道しるべ〈5〉
――僕だって誰かのことを忘れているのではないか。
もしかしたらほかにも家族がいたのに、忘れてしまったということはないか。
家族だけじゃない。友人だってそうだ。
今までに出会った人、触れたもの。
何か大事なことを忘れたまま生きているのではないか。
森を訪れるきっかけになった記憶の欠落感は、今もまだ胸の中にある。あれほど取り戻したかったものを、いざその段階になって、不安に思う。
僕は、何を忘れているのだろう。
何を思い出そうとしているのだろう。
その記憶は、僕を傷つけるだろうか。
「どうぞ」
解錠した扉を開き、ルクレイは僕を中へ招いた。
昨日も訪れた鳥篭の部屋だ。
新入りの鳥篭を真っ先に見つける。
中で眠る鳥は、新入りとは思えない馴染みようだ。
とても安心しているように見える。
ここに外敵がいないことを知ってて訪れたような様子だ。
「この中の――どれかの鳥が、僕の記憶?」
「うん。そうだよ」
ルクレイは大真面目にうなずく。
とても信じられない話だ。
でも、僕は確かにこの目で見た。
昨日の光景が脳裏に甦る。
ここは町じゃない。森では不思議なことが起こる。
僕は昨晩、それを知ってしまった。
「僕の、鳥……」
部屋を見渡し、何か、兆しを探す。
こんなに沢山の鳥の中から、どれが自分のものなのか、見つけられる自信がない。
間違ったものを誤って手に入れるのは嫌だ。
慎重に、ひとつひとつ、鳥篭を眺め部屋を歩く。
『――その子、星鴉だ』
囁かれた気がして振り返る。
が、ルクレイは窓の外を眺めてこちらを見てはいなかった。
耳の奥で反響したのは、昨日聞いたルクレイの言葉だ。
昨日の出来事が、なぜか妙に懐かしい。
もっと以前に経験したように錯覚する。
……違う。
錯覚じゃなくて、もっと以前に経験したのか、僕は。
星鴉。
あの鳥篭はどこだっけ。
急ぐ足が篭を蹴飛ばさないように足元を見ると、天井から吊るされた篭に頭をぶつけた。
「あいたっ」
「ネイン。大丈夫?」
「うん。……ごめん」
篭の中へ謝ると、小さなインコがそっぽを向いた。
その向こう。格子越しに姿が見えた。
黒い身体に、白い斑点。
羽の模様が夜の星みたいだから、星鴉。
待ち構えるように、僕のほうを見上げている。
鳥篭を床から抱え上げ、視線の高さを合わせ、鳥を見つめた。
星鴉も興味深そうに、親しみを持って僕を見つめ返してくる。
「これが、僕の鳥」
ルクレイは否定をしない。でも、肯定もしない。
「僕の鳥だ」
きっと、間違っていたら彼女はそう言ってくれるはずだ。
振り返ると、正しい選択を褒めるように、少女が微笑んでいた。
鳥篭には錠が施されていた。
ルクレイが鍵を持っているのだろう。
「教えて欲しい。この記憶は……僕にとって、いいもの?
それとも、悪いもの?」
あらかじめたずねるのは、もしかしたらずるいことかもしれない。
でも、知っておきたかった。
「思い出してから後悔したくない。
後悔するくらいなら、忘れたままでいたい」
これは、許されない願いだろうか。
ルクレイは目を閉じる。考え込むような沈黙が続く。
以前の僕が少女にこの記憶を預けたという。
ならば、それは、僕にとっては目を逸らしたい事実なのではないか。
このまま彼女に預かってもらうことはできないのだろうか。甘えた考えを抱く。
でも、それが叶わない予感に頭がぴりぴりと痺れていく。
「それが、いいことでも、悪いことでも、きみはもう大丈夫」
まばたきをして、少女は僕を見上げた。
その顔に笑みが広がっていく。
「鳥は、巣へ戻る準備ができている。
きみは受け入れる準備ができているんだ」
「準備が……」
「うん。もうぼくが預かっていなくても平気。
……だったら、帰してあげなくちゃ。欠けたままじゃいけないよね。
小さな穴でも、綻びは広がって、やがて全部が崩れ落ちてしまうかもしれない。
ネインもそうなってしまったら、いやだ」
大事なものを失ったら、きっと、僕は僕のままではいられなくなる。
そうなってしまう前に、一度は手放した過去を受け入れなければならない。
「忘れたままで平気な人もいる。そのほうが都合のいい人もいる。
でもネインはそうじゃないでしょう。ずっと捜していた。だから」
