5.掻き傷
その一週間後、本州に季節外れの台風が上陸し、大学は数日のあいだ閉鎖された。
構内の大木が何本かなぎ倒されてしまったそうで、練習に向かうことはできなかった。
二日間、降り続いた雨がやむと、朝の気温が一気に下がった。
窓を少し開けたまま寝てしまったらしく、身震いで目が覚める。
布団からはいずり出て、転がった目覚まし時計をつかまえる。七時半だった。
十一時からのコンボの練習には早すぎると思ったが、まだ音源から歌詞をコピーしきれていない曲もあるので、早めに家を出ようと思った。
淡いブルーのロングTシャツにブロックチェックのパンツを合わせる。
窓を全開にすると、初秋の乾いた風のにおいが吹きこんできた。
空の青がずいぶん薄くなった。
隣家の古い塀から金木犀の葉が顔を出している。
もうじき橙色の小さな花がつくことだろう。
子供の頃は毎日のように花を取っては、怒られたものだった。
襟のついたシャツをひっつかんで家を出ようとすると、弟に呼び止められた。
「姉ちゃん、男の人から電話―」
携帯電話を持ち歩くようになってから、自宅の電話に自分の知人がかけてくることはまずなかった。
「だれ、だれ? 彼氏? やるー」
「誰なのかはこっちが聞きたい」
通話口を塞がずに大きな声を上げてはやし立てる弟を押しのけながら、受話器を奪い取った。
「葉月さん、いますか、だってー」と調子に乗っている弟の声と同時に、低い声が鼓膜を響かせた。
「あ……鞍石さんですか?」
「ごめん、自宅にかけたりして。よく考えたら携帯の番号知らなかったんだ。今日から大学のスタジオが使えるようになったって聞いた?」
「はい、部長から順に連絡がきてるみたいですね」
葉月は肩から掛けるタイプのショルダーバッグをあさって、携帯電話を取り出した。
「台風で延期になってたOBバンドの練習が午前中に入ったらしくてさ、俺たちは昼からしか使えなくなったんだ」
「スタジオ、全部埋まってるんですか?」
「第二は空いてるらしいけど、あそこじゃドラムセットが使えないからね」
日曜の朝から暇をしている小学四年の弟が、興味深々の顔でのぞきこんでくる。
追い払うように手のひらをふると、口元を手で覆うようにして声を出した。
「わざわざありがとうございます。自宅の番号、よくわかりましたね」
「去年は役員やってたから新入生歓迎会のときの名簿があったなと思って、部屋中あさったんだ。まあそれは口実で、声が聞きたかったのもあるけど」
伶次はさらりとそう言うと、照れかくしのように笑った。
遠くの方で何やら音楽が流れている。CDをもらった夜の光景がよみがえる。
葉月は胸が少し痛むのを感じた。
「じゃあ、またあとで」
返答する間もなく、通話が切られてしまった。
しばらく受話器を眺めていると、弟の視線が突き刺さって我に返った。
「年上の男とデートにでも行くのかー。それにしちゃあ色気のない格好だなー」
鳴らない指笛を無理に吹こうとしている。
弟の頭を軽く叩くと、葉月はハイカットのスニーカーに足を入れた。
「コンボの練習だってば」
「いいなー。オレも連れてってよ。姉ちゃんだけサックス買ってもらうなんてずるいー」
「あんたは中学に入ったらギターを買ってもらうんでしょ。早く大きくなりなさい」
からかうように言うと、弟はエレキギターを弾くような恰好をした。
ふと、伶次もこの弟のように、兄の祥太郎から影響を受けてベースを始めたのだろうかと思った。
玄関の隣にある和室から物音が聞こえてきた。
昨年、法科大学院を卒業してからも職に就かず自宅に引きこもっている兄がいるはずだ。
兄は一度もアルバイトをしたことがなく、二十五になる今も生活のすべてを両親に頼っている。
ときどき部屋をのぞいてみるが、熱心に勉強をしているわけではなく、ぼうっとしていたり、寝転んで小説を読んでいたりする。
パソコンと向き合って微動だにしないこともある。
時折、母親を激しく罵倒し、葉月や弟を見下すような視線を下ろしてくることもある。
決して、尊敬したい相手ではなかった。
