紫音の夜

わたなべめぐみ

1.真夜中の星

 聴く者の心臓をわしづかみにして離さない響きに、葉月はづきの足は立ちすくむ。



 

 大学ビッグバンドの夏合宿は、佳境を迎えていた。


 三日三晩、寝る間を惜しんで練習し続けた結果、気力が途絶えて脱落した者は楽器を抱えたままへたり込み、限界のさらに先にむかって邁進する者は、なお防音室にこもって譜面とにらみ合っている。

 

 二軍ビッグバンドのテナーサックスを担当する葉月は、ソロのパートを完成させられなかった自分に落胆しながら、廊下に出た。

 

 目の前に、スティックを抱えたまま寝てしまったドラマーや、遠い目をして何やらつぶやいているトランぺッターがいる。

 

 眠いなら割り当てられた部屋に戻ればいいのに、バンドの全体練習が終わった後もあきらめきれずにこうやって練習室の前にずらずらと並んで座っているのだ。

 

 葉月は首から下げたストラップにテナーサックスをつないだまま、指で下唇の両脇をもんだ。

 長時間マウスピースを噛み続けたせいで、口角のななめ下あたりにある筋肉がすっかり弛緩してしまい、楽器の中にうまく息を吹きこむことができない。

 

 譜面をにらんで前かがみになっているのも疲れたし、立ったままソロの練習をするのにも首に痛みを感じ始めていた。

 

 ショートパンツのポケットから携帯電話を取り出した。午前一時をすぎている。

 午前中にお披露目の演奏を全部員の前でやったあと、昼過ぎに宿泊所を発つ予定になっている。

 

 ソロの練習をするならもう今しか時間がないのだが、吹くたびに一層ミスをくりかえすようになってしまい、それならとっとと寝た方がマシだというあきらめの気持ちと、鳴り止まない他の部員たちと比べて自分は根性がないのだという自責の念がずっとせめぎあっている。

 

 素足で廊下のカーペットを踏みしめながら歩いていると、突如、アルトサックスの強烈な高音が右耳にとびこんできた。

 

 第二練習室の防音扉のすきまから淡い光がもれている。

 

 高鳴る心音を感じながら、荒々しい高速フレーズに引きこまれるように室内をのぞいた。

 

 紫のTシャツを着た小柄な男がアルトサックスを吹いている。

 

 猫背の男が首に血管を浮き立たせて、卵形の小さな頭を揺らすたび、楽器が金色の揺らめきを見せる。

 

 むき出しの細い腕からきゃしゃな手首が伸び、親指をのぞく八本の指が自在にキィの上をはい回る。

 

 一見すると乱暴に見える指使いにも法則があるらしく、一音ずつ譜面に書き起こしたような正確なフレーズを紡いでいる。

 時にリードミスが混じる激しいフラジオ奏法が、彼の演奏をアドリブのように見せているのだ。

 

 フレーズの途中でわざとらしくレイドバックをして、テンポを引きずったかと思うと、ある瞬間にすっと元のリズムに戻る。

 緊張の糸を緩めたように見せかけて、コーラスの最後にむかってアルトサックス独特の高音を響かせる。

 

 サックスの音色は聞きなれているはずなのに、男の痩せた頬が引きつるたびに、痛みをともなう高揚感が湧きあがり、背筋を震えさせる。

 

 汗ばんだ手で首からぶら下がったままのテナーサックスを握りしめると、一瞬、男と目が合った。

 

 胸を射抜かれたように、葉月の体は硬直した。

 

 練習室を満たす4ビートの振動。むせるような熱気と汗のにおい。

 巨大なアンプに流れる電流が、空気中の粒子を焦がして焼けつくような香りを放つ。

 背をむけたベーシストと片腕しか見えないドラマーも、憑りつかれたように音を紡いでいる。


 紫のTシャツの男が薄い胴体を前後させる。短い髪の毛から汗がしたたり落ちる。

 

