EP10:つがいの鳥
つがいの鳥〈1〉
「覚えている? この森を通ってあの町へ行ったんだよ」
僕の問いかけに、少女は首を横に振った。
その拍子に金色の髪が肩からこぼれて胸元へ流れる。
ふいに枝葉の合間から差した日の光を受けて、きらきらと輝く。
木々の連なる道なき道を見すえ、少女は問い返した。
「それって、いつの話? もっとずっとちっちゃい頃の話でしょ。覚えてないわ」
「そうだね。あの頃はまだ、背もこれくらいだった。
それに、あの時は途中まで車だったから、もしかしたら君は眠っていたかもしれないね」
「ふぅん……」
素っ気無い返事。
記憶にない事柄に関心を払うつもりはないようだ。
あるいは、長い徒歩での移動に疲れてしまったのかもしれない。
「これから行く町は、どんなところ?」
「どんな町だっただろう。何もかもが、都会のミニサイズだ。
どれもこれも寸足らずで、でもそれで足りてしまう。贅沢を言わなければね。そういう場所」
「映画館はあるの? ショッピングはどこでするの?」
「町の中にはない。列車や車で出かけなければならないね」
「そうなのね」
落ち着いた声は不満のためか、疲れのためか。
少女は赤い旅行鞄を引きずるように運び、僕の後をついてくる。
荷物を代わりに運びたかったが彼女はそれを許さなかった。
僕は意識して歩幅を狭くして歩くが、それでも少女は遅れ気味だ。
僕も疲れが溜まっているらしく度々歩幅を忘れて自分勝手に歩いてしまう。
距離が開いたことに気づくと足を止め、彼女が追いつくのを待った。
しかし、あるときから、そうやって立ち止まると彼女が悔しそうな顔を浮かべることに気付いたので、できる限り歩調を合わせることにした。
大きな樹の根っこを荷物と一緒に苦労して乗り越えて、少女が息を吐く。
「――どんな町でもいい。あなたが一緒ならそれでいい」
鞄を持ち直し、少女は前を見据えた。
「行きましょう、グリヴ。急がないと……」
「噂を気にしているの?」
「だって。何かを忘れるなんていやよ。わたし、何も忘れたくない」
「大丈夫。ただの噂話だよ」
後ろ頭に軽く触れると、滑らかな髪の感触が指先をくすぐった。
少女は歩み出す。まだ子供の足で、重たい荷物を引きずりながら、舗装されていない道をブーツで踏みしめて、一歩、また一歩。
もうすぐ日が暮れそうだ。
町はまだ遠く、その気配さえ窺えない。
1.
日が暮れて、途方に暮れた。
移動の所要時間を甘く見積もった僕の責任だ。
それとも、知らぬ間に道に迷ったのか。
夜の森に光源は満月のみ。木々がそれを遮れば、伸ばした手の先さえ見えない闇になる。
それでも少女は泣かなかった。
僕のコートにしがみつく。伝わる熱に僕のほうが支えられて、また歩くことができた。
立ち止まっているよりは、歩いたほうがいい。
いや、無闇に体力を失うよりは、じっとしていたほうがいいのか。
「グリヴ……」
迷う頭に囁きが聞こえる。
不安を悟られてはいけない。だから普段通りをつとめて装って、少女を呼んだ。
「ユーニス。どうした?」
「あれ――何か、光ってる」
虫だろうか。星だろうか。そう思ってユーニスの小さな指の先を見すえる。
そこに、確かに光があった。空よりも地に近い位置で、何かが光を放っている。
「行ってみましょう」
先に決断したのはユーニスだ。少女の手に力が漲る。
僕の手を引いて、まずユーニスが歩き出した。迷うことなく光を目指す。
その光景にわが目を疑った。
木々の合間に、唐突に一軒の屋敷が立っている。
屋敷の傍らで、夜を閉じ込めたような温室が月の光を受けて艶めいている。
「わあ……素敵」
ユーニスは温室を見上げて夢見るように吐息した。
屋敷は窓辺の光から人の生活の気配が窺えた。
カーテンの向こうで人影が動いている。
誰かが暮らしているのだ。
でも、なぜこんな森の奥で?
