EP09:道しるべ
道しるべ〈1〉
その女の子は、森の奥に暮らしている。
だから、たまには町で過ごしてもいいんじゃないかと思って誘ったのだ。
僕の町まで案内したかった。
都会ではないけれど、大抵のものは揃っている。
映画館も。花壇の綺麗な公園も。ちょっと洒落た古書店なんかも。
何が気に入るだろうか、とわくわくした。
珍しいものを見かけて好奇心に目を輝かせるあの子の姿は、容易に想像できたから。
きっと、楽しいに違いない。
1.
はじめてこの森へきた日は、冷たい雨が降っていた。
森は暗く、じめじめと湿って、不快な思いばかりが募る場所だった。
あの頃、僕はある思いにとらわれていた。
何かを不当に損なった感覚が拭えず、憤っていた。
――この森で、人は一つ記憶を失う。
その噂を最初に聞いたのはいつだっただろう。
どこで耳にしたのだろう。
町ではお馴染みの噂話だった。
ありえない忘れ物をした人。急に人格が変わったように思える人。
そんな人がいると、密かに囁かれる。
あの人は、どうやら森で記憶を失ったらしいぞ、と。
半ば笑い話として。半ば警戒するように。
僕は、自分が抱える不足感を森のせいだと考えた。
森で何かを忘れたに違いない。
失った記憶を取り戻さなければ――。
実際に森に踏み入ったものの、記憶を取り戻すことはできなかった。
けれど、新しい友人を得た。
確かな年齢を知らないが、僕よりも五歳は年下に見える。
時折、僕よりも年上なんじゃないかと錯覚する。
かと思えば、まるでまだ小さな子供のようにはしゃぐこともあって、いまだに掴みどころがない少女だ。
彼女は森の奥の屋敷に住み、訪れる人々を迎えて暮らしている。
以前、僕は彼女と数日を共にし、探しものを手伝ってもらった。
少女の名を、ルクレイという。
◆
屋敷を訪れるのは今日で何度目になるだろうか。
失った記憶を探すという建前で足を運ぶようになってからしばらく経つ。
当初はその目的は建前でもなんでもなかったのだが、やがて屋敷で過ごす時間こそを求めている自分に気づいた。
眩しい陽射しを枝葉が遮る。
天然の屋根の下を歩き、屋敷を目指す。
明確な道しるべがあるわけではない。
地図を確かめたわけでもない。
ただ赴くままに、なんとなく覚えた道筋を行くと、やがてそこへ辿りつくのだ。
開けた場所に庭がある。
庭に咲く花は意図して植えられたものか、もとから自生しているものかはわからない。あまり手を加えていないように見えるが、不思議と調和している。
古びた屋敷の窓にはカーテンがかかって、今は二階の窓だけが開け放たれていた。
その向こうに少女がひとり。
たった今、鳥を見送ったのか、それとも迎え入れたのか。
僕を見つけて、顔じゅうに笑みを綻ばせる。
「ネイン」
大きく口を開けて僕を呼ぶ。
それだけで歓迎されていると分かったから、僕も嬉しくなって足を速めた。
「いらっしゃい、ネイン」
ルクレイは襟元のリボンを弾ませながら玄関を出てくる。
いつもと変わらず元気そうだ。
「こんにちは、ルクレイ。さっきは、鳥を?」
「うん。出ていく子を見送っていた」
ルクレイに導かれるまま食堂へ向かうと、客の訪れを察したメイドのメルグスが軽食の用意をして待っていた。長い間歩いたあとにはありがたいもてなしだ。
「ぼくも、今ちょうどお昼ご飯なんだ。一緒に食べよう」
「うん。いただきます」
二人で卓に着くと、メルグスがお茶を用意してくれる。
このメイドのもてなしは機械的で隙がない。私語もせずに立ち去っていく。
いつも必要なときにはさりげなく姿を現す彼女の素性をたずねたことはない。
はちみつをたっぷりかけたトーストにかじりつき、少女は僕に話をねだる。
町のこと。会わずにいたあいだのこと。
それから、僕が探している記憶のこと。
「今日は、見つかりそう?」
「どうだろう。まあ、気長にやるよ。
どれほど大事なものか分からないし。見つかったら幸運だなってくらいで」
「そっか。……見つかるといいね」
「ありがとう。でも今日は、別の用事があるんだ」
切り出そう。そう意識すると、自然と身体が熱くなった。
鼓動が早くなる。緊張して喉が渇く。
「別の用事って?」
「町へ行かない? 一緒に」
今日のことを、繰り返し空想した。
誘ったら、彼女はなんて答えるだろう。
目を輝かせて大きくうなずいてくれるのではないか。
見知らぬ町への期待を膨らませ、口元を綻ばせて笑う。
行き先がどんなところか僕へ問い、想像を巡らせる。
その反応を予期していたから、虚をつかれたように目を瞬かせる様子に不安になった。
「町?」
ルクレイが問い返す。
知らない言葉の意味を問うように響いた。
「嫌かな?」
「ううん。ネインの住んでる町? 行っていいの?」
「是非、案内するよ」
「うん。じゃあ、早く行こう。
あ、でも急いで食べちゃだめだよ。苦しくなっちゃう」
そう言って、少女は再びトーストにかじりついた。
よかった。嫌がってるわけじゃないみたいだ。
食事を続けながら、町でのプランを少女に話す。
どこへ行こうか。
こんな場所がある。
駅前のパン屋が美味しくて、でもその隣のタルト屋さんも捨てがたい。
実際に見て、気に入ったほうを選ぶといいかもしれない――。
少女は僕の話に耳を傾け、興味深そうにうなずいていた。
だから、きっと楽しくなると思った。
町を案内するのが、俄然楽しみになった。
*
ルクレイは森の屋敷に、メイドと二人で暮らしている。
その理由をはっきりとたずねたことはない。
彼女の家族がどこでどうしているのか、どれくらいの頻度で会うのか、それとも会わないのか。彼女たちだけで暮らしているのはなぜなのか。
いつから始まった暮らしなのか。
町へは行くのか、そのときはなんの用事があるのか――
たずねたことはない。
異質な環境で暮らす少女をはじめは不気味に思った。
本当に生きて実在する人間なのかと疑い、幽霊かと想像もした。
今ではそれが誤解だと判る。
隣に並んで歩くルクレイと繋いだ手の温かさは、彼女が今ここに生きている人間なのだと僕へ伝えていた。
「歩き疲れた?」
「大丈夫。ぼく、毎朝このあたりを散歩してるんだよ。これくらい平気」
「よかった。もうすぐだから」
「うん」
繋いだ手に力が篭る。
その手を握り返し、足を進めた。
それから――
歩いても歩いても、町へ向かう道が見つけられない。
そうしているうちに日が暮れ、諦めの気配が漂った。
結局、僕たちは町へたどり着けなかった。
日が暮れるまで森をさまよい、歩き疲れて引き返したのだ。
戻ってみて分かったが、屋敷からそう離れていない場所をずっと迷っていたらしい。
不用意に誘ったことや、浮かれた自分が恥ずかしくて、自己嫌悪が募る。
これじゃあ嘘つきじゃないか。
期待させて裏切った。それが僕には不本意なことであっても、彼女をがっかりさせたことに僕も大いにがっかりした。
屋敷へ戻り、夕食を共にして、それぞれに就寝した。
毛布をかぶって目を閉じる。
あんなに歩き疲れたのに、悔しくて寝つけなかった。
どうして、来た道を辿るだけのことができないのか。
はじめて行き来する道ではなかったはずなのに。
――どうしてだろう。
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