3.ゲッタ・ウェイ
初めてのライブ当日、葉月たちは高木が運転するワンボックスカーに乗って『パーディド』があるアーケードのすぐそばまで来た。
伶次が路上でウッドベースを下ろすと、一瞬、通りがかった人々の目をひいたが、それもすぐになくなってしまった。
小さなジャズライブハウスや楽器店の多いこの界隈では、それほど珍しい光景ではないのかもしれない。
楽器ケースを抱えた真夜と共に、葉月も歩道に下りた。
ぐっと季節は秋に歩みより、半袖のカットソーでは肌寒いくらいだった。
手荷物しかない葉月は、せめてもと高木のスティックケースとスネアケースを両手に抱え、伶次と真夜のあとについていった。
レジカウンターの奥には、前回と同じようにマスターが立っていた。
伶次と真夜は「おつかれさまです」「よろしくお願いします」と口々に言いながら、その前を通っていく。
葉月も「お願いします」と言って頭を下げると、マスターは帳簿をつけていた手をとめて、片目をつぶってみせた。
店内は明るかった。
ライブ中は消えていた照明がほとんどついているらしく、壁や床に残された傷まではっきりみえた。
午後二時まではランチメニューを提供しているようで、ステージになるはずの場所には机が残ったままだ。
真っ白なシャツに黒いサロンを身にまとった従業員たちが店内をせわしなく歩き回っている。
フローリングにモップをかけている者もいれば、おしぼりケースを抱えてステージ奥の用具入れを出入りしている者もいた。
カウンター席の奥にある調理場から、せわしなく食器の重なり合う音が聞こえてくる。
プレイヤー用の一本足のチェアも客席に無造作に置かれ、店内は営業前の雑然とした空気に包まれていた。
真夜はアルトサックスを楽器ケースから出し、伶次はウッドベースを立ててチューニングを始めた。
駐車場を探しに行っていた高木は、十五分ほどで戻ってきてドラムのセッティングを始めた。
すでに用意されているドラムセットに加えて、持参のスネアドラムやシンバルを組み上げていく。
この間、ヴォーカルは暇なものだな、と葉月は思った。
テナーサックスがあればリードを湿らせたり息を吹きこんだり、音が出せなくてもやることはいくらでもあるのに、ヴォーカルらしくこの場で発声練習ができる雰囲気でもなかった。
グランドピアノの横に置かれたスタンドマイクのスイッチを入れてみたが、主電源が入っていないらしくランプがつかなかった。
仕方なく客席に戻って、折り目が擦り切れてしまった歌詞の紙を広げた。
「マスターお願いします」
伶次の一言でリハーサルが始まった。レジカウンターの付近に音量調節をするミキサーがあるらしく、マスターが少しかがんでOKサインを出すと、店内の四隅にあるスピーカーからアルトサックスの音が響いた。
フロントの音を拾うためのマイクにはスイッチがなく、ミキサーの方でオンオフの調整をしているようだ。
「じゃあ『ストレート・ノー・チェイサー』からやるか」
伶次の提案に、真夜は歯をむき出しにした。
「やめましょうよ。最後でいいですよ」
「おまえが一番危ない曲からやるんだよ」
伶次は目も合わせず冒頭のフレーズをいくつか弾いた。
真夜がしぶしぶ譜面を探す間、高木のカウント音が鳴り続けた。
ピアノの奇才セロニアス・モンク作の『ストレート・ノー・チェイサー』はアップテンポのFブルースで、旋律の符割りが難しい。
真夜が何よりもやりたくないと言っていた曲だ。
練習のたびに「やめよう」「僕にはできません」と嘆いていたが、伶次が自ら持ってきた曲を下げることはまずなかった。
テンポを見失いそうなほど複雑なソロの部分は難なくこなせるのに、真夜が苦手なのはテーマに何度も登場するシンコペーションだった。
ブルースは通常、テーマを二回くりかえし、いくつかソロをこなしてから、最後にもテーマを二回演奏する。
一回目のテーマが終わりきらないうちに伶次が演奏を止めた。
「真夜、多いぞ」
「あれ? 何回吹きましたっけ」
似たようなフレーズをくりかえすうちに、真夜は小節数を見失う。
