4.レット・ミー・シング

 真夜がアルトサックスを持ってステージに立つと、店内が暗くなった。


 BGMが徐々にフェードアウトし、観客の視線が集まっていく。

 高木がスネアドラムを叩きおろし、続いてバスドラムのペダルを踏んだのを合図に客席が静まりかえった。


 一時の静寂が訪れる。

 スポットライトが真夜の体を包む。

 アルトサックスのキィを握ったまま、天井を仰いで目を細める。

 観客席に座る葉月たちをとりまく空気が真夜にむかって吸いこまれていく。


 カウントからイントロなしに『ストレート・ノー・チェイサー』が始まった。


 祈るような気持ちで真夜を見つめる。

 どうか失敗しませんように、無事テーマが終わりますようにと何度も唱えた。


 葉月の心配をよそに、真夜は淡々と吹きこなしている。

 あせりも戸惑いもない。

 いつチューニングしたのだと聞きたくなるほどピッチがいい。

 伶次と高木にも真夜の失敗を恐れている様子は全くない。


 テーマはあっという間に終わり、問題なくアルトサックスのソロに入った。


 真夜のアドリブには前もって決めたフレーズがあり、それを組み合わせたり崩したりしながら演奏をする。

 その場の思いつきはほとんど聞いたことがなかった。


 コードの流れに乗って即興演奏するのが一般的なアドリブだが、決めたものを何度も吹きこんでいく方が真夜の性にあっているようだった。


 耳慣れた高速フレーズがかけ抜けていく。

 ものの十秒そこらで百五十ちかい音を鳴らすパッセージになっても、真夜はほとんど音をはずさない。

 いざ本番になると完璧に近い出来栄えを見せるのに、直前になってあんなに嫌がるのは何故なのだろう。


 締めのテーマもうまくいき、好調な出だしとなった。


 曲間のMCは伶次が担当した。

 伶次の学外ライブを見るのは初めてだったが、慣れているのか、観客の心を掴みながら話をするのがうまかった。


 MC中の人なつっこい笑顔は、曲に入ると一変して厳しいものに変わった。

 ひとりで黙々と練習しているときに似た、近よりがたいオーラを放っている。


 真夜のソロに入ると、伶次のつぐんでいた口元が少しずつほどけていった。

 ときどき高木と視線を交わし、時おり笑みを浮かべる。

 ベーシストらしいがっしりとした肩と太い二の腕。

 意外なほど白くて細い指が、確実に弦をとらえていく。


 アルトサックスのフレーズが加速すると、高木が二枚のクラッシュシンバルを交互に叩きながらあおった。

 伶次はウッドベースに覆いかぶさるようにしてハイポジションの音を立て続けに鳴らす。


 真夜は狂ったように指を動かした。

 両肩を上げる。

 得意のフラジオが葉月の体に突き抜け、全身の感覚器官が騒ぎだす。

 まるで自分がその音を鳴らしているような錯覚に陥る。


 観客はみなそれぞれにリズムを取り、足を踏み、体を揺らす。

 真夜が生み出す大潮の渦の中に飲みこまれていく。


 鳴り止まない拍手の中、前半のステージが終わった。


 二十分の休憩をはさんで、後半のステージが始まる。

 その間に従業員はあわただしく客席を行き来しながら、食器をさげたり注文を取ったりする。


 葉月も風子や他の友人たちの感想を聞いたりしていたが、ほとんど耳に入らず落ち着かなかった。

 十分ほどで切り上げて奥の席に戻り、歌詞を広げた。

 何度確認しても不安な気持ちはおさまらない。

 閉じては開いてをくりかえしていると、隣に伶次が座った。


「緊張してる?」

「もう……帰りたくなってきました」

「真夜じゃあるまいし。大丈夫だって。ほら、どーんとかまえて」


 伶次は笑って葉月の背中を叩いた。


「緊張するのがふつうさ。俺もするし、高木さんもする。それでいいんだよ。お客さんにいい演奏を聞かせられる。歌詞ばっかり見てると余計に緊張するよ。本番前は好きな曲を歌ってるくらいが丁度いいんだ」


