道しるべ〈4〉

 噂をはじめて聞いたのはいつだっただろう。

 どこで耳にしたのだろう。


 その森で、人は一つ記憶を失う。


『森は人の思い出を食べてしまう。だから、近づいてはだめだよ』


 そう僕に忠告してくれたのは兄か、父だったか。


 母が病に伏した、あの頃。

 妹が死んだ。

 まだ一歳になったばかりの、よく笑う女の子だった。

 何の前触れもなく、ある朝、彼女は冷たくなっていた。

 家族が思い描いていた未来予想図が覆され、皆悲しんだ。


 両親、兄、そして僕。

 四人家族でいた時間のほうが長かったから、元の生活にはすぐに慣れた。

 妹がいたときこそ、なにか夢でも見ていたような、不思議なぎこちなさがあったように思う。


 葬儀を終えて落ち着きを取り戻した頃、出かけた母が夜になっても帰らなかった。

 思いつめて何を考えるか分からない母を、皆で慌てて探し回った。


 彼女は森の近くで見つかった。

 倒れたというよりは、ちょっと昼寝をしているような格好で眠っていた。


 外傷も、衣類の汚れも見当たらなかった。

 散歩の途中で眠くなったので横になっていた、と本人は話している。

 家族をひとり喪ったことで精神的に不安定になり、薬も服用していたから、ありえない話ではない。


 なんにせよ無事に帰ってきた。

 家族がまた減らずに済んだ。

 僕たちは安堵して、母と一緒に家へ帰った。


 その日からだ。

 母は家じゅうを探し回って、「あの子がいない」と言って取り乱すようになった。


「あの子は、どこへ行ったの? お願い、探して」


 まだ歩けないのに、どこへ行ったの?

 まさか、攫われたんじゃないだろうか。

 それとも、誰か、どこかへ預けたの?