 ベーシストが「真夜まや!」と声を上げると、男はアルトサックスをふりかざし、ドラマーとタイミングをあわせて勢いよくふり下ろした。


 胸を打つ鼓動がおさまらない。

 葉月はテナーサックスを抱きかかえるようにして壁にもたれた。


 あの中にいて一緒に演奏したかのように、額から汗がつたってくる。


 もう一度、防音扉のすきまをのぞいて、男の顔を盗み見た。

 年齢は葉月と同じくらいの二十前後だが、部員ではなく初めて見る顔だった。

 興奮が抜けきらないのか、瞳が不気味に光っている。


 金髪を逆立てた上半身裸のドラマーは見おぼえのある顔だった。

 現役の部員ではなく会話を交わしたこともないが、時々OBのビッグバンドに顔を出している人物だった。


 ベーシストはおそらく一軍バンドの――


篠山ささやまさん、何してんの、こんなところで」


 防音扉が大きく開き、葉月はテナーサックスをかばうようにして、うしろに飛びのいた。


 頭の上から言葉を降らせたのは、一軍ビッグバンドでバンドマスターを務めている鞍石くらいし伶次れいじだった。

 少し癖のある黒髪が、いつになく乱れている。

 

 四回生の今でも数多くのバンドをかけもちし、あちこちでライブ活動をしていることは誰もが知っている。

 周辺の大学ではよく顔の知れたベーシストだ。


 練習中はいつも近寄りがたい空気を放っていて、大学からジャズを始めたばかりの葉月から話しかけたことは一度もなかった。


「通りかかっただけなんです、ごめんなさい!」


 咄嗟にそう言って立ち去ろうとすると、腕をぐいとうしろに引っぱられた。


「ちょうどよかった。中に入って」


 断りの言葉を発するまもなく、葉月は練習室に引きずりこまれた。


 中に入ると、アルトサックスの男がすっきりとした表情で正面をむいて立っていた。


 薄茶色の短い髪に広い額で、同年代の男には似つかわしくない、つるりとした肌をしている。


 再び目が合うと、今度は男が先に視線をそらした。

 なで肩を下ろして落ち着きなく黒目を左右させている。


「あの……同じ大学の人じゃないですよね……」


 おそるおそる声を出してみると、男の肩が小さく動いた。

 そこへ伶次の白い手がのる。


「こいつは中学高校時代の後輩なんだ。今朝から裏手にある合宿場に来てたらしくってさ。バンドの練習が終わってから引っぱってきたんだ。うちの部にこいつほどサックスを吹けるやつはいないからね」

 