大学に入ると、歩いている人がいないせいか、いっそう空気が冷えた。
あと数日もすれば後期の授業が始まる。
今のように練習とアルバイトばかりの毎日は終わってしまう。
大学はにぎわいを取り戻し、同じ二回生の真夜も授業中心の生活に戻っていくだろう。
古びた音楽練習棟の前に真夜がいた。
腰に紫色のストライプシャツを巻きつけて、煙草を吸っている。
腰の高さほどの灰皿の前に立って、慣れた手つきで灰を落していた。
細めた目のせいか、吹き出す煙のせいか、老けて見える。
葉月はうしろから近づいて肩を叩いた。
「おはよう。ずいぶん早いね」
真夜はふりかえると同時に、煙草を灰皿に押しつけた。
悪いことをして見つかった子供の顔になっている。
肩を叩いたのが葉月だと認識したのか、肺にたまった煙を空に噴き上げると、だらりと腕を下げた。
「なんだ、篠山さんか。びっくりさせないでよ」
「何時からいるの?」
「今、来たとこ」
「もう吸ってるの?」
「吸わないと死んじゃうから」
灰皿からまだ細い煙が立ちのぼっている。
真夜は足元にあったペットボトルを手に取って、灰皿にミネラルウォーターを流しこんだ。
消え損ねた葉の焦げ臭いにおいがした。
「先週、禁煙するって言ってなかったっけ?」
「ばれました?」
ばれるもなにも、皆の前で公言していたのは真夜自身だった。
今度こそやめると意気揚々と語っていたのに、これでは禁煙ではなく、ほんの少し我慢しただけだ。
「もしかして肩を叩いたの、鞍石さんだと思った?」
葉月がそう言うと、先に階段を下りていた真夜が立ち止まった。
「思った。死ぬかと思った」
「吸っても吸わなくても死ぬんじゃない」
「そうなんですよ。篠山さん、どうにかしてよ」
だったら禁煙するとか言わなければいいのに、と葉月が苦笑しながら言うと、真夜も、まいったと何度もつぶやきながら笑っていた。
地下に下りると第五スタジオの前にウッドベースを抱える伶次の姿があった。
蛍光灯もつけずに薄暗い通路にシルエットを浮かべている。
「早いな、二人とも」
伶次はウッドベースを横倒しにして真夜に歩みよった。
真夜は一歩後ずさりをして、すぐうしろにいた葉月にぶつかった。
「おまえ、吸ったな?」
伶次は咳をひとつすると、真夜のストライプシャツを手に取って顔を近づけた。
前後板挟みにされた真夜は首をうしろにふって助けを求めてきた。
「やっぱりばれてるじゃない」
葉月はため息をついて言った。
伶次を相手に嘘をつきとおせるわけがないのだ。
葉月の一言で救いのなくなった真夜は、不自然な笑みを浮かべて横にすりぬけた。
「におい、わかります?」
「当たり前だろ」
真夜が袖のにおいをかぎながら顔色をうかがうと、伶次はようやくシャツから手を離した。
葉月がくすくす笑っていると、真夜は逃げるように第五スタジオに入っていった。
防音扉のすきまから、大音量のビッグバンドの音色がせまってくる。
OBバンドが全体練習の真っ最中らしかった。
ドラムには高木が座っている。
コンサートマスターが演奏を止めると、高木はスティックを軽く上げて葉月に笑いかけた。
葉月が楽器ケースを持って廊下に出ようとすると、『イッツ・オール・ライト・ウィズ・ミー』のベースラインが聞こえ始めた。コズミックの候補にあがっている曲だ。
伶次はコードだけを書いた譜面をのぞきながら、ものすごい速さで手を上下させていた。
扉の影にかくれて息をのんだ。
ベリーファーストの域に入る320bpmを超えそうな、演奏したことのない速さだった。
うしろから楽器ケースごとぶつかってきた真夜が、葉月の肩ごしに首を伸ばした。
「コズミック用の新曲だよね。今日やるのかな」
「一応、音源はチェックしてきたけど……あれ?」
葉月はショルダーバッグの中に手を入れた。
ビッグバンド用の譜面ファイルはあるのに、歌詞を書いたルーズリーフが見つからない。
真夜をおしのけてスタジオ内に入り直してから、バッグの中身を全部出してみた。
「うそ……歌詞を忘れてきたみたい……」
「ネットで検索すればすぐに出るんじゃないの?」