 繰り返し、母はそうたずねる。

 父がすべてを説明しても無駄だった。


「どうしてそんなひどいことを言うの? あなたはあの子が心配じゃないの?」


 父は母に一方的になじられ、黙って耐えた。

 黙っているしかなかった。

 母はあくまでも娘が生きている前提で話をした。

 一度は実際に警察も呼んで、ちょっとした騒ぎになってしまった。

 それを機に、母の状態が近所に知れ渡り、気の毒がられ、心配され、同情された。

 気味悪がられたこともある。


 母は、娘の死を忘れていた。



 以降、母はぼんやりと過ごすことが多くなった。

 そうして辻褄の合わない事柄からは目を逸らし、娘の実在を信じ続けた。

 母を医者に診せたが、心因性の健忘だと診断されて、それ以上の進展はない。

 薬の影響も疑ったが、薬を変えても、服用をやめても、効果はなかった。

 森のせいだ、と噂する人もいた。

 森で、娘の死に関する記憶を失ったのではないか、と――。

 お手上げになって、僕たちは嘘をつくことにした。


「あの子は病気になったから、遠くの病院に預けてきたんだ」


 一時は、母はその嘘を信じていた。

 しかし会いたがってすすり泣くのだ。

 ある日また急に姿を消して、帰ってきた母に事情を聞くと、妹を入院させた架空の病院を探しさまよい歩いていたという。

 母は疲れ果てて寝込んだ。

 それでも、ベッドから這いずり出て、町へ行こうとした。

 幼いわが子を探すために。


「あの子に会わせて。会いたいの。

 抱きしめたい。キスをしたい。私は、あの子の母親なのよ」


 床に伏して、泣く。

 震える白い首筋に骨が浮かぶ、やつれた母の姿が痛ましい。

 もう、どうしたらいいのか、僕たちには分からなかった。


 ――僕の幼少期から少年時代を占めるのは、病んだ母と、それに振り回される兄や父の姿だ。


 母は繰り返し傷ついた。

 幼いわが子と会えないことを悲しんだ。

 死の事実を説明するたび激しく否定した。

 そして、残酷な嘘をつく僕たちのことを憎んだ。

 毎日がそんな調子だから、家族はめちゃくちゃだ。


 家にいるのが嫌になって、でもどこにも行けなくて、子供部屋のベッドの下に隠れて過ごしたことがある。

 隠れるのは、誰かに見つけて欲しい気持ちの裏返しだった。

 父も兄も忙しくて、僕を構っちゃくれない。

 彼らは母を治すための手段を求めて、慌しく方々を駆け回っている。

 ひとりだけ役立たずの僕は、一日じゅう、母が娘の名を呼ぶ声や彼女の姿を捜し歩く足音を聞いて過ごした。

 期待をしていたわけではないが、子供部屋に母がやってきたことがある。

 何かを探すような足取りで、彼女が部屋にきた瞬間から、僕の心臓は痛いくらいに鼓動を打った。

 ベッドの前で彼女は足を止め、膝をつき、長い髪を床に垂らしてこちらを覗き見る。その顔に、些細ないたずらをたしなめるような笑みを浮かべていた。

 喜びが胸いっぱいに弾けて、叫び出しそうだった。

 母が僕を探してくれた。

 僕は、見つけてもらえた。そう思った。


「なにをしているの」


 母の声には徒労感が滲んでいた。

 一瞬だけ明るくなったその表情が、たちまち落胆にくすんでいく。

 多分、僕も全く同じ顔をしたと思う。


 分かっていたはずだった。

 母が見つけ出したいのは僕じゃない。

 母が捜し求めていたのは、僕じゃないんだ。


「そんなところで遊んでないで、外へ行って遊んでいらっしゃい。

 それで……あの子を見かけたら、連れて帰ってきてね」


「はい、お母さん」


 母の足がカーペットを踏みつけ遠ざかっていくのを見送る。

 じんわりと、滲む涙の膜が視界を濁らせていく。

 そこで、そのとき、僕は理解した。

 冷たくて窮屈で、光も遠く、誰もいない。

 誰の声も届かず、誰にも声が届かない。

 僕が生きているのは、そういう世界なのだ。



 ようやく母が妹を探さなくなったのは、僕が誕生日を祝われなくてもがっかりしなくなった頃だ。

 僕が転んでも誰も助け起こしてはくれないと理解した頃。

 僕たちのよく知る母が帰ってきた。

 しかし彼女は妹の死を受け入れ乗り越えたわけではない。

 妹に関する一切の記憶を忘れて、そんな子は元々存在しなかったかのように振る舞い、まるで関心を払わなくなった。

 それは、負担のかかりすぎた心を守る為の忘却だったのかもしれない。

 あるいは、森が彼女の記憶を奪ったのかもしれない。

 どんな理由にせよ、この機を逃すわけにはいかなかった。

 僕たちは、母の周囲から妹の痕跡を消した。