 辛辣な言葉をさらりと言ってしまうと、葉月の胸が痛む間もなく、男は体がふたつに折れ曲がるくらい深くおじぎをした。

 馬鹿にされているのか、大真面目なだけなのか、判別がつかない。


「それからドラムの高木たかぎさん。見かけたことはあると思うけど、俺の三つ上の先輩。プロのドラマーとして活動してるから、俺も時々、出演させてもらってるんだ」


 なぜ紹介されているのかわからないまま呆然と突っ立っていると、金髪のドラマーが立ち上がって近づいてきた。

 思っていたよりもずいぶんと背が高く、見上げないと顔が見えない。

 そばに立たれると、伶次よりもはるかに威圧感があった。


「お前がこないだ言ってたのって、この子のこと?」

「通りかかったんで、つかまえてきました。いい声してますよ」

「へえ、名前は?」


 高木は、葉月の瞳をのぞきこむようにして聞いてきた。

 鼓膜の奥をわずかに振動させるだけの低く通りにくい声が、胸の底へと降りていく。


 なぜ自分の声の話が出たのか、聞き返せないまま、心臓はせわしなく血液を送り出す。


 息を飲んで鼓動がおさまるのを待ってから口を開いた。


「篠山葉月です」

「ふーん、葉月ちゃんね。初めまして、高木です」


 品定めをするような厳しい目つきが緩んだかと思うと、握手を求められた。 大きくて力強い手のひらは、内側が熱を持って汗ばんでいる。


「それじゃ、やってみるか」


 高木はおもむろにドラムセットに戻って腰を下ろした。

 スネアドラム、ライドシンバル、タムタムやフロアタムを次々に叩いて見せる。

 ランダムに叩いていても、不思議と曲の世界が垣間見えるようだった。


 アルトサックスのチューニングの音が聞こえ、葉月はふと我に返った。


「すみません、おじゃましました」


 頭を下げて部屋を出ようとすると、またしても伶次に腕を取られた。


「何言ってんの、篠山さんも一緒にやるの」

「やるって何を……私、アドリブどころかコンボもやったことがないですし」

「違うよ。テナーサックスじゃなくて、こっち」


 伶次は巨大なアンプの上に置いてあったマイクを突きつけて言った。


「去年の学祭で歌もののビッグバンドに出てただろ? あのときの『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』をもう一回ここで歌ってよ」


 記憶が急速に過去に巻き戻る。確かに一年前、部員が立ち上げた即席のビッグバンドにヴォーカルとして参加したことがあった。

 歌ものなのになぜか歌はおまけで、バンドマスターを務めるギタリストの自己満足のようなバンドだった。


 葉月自身は歌ものからジャズの世界に入っていった経緯もあり、歌わせてもらえるならと喜んで参加した。


 注目されるのはあくまでも朗々とソロを奏でるギタリストで、ヴォーカルに意識を置いている者など、一人もいないと思っていた。


 演奏中は難しい顔ばかりしている伶次が、笑みを作ってマイクを握らせようとしてくる。


 葉月は渾身の力をこめて手のひらを引っ込めた。


「むっ……無理ですよ! あんなの全然、鞍石さんの期待にこたえられるものじゃ……」


「あの時のバックバンドはひどいものだったけど、篠山さんはいい声してるなって思ったんだ。俺、新人の堀出しにはけっこう自信あるよ。真夜を発掘したのも俺だからね」


 伶次の視線の先には背中を丸めて間抜けな顔をしたあの男がいた。

 伶次に指をさされ、突然、表情筋に力が入ったかと思うと、アルトサックスをかまえてわざとらしいポージングを取った。


 腹の底のあたりがざわついた。

 先ほどの彼らの演奏が頭の中に再現される。

 瞬く間に高揚感がよみがえり、大波が押しよせる前のように何かが奥に引いていった。


 伶次は口の端を持ち上げると、葉月のストラップからテナーサックスをはずしてマイクを握らせた。


 真夜の視線を感じた。

 指の先が小刻みに震えるほど気持ちは高ぶっているのに、心臓は妙に落ち着いている。


 伶次は床に寝かせていたウッドベースを持ち上げると、チューニングを始めた。

 高木は激しくドラムを叩きながら、ポジションの調節をしている。


 真夜がストラップを引き上げながら近づいてくると、伶次はウッドベースを抱え直して言った。


「キィはAフラットだ。おまえはフラットひとつ。いけるか?」

「そうですね、たぶん」


 真夜はセルマーのアルトサックスに強く息を吹きこんだ。

 葉月の両腕に鳥肌が立つ。


 真正面で聞いたら失神するのではないかと思うほど、体の芯が震える。


 その一方で、頭の中では冷静に歌詞を復唱していた。

 歌いなれた曲とはいえ、バンドで合わせるのは十か月ぶりだ。


「篠山さん、それ、マイク用のアンプだから、電源いれて」


 伶次があごで示したアンプがどれかわからず、マイクからつながるシールドを手繰りよせる。

 もたついている間に、高木はスティックでカウント音を響かせ始めた。


 伶次と真夜が楽器をかまえる。

 体にまとわりつく湿った空気が張りつめていく。


 イントロのアウフタクトからアルトサックスの音が入った。


 先ほどまでの彼らの姿からは想像しがたいほど、落ち着いた優しい演奏が流れる。


 真夜は目を閉じてゆるやかに楽器を鳴らす。

 夜空を流れる雲のようにゆったりとしたビブラートこそ、彼の本領なのだと感じた。

 ボサノヴァのスローテンポに乗って思う存分アルトサックスを鳴らし、心がゆるむ音色を最大限に奏でる。


 イントロの間、歌詞を間違えないために「いつも通りで」と呪文のように唱えたが、アルトサックスの音が耳に侵入してくると、揺れのひとつひとつに反応する体を抑えられなかった。


