道しるべ〈2〉
森の屋敷に滞在するとき、目が冴えて眠れない夜は、そこへ向かう。
屋敷に隣接して建つサンルームだ。
いつも、こんな眠れない夜に訪れると、ガラス越しに温かな蝋燭の明かりが見えて少女の存在を知らせているのだが、今夜はその光は見えない。
さすがの彼女も歩き疲れて、とっくに休んでいるのだろう。
ドアに鍵はかかっていなかった。
サンルームの中は月明かりに照らされていて、蝋燭がなくても様子が分かる。
空っぽのソファに身を預けて星を見た。
星は、今夜はとても淡く輝いている。
満月が明るいせいで目立たない。
静寂に包まれた穏やかな夜は、しかし微かに木々のざわめきが聞こえて、耳を傾けていると落ち着いた。
――この森で、人はひとつ記憶を失う。
はじめてきたとき、僕は腹を立てていた。
記憶を不当に奪われたという実感があった。
しかし森から町へ戻って過ごすと、森で過ごした時間を反芻している自分に気づいた。
もう一度、あの場所へ行きたい。あの屋敷で過ごしたい。
いつしかそう願い、再び足を運んでいた。
ひょっとして夢かと思った屋敷や少女の存在を再び確かめることができたときは、とても嬉しかった。
――ここまでの道のりに、いつも自信がない。
半ば迷いながら歩き続けて、疲れた頃に辿りつく。
この場所を、普段の生活の中で強く意識することはない。
けれど、ふいに、頭をよぎるのだ。
たとえばとても疲れた日に。
落ち込んだ気分で目覚めた朝に。
頼れるものもなく途方に暮れた夜に。
そんなときに、森へ行こうと思い立つ。
次はいつ来られるだろう。
滅多にない機会を快く過ごしたいのに、今日の失敗を悔やみ、胸がざわつく。
ふいに、視界の端に光を捉えた。
ガラスの向こう側で、ぼんやりと白く浮かび上がる影がある。
影はやがてドアをくぐり、その姿を現した。
ルクレイ。
彼女の携えた燭台の灯りが、サンルームを温かく照らす。
僕を見つけて、やっぱりここにいたんだね、と囁いて笑う。
「ネイン。きみも、眠れない?」
「今日のことが悔しくて。眠れなかった。ごめんね」
少女は、気にしなくていいのに、と笑ってくれる。
でも、気が済まなくて、気分は晴れなかった。
「お茶を淹れるよ。気分転換しよう」
「ありがとう。いただくよ」
言葉に甘えて、ソファで待つ。
見上げた天蓋に夜空が透けている。
ここはどこなんだろう。町はどこにあるんだろう。
位置関係が分からず、心許ない心地になる。
この屋敷は、この森は、本当に僕の暮らす世界の一部なのだろうか――
なんて、空想を抱く。
森にいるといつも思考が飛躍する。
現実離れした環境のせいかもしれない。普段の生活とあまりにも違うから。
「お待たせ」
寝間着にストールを羽織って、少女は戻ってきた。
携えたトレイの上にはティーセットが一式。
ポットの口からいかにも温かそうに湯気が昇っている。
「……森は退屈?」
お茶を淹れながら、少女はたずねた。
「いや。こういう時間を過ごすことは、町ではないことだから」
「ぼくも、こんな時間を気に入っている。町にはないの?」
「そうだなあ……難しいな。そういう時間を作るのは。
町じゃ、何もかもが忙しいから」
「だろうね。たくさんのものがあって、きっと時間がいくらあっても足りないね。
映画館へ行って、買い物をして。本屋さんを覗いて、喫茶店に寄って。
道端の猫を可愛がって……。鳥はいるかな」
「ハトやカラスが。ムクドリもたくさん」
「じゃあ、彼らともご挨拶をしなくちゃね。大忙しだ」
「そうかもしれない。……大忙しだ」
考えているうちに、ふと思う。
僕はどうしても町に行きたかったのだろうか、この少女と。
だとすれば、それはなぜだろう。
「……ここにいると、与えられてばかりだという気がするんだ。
新鮮なこと。驚くこと。楽しいこと。
だから、僕も何かお返しがしたかった」
やっと気づく。
僕も、彼女に何かを与えたかった。
新鮮なこと。驚くこと。楽しいこと。
ここにはないものを、見せたかった。
彼女が僕にそうしてくれたように。
「ありがとう、ネイン。
でもね、きみとこうして過ごすことが、ぼくには嬉しい時間なんだよ」
そうだ。分かっていた。
きっと、そうなのだろうと思っていた。
「そう言ってもらえると、元気が出るよ」
「うん。もう、気持ち切り替えよう」
彼女の提案に賛成を示して、ティーカップで乾杯をする。
熱いお茶を胃に入れる。
爽やかな香りが、気分を変えてくれたように思う。
いつかまた機会が訪れるだろうか。
ルクレイと、町へ行くことは叶うだろうか。
少女が町で目にしたものに驚き感激する、その姿が鮮やかに思い描ける一方で、それはまったくの空想でしかないようにも感じた。
虚構だからこそ容易に想像できるのだ。
町で過ごす少女の姿に、まるで現実味が持てなかった。
「……本当は、謝るのはぼくのほう」
囁く声が聞こえる。
「町へ辿りつけなかったのは、ぼくのせい」
「そんなこと――」
「ネインは森に詳しくないでしょう。
ぼくは毎朝歩いているから、分かるんだ。
きみの足取りが迷ったら、こっそり方向が変わるように、町から遠ざかるように、手を引いた」
僕は、彼女にさりげなく誘導されていたというのか。
そうして町に近づかないように、歩き続けていた。
「町へ行きたくなかったんだ。正直に言えばよかった。
誘われたとき、迷ったんだ。いいかもしれないって思った。
でも、やっぱり、町に近づくと怖くなった」
考えてみれば、こんな森の奥で暮らす彼女だ。
町から離れ、人から隠れて暮らす事情があるのかもしれない。
並んでソファに座るルクレイはこちらを見ずに、手のひらで包み抱えたカップの中へ視線を落としていた。
「ネインは、森が嫌い?」
「以前は、印象は良くなかった。でも今は違う。気に入っているよ」
少女が視線だけをこちらへ寄越し、ふと唇を緩ませる。
「ルクレイは、町が嫌い?」
今度は僕が問う番だ。
確かに僕が軽率だった。
この可能性を考えもせずに、気軽に誘ってしまったのだから。
「嫌いかどうか、分からない。町へ行ったことがないから」
「じゃあ、ずっと森で……? 生まれてから今まで?」
「憶えている限りでは、ずっと」
ふいに、ルクレイの視線がさまよう。
何かを探すように。
「きっと、ここで、ぼくも忘れた」
視線はやがて僕を捕らえて、少女はこちらへ向き直る。
「森にくる前の一切を憶えていない」
そう言って笑顔を見せたのは、心配も同情も無用だという意思表示なのかもしれない。
「……ずっと、ずーっと、長い夢を見ていたみたいだった。
ぼくは、気づくと、屋敷にひとりでいた」
ルクレイは燭台の灯りを見つめる。
その眼差しは遠く、過去を覗きこむ色をしていた。
*
――ベッドの中で目が覚めた。
肩まできちんと毛布がかかっていた。
まるで、ついさっき誰かに整えてもらったように。
ぼくには分からなかった。
昨日の朝も、ここでこうして目を覚ましたのか。
それとも、一昨日の夜は、ここではないどこかで眠りに就いたのだろうか。
……何も憶えていなかった。
誰も、屋敷にいない。
それが分かって声も出さなかった。
呼んだって誰も答えてくれないだろうから。
そのとき、ぼくは自分の名前だって忘れていたんだと思う。
思い出す必要がなかったんだ。
ベッドを降りて、裸足のまま、部屋を出た。
明るい日差しが窓を透かして、眩しくて、目を開けていられない。
おそるおそる歩み出すと、陽光で暖められた床が素足に心地よかった。
一階へ行って、がらんとしたキッチンを覗き込む。
鍋の中いっぱいにシチューが入っていた。
棚の上には、焼けばすぐ食べられるパンがいくつか。
食卓の上に花が飾ってある。
でも、花はもう枯れてしまっていた。
リビング。廊下。浴室。四つの部屋。
どこにも誰もいない。
それなのに、誰かの気配だけが残っている。
その気配を追うように、ぼくは屋敷を歩き回った。
廊下の突き当たりにドアがあって、サンルームに繋がっている。
きらきら降り注ぐ光が宝石みたいな場所だった。
サンルームで日向ぼっこをしていると、とてもいい気持ちで、ぼくはたちまち気に入ってしまった。
そこで気がすむまで過ごして、やっと自分の目覚めた部屋へ戻って、その途中で、立ち寄らなかった部屋に気がついた。
鳥篭の部屋だ。
鍵はドアに差しっぱなしだった。
ぼくはドアノブを掴む。
どきどきして、なぜかドアを開けるのが躊躇われた。
でも、向こうから、誰かに呼ばれたような気がして。
この部屋で、誰かに出会える気がして。
だからぼくはドアを開けた。
視界いっぱいに広がる光景に、息をするのも忘れた。
鳥と、鳥篭。
きみも知ってるとおりの、あの眺め。
――お客さんを案内するとき、みんなのびっくりする姿に、ぼくはいつもあの日を思い出す。
彼らは一斉にぼくを見た。
試すように、確かめるように。
ぼくはそのとき理解した。
何も憶えていないのに、なぜか分かった。
この屋敷にいる理由。
ぼくは鳥たちの番をするためにここにいる。
この森で人は記憶を失くすから。
その記憶が鳥になってやってくるから。
彼らを守り、彼らを待とう。
いつか、ぼくの鳥も訪れるはずだから。
*
「ぼくは、鳥を守る。誰にも傷つけられないように。
ふさわしいときがきたら、帰るべき場所へ戻れるように」
ルクレイの瞳は現在へと立ち戻り、蝋燭の灯りを映し出して揺れていた。
「ぼくの役目について考えると、いつも不思議と力がわいた。
やることがある。それが、ぼくを励ましている」
なんと言葉をかければいいか──
迷っていると、少女がふいにソファを降りて窓辺へ歩んだ。
爪先立ちの背伸びをして森を窺う。
サンルームの戸を開き、裸足のまま庭へ出た。
流れ込む冷たい空気に身震いし、僕も遅れてあとを追う。
裸足で外へ出るのを躊躇い、サンルームの戸口で止まる。
「鳥がいる」
ルクレイは庭の向こうの木々を見上げていた。
僕の視力では見つけられない。
彼女は引き返して、廊下へと向かった。
「ネインは、ここで待っている?」
「一緒に行っていい?」
「もちろん」
そう言いながらも、待ちきれない様子で少女は先に行ってしまう。
慌ててその背中を追いかけた。
*
屋敷の二階。
階段を上ってすぐ、コバルトグリーンの扉がある。
ルクレイは部屋の奥まで早足で行って窓を開けた。
見渡す限り、視界に入るのは鳥篭だ。
ここは鳥篭の部屋。ここにいる鳥はすべて、誰かが森で忘れた記憶だという。
部屋を埋め尽くす鳥篭を蹴り飛ばさないよう、あるいは頭をぶつけないように気を配りながら彼女を追った。
「おいで」
ルクレイは窓の外へ呼びかける。
囁き声に応じたように、間もなく鳥が窓枠にとまった。
目の周りの青い縁取りが特徴的だ。
青みがかった黒い翼を折りたたみ、つぶらな瞳で部屋を見回す。
その小さな鳥は、体長よりも長い尾を持っている。
腹は白く、胸元から頭部へかけて青黒いグラデーションに染まっていて、その色が夜明けの空に似ていた。
「歓迎するよ。しばらく、ここで過ごす?」
ルクレイは当たり前のように鳥へ言葉をかける。
鳥はお構いなしに視線を巡らせ、やがて気が済んだように一歩、二歩、部屋へと歩み寄った。
「待って。きみに相応しい棲み処を見つけるから。ネインも探してみて」
「僕も?」
たずねる声に答えず、彼女は部屋の隅へ向かっている。
仕方なく部屋を歩んだ。
部屋には空っぽの鳥篭と、先住者のいる鳥篭が混在している。
どれがあの鳥に相応しいかと言われても、正直、よく分からない。
「あ……」
ふいに目に入ったのは、すでに鳥を抱えた篭だった。
白い籠はありふれたかたちをしている。
蓋には小さな錠がかかっていた。鍵つきの鳥篭は、この部屋では珍しい。
その中で、鳥は身体を丸めて眠っている。
黒い羽毛に、白い斑点。
見ようによってはみすぼらしい毛並みで、まだらな模様が余計にそう感じさせる。
なぜだろう。
焦燥感を抱くのは。
同時に、妙に懐かしい気持ちになった。
「その子――星鴉だ」
気づけば、ルクレイが背後に立っている。
空っぽの鳥篭を抱えていた。新参の鳥に相応しい棲み処を見つけたらしい。
「星鴉?」
改めて、その鳥篭を覗きこむ。
まだらな翼を持つ鳥は、見られていることにも気づかず眠り続けている。
「……うん。黒い身体に、白い斑点。羽の模様が夜の星みたいだから」
どこかで聞いたことのあるフレーズだ。
街中で見かけたことがあるのだろうか。
それとも、読んだ本の中に出てきただろうか。
「この篭はどう?」
ルクレイは窓辺へ歩み、鳥篭の戸を開けて待ち構える。
鳥は少女が選んだ篭を一目見ると、小さく首をかしげた。
「あれ。気に入らないか」
「尾が長いから、もっと広い篭がいいんじゃないか」
「ああ、なるほど。それがいい。となると――あれかな」
少女が視線を向けた先、部屋の隅に縦長の篭がある。
彼女の背と比べると、胸元までの高さがあった。
「運ぶよ。どこにする?」
「ありがとう。もう少し窓の近くへお願い」
格子は濃い茶色をしていて、塗装は滑らかだ。
大きな見た目からは意外なほどに軽いが、その分脆そうだった。
床に並ぶ篭を蹴飛ばさないように運ぶ。
「そこでいいよ」
言われるままに窓のそばに設置する。
作業を見守っていた鳥が労うように短く鳴いた。
ルクレイは鳥へ手を差し出した。
鳥は彼女の指に乗り、篭までの案内を任せる。
篭の中で鳥は高い位置に組まれた止まり木に乗り移り、新居を確かめるように首をめぐらせた。
「今度は気に入ったみたいだ」
「それなら良かった」
満足そうに鳥を見つめる少女に並び、僕もそれを眺めた。
たった今訪れたばかりとは思えない落ち着きをもって、篭の中で毛づくろいをしている。
一体、誰のどんな記憶がこの鳥の姿になったのだろう。
僕の鳥も、もしかしたらこの部屋に居るのだろうか。
ありえないと思うのに、想像をめぐらせてしまう。
「ルクレイの鳥は――ここにいる?」
少女は部屋の中を見渡した。
「分からない。だから、ぼくは森にいたい。
ここを離れているあいだに、ぼくの鳥が訪れるかもしれない。
その瞬間を見過ごしたくないんだ」
だから、町へ行かない。
そういう理由だったのか。
「町で探すのはどうかな? 鳥じゃなくて……きみにもきっと家族がいる。
家族を探せば、過去のことがわかるはずだよ。
家族だって、きみのことを心配して、探しているかもしれない」
思いついた端から言葉になる。
この森で有り余る時間を過ごし、幾人もの来客と出会った彼女が、同じことを考えつかないはずがない。
いまさらなことを口にしてしまう自分が嫌になる。
「うん。でも、ぼくはもう、ぼくの家族が探している子供ではないかもしれない。
だって、彼らのことを何も覚えていないのだから。
きっとがっかりさせてしまう」
「そんなこと――」
親であれば、家族であれば、そんなことはない。
――そう言い切れる根拠はない。ただの願望だ。
「お互いに居心地の悪い思いをするよ。再会を後悔するかもしれない。
だから、今はまだ会いに行けないよ」
執着心を窺わせない調子だった。
でもそれは、思い出せないせいではないのか。
「僕は、待っているよ。きみが町にくる日を」
無事に、彼女に必要な思い出が戻りますように。
願いを別の言葉に変えて伝えた。
「そのときは、案内するから。約束だ」
「うん。ありがとう、ネイン」
少女は微笑みを見せてうなずいた。
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