「グリヴ。お願いしてみましょう。ここに泊めてもらうの」
「――でも」
どんな人が暮らしているか分からない。
こんな場所に隠れるように暮らす人物だ。
もしかしたら犯罪に手を染めているかもしれない。
安全の保証はどこにもないのだ。
しかし、この光を頼るほかに森の夜を過ごす術はない。
「わかった。行こう」
頷いてみせ、ユーニスの手を引く。
庭を渡って玄関へ近づくと、温かい良い匂いに気付いた。
夕餉の匂いに唾が湧く。隣の少女はごくりと喉を鳴らした。
「ごめんください。夜分にすみません」
簡素なノッカーを叩いて声をかける。
カーテンに透ける人影が動いて、ほどなく扉が開いた。
「どなたでしょう」
現れたのは背の高い女性だ。黒衣にエプロンをつけている。女中だろうか。
ユーニスが「魔女だわ」と囁いたのが聞こえ、頭に手を被せて失言をとがめた。
「こんな遅くに、お客さん?」
女性の背中越しに顔を覗かせたのは、ユーニスと同じくらいの年頃の少女だ。
途端にユーニスが警戒心を捨て彼女に興味を示す。
「町へ行く途中だったの。でも森で迷ってしまって。だからお願い、一晩泊めてくださらない?
あと、お腹も空いてるの!」
身を乗り出して訴えると、屋敷の中から歩み出て、少女が笑った。
「歓迎するよ。ぼくはルクレイ」
「ありがとう、ルクレイ! わたしはユーニス。彼はグリヴよ。お世話になるわ!」
「わっ」
ユーニスはルクレイに抱きついて感謝を示す。
照れくさそうに笑って、ルクレイは僕らを中へ招いた。
◆
わたしはお湯に浸かるのが好き。
シャワーだけなんてイヤ。できればゆっくり、時間をかけて味わいたい。
身体を温めて、心をほぐすの。だから、このお屋敷のバスルームは最高だった。
「気持ち良い~~っ」
体中を伸ばし、全身の力を抜く。
それから足を折りたたんで、遅れて入ってきたルクレイにスペースを譲った。
ルクレイを迎え入れたバスタブが、そのぶんだけ湯を溢れさせる。
膝を突き合わせて、互いに姿勢を探る。
落ち着く格好になると、同じように「ふう」と息を吐いた。
思わず笑うと彼女も笑う。くすくす、くすくす、声が響く。
「いつもこんなふうにお湯に浸かるの? いいわね」
「シャワーだけの日もあるよ。でも、今日は寒いから」
「そうね……泊めてもらえてよかった」
もうお腹もいっぱい。
足はまだくたびれているけど、一晩も寝たらきっと平気になる。
「ありがとう、ルクレイ。助かったわ」
「ううん。ぼくも、お客さんは嬉しいよ」
「よかった。親切な人が住んでいて」
ルクレイとは入浴の順番を譲り合いに譲り合った結果、こうして一緒に入ることで決着をつけた。
その成り行きに、グリヴはとっても驚いた顔をして慌てたけれど、彼はきっとルクレイのことを男の子だと思ったに違いない。
ルクレイは膝に頬を乗せて、心地良さそうに目を閉じている。
膝の下に、靴下留めの跡が淡く残っていた。
「ほかに誰も住んでいないの? お父さんとお母さんは?」
「ここには、ほかに誰もいない。ぼくとメルグスだけ」
メルグスというのが魔女――ではなく、メイドさんの名前だ。
「そうなのね……」
つい同情的になってしまったが、ルクレイからは悲しみや寂しさが窺えない。
それが当たり前のことだと感じている様子だ。きっと、わたしと一緒なんだ。
わたしにもグリヴだけ。ずっと、それが当たり前だった。
「でも、素敵なお屋敷ね。ずっとここで暮らしているの?」
「うん」
「ルクレイは、何かを忘れてしまわない?