 そう言われても、本番以外の曲は咄嗟には思い浮かばなかった。

 紙を握る両手に不自然なくらい力が入っていて、閉じることもできない。

 伶次は葉月の指をほどくと、さっと紙を取り上げてしまった。


「はい、おしまい。せっかくクラブの連中が来てくれてるんだ。話しに行こう」


 伶次は先に立ち上がって葉月の腕を引っぱった。


「サックスを吹く時もそんなに緊張してるの?」

「いえ……ビッグバンドの時は、一斉に音を出すんで安心感があるというか……」

「まあたしかに、ホーンセクションの場合はそれもあるね。真夜をコンボに誘った時も、似たようなことを言ってたから」


 伶次は葉月の両肩をつかんで揺らした。

 肩から手のひらの温もりが伝わってくる。


「リラックス、リラックス。いい声してるんだから、自信持って」


 その言葉に、体中に生気がみなぎっていくようだった。

 いい声だと、本当にそう思ってくれているのだろうか。

 どうしようもなく緊張するのは、自分だけでなく彼らも同じなのだろうか――


 聞き返す間もなく、葉月は伶次に引きずられていった。




 開始の時間が迫り、葉月はステージに向かった。

 といってもそこはもともと客席が置いてあった場所で、段差などない。

 客席の方をむいた途端、葉月は立ちくらみそうになった。


「ものすごく近い……」


 手を伸ばせば触れられるほど至近距離に、客がずらりと座っている。

 真夜はすぐ隣に立ってアルトサックスに息を吹きこみ始めた。


「よく平気で吹けるね……」

「平気なわけないよ。緊張で死にそうなんだから」


 ヴォーカル用マイクを取ろうとすると、一番近くにいる三十代の女性と目があった。

 こちらを見上げてそらそうとしない。

 葉月が先に視線をかわすと、今度は違う人と目があった。

 どこを見ても誰かの目線とぶつかってしまう。

 耐えられなくなって右ななめうしろに顔をふると、伶次がじっと見ていた。


「あの、みんなこっちを見てるんですけど」

「そりゃあね。一番見るのって、ヴォーカルだろ?」


 ステージ用の照明がついて、思わず目を閉じた。

 客席後方にあるスポットライトがこちらに光を当てているらしい。顔を上げると視界が真っ白になった。

 客の顔が見えなくなり、視線も気にならなくなった。


「いいか」


 伶次の声にふりむいて、小さくうなずいた。

 まだ少し足が震えているが、大丈夫だ、自信をもてばと自分に言い聞かせた。

 伶次と高木が支えてくれるし、すぐ隣には真夜がいる。

 真夜がストラップを引き上げてマウスピースに口を当てると、カウントが始まった。


 基本の構成は、イントロは真夜が吹き、テーマから歌が始まる。

 歌詞に合わせて一回か二回くりかえしたあと、アルトサックスのソロに入る。

 曲によってはウッドベースやドラムのソロも組んでいる。

 最後にテーマに戻って葉月が歌い、エンドロールを迎えることになっている。

 曲によって多少の違いはあるが、楽器でも歌ものでも大差はない。


 他はコーラス数の増減やキィチェンジで変化をつけていく。

 葉月にあわせた単純な構成で、曲の原キィから声域にあったキィに移調もしてもらっている。

 デモ演奏を聴きながら何度も歌いこんだフレーズをそのままに歌った。


 玄人からすると面白味がないかもしれないが、真夜のようにときどき変則的なことをすると大失敗する可能性もあったので、地道な方法を取った。


 慎重に言葉を発し、ゆっくりと喉を使う。

 少しずつ心が落ち着いていく。

 かすれ気味だった声も、歌うほどに潤いをまして伸びやかになっていく。


 真夜の音にもゆとりが出てきた。

 テンポに忠実に吹いていた先ほどまでとは違い、たっぷりとスイングしている。

 細かい動きにとらわれず、ベンドしては音を下から上にすくい上げる。

 歌いながらつい聞きほれてしまう、胸をすくような美しい音色だ。

 ラインのあちこちに葉月が歌ったメロディが姿を現す。


 真夜のすぐ前に、ロングヘアの彼女がいた。