 近所の皆にも相談して、母に関わる医者にも事情を話し、僕たちは、町ぐるみで母を騙し続けている。


 ――今も、まだ。



     ◆


 風が強い。

 木々は強風に煽られ傾き、抗うように揺れている。

 昨夜は満月だったのに、眠っているあいだに天気が崩れたらしい。

 朝、目が覚めてからすぐにここへきた。

 ソファに座り、天蓋を見上げている。

 隣にはルクレイがいた。彼女も目覚めてすぐに来たらしい。

 朝食をサンルームに運び込み、食後のお茶をゆっくり味わって、長話を聞かせていた。

 甲高い風の音が聞こえるたびに、落ち着かない気持ちになった。

 まるであの家で過ごしているみたいだ。


 いつも、ここにいると、幕間に息をついているような気分になった。

 いまだ終わらない《幸せな家族》という演目を、僕たちは演じ続けている。

 ここにいるあいだ、僕は役割を忘れて、やっと自分を取り戻す。

 だから、この場所が心地いいんだ。


 傍らの少女の横顔を見る。

 ルクレイは、僕の話を黙って聞いていた。


「この話を人に打ち明けるのははじめてだ。

 町では、僕は絶対に『妹がいた』なんて言ってはいけないことになっているから。

 妹についての言葉を飲み込むたびに、重たい罪悪感が募った。

 いっそ、僕も彼女のことを忘れたい。そう思ったことも一度じゃない。

 家族全員で忘れてしまえばいいと――」


「でも、ネインは、妹のことを忘れていない」


「……そうだね」


 こちらを見上げる少女を見て、ふと思う。

 あれから何年経っただろう。

 妹が生きていたら、ちょうどルクレイくらいの年頃だ。


「妹の存在は、家の中でも徹底して隠されている。

 もしかしたら、父も、兄も、とっくに忘れてしまっているのかもしれない」


 母は死んだ妹のことを忘れた。

 最初からいなかったことにした。

 僕も死んだら最初からいなかったことにされるのだろうか。

 誰も彼もに忘れ去られて。

 僕の消滅は、誰の人生にも影響しない。きっと。


「今日は変だ。森ではいつも、町のことをすっかり忘れて過ごせたのに。

 今日は、朝から家族のことばかり考えてしまう。

 ごめん、気持ちの良くない話を聞かせてしまった」


「ううん。いい。人の話を聞くのは好きだよ」


「それならいいけど……」


 話し疲れて、息をつく。

 しばらく、どちらも何も喋らずにいた。

 会話が続かないことも彼女となら気詰まりではない。

 本当なら、何も話さずに過ごしていたっていいくらいだ。

 なのに今朝に限って、なぜこんなに饒舌になってしまったのか。

 まるで不安をかき消すように喋り続けていた。

 見下ろす少女の横顔が妙に胸を騒がせる。

 昨夜の光景が甦った。

 黒衣の女性。

 ばらばらに崩れて、破片は鳥に姿を変えて飛び去った。

 奇妙な光景だった。

 まるで、森に置き去りにされた記憶たちが木々の合間で息を潜めているようだった。

 あれは夢だったのだろうか。

 森の闇の不確かな景色の中に、ありもしない幻覚を見たのだろうか。


「ネイン?」


 呼びかける声に、気づく。

 少女の頬に触れていた。

 その温度を確かめ、実在を信じるために、手のひらが頬を包む。

 肌は滑らかできめ細かく、温かい。

 吐息が僕の手首にかかった。

 生きている。彼女は、ここにいる。

 僕の行動の意図が分からず、少女は目を丸くしてこちらを見上げていた。

 それから、ふと、その目が伏せられる。

 そっと、手を離す。少女の温もりが名残惜しい。


「ルクレイ」


 呼びかけると、小さくうなずいた。


「昨日のこと。驚いたでしょう」


 言葉に詰まり、咄嗟に答えられなかった。

 確認しなければ、夢だと思い込むこともできたのに。


「昨日は――」


 とぼけて、知らぬふりをして、忘れてしまったように振る舞えば、逃れられる。

 でも、ルクレイに嘘をつくのはいやだと思った。


「驚いた。沢山の、鳥が……それに……」


 人の姿が崩れて、鳥に変わり、消えていった。

 なんと言い表せばいいのか分からない。

 ざわざわと胸の内に広がるのは、以前にも抱いていた森への恐怖心だ。


「あれは何?」


 ルクレイは、力なく首を横に振った。

 答えられないのは、彼女自身も知らないからか。

 それとも、答えられない理由があるのか。


「あれは、きっと、一番大事なものを失った人」


 一番大事なもの。

 一番大事な記憶。

 それを失ったら、人はどうなってしまうのだろう。

