2.偶像
合宿最終日のお披露目ライブは散々な結果で終わり、多くの課題の残したままお盆休みに突入した。
お盆期間中は大学全体が閉まっているので、練習に向かうこともできず、葉月はアルバイト先の喫茶店で接客に明け暮れる日々を送った。
テナーサックスを始めてから、楽器の維持費にずいぶんとお金がかかるよう
になった。
葉月が愛用しているラ・ボーズのリードだけでもひと箱十枚入りで三千円から四千円はかかる。
しかもそのうちの半分は使い物にならず、気に入ったものもいずれは消耗してしまう。
それに比べると、ヴォーカルは安くすむものだな、と考えても仕方のないことばかり思い浮かんだ。
真夜や高木とも合宿の夜に会ったきりた。
伶次は1軍バンドが出場する全国規模のジャズコンテストの練習が忙しそうで、声をかけるのもためらうくらい、張りつめたオーラを放ち続けていた。
やはりあれは夢だったのかもしれないと思うほど、現実に埋もれたまま無為な一週間を過ごした。
***
八月の終わりにようやく部活動のオフが明けた。
葉月は喜び勇んでトートバックに譜面をつめて大学に向かった。
一週間も吹かなければ元の感覚を取り戻すのにまた一週間かかることもわかっていたが、真夜が来ているかもしれないと思うと心が浮き立った。
と同時に、真夜が言い残した言葉がずっと引っかかっていた。
――やめといた方がいい。
葉月自身にフロントに立つ資格がないという意味なのか、アルトサックスとヴォーカルのフロント二本立てなどやめた方がいいということなのか、それ以前にコンボに入るなと言っているのか――
真意を聞けないまま、真夜とは別れてしまった。
伶次からは練習に来るように言われているので発声練習もしてきたが、わだかまりは解消しないままだった。
二軍ビッグバンドの練習は週に二回、伶次が率いる真夜のコンボも週に二度ほどの予定を組んである。
音楽練習棟の地下には複数のスタジオが存在する。
そのうちの大小四つのスタジオを葉月が所属するジャズ研究会が優先的に使用させてもらっている。
コンテストで好成績を残せばもっと多くの部屋を占有できるはずだ、というのが伶次の持論だった。
当の本人は、全体練習のときくらいしかスタジオに入らず、いつも薄暗い廊下でウッドベースを弾いていた。
スタジオの鍵が借りられる朝一番の午前十時に行っても、夜八時の最後の時間まで残っても、伶次は必ずいた。
コンテストの結果は入賞にはとどかず十五位に終わったが、伶次は憑き物がおちたかのようにすっきりとした表情でベースを弾いていた。
いったいいくつのバンドをかけもちしているのだろうと考えてしまうほど、いつ見ても違う曲を練習している。
伶次が陣取っている第五スタジオ後方の扉から少し離れ、息をひそめながら様子をうかがっていると、三回生の先輩に肩を叩かれて飛び上がりそうになった。
「鞍石さんって、いつもいますよね」
あわてて取りつくろうようにそう言うと、その人は意味深な目をして、笑って言った。
「あの人はここの主だからね」
***
その廊下の主がライブチケットをくれたのは、暦の上では秋を迎えようとしている暑い昼下がりだった。
スタジオのちょうど真上にあたるラウンジには人気がなかったが、エアコンは稼働しているようで心地よい涼しさを保っていた。
同じ二軍バンドのトロンボーンを担当している
黒いVネックのカットソーに、首には皮ひもで作られたチョーカーをつけている。
アクセサリーをつけていても、大学構内によくいる軽い男という雰囲気は全くなく、銀の飾りがついたチョーカーは皮膚の一部のように体になじんで、とてもよく似合っていた。
伶次は風子と適当に世間話を交わしたあと、葉月の前にライブのチケットを二枚さし出した。
場所は今度、真夜のコンボが出演する予定の『パーディド』というレストラン・バーらしい。
出演するヴォーカリストはこのあたりじゃ有名な人で、とお勧めのCDまで出してきた。
「本当は篠山さんと一緒に行きたかったんだけど、俺、その日は別のバンドのライブがあってだめなんだ。せっかくだし、あげるよ」
出演者を見てみると、フロントは前半がヴォーカルで後半はアルトサックスのようだ。
隣に座る友人の視線が痛いほど気になったが、伶次を見上げて言った。