「それじゃだめなの。鞍石さんがやりたがってたバージョンは、歌詞のあっちこっちが違う言葉に変わってて、そのままじゃうまく歌えないの。だから必死でコピーしてきたのに」
「大丈夫だよ。僕なんて、譜面すら見てないもの」
二人は顔を見合わせた。
真夜はこういう時は何故か余裕があって、どうにかなるという顔をしていた。
経験値の差なのだろうか。余計に焦燥感が募ってくる。
昼からの練習に間に合わそうと思い、足早に第二スタジオにむかった。
第二スタジオに先客はいなかった。
真夜がアルトサックスを用意するのを横目で見ながら、携帯電話を操作した。
急いで紙に書き写して、取れるところまでコピーし直すしかない。
インターネットの読み込みの遅さにいらだっていると、真夜はリードをつけたままのマウスピースを取り出し、さっさとネックに取りつけて吹き始めてしまった。
「そういえば、葉月さん」
名前を呼ばれたことに体が硬直した。
イヤホンの中でキャロル・スローンの歌声が風のように流れ去っていく。
「歌の練習ってどこでしてるの? 家?」
真夜は壁に向かってEの音を長く吹いた。吹き始めとはいえ、相変わらずピッチが低い。
「そうよ。だってみんなが楽器を吹いてるスタジオで、ひとり歌ってたら変でしょ」
基本的にスタジオではテナーサックスの練習しかしない。
複数のプレイヤーが同じ部屋にいると、楽器の音にかき消されて声がほとんど聞こえないこともあるし、他にヴォーカリストのいないこの部の雰囲気の中で、朗々と発声練習をする勇気はなかった。
「変人だね。僕だったら悶え死ぬかも」
そう言ってから、今度はEフラットを吹いた。
これもピッチが低い。順に半音ずつ下がりながらロングトーンを続ける。
葉月は頭の中からアルトサックスの音を追い出して、イヤホンに集中した。
個人練習が始まると、大抵は会話がなくなる。
第五スタジオのような二十畳ほどの広さに十数人が集まっても、みなそれぞれに違うことをする。
サックスの場合、ロングトーンに始まり、舌を使ってタンギングの練習をする。
各音階の復習や、それぞれの楽器の教則本をすすめる。
新曲に目を通し、持ち曲のレベル向上のためにひたすら譜面をめくる。
吹けないところはできるまで何度もくりかえし、疲れたらひとりで休憩に入る。
苦手なキィの克服、ソロやアドリブの練習、デモ曲に合わせて吹き、ときどき仲間と確認し合う。
いつでもやるべきことは山のようにある。
この状態に入ると、真夜は声をかけても気づかないことが多かった。
ある程度アルトサックスを温めたあと、真夜はふたを閉めたピアノの上に譜面を広げ始めた。
例の巨大なヘッドフォンを被ったりはずしたりしながら、楽器を吹いている。
おそらく『イッツ・オール・ライト・ウィズ・ミー』のソロを作っているのだろう。
伶次が用意した音源にはキャロル・スローンの他に、カーティス・フラー&ベニー・ゴルソンの曲も入っていた。
欠けている楽器はあるものの、アルトサックス、ウッドベース、ドラムのソロと続くこの音源は伶次のイメージに一番近いはずだ。
音源だけで一通りは歌える葉月とは違い、コピーだけでは割り当てられたコーラス数が足りない真夜は後半から自作のソロを用意しなければならない。
すでに数十回は聞いている歌詞を書きとめながら、真夜の様子を盗み見た。
途切れるフレーズは少しずつ長くなり、一コーラスにあたる十六小節分が作れると、今度は何度もくりかえす。
さらに十六小節作って、また最初から吹き始める。
結局、昼食を取ることもせず、葉月と真夜はその作業に没頭した。
コンボの練習は一時半から始まった。
あれほど危惧していた『イッツ・オール・ライト・ウィズ・ミー』はやらず、コズミック用の他の候補曲を話し合い、以前にやった曲のおさらいで時間が過ぎた。
葉月はほとんど出番がなかったが、たった一人の特別な観客になった気分で演奏を味わった。
二時間の練習が終わると、真夜と共に安堵のため息をついた。
「次もいろいろやって絞っていくから、葉月もやりたい曲があったら考えといて」
