第7話 沖田畷
(一)
事前に島原一帯を調べつくしていた家久は、軍議において、籠城を主張する有馬晴信、伊集院忠棟らの執拗な反対を斥け、龍造寺軍との野戦を決断し、防御に適していることから、戦場を島原半島北方の沖田畷に設定した。
戦場が決まった以上、敵よりも早く着き、柵を構えるなど防御の準備をしなければならない。馬を飛ばし、人は走り、強行軍で沖田畷に到着した島津軍を待っていたのは、見たことのない広い道と、それを取り囲む広大な湿地帯であった。
広い道は、肥前中の道を戦車が通行しやすいよう、昌直が奉行し広げたためだ。ゆうに、馬十頭が横に並んで疾走できるほどの広さだ。もはや、道と言うより、整備された長く続く平地と言うべきだった。
軍議で言い渡された陣割と、家久手書きの布陣図に従って、各隊は各々、防御柵を組み上げ、兵の配置を行って陣を形成した。
陣は通常、包囲の場合は鶴翼、突撃の場合は嚆矢とか、作戦に従って構成されるものだが、家久の手による陣は変わっていて、何がしたいのか分からぬものだった。
無秩序にばらばらに配置された各陣は、陣同士の連携が取り辛く感じられる。
しかも、陣のいくつかは、動きづらい沼の中にすら配置されている。
どう展開し、どう戦えばよいのか。歴戦の将達も頭を抱えた。
これは素人の考えた配置ではと、首を捻りたくなるほどだった。
しかも、「場定め」という厳しい決まりがあった。
潰走壊滅を例外として、定められた陣の範囲から移動してはならない。
勝手に陣を移動しただけで、死罪という例のないくらい厳しいものである。
薩摩の軍法によると、一応陣の配置は行うものの、戦が始まると、諸将が臨機応変に陣を移動するのは当たり前だった。陣を固定すると、事態の変化に対応できない不合理が生じるからだ。適当適当(てげてげ)に、というのが良い塩梅なのを、熟練の将ほどよく知っている。当然、反対意見が噴出したが、家久は茫洋とした普段と異なり、頑として譲らなかった。違反者は死罪という極刑もである。
伊集院忠棟や新納忠元、山田有信ら戦上手で知られ、功績ある宿老相手に、最初の大将にして、しれっと厳格すぎる定めを通すところに、島津又七郎家久の凄みを感じる。
(二)
陣立てについて詳しく説明すると、
畷という沼沢の真ん中を通る道の、手前の森から沼沢へ開ける入口に、
まず肥後先方衆赤星勢五十が一の柵を築く。
手前の森は、神聖なる地で人が長年入っていないため、枝通しが複雑に絡み合い、仮に人が通れても長弓、長槍などは持ち込めない。
その枝は畷手前の森を抜ける街道にも影響し、街道の左右から伸びた枝が、頭上十二間の地点で絡み合い、森の中の街道の天蓋のようになっている。そのため、森の中の街道から畷への弓矢による攻撃は不可能と言って良い。
自軍の陣位置は、定石通りで赤星統家にも否やは無い。
ただ統家は、余りに簡単に終わる島津の軍議に驚いていた。
軍議はもっと細部を詰めるものではないのか。場定めは厳格だが、その後の定めが適当過ぎる。
軍議とはもっと、敵がこう来たらこう攻めるとか決めるものの筈だ。
肝心の戦い方は、諸将に丸投げな感じで、統家は少しばかり不安に思っていた。
しかし、隆信本人が来ることは、赤星勢にとって願ってもない状況、命の限り戦い、息子と娘の仇、龍造寺隆信の首を上げるのみだ。
一の柵を抜ければ、正面に畷が続き、左右に沼、
向かって右の沼はその更に右を丸山の断崖で閉ざされ、
左の沼は伸びてきた神聖な森によって閉ざされ、
沼地は一個の袋のようになっている。
そこでまず待ち受けるのは、島津軍二の構えである。
二の構えは歴戦の勇将達による三陣併せて七百である。
中央の畷、赤星勢の後方には伊集院勢五百が柵無しで構える。
通常は赤星勢の援護の位置の筈だが、場定めがあるので援護には回れない。
赤星勢が崩れた後の第二の防壁の役割である。
その右側、沼沢の右中の島を中心として新納勢百が陣を構える。
中の島は下が緩く不安定で柵を置けない、
しかも十分な広さが無く兵の半数はずぶずぶと泥に浸かって構えねばならない。
横の伊集院勢を矢によって援護することは可能な位置だが、
泥で踏ん張りがきかぬ中、どの位戦えるかすら不安となる場所だ。
左中の島には、山田有信、有栄親子率いる百が陣取る。
左中の島の大きさは右中の島と似たり寄ったりで、新納勢と柵の点や動きにくい条件は一緒である。
新納勢の陣位置は、右中の島と左中の島の位置関係に合わせ、