 とろけるような表情をして、熱心に見上げている。

 まるでそこに自分の表情が鏡写しになっているような気がして、葉月は思わず顔をそむけた。


 三曲目を迎え、伶次は曲紹介をした。

 合宿の夜に歌った『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』だ。

 キィは自分の音域にあったEフラットに変更してもらった。

 無理に高音を出す必要がなく、得意の低音が十分に使える。


 喉を震わせて、言葉を歌にする。

 観客ひとりひとりに語りかけるように、隣に立つ真夜の心に届くように――


 この心を歌で満たして、永遠に歌わせて。尊敬するあなたのために――


 喉の調子がいい。体も軽いし、響きのいい声が際限なくあふれ出る。

 真夜は葉月の声よりもっと上質の、年季の入ったビブラートを奏でる。


 アルトサックスのソロは2コーラスと半分まで続き、残りの半コーラスを葉月が歌ってラストを迎える予定になっている。


 歌まであと半コーラスにさしかかったところで、出だしの歌詞を思い出そうとした。


 フライ・ミー……ではなく、ユー・アー・オール……は二番の初めだ。

 その一行前。たしか歌に関することだった。

 考えている間にどんどん小節はせまってくる。


 焦るほど、記憶の回路は停止したまま、動き出そうとしない。

 手がかりすら思い出せない。

 あと四小節。ずっと歌わせて、そんなフレーズのはずだ。


 ――歌わせて、私に。お願いだから。演奏、止まって!


 願いもむなしく、残り半コーラスに入り、アルトサックスの音が消えた。

 葉月の声は出ていない。

 ウッドベースとドラムが決められたコードを消化していく。

 リズムしか存在しない空間にたたずみ、冷や汗がこめかみを伝っていく。


 観客の視線を感じ、歌わなければと思うが、喉の筋肉は完全に弛緩してしまっている。

 ロングヘアの彼女が初めて葉月に視線をむける。どうして歌わないのと、茶色がかったどんぐり眼が訴えてくる。


 自分の番だと言うことはわかっている。

 視界がぼやける。

 手の震えがとまらない。


 不意にアルトサックスの音が響いた。

 歌のラインを少し崩したフレーズだ。

 まだソロは終わってなかったんですよ、と言いたげな調子で真夜は吹いている。


 肩の力が抜けていく。真夜を見つめながら、必死の思いで頭の中にメロディを流しこんだ。

 歌い始める前のような、少し鼓動は早いけれど落ち着いた状態に戻っていく。


 コーラスがもう終わるというところで真夜が目配せをしてきた。

 葉月はマイクを握りなおしてうなずいた。

 最後の一行だけ歌うと、なんとかエンドロールを迎えた。


 拍手と共に、葉月は深く頭を下げた。観客にというよりも、真夜に向かって。

 まぶたにたまった涙がこぼれ落ちそうになった。


  メンバー紹介のあと、最後の一曲とアンコールをやったが、意識は離脱しているような状態だった。

 同じ失敗を犯すまいと歌詞ばかり考え、演奏を楽しむ余裕は少しもなかった。


 風子がかけよってきて「最高だったよー!」と言ってくれたが、言葉は鼓膜の外で止まっていた。

 きちんとお礼を言ったのかどうかも定かではなかった。

 部員たちに賞賛をもらうたび、失敗が頭をよぎった。


 真夜は例の彼女に抱きつかれながら、仲間たちに照れ笑いを見せていた。葉月はいつまでもマイクスタンドの前に立ち尽くしていた。


 ほとんどの観客が店から出るのを見届けてから、後片付けを始めた。


 いつの間にかウッドベースをケースにしまっていた伶次はマスターと話しこみ、高木は黙々とドラムセットを解体していた。

 真夜は店の奥の暗がりで楽器を片づけていた。


「おつかれさま。さっきは……」


 葉月がそう言かけたとき、指先で背中をつつかれる感触があった。


 満面の笑みを見せたのはロングヘアの彼女だった。

 リスのように愛嬌のあるどんぐり眼を輝かせて葉月に笑いかけてくる。


「おつかれさまでーす。どうしてフライミーの最後、歌わなかったんですか?