伶次は譜面をまとめながらそう言って、咳をした。
練習中もずいぶん咳きこんできたのが気になっていた。
二軍ビッグバンドのライブが近いこともあり、夜八時まで残ってテナーサックスの練習をしていると、いつの間にか真夜は姿を消していた。
第二スタジオに鍵をかけ、第五スタジオに楽器を置きに行くと、残っているのは伶次だけだった。
「高木さんはもう帰ったんですか?」
「ライブがあるからって六時くらいには出たよ」
ふたりで鍵を持って守衛室にむかう。
すっかり暗くなった大学構内の夜風が気持ちよくてのびをしたが、隣を歩く伶次はしきりに咳をしていた。
おさまってから葉月に何か話しかけようとしていたが、風が吹くたびに咳は強くなって顔色が悪くなっていった。
正門のあたりで伶次は立ち止まった。思うように呼吸ができないらしい。
ゆっくり息を吸おうとするが、波のように咳が押しよせてくる。
完走後の長距離選手のように息が荒かった。
閉門までまだ二時間ある。
とにかくどこかに座らせようと思って、中庭のベンチまで伶次の腕を引っぱっていった。
「風邪ですか?」
「いや……ぜんそく。普段はおさまってるんだけど、今の時期はだめなんだ。調子悪い」
伶次はベンチに座ると、両腕を太ももにのせてかがみこんだ。
胸を押さえている。 喉に空気がひっかかる音が聞こえ、肩が大きく動いた。
風が吹いて甘いにおいが鼻をかすめた。練習に疲れた神経を鎮めてくれる。
顔を上げた伶次が、空気のにおいを探るように鼻をひくつかせた。
「アレのせいだな」
そう言うと、手のひらで顔を覆うようにして咳きこみ始めた。
「あの花の香りがだめなんですか?」
「正確には花粉だ。キンモクセイアレルギーってやつ。俺の場合、ほとんどの花粉はアウトだから薬も飲んでるけど、金木犀はいまいち効かないんだ。満開の時期には顔も腫れるし、頭痛もひどい」
普段の姿からは想像できないほど弱々しい声をしている。
葉月には心地よく感じられる香りも、伶次には苦痛でしかないようだった。
葉月は立ち上がると、自動販売機でミネラルウォーターを買った。
「よかったら飲んでください」
「……ありがとう」
伶次はゆっくりと顔を上げた。目にいつものような覇気はなく、顔は色を失っていた。
水を口に含もうとする先から咳がこみ上げてくる。
緩慢な動きで喉を動かして水を流しこみ、左手の甲で口をぬぐった。
一瞬、息をとめ、脱力するように吐き出す。
「先に帰るか?」
葉月は首をふった。
伶次が無理に微笑もうとしたのがわかって、胸が押しつぶされるように痛んだ。
伶次は立っている葉月の姿を見上げて、右手でベンチを叩いた。
腰を下ろそうとすると、彼の手がふれ、伶次は顔を苦痛にゆがめてひっこめた。
手の甲に赤い掻き傷があった。
「どうしたんですか、それ」
まだ真新しい傷だ。 血の気を失った白い肌に、真っ赤な線が途切れながら走っている。触れれば今にも血がにじみ出そうだった。
伶次は困ったような顔をした。
「おぼえてない。ただ、こっちが痛むときは、胸の苦しいのが少しおさまる」
そう言って、指で傷を強くこすった。さらに赤さが増していく。
皮膚を引っぱると傷口がさけそうだ。
葉月は伶次の手首を引っつかんで、傷から指を遠ざけた。
「だめですよ」
「いつものことだから」
伶次は息を吐いた。温もりを失った夜の風が黒髪をなでていく。
葉月は傷に触れないように、手のひらを彼の足の上に置いた。
驚くほど細い手首に黒い皮のブレスレットを巻いている。首につけたチョーカーと同じ素材でできているようだった。
金木犀の香りが鼻をくすぐる。大好きだった気だるいにおいは、なぜか胸をしめつけた。
月のない空に薄い雲が流れていく。かすかに星が光っている。
朽ちたベンチが体を冷やしていく。
自分たちにふれるすべてが、今だけは伶次の苦痛を和らげるものであってほしかった。
***
十月下旬に二度目のライブを迎えた。前回の失敗をくりかえさないために、歌詞を途中から思い出す練習を何十回もやってのぞんだ。
場所は前回と同じ『パーディド』だった。相変わらず「いやだ」「帰りたい」を念仏のように唱える真夜のおかげで、ずいぶん緊張が和らいだ。
どんぐり眼の彼女は始終、葉月を睨みつけていた。
大きなミスもなく淡々とライブは過ぎ去っていったが、真夜に合図を出すのもためらうくらい、強烈な視線を突きつけ続けた。
彼女を意識しすぎたせいか、ライブがどんな出来だったのか、客観的にとらえることができなかった。
伶次も高木も、真夜にはあれこれ言うが、ヴォーカルに関してはアドバイスも指摘もしない。
好きに歌っていいと言うことなのか、直すところもないほど平凡な仕上がりなのか、未だに自分の立ち位置が見つけられずにいた。
後片づけが終わってから、真夜と二人で壁の写真を見た。
真夜は、写真っていいよね、とつぶやいている。
色褪せた写真の中からプレイヤーの情熱が溢れ出してくるようだ。
見るたびに新しい発見があった。
鞍石祥太郎が弾いているのは伶次の部屋にあったものと同じレスポールのエレキギターだ。
葉月は例のプレート付きの写真を指さして言った。
「真夜は会ったことがあるの?」
「祥太郎さんなら、コズミックでやってるのを見たのが最後かな」
「どんな人だった?」
「サイコでエキセントリックな人」
「まじめに聞いてるのに」
「僕もまじめだよ。とにかくすごい人だったんだ。同じ中学高校の連中はみんな知ってた。アメリカに留学するって話もあったけど、どうだったんだろうね」
「へえ……」
葉月は写真を見つめ、真夜は他へ視線を移した。
ボストンへの留学――兄が果たせなかった夢を、伶次が継ごうとしているのだろうか。
「真夜は兄弟いるの?」
「激しい兄がひとりと、うるさい妹がひとり」
どういう意味なのだろうと思って首をかしげていると、スネアドラムのスタンドをたたんでいた高木が言った。
「おまえの兄貴、高校じゃちょっとした有名人だったからな」
「高木さん、知ってるんですか?」
「俺のひとつ下の学年だ。教師なんてくそくらえって態度で問題ばっかり起こして、しょっちゅう呼び出されてた」
「頭がおかしいんです。ただの変人ですよ」
真夜が困った顔で笑ったので、高木さんはそれ以上何も言わなかった。
伶次は咳がおさまったものの、今度はしきりに首元をさわっていた。
チョーカーをつけていない。
タートルネックの服を着ていたので気づかなかったが、よく見るとあごの下の皮膚がかなり荒れていた。
たるんだ皮が赤くただれたようになっている。
「体の具合、よくなってないんですか?」
葉月と伶次は店から引きあげ、路上で高木の車を待っていた。
午後十一時を過ぎても街は活気を失わず、高層ビルが明るく照らし出されている。
行きかう車のヘッドライトにさらされて、薄闇の空は天盤にはりつけられた色紙のように薄っぺらな色合いをしていた。
伶次はタートルネックを引っぱって、のぞきこむような顔をした。
「これか? 年中だよ。今はちょっとひどいけどな」
金木犀が咲き誇っている時期はすぎたが、たしかに顔もすこし赤らんでいるようだった。
「タートルネックが触れて、よけいに痛くないですか?」
伶次は生地の上から首をさわった。
荒れた赤黒い皮膚が上からはみ出している。
「お客さんに見せるの、みっともないだろ?」
伶次は微笑んで見せた。
MCの最中もよく笑っていたが、曲が終わるたびに首をこすっていたのを思い出すと、素直に笑いかえせなかった。
「おまえがそんな顔するなよ。俺は慣れてるから」
ワンボックスカーのエンジン音が聞こえ、伶次はウッドベースを持ち上げた。
いつものように、背よりも高いウッドベースを軽々と運ぶ。
しかし支える手の甲には未だに消えない掻き傷があり、服の下にただれた皮膚をかくしている。
薬を飲んでいる姿を見たことはなかったが、会話の端々からかなりの量の薬を服薬していることがうかがえた。
葉月が知ることのできない何かが確実に伶次の体を蝕んでいた。
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