少女は俯いて、足元の篭を蹴飛ばさないように歩いてくる。
慣れたもので、ぶら下がる鳥篭に頭をぶつけるようなことはない。
「ごめんね」
囁きが間近で聞こえた。
ポケットから引き抜いた彼女の手の中に、小さな鍵がひとつ。
ルクレイは僕と握手をするように、そっと鍵を握らせる。
「……隣の部屋にいるから」
言い残して、僕を置いて行った。
思わぬ記憶を取り戻し動揺する姿は誰にも見られたくない。
だから、彼女の気遣いをありがたく思う。
少女の気配が遠ざかるのを待って、鳥篭に向き直った。
「お前さ。……僕の鳥なんだってな。
ずっと探していたのに、まさか寝泊まりしている家の中に居たなんて」
どこかで聞いたような話だった。
幼い頃に読んだ絵本が懐かしい。
でも、あの絵本に描かれていた鳥と、この腕の中にいる鳥は少しも似ていない。
「お前は何を知っているんだろうな」
床に腰を下ろして足を組む。鳥篭を床に置いた。
鳥篭を足で囲うような格好になって、錠を外す。
蓋に手をかけて、改めて鳥を見つめた。
黒い身体に、まだらに散った白い模様。
黒板に描いたらくがきの星みたいだ。
鳥は僕を興味深そうに見上げている。
「僕は、何を忘れたんだろう」
その答えは、じきに分かる。
直前になって、やっぱり怖かった。
自分に不都合な事実を思い出すのは、怖い。
でも、それを知らぬまま、ある日突然その事実と直面するほうが、もっと怖いのではないか。
僕が忘れているのは……母親に関することだろうか。
妹に関することだろうか。
あるいは別の何かなのか。
今ようやくうまくいっている家族のバランスを壊す問題でなければいいのだが。
でも、それでも。
『大丈夫』と、あの子が言った。
なら、きっと、悪いようにはならない。
僕は蓋に重ねた手に力を込めて、鳥篭を開けた。
待ち構えていたように、鳥が羽ばたいた。
――熱い。
そう感じた。
鳥が僕に触れた、その温度が、身体中に広がっていく。
ふと、気づけば、部屋の中に星鴉の姿はなかった。
僕は、何を思い出したのだろう?
少しずつ確認する。
二つの絵を見比べて間違い探しをするように、記憶の中の光景と今の状況を比べた。
あのときもこうやって、僕は座り込んでいた。
そして、少女が手を差し伸べてくれたのだ。
忘れていた。
僕は一度、彼女に救われたのだ。
不都合な記憶を手放すように促されて、逃げ道を示されて、楽になった。
ああ、なんだ。
僕は、こんなことに怯えていたなんて。
はじめて森へ来たあの日、僕は、何かを不当に奪われた憤りにかられていた。
大事なものを、森に奪われた。そう思い込んでいた。
何かが足りていないような焦りに突き動かされていた。
でも――
僕は最初から何も持っていなかった。
元から、大事にするようなものを何一つ得ていない。
なるほどな、と自分のことをおかしく思った。
僕は、空っぽの宝箱を失くしただけなのに、宝物を失くしたと騒いでいたのだ。
宝箱が空っぽだったことを忘れて、素晴らしい宝物を奪われた気になっていた。
その宝物さえあれば足りないものを補えると思い込んでいた僕は、ここで宝箱が空っぽだったことに気づいて酷く落ち込んだ。
蓋を開ければ、つまりはそういう話だった。
緊張の糸が途切れ、身体から力が抜けていく。
確かに少し前の僕ならば、その宝箱は価値のあるものでいっぱいなはずだと期待してしまったかもしれない。
でも、もうあれからどれだけ経っただろう。
あの頃より、少しは成長したと思う。
箱の中に悪いものが入ってなくてよかった、と前向きに考えられるくらいには。
「はは。なんだ――」
つい、堪えきれずに笑った。
身も心も軽くなった気がした。
薄く開いたドアの隙間から、少女がこちらを窺い見ている。
「ネイン? ……思い出したの?」
今の僕は、多分間抜けな顔をしているだろうな。
「うん。思い出した」
ドアの向こうで、ルクレイは怯えた顔をしている。
僕に嫌われたんじゃないかと不安になっている。
「ネイン。ごめんなさい。きみの鳥……、
鳥篭に鍵をかけていた。出て行けないように。
きみとまた会えるのが嬉しくて、それが一度だけじゃないのがもっと嬉しくて……