 真夜くんがとっさにフォローに入ったの、ばればれですよ」


 彼女は全く笑みを崩さずに言い切った。

 足元から筋肉が硬直してくるのを感じながら葉月は頭を下げた。


「歌詞を思い出せなかったんです。失態を見せて申し訳ないです」


「謝る必要なんてないですよ。これきりでヴォーカルをやめちゃえばいいんですから。私は真夜くんの演奏を聴きに来てるんです。あなたが横に立つ資格なんてないですよ」


 鼓膜の奥で鈍い音が鳴っている。

 両側から世界が閉じてくる感覚がして、こぶしが震えた。

 真夜がアルトサックスのケースを持って立ち上がった。


「違うって言ってるだろ。僕がソロの長さを間違えたの。何回言えばわかるんだよ」

「ぜーったいそんなのウソ。この人が歌詞をど忘れしたんでしょ」


 栗色の髪を揺らしながら彼女が真夜の腕にしがみつくと、真夜はそれをふり払って歩き出した。


「うるさい、うるさい。おまえは関係ないんだからさっさと帰れよ」


 いつになく強い口調に葉月は目を丸くしていたが、彼女にとっては慣れっこなのか、なんだかんだと言いながら真夜にしがみついて離れなかった。


「とにかく真夜くんに迷惑かけないでくださいよね」


 ふり向きざまにそう言ったその顔は、小動物のように愛くるしい先ほどの女性と同一人物だとは思えなかった。


「まーあ、きっつい性格。女に激しく嫌われるタイプね」


 気付くと隣に風子が立っていた。真夜と彼女が出て行くのを見てから、風子はわかりやすく舌を出した。


「迷惑……かな。やっぱり」

「真に受けてどうすんのよ。あれは女の嫉妬よ。まあ確かに、目の前であれだけ息ぴったりに演奏されちゃあ、やきもちも焼きたくなるね」

「そう……だった?」


 思わぬ言葉に拍子抜けしていると、風子が肩を持った。


「歌と楽器があんなに呼応するんだって知らなかった。お互いの音が共鳴しあって宇宙が広がっていくっていうか。もちろん、鞍石さんと高木さんのバックがあってこそだと思うけど」