それこそ伶次が止めなければ延々と同じ調子で続けるのだろう。
「フレーズの数じゃなくて、小節を数えろ」
「数えてる途中で頭が飛んじゃうんですよ」
真夜の必死の訴えも聞き流されてしまい、伶次は返答せずにウッドベースをかまえた。
高木も真夜が体制を整えるのを待っている。
そんなことを五、六回やったあと、ようやく最後まで通すことができた。
彼ら三人でのリハーサルはまだ続く。
今回は二ステージ構成で、前半はアルトサックス、ウッドベース、ドラムで四曲演奏し、後半からヴォーカルが入って歌ものを四曲とアンコールを一曲やることになっている。
リハーサルでは真夜に難のある曲だけを何度か通して、他はイントロとテーマ、エンドロールだけを確認していった。
開始してから一時間が立とうとしている。
自分はぶっつけ本番かな、と気を緩めそうになったところに、伶次から声がかかった。
マイクチェックをするらしい。
憔悴しきった真夜は「あーあ、やだなあ本番」とつぶやきながら、葉月が座っていた席の隣に腰かけた。
伶次に手渡されたマイクに声を通して歌ってみると、大学のスタジオに置いてある小さなアンプとは違ってかなりの音量が出た。
エコーもたっぷりとかかっているので、無理の声を張り上げる必要がない。
店内に自分の声が響いてフィードバックしてくるのが心地いい。
歌詞は意識しなくても、自然に喉が動いて口からとび出してくる。
伶次の手招きで真夜が加わり、たいした緊張感もなく、調理場から漏れてくるガーリックの香ばしいにおいに気を取られたりしていた。
午後五時半にリハーサルは終了し、開店時刻を迎えるまでのあいだに食事をとることになった。
葉月と真夜は二人掛けの長椅子にならんで腰を下ろした。
「好きなもの選びなよ。出演者は半額で食えるんだ」
伶次が見えやすいようにメニューを開いてさし出してくれた。
高木は座るなり煙草に火をつけ、シーフードカレーを注文した。
「高木さんが煙草を吸うところ、初めて見ました」
何気なく言ったつもりだったが、かえって気をつかわせてしまったらしく、高木は誰もいない方をむいて煙を吹き出した。
「たまにね。葉月ちゃん、席かわろうか。煙が全部そっちに流れちまう」
「すみません、大丈夫ですよ」
「出演前のヴォーカリストにはよくないだろ。真夜、ちょっとつめろ」
そう言われて動いた真夜も、いつの間にか煙草を吸っていた。
高木は灰皿を持って立ち上がり、葉月は伶次のななめ隣りに座ることになった。
伶次が横からメニューをのぞきこんでくる。
「これ、おすすめ。カルボナーラ」
「おまえ、クリーム系の甘いやつとか好きだよなあ。酒飲みで煙草も吸うくせに」
高木の言葉に伶次は顔を上げた。
「酒は好きだけど、煙草は今はやってませんって」
「本当か? こっそり吸ってんじゃないの」
「吸ってませんよー」
伶次は口を曲げてまたメニューに視線を落した。
反抗してみたかったのか結局イカと明太子のパスタを注文した。
高木が葉月の肩を叩いてくる。
「こいつさあ、嘘つくのがうまいから騙されないようにね」
内緒話のような口調だったが、高木の声は伶次に届くくらいに響いていた。
「やめてくださいよ!」
伶次は食ってかかるように高木にむかってテーブルごしに腕をのばしたが、高木はうしろにのけぞって口元に笑みを浮かべた。
そこへ伶次がおしぼりを投げたので、かわすことができずに高木の胸のあたりに命中した。
葉月は思わず笑ってしまったが、真夜はグラスの中で溶けてゆく氷をじっと眺めていた。
午後七時の開店から十分ほどして観客が続々と集まってきた。
知らない人物が大半だったが、部活仲間も多く来てくれているようだった。
「おーおー、久々の大入りじゃない」
「全席、埋まりそうな勢いですね」
高木と伶次は口々にそう言いながら客席に姿を消した。
ほとんどがあの二人の知り合いなのだろう。
真夜も数人の女子学生が座ったテーブルで何やら話しこんでいる。
同じ大学の人たちなのだろうか。
