なるだけ毎日同じ時間の電車に乗って、大学へ行くようにしていたのに。一つめの講義が始まる時間は曜日によってまちまちだけれど、早めに大学に着いたときには、サークルの部室で、講義が始まるまでの時間を潰すようにしていたのだ。そうすれば、だいたい毎日、決まった時間に来る電車に乗ればいいだけだから。そんなふうにしていた甲斐あって、乗る電車を間違えるなんて失敗は、今までせずにすんでいた。


 なのに、なんでだろう。

 いつもと同じ時間に家を出て、いつもと同じ電車に乗ったはずなのに。

 どうして今日に限って、この電車は、知らない場所を走り続けているのだろうか。




 それから、さらに三十分経っても、電車はまだ停まらなかった。

 もう一時間以上、この電車は一度も駅に止まらず、ずっと走り続けていることになる。さすがにこれはおかしい、と、友也は本を鞄にしまって立ち上がった。


 まさか、運転手に何かあったんじゃないだろうな。

 その可能性を思いついた途端、友也の中で一気に不安が増した。万一、運転手が居眠りしていたり、気を失って倒れたりしていて、そのせいで電車を停められなくなっていたとしたら。

 そんなことになっていたら、大変だ。ちょっと、行って確かめてみなくては。

 友也は急いで電車の先頭車両へと向かった。


 ゴトゴト揺れる足元。ときどき大きな揺れがきて、何度か転びそうになりながら、座席の間を歩いていく。

 電車は異様にすいていた。友也が今まで座っていた車両には、確か人がいたような気はしたが、その隣の車両には誰一人いなかった。さらに、その隣の車両も無人だった。


 自分が乗ったとき、この電車は、こんなにもすいていただろうか。

 自分が乗ってから、この電車は一度も駅に停まっていない。だから、あれから誰も電車を降りてはいないはずだ。それなのに、やっぱりどうも、いつの間にか人が減っているような。

 いや。そんなおかしなことは、あるはずないのだから。きっと、これは勘違いだ。

 勘違い。そう、たとえば。電車は、本当は途中で駅に停まっていたとか。そんなふうに考えたらどうだろう。そのとき自分は、電車が停まったことにも気づかないくらい、集中して本を読んでいたのだ。


 そういうことも、たまにはあるのかもしれない。

 記憶と認識と、ふと目に映った現実とが、食い違って。

 そうやって、「おかしなこと」っていうのは生まれるもんなのだ。


 ――なんてことを思いつつ、友也は、先頭車両のいちばん前までたどり着いた。

 運転手さんは大丈夫だろうかと、ガラス窓から運転席を覗き込む。

 しかし、そうやってみても、中の様子はよくわからなかった。


 運転室の中は、いやに暗かった。運転席に、たぶん人はいるのだろうが、その人影すら見えないほどの暗さだ。いや。これは、運転室が暗いんじゃなくて、ガラス窓に黒く色が付けられているのだろうか。

 友也は、ガラス窓をコン、コン、と軽く拳で叩いてみた。中からはなんの反応もない。もう一度、今度は手の向きを変えて、ドン、ドン、と強めに鳴らしてみたが、同じことだった。


 運転席の扉は開かないし、仕方がないので、友也はあきらめて、もときた車両を引き返した。そして、そのまま最後尾の車両に向かった。

 こっちに誰かいてくれれば、と思ったのだが、最後尾の車両のいちばん後ろにある運転室も、先頭車両のものとまったく同じ状態だった。ガラス窓を叩いても、中に向かって呼びかけても、なんの応答も返ってこなかった。


 どうしようもない。やっぱり、電車が停まるまで待っているしかないのか。

 でも、そうしようと思ってから、すでにもう何十分も――。


 はふっ、と、気もそぞろに中途半端な溜め息をついて、とりあえず、友也は後ろから二番目の車両に移動した。

 その車両には、乗客が一人いた。後ろ姿だけれど、その人は、どうやら背広を着たおじさんだとわかる。


 そういえば、と友也は気づいた。

 この電車には、自分以外にも何人か乗客がいるようだけれど、その人たちは、別に騒ぐでもなく、自分のように車内をうろうろするでもなく、普通に席に座っている。ってことは、自分以外は、今の状況を特に異常事態だとは思っていないってことなんだろうか。