山田勢の陣よりずっと奥の方にあるのが違う点である。
ただ、この三陣が二の構えと言っても、各隊の位置はバラバラ、
距離もまちまちで、場定めと沼沢によって連携を分断されている。
各隊は、二番目に無秩序に並べられているだけにすぎない。
三の構えとして、
伊集院勢の後方には、川田勢上原勢からなる五百が、畷上に柵を構える。
その左手の沼の中には、川上勢百が陣を構える。
ここは、中の島も無く沼が少し浅くなっているだけの場所である。
忠智以下、泥に足をとられぬよう注意して陣取っている。
沼地を抜けた平地に、最後の四の構えがある。
中央に家久、豊久親子の六百、すぐ右に鎌田政近の五十、
その右に彰久軍四百、左に忠長軍四百が沼に沿って柵を構え陣を張る。
更に、敵が三路に分散した場合に備え、丸山山中には猿渡勢が潜んでおり、
神域の森の浜側には、忠心無比と言われる平田光宗の軍が潜んでいる。
これら遊軍は場定めの例外で、
敵が分散した場合は、そのまま伏兵として敵の進軍を妨害し、
敵が集中した場合は、回り込んで敵の背後をつく手筈である。
有馬晴信は三千の兵を率い、森岳城を出でて猿渡勢に合流する予定だが、まだ姿を見せない。
敵は大軍、その利点を活かそうとすれば、沼地を通らぬわけにはいかない。
しかしこの厄介な地形で、敵も味方も十分な力を発揮できるのか。
忠堅はしげしげと布陣図を見ていた。
家久が、ごちゃごちゃと書きなぐった沼地の図に、
所々意味ありげに朱が入れてある。
意味を確認に、新納陣の近くの朱の部分に行ってみた。
おお、ここは、土が固く泥が乾いて容易に動き回れる。
沼地の戦闘では、これを知っている方が圧倒的優位に立つだろう。
他の隊も、その意味に気づきだしたようだ。方々で歓声が上がっている。
しかし、いつの間にここまで調べたのか。
そもそも当初の計画に無い野戦を、どのくらいの確度で予想していたのか。
もしや、場定めとは、ここまで考えてのことか。
忠堅は、だんだん家久のことが、空恐ろしくなり始めていた。
ところで沖田畷に向かうあたりで、押川強兵衛の姿が見えなくなった。逃げるような男ではない筈だが。少し気になったが、戦の高揚の中で、いつしか忘れてしまった。
(三)
行軍中の木下昌直は、その布陣図を有馬晴信からの急使により手に入れた。
家久から晴信にもたらされたもので、朱は沼地で動ける部分だという。
成程、これを知らなければ、我が軍は苦戦を強いられるところであった。
急ぎ、朱を参考に敵の布陣を攻略する策を立て、隆信に上伸した。
隆信は布陣図をしげしげと眺め、ぽつりと言った。
「恐ろしいの。」
「でっしゃろ、敵もなかなか。島津は、野戦の上手との評判は伊達ではおまへんな。」
隆信は目を閉じ静かに首を振った。
「恐ろしいのは、お主のことじゃ。」
顔色も変えず、昌直は用心用心と思った。
いつもの戯れ言のようだが、この主は油断ならない。
狡兎死して、走狗煮らるる。
古の、韓信の二の舞いは御免だ。
隆信は全軍に停止を命じ、諸将を招集した。
敵の布陣図の写しを渡し、その意味を説明するとともに、改めて戦術を確認指示した。
軍を三つに分け、先方衆と隆信本隊一万は街道を進み、畷の正面から突撃する。
嫡子政家の隊と鍋島勢からなる一万は、丸山の山道を進み敵の背後に出て、家久本陣を背後から伺う。
後藤勢、江上勢併せて二万は、森を迂回して広い砂浜を通り、敵本陣を横から突く。
政家が珍しく意見を言った。
「父上、正面の本陣が一万では心もとない。種家か家信のうち、どちらか本陣に回されたら如何。」
隆信は青筋を立てて怒った。
「愚か者!戦は数ではないわ。」
政家は首をすくめた。
戦は数ではない。隆信自身、小勢で大軍を何度も破ったことがある。
しかし隆信は忘れていた。今言ったことは、島津にも言えること。
言い換えれば、龍造寺にも言えること。心せねばならないことだった。
軍勢の数においても、謀略においても先をとっている。
この気持ちが、隆信以下、龍造寺諸将にあった。
好事、魔多し。
それが慢心油断に繋がることを、不思議と皆忘れているようだった。
沖田畷は、もう二里ほど先である。
隆信は叫んだ。
「全軍、出陣せい!薩摩の狐どもを食らい尽くし、我ら肥前の熊の力を見せつけてやれ!」
全軍、おおと叫んで、一目散に向かっていく。
向かうは、沖田畷。
三千の島津兵が待ち受ける戦場へ
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