でも、きみに隠し事を続けていたら、段々怖い気持ちのほうが大きくなっていった」
「ルクレイ。いいよ。
嬉しいって思ってくれたなら、それは僕にも嬉しいことだ。
きみは鳥を守っていた。僕がまた不用意に思い出さないように」
そうだ。
僕は、この森で記憶を取り戻し、その経験をまた忘却した。
ルクレイから鍵を盗み、鳥篭の部屋へ侵入した経緯も。
あのとき慰められた気持ちだけが、ずっと心に残っていた。
「前にもそうやって、ルクレイが部屋に入ってきた。
僕はここに座り込んでいて、きみを見上げた。
手を差し伸べてもらえて嬉しかった。
だって僕は、転んだとき、そうしてほしいときに、誰にも助け起こしてもらえない子供だったから。でも、きみは手を貸してくれた」
『いいよ、ネイン』
彼女はそう囁いて、手を伸ばしてくれた。
『きみの鳥はぼくが預かっておく。
それできみが前に進めるなら――足を止めてしまうよりは、いいよ』
あのとき、その手を支えに僕は立ち上がることができた。
そうか、願いは叶っていたのか。
それこそが、僕の宝箱を満たすものだ。
「思い出せて、良かった」
「うん。……ほら、ネイン」
ほっとしたような笑みをこぼして、少女が手を伸ばす。
お互いの思い出を確かめるように。
だから、僕はその手を取って立ち上がった。
◆
いつしか、強い風は止んでいた。
あと少し雲が流れたら、空が晴れる。
まだ陽射しの淡い空の下、町へ向かって歩んでいる。
「ここまでだ、ネイン」
ふと、繋いだ手がほどけた。
振り返ったそこにルクレイの微笑みがある。
「見送りは、ここまで」
このまま進めば町へ出る。
見覚えのある道に安心感を抱いた。
「もう一度だけ、たずねる。町へ行かない?」
僕が怯えて遠ざけていたものは、今の僕にとっては大した脅威ではなかった。
嫌がって遠ざけるうちに、想像力がそれを恐ろしいものにしていただけで。
ルクレイも、もしかしたら、そうなのではないか。
彼女の家族は拒絶しないかもしれない。
再会をきっかけに、すべてを思い出すかもしれない。
「会えば解決することも、あるかもしれないよ」
つい先刻の自分の体験を根拠に、僕は彼女へ提案する。
待っても、ルクレイは首を縦には振らなかった。
彼女だって考えたことがあるだろう。
森で過ごす時間を、彼女ひとりで、繰り返し様々な可能性を検討したのだろう。
その上でルクレイは選んでいる。
「ぼくはここにいる。待っていたいから」
その答えを意外には思わない。
充分に予想できたことだ。
「次にいつお客さんが来るか分からない。
それに、いつぼくの鳥に出会えるか分からない。
今から町へ行って、そのあいだにすれ違ってしまうかも。
……ごめんね、ネイン。ぼくは森にいる」
森を背にして、少女が立っている。
その姿はとてもよく景色に馴染んでいて、彼女自身もこの森の一部であるかのようだった。
それでいい。
町にいる少女の姿は、散々想像したけれど、やっぱりどこか嘘っぽい。
ルクレイは片手に提げた鳥篭を抱えた。
空っぽの鳥篭に視線を落とす。
そこに、まだ見ぬ鳥の姿を思い描くように。
「最近、よく考える。ぼく、ずっと思い出したいことがある。
でも、それが何か分からない。でもきっと必要なもの。
……ネインもこんな気分だったのかな」
「うん。再会が叶うように、僕も願っている。
きみが大事なことを思い出せるように」
告げると、少女の顔から不安そうな色が消えた。
素直な気持ちの動きが傍目に見ていて分かるから、僕の言葉を嬉しく思ってくれたことに、僕も嬉しくなってしまう。
彼女は僕を引き止めないだろう。
約束をせがむこともない。
いつだって、送り出すときの彼女の言葉は、温かく背中を押していた。
「ありがとう、ネイン。元気で」
「ルクレイ、きみも」
「うん。さよなら」
別れの挨拶に胸が詰まり、言葉を続けられなかった。
『また来る』
その一言を飲み込んで、手を振る少女に背を向ける。
まだ湿った道を踏みしめて、森を歩いていく。
ふと見上げると、町へ向かう道を、雲の切れ間から差し込む陽光が示していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます