第6話 逆進
(一)
柳川に放った細作からもたらされた報せは、歳久はじめ島津本軍の諸将を凍りつかすに十分なものだった。
龍造寺軍逆進、向かう先は肥前島原。
本陣に集まった諸将のどよめきは収まらない。義久が歳久に問う。
「いけんすっか。」
歳久は目を閉じ、何事か考えているようであった。
「とにかく、こちらの策に気づかれた以上、早急に引き上げの決断をせんといかん。」
義弘は冷静である。
義久は頷き、「急ぎ鷹を。」と言った。
誰かが思わず言った。「間に合えばよいが。」
「歳久よ。」義久が短く命じた。
「次の策を練れ。」
ははと畏まって、諸将に続き本陣を後にした。
夕闇迫る空を見上げる。
どうして分かった。期日をかけ、周到に用心深くした計画である。
合点がいかなかったが、早急に次善の策を講じねばならない。
ただし、家久への報せが間に合えばのことだ。
又七郎に、重か荷をしょわせてしまった。
しかし、相手の木下昌直という軍師、底の知れない知恵者と言う他ない。
儂は勝てるか。
いや、今考えることではない。
軽く頭をふって、歳久は祈るような気持ちで自陣に戻った。
(二)
その夜、未だ歳久からの報せがつくはずもない島原にいる”伏兵”軍の諸将は、長陣の憂さを慰めるとの趣向で、有馬晴信から宴に招待されていた。日野江城の中庭に篝火を焚き、舞台を拵えて、有馬家臣が次々に薪能を披露する。外の兵士たちにも酒がふるまわれた。
能が好きな伊集院忠棟などは興味を示しているが、忠堅はじめ殆どの諸将は、戦場での退屈な宴に酒の方が進んで、ついつい痛飲している。
晴信には魂胆があった。龍造寺軍に戻った木下昌直から、本日深夜に島津軍の軍船千艘全て、密かに焼き払うように指示されている。その上で日野江の城門を閉ざし、立て籠もるようにと。企てを上手く成功さすための宴であった。晴信は心の内を見透かされぬようにこやかに、自ら島津諸将に酒を注いで回った。
計算外だったのは、島津諸将いずれも酒が強く、思うように酩酊してくれぬことだった。そのうち、もうひとつ計算外が起こった。
「もう一度言うて見よ!」
珍しく家久の怒声が響く。
「ああ、何度でも言いもそ。龍造寺軍が柳川におるなら、少しでも早く水之江を盗るるごつ、密かに進軍すべきじゃ。それを、いつまででん。こん半島の端におっとは、物見遊山か、隆信を恐れてのことか、公子さま、いずれごわすか。」
国兼も大声で言い返す。諸将は驚かない。また始まったか。梅北左衛門には、よくあることだった。
国兼の旧知の友である新納忠元、山田有信らが、間に入ろうとするが、両者は共に引かず、諍いは収まらない。
「良いか、儂は太守義久様から軍配を預かった身じゃ。引くも進むも儂の一存で決める。余計な差し出口は無用じゃ。従えんと言うなら、八代へ帰るがよか。」
「儂は意見を言うとるのです。こげな意見も取り上げられんとは、諸国に響いた島津兄弟とは思えん狭量さ、兄上たちと違うのは、やはり妾腹がゆえですかの。」
「国兼、言いすぎじゃ!酔っぱらうのもいい加減にせぇ。」
忠元が必死の面持ちで注意するが、青筋を立てた家久が、国兼からぐいと引き離した。
いつの間にか、鞭を手にしている。
「生まれが何じゃと言うんじゃ。儂だけならともかく、母を愚弄する言、許さんぞ。」
言いながら、国兼に鞭を振るう。国兼は除けもせず、正面から鞭を受ける。
見る見るその顔は血膨れしていく。
何百発鞭が入っただろう。国兼の顔の皮は割け、血に膨れた顔は見る影もなく変形して、方々から血が流れだしている。
鞭はボロボロ、家久も肩で息をしている。
それでも、この豪気な老人は声も上げず、平然と立ち尽くしている。
「終わりですかな。」血まみれの国兼は、そのまま一礼すると、何事もなかったかのように、しっかりした足取りで立ち去ろうとする。
「どこへ行く。」家久の言葉に
「これはしたり、公子様自ら、八代へ帰れと仰ったではごわはんか。」
そう言うと後ろも振り返らず、すたすたと立ち去った。
忠元らが追おうとするのを、家久は「放っておけ。」と止め、また飲み始めた。
場が白けた。宴はほどなく解散となった。
その出来事は、晴信の計画を狂わせた。
殺伐とした空気、密かに火をつける雰囲気ではなくなったからだ。
しかし翌朝、晴信の目的は、思わぬ形で達せられた。
梅北軍が一艘を残し、係留していたすべての船と共に消えていたからだ。
「梅北左衛門、また無法勝手をしおって、この咎、後程きっと裁いてくれん。」
伊集院忠棟がいきまく。しかし、船が消えたことが、本当に大事(おおごと)だと知るのは今からだった。しかも、消えたのは船だけではなかった。
「国崩しが、どこにもございませぬ。」
「種子島もでござる。」
虎の子の国崩し三門、種子島五百丁もいづこかへ消え失せていた。
国兼の仕業に違いない。まさか敵と通じていたのか。昨日の恨みで敵に走ったか。
そのとき、海を越えてきた鷹が舞い降りた。
書状を確認した家久は、緊張した面持ちで諸将に告げる。
「龍造寺隆信が、柳川を立った。総勢4万。」
「おお!」「いよいよですな。」
気を取り直した諸将から、勇ましい声が上がる。国崩しは無くなったが、なんとかするしかない。
しかし家久が発した次の言葉は、沸き立つ諸将を黙らすに十分な衝撃があった。
「目的地は、………ここ島原じゃ。」
一瞬の沈黙の後
「何と。」「どうするのですか。」「決まっておろう。撤退じゃ。」
色々な声が上がった。
しかし、引き上げるための船が無い。
こうなってみると、国兼がわざわざ一艘残したのは、
「どうかこれで、公子様だけでもお逃げください。」
との皮肉のようにも思えてくる。とにかく、何とかしなければならない。
目をつぶっていた家久が突然、刀を抜き放ち、声も発せず、残された船をつないでいた”もやい綱”を一刀両断した。船はみるみる沖へと流されていく。
「もうこれで船は無くなった。我ら戦うのみじゃ。」
静かに言い放つ。
船は無い、頼みの大砲も鉄砲も無い。
しかし、やるしかない。
きっぱりとしたその態度に、諸将も覚悟を決めた。
「ちぇすとー。」
自然と、兵たちから薩摩独特の”ときの声”が上がる。
死すとも、その覚悟の叫びだった。
(三)
柳川の龍造寺軍に変化があったのは、三日前、留守にしていた軍師木下昌直が帰還してからである。
何事か首尾よく運んだのであろう。昌直は上機嫌であった。
「万事予定通りか。」隆信の問いに
「わてのやることに、手抜かりはありやしません。」と軽口で返す。
その夜、柳川城で軍議が開かれた。相変わらずの上意下達の軍議が。
いつもそうだが、その内容は、諸将を驚かすに十分なものだった。
軍を返す。肥前島原へ。
五千の兵力を持つ有馬晴信が再び背いたのか。だとすれば、由々しき事態だが、事態はより深刻だった。
有馬晴信は島津と手を組み、既に三千の兵が島原に上陸しているという。危ないところだ。併せて八千の兵が留守の間に水之江に攻め込み、まかり間違って落城でもしようものなら、本城を失うばかりでなく、九州北部の豪族たちは、潮が引くように龍造寺を離れるだろう。それは滅びへの道だ。
諸将は、さすがは昌直、よく気が付いたと思うと同時に、島津の底力を思い知った。こんな思いきった手に出てくるとは、早めに潰すべき敵だと思った。諸将の敵愾心を沸き立たせたところで、対島津別動隊の作戦が説明された。
敵島津軍は、有馬本拠日野江城にいる。渡ってきた船は、内部の諍いで全て失い、陸路でしか進軍できぬ状況。有馬に軍船はあるが、50艘程で、島津軍を移動さすのに全然足りず、気にする必要はない。
我が軍は陸路肥前街道を通り日野江城を目指す。敵が籠城するか野戦に出るかは不明。おそらく、野戦を得意とする島津のこと。籠城は無いと見て良いだろう。
「野戦に出る場合、敵はどこに陣を構えるかの。」
隆信の問いに対し、昌直は少し考えて、地図を指し示して答えた。
「ここでっしゃろ。小勢で大軍を迎え撃つには。」
「………森岳城の辺りか。何という土地じゃ。」
昌直は墨で地図に名を書き込んだ。
「沖田畷と申す土地です。田舎臭い名ですわ。肥前街道はここで、湿地の真ん中の一本道になります。湿地は広大で泥深く、進むのは往生しまっせ。湿地の南側は、山に囲まれた平地で堅固な陣が組めまっしゃろ。島津は、必ずここに来ます。」
「他に道は無いのか。」
隆信の問いに、昌直は地図に線を引きながら説明した。
「東の浜側の砂浜は遠回りですが、大軍でも通行可能でおま。西の丸山にも、小さいながら尾根に沿って道があり、尾根の先には有馬の森岳城がありますわ。東の浜と湿地帯の間には広大な森があります。ここは神域として、地元の者は決して立ち入らんとか。道は無いでっしゃろが、兵を進めることはできまっせ。」
隆信は頷いて言った。
「よし、敵が沖田畷に陣を敷いた場合は軍を三つに分ける。正面を諫早、安富の先方衆と我が本隊一万、山手を政家の隊と鍋島勢併せて一万、浜手は江上、後藤の勢二万で進む。敵が三路に軍を割く場合は各々殲滅せよ。沖田畷の先に集結した場合は、三方から挟み撃ちじゃ。」
諸将皆、大まかな作戦を頭に入れたところで、昌直がさらに続けた。
「島原に着いて後の作戦を説明しますで。」
まだ先があるらしい。皆、昌直の言に聞き入った。
「島原に着いてから、我が軍四万と大村勢ら五千は船を使い、海を渡って肥後佐敷を目指してもらいまひょ。佐敷に上陸し、古麓の長信様と呼応して、日奈久の島津本隊を挟み撃ちにしますよって。」