「いいんですか?」
「もちろん。近いうちに俺達も出演する予定だから、勉強もかねて行ってきなよ」
最近、伶次はにっこりと笑う。
見るたびに心臓が縮んで、この人はこんな表情もできるのだと思う。
近寄りがたいと感じていたこと自体、嘘のようだった。
伶次が立ち去ると、風子は葉月の両肩をもって揺さぶった。
「なになにー? 葉月っていつの間に鞍石さんと付き合ってたの?」
「そんなんじゃないってば」
「じゃあいつの間に二人でライブに行く仲になってたのよ」
「まだ行ったことないって」
葉月が気の抜けた声でそう言うと、風子は並んだチケットをしげしげと眺めた。
「そういえば鞍石さんって、部員の誰かと付き合ってたことってあるのかなあ?」
「さあ……」
曖昧に返事をして、開けっ放しになっていた冷麺に具材を放りこんだ。
伶次が過去に誰と付き合っていたかなど、自分が詮索しても仕方がないと思いながら、生ぬるい冷麺をすすり上げた。
***
その後、数日かけて友人たちをライブに誘ってみたが、あえなく全員に断られてしまった。
チケットをどこで手に入れたのかと聞かれて、伶次だと答えるたびに、「篠山さんと一緒に行きたかった」という声が頭の中で再生された。
「この人、知ってる?」
朝から第二スタジオにこもってアルトサックスを吹いていた真夜にチケットを見せてみた。
あたり一面に、音符を乱雑に書きこんだ譜面が散らばっている。
この部に中学高校時代からの知り合いが多くいるからか、他大学の学生とは思えないほど真夜はなじんでいて、当たり前のように楽器を置いて帰ったりしている。
真夜はキィを握ったままのぞきこんできた。
「何回かライブに行ったことあるよ。へえ、パーディドに来るんだ」
「鞍石さんがくれたんだけど、一人で行くことになりそう」
そう言いながらリードを取り出し、口に咥える。
ある程度湿らせないと吹きづらいものだとずっと思っていたのに、真夜はいつもその動作をせずにいきなり吹き始める。
「ふうん。この女の人の声、ちょっと篠山さんに似てるかもね。低めのよく通る声。僕、けっこう好きだよ」
チケットを手に取る真夜の姿を見て、ためしに誘ってみようかと思った。もうこのさい誰でもいいやという気持ちと、真夜と行ってあの言葉の真意を確かめたいという思いがあった。
不意に誰か付き合っている女性がいるかもしれない、という考えが頭の中をよぎったが、飲みこんでかきけしてしまうことにした。
葉月はマウスピースの吹き口にリードを重ね、リガチャーのネジを閉めながら何気なく言ってみた。
「よかったら一緒に行かない?」
「いいよ」
真夜はあっさりとそう言ってチケットを返してきた。
「いいの?」
声がうわずってしまった。こうも簡単にOKされてしまうと、かえって対応に困る。
「じゃあ……当日の七時に店の前でいい?」
「うん」
真夜はマウスピースを咥えて『メイデン・ヴォヤージュ』を吹き始めた。
彼がどうしてもやりたいと言って押し切った曲だ。
凪いだ海に漂う船のようなメロディライン。
一緒に吹いてみようと思って、ずれたストラップの長さを調節していると、伶次が咳をしながら第二スタジオに入ってきた。
真夜に用事があるようだった。
葉月は居づらさを感じて、必要のないテンポマシーンを取りに行くふりをしてスタジオを出た。
合宿の夜、真夜が伶次の物真似の前にえへんと咳をした理由がわかった。
真夏だというのに、伶次は練習中もよく咳をしている。
***
一週間後、『パーディド』の最寄り駅からロータリーに向かって歩いていると、大きなヘッドフォンを頭につけて前を歩く真夜の姿を見つけた。
夕刻の駅前は乗客でごった返していて真っ直ぐに歩くこともままならない。
レモンイエローのTシャツに七分丈のジーンズをはいた真夜は、すいすいと人の波の中を進んでいく。
イヤーパットだけでも手のひらほどの大きさのあるヘッドフォンをつけていては、名前を呼んでも気づかないだろう。
葉月は何度もサンダルのかかとを踏まれたり、肩を押されたりしながら真夜のあとを追った。
街頭に出て最初の信号が赤になり、ようやく彼の肩をつかむことができた。
真夜はふりかえりながら肩をうしろにひっこめた。
しばらく表情をこわばらせたままだったが、「なあんだ、篠山さんか。キャッチのお兄さんかと思った」と言って、ヘッドフォンを首まで下げた。
目の前にそびえたつガラス張りのファッションビルに夕焼けが映し出される。
眩しさに目がくらみながら、人々は一斉に横断歩道を渡り始める。
すぐ隣を真夜が歩いている。
彼の頬に夕日が差し、日の当たる時間に外で顔を合わせたのは初めてだと気づく。
横断歩道を渡りきらないうちに、信号が点滅し始めた。
二人はあわてて走り始める。
室内の照明ではいつも青白くみえていた彼の皮膚が、雑踏の中で色づいて活動している。
水槽のようにせまい空間の中でアルトサックスを吹いている姿の他は、どんな日常を送っているのか未だに知らないままだった。
小さなレストラン・バー『パーディド』に着くと、レジカウンターにいた黒ひげのマスターが真夜ににっこりと笑いかけた。
真夜は例の大げさなおじぎを披露する。
「ヴォーカルの篠山さんです。よろしくお願いします」
葉月があわてて頭を下げると、「ああ、伶次から聞いているよ」と微笑みかけてくれた。
その優しい口調から、彼らの親密さがうかがえるような、温かみのある声をしていた。
すでに半分ほど照明が落とされた店内は薄暗く、淡いオレンジ色の光で満たされている。
ワックスで磨かれた古いスギ材のフローリングは踏みしめると心地よい音が鳴る。
天井の低い店内に、角が落ちて丸みを帯びたテーブルがしきつめられ、赤いクロスの上でキャンドルが揺らめいている。
入ってすぐの煉瓦風の壁にはサイン入りの写真やレコードのジャケットが所せましと展示されていた。
中には銀板の名前入りプレートがついた額縁もある。
白黒で印刷された写真の中に、高校時代の真夜を見つけた。
一人で含み笑いをしていると、マスターと話をしていたはずの真夜が、葉月を客席まで引きずっていった。
写真に映る真夜は眼鏡をかけていて、ずいぶんと眉が太かった。
弓なりの細くていい形をした今の風貌とは大違いだ。
わずかに剃り残しのある眉を指さすと、「見ないで下さいよ」と恥ずかしそうに広い額を両手で覆った。
真夜がトイレに立ったすきに、また写真を見に行った。
アルトサックスを吹く姿はほとんど変わっていない。
彼のトレードマークともいえる、首の付け根から前に三十度ほど傾斜する猫背の姿勢だ。
うしろに小さく伶次と高木も映っている。
ふと隣の写真に目をやると、そこにはギターを弾きながらマイクの前に立っている伶次の姿があった。
首にはいつものチョーカーをつけ、口を大きく開けて歌っているようにも見える。
器用な人なんだなと思ったが、ドラムを叩く高木の姿に違和感をおぼえた。
ギターを下げる伶次は二十前後なのに、うしろに映る高木は高校生くらいに見えた。
真夜の写真と見比べてみても、あきらかに高木の方が年齢を下回っている。
首をかしげていると、戻ってきた真夜がため息をつきながら言った。
「かんべんしてよ、もう」
「あのさ……鞍石さんってお兄さんいるのかな」
「あーうん」
「その人ってギターとかヴォーカルやってる?」
「そうですね」
真夜は曖昧に答えながら視線をそらし、客席に戻ってしまった。
兄弟がいるなら納得がいくのに、何か言いにくいことでもあるのか、真夜はそれきり口を閉ざしてしまった。
店内の照明が落とされてプレイヤーが登場すると、拍手と共に演奏が始まった。
一曲目から波のうねりに似た空間へ誘われる。
体を揺らすライドシンバルのリズム、足元を浮かせるベースの振動。
そのビートに観客たちが吐く息を織り交ぜて、歌声が店内の隅々まで広がっていく。
知っている曲が始まると葉月は口ずさみ、銅褐色の光の中で揺れるヴォーカリストに自分の姿を重ねていた。
高木のスネアドラムのタイミングと伶次のランニングベースがぴたりと合い、真夜が荒々しい音を放つ。
その中で葉月は手を広げて、充満する熱気を歌声に変えていく――
目を開くと現実に引き戻された。
ステージに立っているのはアーティスト名しか知らない三十代のヴォーカリストだ。
休憩をはさみ、次に現れたのはアルトサックスを持った年配のプレイヤーだった。
真夜が無理に背筋を伸ばそうとしたのがわかって、思わず笑ってしまった。
ライブの後半には、デューク・エリントン・オーケストラの演奏で有名になった『パーディド』が流れた。
どこからかヒュウっと口笛の音が聞こえる。
数コーラスを吹いただけで踊りたくようなテンポは静まり、偶然にも『メイデン・ヴォヤージュ』が奏でられる。
この曲はハービー・ハンコックがモードの手法で作った曲で、最初から最後まで単調な8ビートが流れる。
甘いアルトサックスの音色で、起伏の少ないフレーズが何度もくりかえされる。
となりに座る真夜はカシスオレンジのグラスに手をかけたまま、微動だにしなかった。
真夜もステージに立つ自分の姿を想像しながら聞いているのだろうか。
それとも彼にとって何時間吹いても飽き足りないこの曲の新しいアドリブの奏法を考えているのだろうか。
いつになく真剣なまなざしをむけている真夜の横顔は、遠く手の届かない場所にあるようだった。
「じゃあ今度、よろしくね」
黒ひげのマスターは真夜にそう声をかけたあと、微笑みながらも葉月の顔をじっと見てた。
葉月は壁にはられた写真のことが気になりながらも、真夜に続いて外に出た。
夏の終わりの夜風が、飲みなれない酒に火照った頬を冷やしてくれる。
観客たちの熱気と、鼓膜の奥で鳴り続ける演奏の余韻が全身にまとわりついている。
このまま帰路についてしまうのが惜しかった。
肝心なことも聞けていない。
思惑とは裏腹にさっさと前を歩いていた真夜が、円筒形のパレルバッグから携帯電話を取り出して、指先で何やら打ち始めた。
じっと見ているのも悪い気がして、葉月も自分の携帯電話を取り出してみたが、メッセージも着信もなかった。
「彼女から?」
「うん」
それとなく会話をふってみたつもりが、画面に集中していた真夜はあっさりと返答した。
「やっぱり彼女いるんだ。それなら断ってくれてもよかったのに」
笑って軽く言ったつもりだったが、真夜の表情が凍りついていた。
倍の速度で画面をタッチしたあと、パレルバッグの底に押しこんでしまった。
「いません。今のは気の迷いです」
「何よそれ。うんって言ったじゃない」
「きっと僕の背後霊がいたずらしたんだ」
真夜は両手をぶらぶらさせながら、白目を見せて舌をだした。幽霊のつもりなのだろうか。
話をごまかそうとする気配は察知できたので、「どっちでもいいんだけどね」と言って追及はしないことにした。
葉月は真夜の前を歩き出した。『パーディド』は長い商店街の中央にあり、ずっと先までアーケードが続いている。
ほとんどの商店は閉まっているが、酒を扱っていそうなバーや数軒の居酒屋が、けばけばしいネオンを光らせている。
じくじくと胸が痛むのを感じながら足早に歩く。
ときどき真夜が追いついてきて、目を見開きながら首をふった。
口を閉じたままでも、何を意味しているのかは伝わってきた。
応答しないでいると、真夜は深夜営業しているファーストフード店を指さして言った。
「おごります。神よ、お赦しください」
「私は神じゃないよ」
そう言いながらも、ライブ中はワンドリンクしか注文しなかったので腹は減っていた。
昼間の太陽よりも眩しい光に誘われるように、真夜と共に店の中に入っていった。
頭の中ではくりかえし『パーディド』が流れている。
演奏者のイメージは真夜と伶次と高木だったが、メンバーの中に葉月は存在せず、観客席で見ているだけだった。
「やめといた方がいいって、どういう意味だったの?」
レジ前の列に並びながら、葉月は言った。言葉が重くならないように気をつけたつもりだったが、思った以上に嫌な響きをしていた。
「なんのこと?」
「流れ星を見た、あのときのこと」
「そんなこと言ったっけ」
「言いました。二回も」
「山の地縛霊が僕に言わせたんだよ、きっと」
深い意味はないのか、本当に忘れてしまったのか、どちらにしろ本気で答えるつもりはないらしい。
葉月は頭をふって、鼓膜の奥に流れる『パーディド』のスイッチをオフにした。
「じゃあやめないからね」
「神のお好きになさってください」
真夜は手のひらを合わせて拝むようなポーズをとった。
わずらわしい思考を一掃してしまいたかったが、ライブの音声が絶え間なく脳内に響き続けて、思うようにはいかなかった。
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