 風子がそう言いながら大げさに腕を広げて宇宙を表現しようとしたので、葉月は吹き出してしまった。


「真実がこの胸の中にあるなら、それでいいじゃない」


 風子が葉月の胸元を指さして、「この小さな胸の中に」と言ったので、葉月は「それは言わないで」と笑いながら手を払い落とした。


 部員の誰かが風子の名前を呼んだので、お礼と別れを言った。

 この大らかな友人に何度気持ちを救われたかわからないと思いながら、うしろ姿を見送った。


 伶次がウッドベースを抱えて外に出たので、葉月は大荷物の高木を手伝おうと思った。

 先に片付いていたシンバルケースを肩にかけようとすると、高木に止められた。

 というか、全く持ち上がらなかった。


「むちゃくちゃ重いだろ。それは俺が運ぶから、あっちの荷物を見ててくれない?」


 高木は黒いリュックサックを指でしめすと、シンバルケースとスネアスタンドをいとも簡単に持ち上げて出て行った。

 とてもドラマーにはなれそうもないと葉月は息を吐いた。


 取り残された葉月は、レジカウンターの向かいの壁に飾ってある写真を眺めた。

 よく見ると、高木はあちこちの写真に映っている。

 とりわけ目を引くのはやはり、伶次そっくりの男性がギターを弾いているものだった。


 あれから伶次のチョーカーもこっそりと観察してみたが、写真の人物がつけているのと同一のものだった。


 戻ってきた高木が、隣に並んで立った。

 葉月は指をさして聞いてみた。


「これ、高木さんですよね。手前の人って鞍石さんのお兄さんですか?」

「ああ、こっちの写真、見てみな。名前があるだろう」


 額縁付き写真の下の小さな銅版にローマ字が浮かんでいた。

 光って読みづらい。


「ショウタロ……クライシ……やっぱり兄弟だったんですね」


 高木は写真に見入っている。葉月の声も耳に届いていないようだった。

 そのまま写真の世界の中に吸いこまれそうなほど、眩しい目をして見つめていた。


「兄弟でライブとかしてるんですか?」


 ようやく高木がふりむいた。少し微笑んで、目線を下にやった。


「祥太郎さんのことは、伶次に聞いた方がいい」


 リュックサックを背負った高木は、両腕にスティックケースとスネアケースも抱え上げた。

 ちょうど真夜と伶次も戻ってきたので、四人でマスターに挨拶をした。




 高木のワンボックスカーに乗りこんで出発する頃には、午後十一時を過ぎていた。

 終電間際の乗客でごった返す駅前に無数のタクシーが止まっている。

 高木は丁寧にハンドルを操作しながら、国道へと車を走らせた。


 パーディドから一番自宅に近い真夜が最初に下車した。

 後部座席に座っていた伶次と葉月も順に家まで送ってくれるとのことだった。


 伶次はずっと窓の外を見ていた。

 車内は暗かったが、ときどき射し込む対向車線のライトが眩しかった。

 ステージの照明に似て、わずらわしい思考を消し去ってくれる。


「鞍石さんって、お兄さんがいるんですね」


 声は想像以上に車内に響いた。

 伶次は葉月を見たものの無言だった。

 返事を待っていると、伶次は運転席に身を乗り出して高木に何か言いたそうにした。


「俺じゃないって。パーディドにあった写真を葉月ちゃんが見つけたんだよ」


 高木がブレーキを踏んだ反動で、伶次は座席に腰を下ろした。


「……どの写真?」

「下に名前のプレートがついている写真です」

「高木さん、あれ、最後のやつでしたっけ」

「そういやそうだな」


 二人とも黙り込んでしまった。

 ゆるやかなボサノヴァのリズムが流れている。

 車が動き出した。エンジン音が車内の沈黙を破る。


「最後って、解散ライブとかですか?」

「いや……」


 高木と伶次の言葉が重なった。

 伶次の視線を感じたのか、高木が前をむいたまま首をふった。

 写真を見た時と同じ微笑みを口元に浮かべている。

 前かがみになっていた伶次は小さくうなずいた。


「俺の兄貴、二十のときに交通事故で死んだんだ」


 逆光で伶次の表情がはっきりと見えない。

 シルエットが闇に照らし出され、声だけが静かに空間を満たす。

 伶次とむきあう間、何台もの車がパワーウィンドウの横を通り過ぎ、伶次の黒髪に光を当てていった。


「びっくりした?」

「いえ、あの……はい。びっくりしました」


 光の加減で、伶次が笑ったのがわかった。

 葉月の頭に大きな手のひらが乗る。

 なんといっていいかわからず、瞳だけが落ち着きなく動いた。


「亡くなったのは七年前、俺が十五のときだ。あの写真は兄貴が最後にパーディドでやったときのものなんだ。高木さんは三年くらい兄貴とバンドを組んでたんだよ」


 運転席からライターの火をつける音が聞こえた。かすかに煙が立ち上る。


「三年か……。もっと長いこと一緒にやってた気がするけどな」

「七年間、兄貴の時間は止まったままですからね。俺なんかいつの間にか兄貴の歳を抜いて二十二ですよ」

「俺はもう二十五だ」


 二人は笑って言った。伶次の兄を知らない葉月は笑えなかった。

 暗くてはっきりと見えなかったが、ふと真顔に戻った伶次の目が潤んでいるようだった。


「あのさ、篠山さん」

「はいっ!」


 呼ばれると思っていなかったので、声がうわずってしまった。

 手で口を押えていると、高木は肩で笑い、伶次は腹を押さえて笑いをこらえていた。


「すいません……声がでかくって」

「いや、いいんだけど。今から俺んちによらない?」


 再びライブの失敗が頭をよぎった。

 返事をためらっていると、信号待ちで高木がうしろをむいた。


「葉月ちゃん、行ってやってくれない? おまえ、ちゃんと家まで送れよ」

「わかってますよ」


 正直、気が乗らなかった。高木の横顔に笑みが浮かび、車が発進した。

 