ゆるいウェーブのかかったロングヘアの女性がしきりに真夜の手を握ったり腕をからめたりしているのを見て、例の彼女なのかもしれないと思った。
メニューをもった従業員が観客たちを席に案内し、キャンドルにひとつ、またひとつと火が灯ってゆく。
談笑は少しずつにぎやかさを増し、次々と酒や料理が運ばれてくる。
ステージの照明はいつのまにか落とされ、客席に近いヴォーカル用マイクがひときわ浮かび上がって見えた。
風子に声をかけられて、葉月はふりむいた。
普段のマニッシュな格好とはうって変わって、珍しくワンピースを着ている。
初舞台にと、小さな花束まで持ってきてくれていた。
「ねえ、あれから鞍石さんとうまくいってる?」
「だからそんなんじゃないって」
風子の声が思いのほか大きく響いたので、葉月はあわてて店の隅に引っぱっていった。
「だって葉月をヴォーカルに起用したのって鞍石さんなんでしょ? 前からあんたのこと見てたってことじゃない。あんな風にニコーッて笑う鞍石さんなんか初めて見たわ」
「高木さんがいるからじゃないの」
食事中、高木は伶次をからかい続けていた。
そういえば一緒に食事をとることも、あんなに屈託なく笑う伶次の姿を見るのも初めてだった。
まるで兄弟のように仲のいい二人の付き合いは、いつ頃から始まったのだろうと、ふと考えた。
「いーや。絶対あんたに気がある」
「はいはい、わかったから、席についてね」
葉月はため息をつきながら、客席まで風子の背中をぐいぐい押していった。
真夜の姿が客席にないことに気づき、すし詰め状態になった人たちを押しよけて店内を巡った。
彼はグランドピアノの裏側にあるスペースにしゃがんでいた。
「何してるの、こんなとこで」
「帰りたい」
真夜は力なく首を垂れて言った。
「絶対失敗する。知ってるんだ。ゆうべ神のお告げがあったから」
クリスチャンでもないのに手をくんでお祈りの恰好をしている。
ここでは何度もライブをやったことがあると伶次から聞いていたが、緊張しているのだろうか。
自分よりもはるかにライブ経験の多い真夜を励ますなんて、おかしなことだなと思いながら葉月もしゃがみこんだ。
「何言ってんの。あれだけ練習したんだから、失敗なんてしないよ」
「いや、するね。そして大ブーイングではりつけの刑。アーメン」
「大丈夫だってば」
「じゃあ一緒に帰ろう。そうしたら失敗もブーイングもなし。めでたしめでたし」
真夜と会話をしていると調子が狂ってくる。
必要以上に緊張しないために、本番前は友人と会話をしたり店内を見渡したりして気持ちをそらしているのに、真夜の張りつめた神経に引きずりこまれていく。
真夜は黙って足を抱えたままだ。
何も話さないでいると、口が閉じたままかたまってしまいそうだ。
あごの動きがぎこちなく、喉が塞がっていくようだった。
「どうした?」
伶次がチューナーを取りにやってきた。
本番までまだ十五分以上あるが、一足先にチューニングをすませるらしい。
「真夜が帰りたいって言うんです」
「こいつ、毎回言うんだよ。パーディドでこれなんだから、他の所に行くともっとひどいよ。コズミックのときなんか本番直前に姿を消してさ、本当に帰ったのかと思った」
「どこに行ってたの?」
真夜は顔を上げた。青ざめているのかと思ったら、案外なんともない表情だった。
「店の裏で煙草吸ってたんだ」
「これだろ? 気にすることないよ」
伶次はステージにむかっていった。
自信にあふれたうしろ姿を見ながら、「チューニングしなくていいの?」と真夜に聞いた。
先ほどまで意固地に座っていたのは何だったのかと思うほど、すっと立ち上がって、「だいじょうぶだよ、多分」と言った。
アルトサックスをかまえて小さな音で、何やらラテン調の曲を吹き始める。
「何それ」
「熱帯ジャズ楽団の『ゲッタウェイ』だよ。これを吹きながら景気よく逃亡するんだ」
葉月は拍子抜けしたあと、喉元のこわばりがほどけていることに気づいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます