道しるべ〈3〉


 緑色のドアを施錠して、ルクレイはそのまま部屋へ、僕は階段を下りて客室へ戻る。ベッドに潜って目を閉じてみても、まだ眠気は訪れない。


『ここで、ぼくも忘れた』


 囁く少女の横顔が目に焼きついている。

 ルクレイは、森にくる以前の記憶を持たない。

 森で過ごした年月はどれほどのものか。

 彼女の掴みどころのない雰囲気の理由が分かったような気がした。

 過去を失ったままでいるのはどれほど頼りない気持ちだろうか。


 考えてしまうと余計に眠れない。

 はじめて森を訪れた日を思い出す。

 あのとき、ルクレイこそが人から記憶を奪っていると思い、僕は怯えた。

『記憶を失う』なんていう訳の分からない異常事態の原因を手っ取り早く決めつけて、責めたかったのだ。

 今思えば、まったく的外れの八つ当たりだった。

 僕の不用意な発言は、彼女を傷つけたかもしれない。

 不快な気持ちを抱かせたかもしれない。

 それでも、訪れを歓迎してくれるのは、なぜだったのか。


 僕は彼女の暮らしを羨んでいた。

 煩雑な社会から隔絶されて、不本意な人間関係を結ぶこともなく、自由に生きているように見えたから。

 僕からしてみれば、空を飛ぶ鳥も同然だ。

 実際には、彼女の周囲にも、それは存在する。

 それは透明な鳥篭だ。

 躊躇いや怯えが、彼女をこの森に留めている。


 ――ふいに、聞こえた。


 足音だ。


 階段を、慎重に下りてくる。

 古い床板を軋ませないように気を配って歩いている。

 彼女もまだ眠れないのだろうか。

 また、鳥を見つけたのだろうか。

 足音は廊下を横切った。

 玄関で扉が開く音がする。

 窓の外を見ると、まだ朝の気配は遠い。


 どこへ行くのだろう。こんな夜中に。

 鳥を迎えに行くのだろうか。


 心配と、ほんの少しの好奇心が、僕の身体を動かした。

 上着を羽織ってストールを抱える。

 このストールを、ルクレイへ届けに行こう。

 理由を作って、僕も屋敷を出て行く。


     ◆


 吐く息が微かに白い。

 満月が明るいと思ったのに、木々の真下にいると、枝葉に遮られて光は届かない。

 ルクレイの背中を必死に追いかけた。

 寝間着にブーツだけ履いた少女の姿は傍目にも寒々しい。


 一言呼び止めればいいのに、なぜかそれができなかった。

 声を出したら、たちまち森が消えてなくなって、僕は町で目覚めるのではないか。

 住み慣れた部屋のベッドの上で。

 そうして二度と森のことを、ルクレイのことを思い出せなくなる――。

 妄想に取り憑かれて、息を殺して歩いた。


 ルクレイはランタンを掲げ、鳥篭を提げて歩いている。

 そのかすかな光を頼りに進んだ。

 どこへ向かっているのだろう。

 少女の足は時折止まり、周囲を窺いながら、目指す場所へと進んでいく。

 森の中はどこも同じような景色で見分けるのは難しい。

 けれど、進む道に覚えがあった。


 もうすぐ。

 じきに、辿りつく。

 そこに巨大な樹が立っている。

 僕にとっては良い印象のない、失敗の記憶に結びついている巨樹だ。

 ルクレイはランタンを巨樹の根元に置いた。

 周辺がほのかに照らされ、樹皮の表面が艶めいて見える。

 僕は咄嗟に手近な樹の裏に身を隠した。

 ルクレイへ近づきすぎず、目視できるぎりぎりの距離から様子を窺う。

 一度隠れてしまっては、いまさら出て行くタイミングがつかめない。

 あとをつけてしまった気まずさと、膨れ上がる好奇心。


 彼女は夜の森で何をするのだろう。

 森の秘密の片鱗だけでも知ることができるかもしれない。

 この森で、人は一つ記憶を失う――その仕組みが明らかになる。

 そんな期待がこの身を熱くした。


「……いるの?」


 ルクレイの囁き声に、さらに心臓が弾む。

 ドキドキと、外に漏れ聞こえているのではないかというほど、鼓動が大きく跳ねている。

 とっくに気づかれていたのか。

 それなら、何食わぬ顔をして歩み出て、本来の目的を果たそうか。

 ストールを強く抱き締める。

 躊躇していた時間は十秒にも十分にも感じた。

 身体中に滲んだ汗が夜風に冷えて、身震いする。


 出て行こう。

 あとをつけたことを、謝ろう。


 そう決め足に力を入れた、そのとき。


「いるの? シュティ」


 少女は、誰かの名前を呼んだ。

 僕以外の誰かが、そばに居るのか。

 咄嗟に視線を巡らせるが、暗い木々のあいだを見通すことはできない。

 ルクレイも、同じように周辺を見渡している。


「……おいで」


 招く言葉。

 彼女には、目的の人物がどこにいるのか分かったのか。

 風が吹き、灯りが揺れる。

 気配を感じて、反射的に頭上を見た。

 満月の光を遮る枝葉の中――、


 樹の上に、鳥がいる。


 一羽見つけると、連鎖的に認識できた。


 二羽、三羽――

 十羽――

 あるいは、屋敷の鳥篭をすべて埋め尽くしても余るほどの数。


 皆、一様に息を潜め、こちらを見下ろしている。

 息をするのも忘れて圧倒された。

 これだけの数の鳥は、昼間はいなかったはずだ。

 巨樹のほうを窺うと、ルクレイも樹上を見ていた。


 鳥へ――鳥たちへ、呼びかける。


「……怖がらないで」


 灯りが震えた。

 急な風が木々を揺らしている――

 違う、鳥たちが一斉に羽ばたいて、風を起こしたのだ。


 にわかに周辺が暗くなる。

 羽ばたきの音が耳をふさぐ。

 灯りが遮られ、視界が闇に飲まれた。

 あるいは、僕自身が目を閉じたのかもしれない。


 やがて。

 気づけば、再びランタンの灯りが周囲を照らしていた。


 あれだけの鳥が姿を消して、木々の隙間からは満月の光がこぼれ落ちている。

 青白い空気の中、少女は巨樹の前に立ち尽くしている。

 そして、もうひとり。


 そこに女性が立っていた。


 ドレスを纏い、手袋を着け、ブーツを履いている。

 そのどれもが、塗りつぶしたように黒い。

 顔は影になってよく見えない。

 今までどこに居たのだろう。

 まるで、消えた鳥たちと引き換えにして姿を現したようだった。


 ルクレイは女性へ歩み寄る。

 一歩ずつ、慎重に距離を縮めていく。


「シュティ」


 躊躇いながら、手を伸ばした。

 触れようとして、しかしできずに腕を引く。

 意を決したように、もう一度。

 伸ばした手が女性へ届く、寸前、


 ――女性の身体が、揺らぎ、崩れた。


 内側から、影がこぼれるように、姿が綻んでいく。


「あぁっ……!」


 悲壮な声が響いた。

 ルクレイは崩壊した影をかき集めるように両腕を広げる。

 その拍子に、携えていた鳥篭が地面に転がった。

 彼女の手をかすめるのは鳥の翼だ。

 淡く青ざめた灰色の翼をもった鳥が――

 一瞬前まで人の姿を成していた数多の鳥が飛び去っていく。


 彼らの羽ばたきが森を揺らした。

 土や落ち葉を巻き上げて風が吹き抜ける。

 それを避け、咄嗟に顔を腕で庇う。


 風が止むと再び森に静寂が戻った。

 鳥たちはどこかへ去ってしまった。


 月明かりが差し込み、ランタンの灯りを淡く感じる。

 ルクレイはまだ森を見回し、鳥の姿を追い求めていた。

 やがて、疲れたように巨樹に背を預ける。

 ずるずると座りこみ、樹を見上げ、息をつく。

 頼りなげな弱々しい横顔に、落胆が滲んだ。


 僕は、見てはいけないものを見てしまったのではないか。

 このまま知らぬふりをして引き返し、何も見なかったことにして、町へ戻ればいい。また来るよ、と挨拶を交わして。


 でも――

 今この瞬間に思うのは、座り込む彼女の姿を見て願うのは、

 一刻も早くあの子をひとりぼっちじゃなくしてあげたい、ということだった。


 灯りのほうへ歩き出す。

 足音に気づき、ルクレイがこちらを見た。


「ネイン」


 意外そうに目を瞬かせ、力なく笑う。


「ごめん。出かけるのが分かったから、追いかけてきた」


 広げたストールを少女の肩へ重ね、隣に座った。


「ううん。心配してくれたんだよね。ありがとう」


 ルクレイはストールを手繰りよせ、寝間着の上から巻きつける。

 あれは誰だったのか。

 ――何だったのか。

 問いかける言葉に迷って、たずねられなかった。

 ルクレイも、何もたずねようとしない。

 僕が何を見たのか、見なかったか。

 少女の視線がまた頭上をさまよう。

 もう、周囲に鳥の気配はない。


「……屋敷へ帰ろう。身体が冷えちゃうね」


 少女は立ち上がり、巨樹を見上げた。

 手近な樹皮に軽く口づけ「おやすみ」と囁く。


「行こう。ネイン」


「ああ……うん」


 気づけばもう朝が近い。

 夜の気配は遠ざかり、月の光が淡く霞んでいる。

 僕は蝋燭の燃え尽きたランタンを持ち上げ、歩み出した。

 少女は転がり落ちた鳥篭を抱え上げ、土を払って、僕の後に続く。

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