 自分は、きっと電車を乗り間違えたのだろうけど。他の人たちは、この電車がいつも乗っている電車、あるいは、今日乗るつもりで乗った電車、なのかもしれない。これはこういう電車だとわかっているから、誰も騒がないし、不審に思って席を立つことすらしないのかもしれない。


 それなら、他の乗客に聞いてみれば、この電車の行き先や、電車が次の駅に停まる時刻がわかるんじゃないだろうか。

 そう考えて、友也はさっそく、今いる車両に座っているおじさんに、声を掛けようとした。


 しかし、背を向けていたそのおじさんの前に回って、顔を見てみると、おじさんは居眠りをしているところだった。

 起こしてしまうのは申し訳ないので、友也はそのおじさんに声を掛けるのはやめて、また隣の車両に移動した。


 後ろから三番目の、そこは、友也が最初に乗っていた車両だった。

 その車両には、二人の乗客がいた。一人はおばあさん。もう一人は若い男。

 友也はまず、近くにいたおばあさんのほうに話しかけた。


「あのー、すいません」

「はい?」

「あ、あの。俺―、どうも、この電車、間違えて乗っちゃったみたいなんですけど」

「はい、なんでしょう?」

「ん。え、あー。えっと、だからですね」

「ああー、そうですねえ」


 友也を見上げてにこにこ微笑むおばあさんは、どうやら耳が遠いらしい。

 よし。それじゃ、もっと大声で喋ってやろうじゃないか。

 友也は息を吸い込んで、もう一度口を開いた。


「あのー! この電車、どこ行きの電車なんでしょうか!」

 さあ、これでどうだ、と友也はおばあさんを見る。

 おばあさんは、ああ、とおおきくうなずいて、

「ほんとに、そうですねえー」

 がっくりと、友也は心の中でうなだれた。


 まあ、いいや。それなら奥にいる男の人に聞いてみよう。

 友也はおばあさんに会釈してその場を離れ、奥の席に座る若い男に近づいた。

 そして――。


 どうにも、おかしなことだった。

 男に声をかけようとしたその瞬間、友也は、わからなくなってしまったのだ。

 ついさっき。今しがた。数秒前に。自分はこの男と話してしていた、ような気がする。でも、よく考えれば、やっぱりこれから初めて声を掛けるところで、まだ一度も男に話しかけていないような気もする。

 自分がこれから男に話しかけるところなのか、それとも、もうその男と話を終えたところなのか。直前の自分の行動を、いくら思い出そうとしても、どうしてもわからないのだ。


 この男の人に、この電車のことを尋ねようか、どうしようか。

 もし、すでにもう、この人に話しかけたあとだったら思うと、声を掛けづらい。

 男の近くでしばらく迷っていたが、友也は結局、男に話しかけることができずに、その場を離れた。


 そうして、友也は、はじめに自分が座っていた席へと戻ってきた。


 席に座って、友也はまた窓の外を見る。

 それと同時に、電車が、トンネルの中に入った。

 トンネルの壁に反響する電車の走行音。暗い窓ガラスに映る、自分の顔と、車内の景色。


 それらは、さほど長くは続かなかった。

 電車は間もなくしてトンネルを抜けた。


 その先にあった風景は、もはや街並みではなかった。民家らしきものはどこにも見えない、ただ遠くのほうに山があるだけの、だだっ広い荒れ地、だった。

  線路は、やはり高架線ではない。電車は今、普通に地面の上にある線路の上を走っている。それでも、遠くの山際の様子まですっかり見渡せるほど、線路の周り一帯には、なんにもない。


 そんな景色の中を、何分か走ったあと。

 電車は、だんだんと速度を落として。

 ようやくのことで、駅に停まってくれた。

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