一番の方法〈6〉
『良かった』
そう言ったルクレイの微笑みを思い出す。
彼も、少女に祝福されただろうか。
記憶を失って良かった、と。
彼にとって良かったことが、私をばらばらにしたのだとしても。
夜の森は鳴いていた。獣が咆哮するように。
激しい風が木々の合間をとおり抜け、悲鳴にも似た風鳴りを響かせる。
やがて強い雨が屋根を打ち、窓の外が白く光った。
――雷鳴が響く。
私の意気地のなさを責めるように、窓が震える。
森にきてから何日が過ぎただろう。
ひと月、ふた月――私は、何をして過ごしていただろう。
頭の中に墓地がある。
少女の死体が山を成して、胡乱な目をして私を見つめている。
私はカーテンを閉ざし、ベッドに潜った。
カーテンの隙間から光が差し、遅れて大きな雷鳴が屋敷を震わせる。
何かを叩きつけるかのような激しさだ。
鼓舞するように、叱責するように、雷は私へ訴えている。
――どうした? まだやらないのか? お前の決意は嘘だったのか? 腰抜けめ。
――臆病者。逃げるのか。何も果たせず。そうやって善良な人間でいればいい。
――目的を遂げるなら今夜が絶好の機会だ。
――できないなら、一生ばらばらのままでいろ。
誰かの声がする。
それは、私の声だった。
私が私を追い立てている。
今夜がふさわしい。
この嵐に乗じて行動しよう。気づかれないはずだ。
ベッドを出ていく。
彼女の部屋は二階にある。きっともう眠っている。
健やかに眠る少女の細い首にベルトを巻きつけて。
ぎゅうっと、体重をかけて。
ほら、もう殺せた。
頭の中にまたひとつ少女の死体ができ上がる。
私の身体は、ベッドの中で無様に蹲ったままだ。
不意に、ノックの音が聞こえた。
雷鳴の途絶えた合間に、私を呼ぶ声がした。
「もう、寝ちゃった?」
ルクレイだ。妄想を暴かれたような焦りに全身から汗が噴き出す。
「あのね……ここで寝てもいい?」
少女の声はどこか不安げに聞こえた。
「どうぞ」
私が招き入れると、少女は安堵の吐息を漏らす。
私のベッドまで歩む間に、また稲光が輝いた。
ルクレイは雷鳴から逃げるように毛布の中へ潜り込む。
身体が触れ合った。私より高い体温を感じる。
雷に怯える小さな子供。
こんな子に私の人生がばらばらに打ち砕かれたと思うと滑稽だった。
これは願ってもない機会だ。
彼女が私の手の届く範囲に、無防備な身をさらしている。
「きみも、雷が怖い?」
ルクレイが囁いた。思わぬ問いかけだった。
「震えている」
指摘されて気づく。
確かに私は震えていた。まるで雷に怯えるように。
少女の体温がより近くに感じられた。
ルクレイが身体を寄せ私を抱きしめる。
甘えるような仕草だ。しかし、彼女は自分のためにそうしたのではなかった。
私の震えを止めるために。恐怖を、怯えを和らげるために、寄り添っていた。
本当に、この子が旦那様を殺した魔女なの?
――そう疑いを抱かせるための演出だ。
だって、魔女は狡猾なのだから。
「きみの目的は果たせそう? 忘れたいことを忘れられる?」
「いいえ、まだ。ごめんなさい、長居をしてしまって」
「ううん、いいよ。でも、早く願いが叶うといいなって……
きみが楽になればいいなって思って」
「ありがとうございます。大丈夫――」
何ひとつ疑わない、こちらを案じる少女の声に答えた。
その小さな身体を組み伏せて、彼女の身体に馬乗りになる。
これ以上優しい言葉を聞きたくなかった。
無責任に相手を甘やかし懐柔する、まやかしの呪文。
身を委ねてしまいたくなる甘美な提案が怖かった。
何かを忘れて、何もかもを忘れて、楽になってしまえばいい。
そう願ってしまいそう。
でもそれでは駄目なのだ。
俯くと、ほどけた髪が垂れ幕のように視界を覆った。
こうなってまで、少女は少しも危機感を抱いていない目をして私を見上げている。
まさか誰かに傷つけられるなんて可能性を考えもしない、悪意にさらされたことなど一度もなかったような、隙だらけの顔。
無防備もここまでくると滑稽だった。
その白い首筋に手を伸ばす。
触れると小さな脈を感じた。
途端に身体中に怖気が走る。
熱い体温を指先に確かに感じた。
吐き気がして歯を食いしばる。
「今、願いが叶う。私は、復讐にきました。
あなたを殺しにきました。その目的を果たせる」
震えて裏返る声は雷鳴にかき消された。
轟音に煽られて、私は指に力を込める。
柔らかな肌に食い込んだ指が何か硬いものに触れる。
華奢な骨を連想して躊躇う指に力を込める。
力が抜けないように歯を食いしばった。
「ぁぐっ……」
痛みに少女が呻いた。
顔を歪ませ、苦しげに唇を開閉させる。
人を傷つける感触に全身が震えた。
心臓が胸の中で大きく膨らんで、今にも弾けてしまいそう。
息ができない。首を絞めているのは私のほうなのに。
少女の身体が跳ねた。
反射的に抵抗して私の手を掴む。
少女の目に様々な感情がよぎる。
戸惑い、困惑。恐怖、怯え。苦痛。そして――
「それが、」
聞こえた声に怯み、一瞬、指から力が抜けた。
「きみの、望み?」
この期に及んで問いかける少女に、私はうなずき返す。
少女の身体から力が抜ける。抵抗が消える。
力尽きたのだろうか。
このまま力を加え続ければ、彼女は死ぬ。
今度は空想じゃない。目の前に本物の死体ができあがる。
本当に、それで私は救われる?
一瞬の躊躇に私の手が萎えかけた。
それを少女が捕まえて、自ら力を加えた。
ルクレイは私の行為に加担した。
そう理解して、動揺に身体が震えた。上手く力が入らない。
それなのに、少女が私を離さない。
彼女への加害を、彼女自身が強要している。
細い喉から濁った音がした。苦しげにもがきながら、少女は抵抗をしない。
恐ろしかった。このままでは、本当に彼女は死ぬ。
私の望み通りに。
それなのに。
「やめて! もういい!」
まるで私のほうこそ絞め殺されているかのように悲鳴を上げていた。
少女を突き放す。
彼女はうつ伏せに身を横たえ、苦しげに咽た。
荒い呼吸を繰り返し、絶え絶えに喘ぐ。
身体の震えが止まらなかった。
理解できないものを見た。
怖かった。
――どうして抵抗しないのか。
それどころか、彼女は、自分が殺されようとしているのに手を貸した。
確実に彼女を殺すことができる、その段階になって私は理解した。
苦痛は続く。ここで彼女を殺しても、何も変わらない。
じゃあどうしたらいいのか。何もせずに、帰るしかないのか。
――ばらばらになったまま。
俯いて顔を覆う。
涙は出なかった。
ただ頭が重たくて、そうして支えていないと首からこぼれ落ちてしまいそうだった。
少女が深く息を吐き、ゆっくり身体を起こす。
彼女の動く気配に、身体が過敏に反応し、報復を予期して強張った。
ルクレイは、私の身体にそっと身を寄せる。
まだ少し早い鼓動が服越しに伝わった。体温は、変わらず、私より少し高い。
「ぼくを傷つけたいの?」
囁き声の問いかけに、惰性で動いたように私は俯いた。
それが、結果的には首肯になった。
「――彼が死んだ。あなたのせいで。
この森で、彼はすべてを失った。……私もよ」
最愛の人が、私との幸せな記憶をすべて捨てて、別の人生を作っていた。
私は過去に取り残されてしまった。
彼が幸せならそれでいいだなんて善良なことを言えたらよかったのに。
私も、彼と、幸せになりたかったのだ。
私だってそうなれたはずだったのに。
「私はどうしたらいいの」
涙は出ない。
けれど、すすり泣くような声が心の内を告げていた。
枯れた涙で嗚咽する私を、いつの間にか少女が抱きしめている。
ぼさぼさに乱れた髪を指先ですいて、手のひらで背中を撫でる。
己を害そうとする手を掴み引き寄せた、その手で私を慰めている。
幼い子をなだめるように。
「ねえ――メルグス」
名を呼ばれ、顔を起こす。
ルクレイが私を覗き込んでいた。
「きみに提案がある。ぼくに復讐するための、一番の方法。聞きたい?」
「なに……?」
問いかける自分の声がまるで年端も行かぬ女の子のようだった。
ルクレイは今だけ年上のお姉さんのような態度で、楽しそうに囁く。
「あのね――ぼくのそばにいて。ぼくによくして。
今までどおりに屋敷の仕事をするんだ。全部。
毎日の食事、掃除に洗濯。庭をいじって、お客さんをもてなす。
ぼくと一緒に」
「なぜ、それが復讐になるの?」
「ぼくは、きみを好きになる。きみを頼りにする。
森での暮らしが、きみなしでは耐えられないようになる。
そうなったとき、きみはここを去るんだ。どう? それが――」
ルクレイは、私へそっと打ち明けた。
いたずらの名案を思いついた声で。
「それが、一番の方法だよ。ぼくを傷つけるための」
私は少女を見つめ返す。
彼女は、私を安心させるように微笑んでいた。
◆
淡く柔らかな日差しに起こされ、瞼を開ける。
ベッドの中は温かく、毛布が優しく私を包み込んでいる。
目を覚ましたくない。
でも、良く晴れた空が私を誘う。
今日はいい天気だから、きっとどんなことをしても気分がいいに違いない、と。
まだ夢の中にいるような曖昧な心地のまま窓を見た。
夜中の嵐が嘘のように、今は真っ青な空が広がっている。
まるで昨日とは別の世界に居るみたいだ。
「昨日……」
次第にはっきりと目が覚めて、昨晩の出来事を思い出した。
感触と熱は、まだ手に残っている。
私は身体を起こして周囲を見渡した。
一体どこからどこまでが夢だったのか。
どこからどこまでが空想だったのか。
ふいに傍らで何かが動いた。
ルクレイが、まだ目を閉じたまま、毛布を手繰り寄せ身体を丸めている。
ようやく緊張が解けて、深く息をついた。
――私は、彼女を殺さなかった。
ほかの手段を示され、復讐の方法を切り替えた。
殺すまでもなく、彼女を傷つける、一番の方法。
そうだ。復讐を諦めたわけじゃない。
少女を起こさぬようにそっとベッドを降りた。
着替えてエプロンをつける。髪をきつく結って、身支度を整える。
旦那様のお屋敷で働いていたときと同じような姿が、部屋の姿見に映っていた。
まだ眠っている少女を残し、部屋を出て、厨房へ向かう。
今までどおりの朝がきた。
まず私は朝食を作って、それから洗濯物を片づける。
必要があれば掃除をして、それが終われば昼食の下ごしらえだ。
そして、いつくるとも分からぬ来客に備えて客室を整える。
そうだ、裏庭を畑にしてもいいかもしれない。
町まで買い物に行く手間が少しでも省けたら今後が楽になる。
この厨房も、これから使いやすいように片づけて整頓しなくては。
――これから。
私は、ここで暮らし続ける。
彼女は私を侮っているのだろうか。
どうせ実行できるはずがない、と。
復讐を果たせるわけがない、と。
身の回りの仕事を任せ、私を挑発しているのだ。
逃げも隠れもしない、と――。
私が怖気づいて逃げ帰ると思ったのなら、お生憎様だ。
今日もまた、私は頭の中の墓地に少女の死体を積み上げるだろう。
そうしながら、彼女のために誠心誠意の親切を尽くすだろう。
いつか彼女を裏切るために。
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