 自宅近くの舗道で車を下りると、伶次はウッドベースを担いで細い私道に入っていった。

 乗用車がぎりぎり一台通れるくらいの道の片側に、縦に長い三階建ての住宅が数軒立ち並んでいる。

 向かいには築五十年くらいの立派な屋敷の垣根が連なっている。


 伶次は家の鍵を開けると、もう家族が休んでいるからと狭い階段をウッドベースと共に静かに上がっていった。


「かなり散らかっているから、よけて歩いて」


 彼の自室は三階の南側にあった。

 入ってすぐのところに珍しい紅色のアップライトが鎮座している。

 鍵盤の真下には大中小の三つのアンプが並んでいる。


 スタンドには一軍バンドで使用しているフェンダーのジャズベースの他に、アコースティックギターとエレキギターまで立てられていた。


 そばにはとりわけ大きくサビの浮いた銀色のスタンドがあり、伶次はソフトケースごとウッドベースを立てかけた。

 これだけで八畳はあるはずの部屋がかなり狭い。


 ガラス扉のついた本棚には音楽関係の雑誌や教則本の他に、大量のスコアが押しこまれている。

 最下段には数えきれないほど古いカセットテープがつめこまれ、その前にCDが積み上げられていた。


 勉強用のはずが物置になったライティングデスクには見分けのつかない数種類のシールドが無造作に置かれ、足元にあるギターのハードケースがほこりをかぶっている。

 部屋の隅と言う隅を、本や紙の束が占領していた。


「ライブが続くといつもこうなんだ。ベッドにでも座ってて」


 言われるままにベッドを見ると、そこはすでに五弦ベースの寝床だった。

 端によけて座ろうとすると、本棚をあさっていた伶次が声を上げた。


「わるい。それ、こっちに貸して」


 行き場所は例の楽器林だった。こうやってあの場所に楽器が増えていく仕組みらしい。


「これ、聞いてくれる?」


 伶次はオーディオコンポにCDをセットすると、葉月にヘッドフォンを渡した。

 葉月をベッドに座らせ、伶次は本をよけながら床に座りこんだ。


 冒頭から観客の声と食器のぶつかりあう音が聞こえる。

 ライブの録音らしい。音源が古いのか、音が遠い感じがした。

 拍手に続いて聞こえてきたのは『オール・オブ・ミー』のイントロだった。


 コンボの構成はテナーサックス、ピアノ、ギター、ドラム、ベースのようだ。

 テーマから男性ヴォーカルの歌声が入った。やわらかく演奏を包みこむような声が響く。

 それに呼応するようにテナーサックスのカウンターメロディが入る。

 温かみのある美しい演奏だった。

 声はどこかで聞いたことがある気がした。

 たとえば目の前にいる伶次の声を少し低くしたような――


「歌ってるのって、もしかしてお兄さんですか」


 伶次は微笑んでクレジットを見せてくれた。

 ヴォーカル&ギターは「鞍石祥太郎」と記されている。

 ドラムには「高木忍」と書いてあった。


 MCの声はもっとよく似ていた。

 言葉のイントネーションも同じだし、笑い声は伶次そのものだった。

 伶次は停止ボタンを押してCDをケースにしまうと、葉月にさし出した。


「あげるよ」

「こんな大事なもの、もらえませんよ」

「兄貴が亡くなってから昔の録音をかき集めて、テナーサックスの吉川さんと一緒に自主制作したんだ。知人に配ったけどまだ残ってるし、篠山さんにも聞いてほしいから」


 返事を待たずに、伶次は葉月の足の上にCDを置いた。