 歌が始まるテーマに入る直前に、伶次は目配せをして合図を出してくれた。


 ドラムのリズムを聞きながら、葉月は喉を鳴らす。

 決まったテンポでしか演奏しなかった即席ビッグバンドのときとは違い、少し調子がずれるだけで演奏の流れに影響を及ぼす。


 緊張して震える声を伶次がひろい、ドラムがベースラインをすくい上げる。


 真夜は、こわばりながら歌う葉月の様子をうかがいながら、邪魔にならないようにフレーズを組みこんでくる。


 歌詞とアルトサックスのカウンターメロディを何度かくりかえすうちに、真夜の口元にわずかに微笑みが浮かんだ気がした。


 2コーラス目からアルトサックスのアドリブが始まった。

 頭の芯に突き抜けるような激しい音は少しもない。

 盗み聞きしたときとは別の人物が吹いているのではと思うほど、やわらかで胸にしみわたるような演奏だった。


 真夜の合図でソロは終わり、最後に高木がバスドラムを踏んだ。


「いいじゃん」

「これでコズミックいけるでしょ」


 伶次がそう言って黒髪をかき上げると、高木は親指を立てた。


 二人の会話の意味はよくわからなかったが、満足そうな笑みを交わしているのを見て、葉月はようやく胸をなでおろした。


 熱い靄に包まれたような感覚が、演奏後も続いている。


 歌はいつも、テナーサックスを吹いた時よりもずっと深い振動を体に残していく。

 乾ききった喉に何度も唾液を流しこむが、追いつかない。

 鼓動が早く、足の先までしびれが走っている。


 マイクを握っていた手が膨れ上がるように熱い。

 手のひらがかすかに震えている。


 不意に肩を叩かれてふりむくと、ベースを抱えた伶次がいた。


「篠山さん、俺達のバンドでコズミックに出ない? もちろんヴォーカルでさ」


 彼の一言に、ステージに立つプレイヤーの姿が思い出される。


 伶次の言う『コズミック・ジャズ・フェスティバル』とは、このあたりの大学主催で毎年十二月に開催されている学生コンボのジャズライブだ。

 場所はブルー・ノート。

 学生では気軽に入ることができないこの場所を、二日間だけ貸切にして学生バンドの祭典をやろうと企画されたらしい。


「俺達は今度で三度目なんだ。篠山さんも、どう?」


 なんて気軽な誘い方で、とんでもないことを言い出すんだこの人は――と葉月は思った。



 ブルー・ノートといえば、プロを目指す人間なら誰もが憧れる音楽の聖地だ。

 海外から多くの大物アーティストが呼びよせられ、ときにチャージが一万円を超えるような一流の演奏が催される。


 『コズミック・ジャズ・フェスティバル』は、夢でも立てないブルー・ノートのステージにアマチュアのプレイヤーが上がれる、またとないチャンスだ。


 真っ青に輝くステージ。マイクを持って立つ葉月の隣に、アルトサックス奏者が立っている。

 純度の高い音に酔いたくて集う観客たちが、歌声とサックスの音色に包まれる――


 全身の血が勢いよく流れ始める。

 心臓の音が漏れ出すのではないかと思うほど、体が激しく脈打つ。

 葉月はマイクを胸に当てて、ぐっと息を飲んだ。


「やっ……やります!」


 伶次の口元に笑みが浮かび、高木はドラムを叩き鳴らした。

 真夜はというと、例の大げさなおじぎをくりかえしていた。

 その行動が本気なのかどうか、茫洋としていてつかみづらい男だと思った。


 伶次は笑ってハイタッチを求めてきた。

 こんなに上機嫌な彼の姿を見るのは初めてだった。