四万五千で渡海、驚く諸将に昌直は得意顔で言った。
「いやー苦労しました。長崎商人から徴用した安宅船二百隻、大村水軍の五百隻、松浦水軍の千隻、それに肥前肥後筑前筑後から集めた船が三千隻、おおよそ五千隻ばかりの船を既に集めておりますのやわ。兵四万五千が渡海するには十分ですな。」
わずかの時間でできることではない。島原からの渡海をいつから考えていたのか、空恐ろしくなるような軍師だった。
ところで、隆信も昌直も、有馬晴信が実は味方であると言わない。実際はこちらの味方として動いているが、いつまた裏切るか分からない男であることと、敵の数を多く見せて味方の気を引き締めるためである。こちらの優勢が決定的な以上、利に聡いあの男は、十中八九もう裏切らないだろうとは考えているが。
隆信は暫く何事か考えていたが、昌直を向いて船は今どこにいると聞いた。
「集結するため、港の広い長崎におりまっせ。ご指示あれば、いつでも五千の兵と共に島原に向かえます。」
「その船を沖田畷に向けよ。ここは確実に勝ちたい。大村、松浦ら五千も浜からの攻撃軍に合流させよ。」
えらい慎重やなと考えたが、ご命令である。一も二もない。昌直は即答した。
「承知しました。」
方針は定まり、軍議は終わった。
出立は翌朝早朝。
(四)
その日の夜、柳川城の天守で隆信は昌直と酒を酌み交わしていた。
夜の闇に浮かぶ月は新月、微かな光輪が闇をほのかに明るくする。
「ようやった。思い切った敵の策、よう見抜いたの。それだけではなく、敵の策をそのまま裏返しにするとは。」
隆信が珍しく他人を褒める。実際、昌直には感謝している。
古い龍造寺軍の体質を、近代的に変えたのは昌直である。
力に関係する軍政の改革は、支配体制にも大きく影響し、隆信の独裁体制を確立する助けとなった。
この軍師が、功を上げることに興味が無いのも、隆信は気に入っている。
ただ、自らの知恵を試し、敵の知恵者と競うことにのみ、昌直は生きがいを見出しているらしかった。
「その知恵、古の孔明、張良に並ぶほどじゃの。」
昌直は笑って頭を振った。
「そんないいもんやおまへん。知恵者ほど引っ掛けやすい相手はおらんのです。いいお客様だす。
数の多い敵には、”釣り野伏り”とかいう、野暮ったい策ひとつしか持たん島津は、その形を用意すれば必ず引っかかると思うとりました。
知謀の歳久とやら、こちらのお膳立てに見事乗ってくれましたわ。
しかし、今回もひやひやもんでした。
特に、思いがけないことも起きましたんで。」
「あの偏屈者か。」
「そうだす。偏屈な将だとは聞いておりました。あの老人、功績の反面、今まで数々問題を起こしたことも調べはついております。しかし、この大事に、あないなこをしでかすとは、予想できませなんだ。」
「どこにいったのじゃ。」
「皆目、手を尽くして調べておりますが、あれほどの船団が天に上ったか、地に潜ったか。まぁ、海は広いとはいえ、そのうち網にかかるでっしゃろ。」
「我が軍に引き入れることはできんかの。」
昌直は激しく頭を振った。
「ないでしょう。裏切るくらいなら、とっくにやってまっせ。仮に裏切っても、あんな偏屈者、苦労するだけだっせ。」
隆信と昌直は声を上げて笑いあった。
ふと、昌直は気になった。似たような話があった気がする。
確か、苦肉の策。
ここまで考えて頭を振った。いかんいかん、梅北国兼については、今までの行状を調べつくしている。一徹の忠義ものならいざしらず、苦肉の策など、ただの偏屈者にできる芸当じゃない。
歳久ならいざ知らず、家久と国兼の関係は深くない筈や。そもそも、信頼関係がないと出来ん芸当や。
考えすぎや、考えすぎは道を誤らせる。
「ところで。」
隆信が真剣な顔をする。
「沖田畷で戦になったら、与力として、鍋島軍に行ってはくれんか。」
「政家様んところでなくでっか?かまいまへんが、どういうことでっしゃろ。」
「山側が森岳城に一番近い、わしは有馬晴信に森岳に入り、頃を見て後ろから島津軍を襲うように命を下すつもりじゃが。」
しかし、それなら嫡子政家隊に入れば用は足りる。
どういうことか、昌直は注意深く聞き入っている。
「あの男は、いまひとつ信用ならぬ。動かぬ場合は尻を蹴りに走ってほしい。それとな。」
昌直の耳に口を近づけて言った。
「隙あらば、戦に乗じて直茂を殺せ。」
頷いた昌直の目が、しゅっと細くなった。
京の吉岡拳法の下で剣術を学んだこの男は、単なる軍学者でなく、若い頃畿内の大名から、暗殺を請け負っていた時期もある。
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