 白と黒のみのシンプルな線画で男性の横顔がかかれている。

 伶次よりも幾分おだやかな気質を表すような微笑みが口元に浮かんでいた。


「ありがとう……ございます」


 葉月はヘッドフォンをはずして伶次に手渡した。太ももの上に置かれたCDを手に取って曲名を見ていると、伶次はヘッドフォンを両手で持ったまま葉月を見上げた。


「篠山さん、俺と付き合ってくれない?」


 伶次の目は磁石のように強烈に人を惹きつける。

 停止してしまった思考回路に血液を送り出そうと心臓が激しく動く。

 指先にまで鼓動が感じられた。

 思うようにくちびるが動かない。

 伶次は持っていたヘッドフォンを無造作に横へやり、身を乗り出して言った。


「俺のこと、きらい?」

「いえ、きらいじゃないです。でも」


 断わる理由は何ひとつ見つからなかった。

 コンボに不慣れな葉月をいつも気遣ってくれていることには気づいていた。

 葉月が入部した時からすでに一軍バンドに所属していた伶次は、遠く手の届かない人物だった。

 数時間前のライブさえも未だに現実感がなく、一晩寝て起きればコンボを組む前の日常に戻っていても不思議ではなかった。


 頭の中で記憶が勝手に再現されていく。

 目の前に埋め尽くされた観客、ロングヘアの可愛い女性、視線の先で真夜がアルトサックスを吹いている。

 肩が触れあいそうな距離で葉月が歌えば、絶妙のタイミングでかぶさりながらカウンターメロディを返してくる。


「誰のことを思い出してる?」


 伶次は足を組み、ベッドに座る葉月を見上げた。

 心臓が握りしめられたように痛む。

 葉月は目をふせた。伶次の瞳はいとも簡単に心の奥深いところまで侵入してきそうだった。


「鞍石さんのことは尊敬してます。でも今は……付き合うことまでは……」


「今は……ね」


 伶次は大きく息をはいた。

 視線を兄のCDにむけ、首を傾ける。


「じゃあ待つよって言いたいけど、あと一年もないからなあ」


 伶次は黒いくせ毛を軽く引っ張った。


「来年の秋、ボストンの大学に留学する予定なんだ。ジャズの勉強をしなおそうと思って。いつ戻ってくるかはわからない」


 強い意志を秘めた瞳がじっと見つめてくる。

 あまりに強くて、葉月はひるんでしまう。


 伶次はふと口元をゆるめて壁時計を見上げた。

 十二時をまわっている。

 葉月は同じように壁時計を見るふりをしながら、伶次の顔を盗み見た。何を考えているのか知りたかった。


「遅くまで引きとめてごめん。うちの車で送ってくよ。CDは持って帰ってくれよな。そうだ、葉月って呼びたいんだけど、いいかな。俺のことは伶次でいいから」


 だめだとは言えなかった。葉月はうつむくようにしてうなずいた。


「高木さんって初めから『葉月ちゃん』って呼んでただろ? あれじつは、かなりうらやましかったんだ」


 伶次は一重で切れ長の目を細めて笑った。

 ライブのスタンバイのときと同じように葉月の腕を引っぱって立ち上がらせる。


 駐車場に向かう途中、伶次は夜空をあおいだ。

 空気の匂いを確かめるように、鼻を上にむけていた。葉月もつられて顔を上げた。

 もう草も香らない。夏が終わっていく。

 立ち並ぶマンションのすきまに、星がかすかに見えた。

 風はひやりと冷たく、熱を持った頬を冷やしてくれた。

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