噂を聞いたのよ。この森で、ひとは記憶を失うんですって」
ルクレイは噂を否定もせず、肯定もしない。
この森で、人は一つ記憶を失う。
ルクレイにとって、その噂の感触は、良いものだったか、悪いものだったか。
少女は考え込み、それから首をかしげた。
「わからない。何かを忘れたことって、どうやったら気付けるかな」
言われてみればその通りだ。
「この森へ来たのは、忘れたいことがあるから?」
今度はルクレイが尋ねた。わたしはすぐに首を横に振る。
「わたし、やっと12歳になったの。忘れられるほどたくさん思い出を持ってないのよ」
「じゃあ、どこかへお出かけ?」
「わたしたち、これまで暮らしていた場所とは別の町で暮らすの。
だからお出かけじゃないのよ、前の町へは二度と戻らないから」
「へえ……」
興味があるのか、それとも上手く想像できないのか、ルクレイの返事はぼうっとしている。
なんだか変な子。そう思って眺めていると、ふいに手が伸びてわたしの髪を触れる――寸前、
「あ――触ってもいい?」
おずおずと尋ねた。
「いいわよ。どうぞ」
まっすぐの、さらさらの、わたしの自慢の金の髪。
宝石を通してネックレスをつくるための糸みたいにキラキラしている。
その毛束をそっと手のひらに乗せて、ルクレイは息をついた。
「きれい……」
こういう時、あんまり自信たっぷりでいても嫌われてしまう。
女の子は面倒臭い性格をしているから。羨ましがられたら謙遜しなければならない、というルールがある。でもわたしはそんなルールが嫌いだから、誇らしげな声で「ありがとう」と答えた。
だって、彼女が何かをきれいだと思う気持ちを、わたしの「そんなことないわ」という言葉で否定するなんて、間違っている。
「ピカピカしてる……。きれいだ」
水面に揺らして、指を通して、ルクレイはわたしの髪を眺め回す。
あんまり執着する様子がおかしくて笑ってしまった。
それでも少女は気にも留めずに『きれいなもの』を見つめている。
「ルクレイも、ふしぎな色ね。素敵」
俯いた彼女の髪が水面に浸かっている。
後ろと前でちぐはぐな長さをした、淡い色の髪だ。
指で触れると、照明を反射したそれが曖昧な色をみせる。
「プラチナブロンド? アッシュグレーかしら。きれいよ」
わたしも本心からそう伝える。
「え?」
夢中で聞こえなかったのか、ルクレイは顔を上げて首を傾げた。
青い瞳に金の色が映りこんでいる。
「だから。きれいよ、あなたも」
「えっ。きっ――きれい? ぼくが?」
少女がのけぞって、髪についた雫がはじける。ぱしゃんと水音が立って水面が波打った。
それから、ルクレイの身体はバスタブの内側をずるずると滑ってお湯に沈んでいく。
「あははっ、照れすぎよ」
鼻先まで湯に浸かった彼女の頬は、リンゴみたいに赤かった。
◆
――この森で、人は一つ記憶を失う。
窓の外を眺めると、どうしてもその噂を意識した。
夜は濃紺色のビロードで、月は縫い付けられた真珠の粒。
森はかすかな光を浴びて風にざわめいている。
「グリヴ? どうしたの。まだ寝ないの?」
先にベッドに入ったユーニスが僅かに頭を起こした。
「いや。もう寝るよ」
「そうして。明日また沢山歩くんでしょう?」
問いかけの末尾をあくびに歪ませ、少女は毛布にもぐりなおす。
「おやすみなさい、グリヴ」
「おやすみ、ユーニス」
「キスして?」
「だめだ」
「じゃあ、ハグ」
「わかった」
ベッドにもぐりこみ、小さな温かい身体を抱きしめる。
「ん~っ!」と嬉しそうな声を漏らして、ユーニスが僕を抱きしめ返した。
細い腕を懸命に伸ばして背中を捕まえる。離さない、というように。
そうして、じきに眠りに就いた。
意地っ張りで強がりの彼女は、今日一日で弱音を何度飲み込んだのだろう。
疲労の浮かぶ寝顔を眺めて、その頬を撫でる。薬指の指輪が月光を受けて一瞬鈍く光った。
「おやすみ」
囁き、額にキスをする。
胸を満たす幸福な感情と同時に、頭の奥を冷たい針が貫く感覚があった。
少女の身体を遠ざけ背を向ける。
硬く目を閉じて、すべての感情を閉ざすように努めた。
幸いにも極限まで疲労した肉体は、僕をすぐ眠りへ誘ってくれた。
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