 無表情でウッドベースを抱え、譜面と睨みあっているイメージがどうしても強い。


「バンド名は『ナイツ』だったんだけど、真夜が嫌だって言いだして今は無名なんだ」


 伶次の言葉に、真夜が首を伸ばした。


「やっぱり僕が提案したのにしましょうよ。『RAGE』って怒りが伝わりそうでかっこいいでしょ」

「いやだ。だいたい、誰に対して怒ってんだよ」

「じゃあ『ハイ・トゥリー』でもいいです」


 両腕を広げて木の真似をする真夜に、伶次は「いいんじゃない」と言って笑った。

 高木は苦々しい顔つきをしてつぶやいた。


「かんべんしてくれ、そんなヤバい薬みたいなバンド名」




 地下の練習室にテナーサックスを残し、葉月は合宿場の表玄関に出た。


 胸につまった空気を吐き出して、新鮮な酸素を思いきり吸いこむ。

 何度か腕を回すうちにようやく肩の緊張がほぐれ、脱力したまま階段に腰を下ろした。


 この一帯に広がる高原は冬になるとスキーのゲレンデとして使用するらしく、合宿場も一階にはスキー客用の出入り口があり、表玄関は階段を上がった二階にある。

 練習室のほとんどは地下と一階にあり、二階と三階が宿泊施設になっている。


 足を組んで空を見上げる。

 暗幕の上に銀色の砂粒を散らしたように、無数の星がきらめいている。

 八月の上旬といえども山頂に近い高原の夜風はひんやりと冷たい。


 強い風が吹くと、ショートボブの髪が揺れ、手のひらで両腕をこすった。


 背後で自動販売機が音を立てる。夜中の三時に起きていそうな部員を思い出そうとしていると、黒のタンクトップに着替えた真夜がひょっこりと姿を見せた。


「こんばんは」


 つい先ほど会ったばかりなのに変な挨拶だな、と思った。

 真夜は両手に缶ジュースを持って立っている。

 彼が背中から浴びている自動販売機の逆光が眩しかった。


「さっきは大変だったね」


 目の前に缶ジュースをさし出され、ありがとうとつぶやくと、真夜は葉月のとなりにちょこんと腰を下ろした。

 猫背がよりいっそう曲がる。

 タンクトップから伸びる腕は白くて、腰回りは自分より細いのではないかと思った。


 真夜は缶のプルトップを引き上げると、すするようにしてジュースを口に含んだ。


「僕のときもああだったんだ。伶次さんと高木さんが二人で高校に遊びに来ててね。『あっいたいた、こいつですよ。高木さん、一曲やってみません?で、僕は下手だから嫌だって言ったんだけど、この通り強引にね」


 真夜がやってみせた伶次の口真似は全く似ていなくて、それがよけいに面白さを引き立てていた。

 葉月が笑うと、彼はえへんと咳をして伶次の物真似をいくつか披露した。


 葉月は笑いながら、もらった缶ジュースを手のひらの上で転がした。


「アルトサックスを初めて、もうずいぶん経つの?」

「八年目になるけど、ほんとに大したことないんだ。あの二人の足元を転がってばっかりだよ。篠山さんは?」

「私はまだ二年目。ライブが近づくたびにソロに四苦八苦してるの」

「カウント・ベイシーの曲はテナーサックスのソロが多いからね。2ndテナーなんて拷問に近いよね。最初のうちは、練習あるのみだよ」


 真夜は缶ジュースをサックスに見立てて吹く真似をし始めた。


「大学ではビッグバンドに入ってるの?」

「ううん、僕の大学は規模が小さいからコンボだけなんだ。ビッグバンドはたまにエキストラで参加させてもらうくらいかな。伶次さんのコンボは四年目になるよ。飽き性の僕には最高記録」