 思い浮かぶのは母のことだ。

 彼女は今では落ち着いて、まともに日々を過ごせるようになった。

 けれど、あれは、本当に僕が知る母なのだろうか。

 僕が探している記憶を、このまま取り戻すことができなかったら。

 それが、もしも一番大事なものだとしたら――。

 僕は、どうなってしまうのだろう。


「ネインは、森が怖い?」


 見抜いたように、問いかける。

 僕はもう正直な気持ちを自覚していた。

 森を好きになれない。はじめて訪れたときから、気持ちは変わっていなかった。

 ルクレイがいたから、屋敷へ足を運んだ。

 気に入ったのはこの屋敷で過ごす時間だ。

 もし彼女が町に住んでいたら、この屋敷がせめて町外れに建っているのならば――こうして彼女と共に過ごす時間を、もっと好きになっていたと思う。

 町を案内したかった。ルクレイが町を気に入って、町で暮らしてくれればいいのにと思った。森で会わずに済めばいいのに、と僕は身勝手に願っていた。

 彼女は黙って僕の返事を待っている。

 長い沈黙のあとで、息をついた。


「怖いよ。……ごめん」


 この答えが彼女をがっかりさせると分かった。

 でも、嘘で答えたくはなかった。


「ううん。最初から、ネインはそうだった。

 でもね、『また来る』って言ってくれて、嬉しかった。

 ――本当にまた来てくれたときは、嬉しすぎて、頭が弾けちゃうかと思ったよ。

 あんなに嬉しい出来事、夢にも見たことない」


 一度目の訪問は、雨の日。

 二度目の訪問は、晴れた日の夕暮れ。

 あのとき、少女は落ち着いた様子で僕を出迎えてくれた。

 あまりに平然としていたから、初対面だと思われているのではと訝ったほどだ。

 あるいは、この再訪を予知していたのではないか、と思った。


「そんなに喜んでくれていたなんて、知らなかった」


「嬉しかったよ。

『また来る』っていう約束を果たしてくれる人は、いなかったから」


「それは、意外だな」


 なぜだろう。

 その理由を想像する前に、少女が答えた。


「もう一度会えたとしても、以前森へきたことを忘れている人ばかりだった。

 記憶を忘れて、忘れたことも忘れて、思い出すために、それか別の何かを忘れるために、また訪れる。だから、ぼくはその人たちに二度目の『はじめまして』を言うんだ。――ネインも、そうなるかと思った」


 ルクレイの横顔を見る。

 過去を振り返る瞳に、揺れる森が映っている。


「その一回だけでも嬉しかったのに、ネインは何度もきてくれた。ありがとう」


「お礼を言われるようなことじゃないよ。僕だって、ここへ来たかったんだ。

 探し物のためだけじゃなくて、ここで過ごす時間を気に入っていたから。

 そのうち目的が逆転していた」


 不安そうな顔がこちらを見上げる。


「本当だよ。探し物について、実はあんまり執着してない。

 忘れてしまったなら、忘れたままでいいかもしれない。そういうことだってある」


 母がそうだったように、忘却で救われることもあるだろう。

 それを丸ごと『忘れてよかった』と言い切るのは難しい。

 でも『忘れてよかったのかもしれない』と納得することはできる。


「うん。……ごめんね」


 どうしてルクレイが謝るのか、理由が分からない。


「ぼくは気づいていないふりをした。手放すのが惜しくなった。

 ネイン、きみの鳥はここにいる。

 きみの探し物は、ぼくが預かっている」


 それは、思いがけない言葉だった。


「ここに、ある?」


 僕の探し物が――何か、失った記憶がここにある。

 彼女は、誰からそれを預かったというのか。

 僕がそうしたのか。いつ? 分からない。

 この森で、もうひとつ、僕は記憶を失った?

 何を忘れているのか分からない。

 自分の知らない行動をとった自分がいる。

 分からないから、何か取り返しのつかないことをしてはいないかと不安になる。


「ネインは、探し物のために森へくるでしょう。

 だから、探し物が見つかってしまえばここへくる理由はなくなる。

 でも、そのほうがいいかもしれない」


 一瞬、頭に血が上って、でも、少女の顔を見たらすぐに冷めた。

 僕だって彼女に自分勝手な望みを抱いたように、彼女も望んでいた。


「来て。きみの鳥に会わせるよ」


 葛藤を隠して少女は微笑んだ。

 いつもの調子を取り戻して、僕に手を差しのべる。

 その手を握って、僕も立ち上がる。

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