 突然、言葉が途切れてしまった。

 まだ会話に続きがありそうな気がしたのでしばらく待っていたが、真夜は夜空を凝視し続けた。


「どうしたの?」

「星が……」


 つぶやくように言うと、闇の中に飛び出していった。


 どう見ても足のサイズに合っていない他人のサンダルを鳴らしながら、ゆるい斜面を駆け上がっていく。

 葉月も宿のものと思われる古い下駄を足にひっかけて、あとを追った。


 真夜の背中を見ながら足を進めた分だけ、あたりの闇が濃くなっていく。

 舗装された坂道の向こう側にはどこまでも山の斜面が続いている。


 湿っぽい地面を踏みしめるたびに、夏草の息吹が立ち上ってきた。

 真夜が小さな声をあげて腕をふり上げた方角を見ると、山影のすぐ上に星が流れた。


 息をつく間もなく、無数の星と星の間をぬうように、銀色のか細い糸のような流れ星が落ちてゆく。

 お互いが指をさした方角とは別のところに、次から次へと流れ星が姿を現す。


「すごいなあ。流れ星に十個お願いごとができたら、宿に帰ろうかな」


 そう言って真夜は地面に寝転がった。

 隣に腰を下ろしながら「けっこう欲深いのね」と言うと、彼は両腕を大きく広げて言った。


「当然だよ。僕なんて欲まみれでそのうち燃え上がっちゃうよ」



 全身の力を抜いているのがうらやましくなって、葉月も仰向けに寝そべった。

 地面についた肘や背中にあたる小石がどうにも痛かったが、汚れることへのためらいをぬぐい捨てて後頭部を土につけてみた。


 重力から解放されたように体が軽く、土は意外に温かかった。

  一度閉じた瞳をゆっくりと見開き、葉月は息を飲んだ。


 視界のすべてが満天の星空に支配されている。

 手をのばせば、濃紺の空に散らばり輝く星々をかきまぜることさえ出来そうだった。


 目が慣れてくると、あたりは真っ暗闇ではないことに気づいた。

 視界の端に映る山の稜線とスキー用リフトの輪郭の方が黒々としていて、空は明るかった。

 真夜とのあいだを遮るものは何ひとつなかった。


 小さなため息をついたその時、特大のほうき星が夜空の真ん中に現れた。

 ほうきの部分に何百もの銀の粒をまといながら、五秒かけてゆったりと大空を横切っていく。

 弧を描くほうき星の軌跡から天空は半球型をしているのだと思い知らされる。


「お願いごと十回分はあったなあ」


 そうつぶやいた真夜の指先が、葉月の手にふれた。

 頭を動かして彼を見たが、何の反応もなく夜空を見上げたままだった。

 少し胸が鳴って、なぜか伶次の顔が浮かんで消えて、そのままにしておいた。

 指を伝って、真夜の思考が流れこんできたのかもしれないと思った。


「願い事、そんなにたくさんできたの?」

「しまった、忘れてた」


 あまり残念そうな気配もなく、とぼけた応答に葉月は吹き出した。


「『ナイツ』っていうバンド名、ぴったりじゃない。真夜中の真夜、なんでしょ?」

「お笑いのコンビ名みたいでいやなんだよ。いいっていうなら、篠山さんが相方やってくれるの?」


 真夜の指先がわずかに動いた。

 葉月は指をからめて握り返した。


 「いいよ」と言いかけたその時、真夜が手をふりほどいて立ち上がった。


 「やめといた方がいい」


 吐きだされた言葉に耳を疑っていると、真夜は葉月から視線をそらしたままもう一度つぶやいた。


「やっぱりやめといた方がいいよ」


 今度は返事ができなかった。葉月の心はとっくに決まっていた。

 たとえ真夜や伶次の心変わりがあったとしても、身を引くつもりはなかった。

 土下座をしてでも、真夜の音色をもっとそばで聞きたいと思っていた。


 夜空の天盤に浮かぶ数限りない星々が、真夜の全身にふり落ちそうなほどに瞬いていた。

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