一番の方法〈4〉

 

 彼も幸福な記憶に脅かされていたのだろうか。

 夜の森が窓の向こうに広がって、窓ガラスは鏡面のように私の姿を映している。

 波打つ長い黒髪を束ねて、生成り色の寝間着に身を包んでいる、女。

 青白い、暗い顔をしている。地味な顔立ちだ。

 切れ長の一重の瞼は愛嬌に欠け、薄い神経質そうな唇がその印象をより強めた。

 だから私は、この外見が他人に与える印象から差のないように振る舞う術を身につけて、そうすることで己を守って生きていた。

 でも、彼の前でそうする必要はなかった。

 虚勢を見破って、私の無理を暴いてくれた。

 私なんかとは比べ物にならない程に、彼は繊細な人だった。



 私は以前まで彼のお屋敷の使用人だった。

 お屋敷で暮らしているのも彼ひとりだけだ。

 時々は庭師などもいたけれど、屋敷に常に通っていたのは私ひとりだけ。

 彼は物憂げな人だった。

 眉間に深い皺を刻み、沈黙に唇を閉ざし、何か重たいものを背負っているように見えた。

 いつもここではないどこかを見ていて、それでも不意に、この世界へ戻ってくる。

 その瞬間、私はとても嬉しくなった。

 食事のとき、見知らぬ料理に気づいた彼。

 いつもより美味しいコーヒーを淹れたときの彼。

 ここではないどこかにいた彼の魂が、私の目の前に戻ってくる。

 次第に私は彼に惹かれて、彼も私を求めてくれた。

 つまり二人は一番幸せな関係を結んでいたのだ。

 終わりは、なんの前触れもなく訪れた。

 突然、彼が消えた。

 同時に、私の口座には見たこともない金額が振り込まれていた。

 まるで手切れ金のようだった。

 お金で解決しようとしたのか。

 酷く傷つけられた気持ちになって、私は気力を失い過ごした。

 なんの説明もなく、理由に心当たりもない。

 幸せな日々を、これからもずっと重ねていけると信じていたのに。

 思い出すのは、些細な瞬間の記憶。


 ――日の差す書斎。淹れたてのコーヒーの香り。


 私は、仕事の書類を睨む彼の眉間の皺を見ていた。

 彼は疲れた目を書面から外し、ふと私に気づく。

 にわかに眉間の皺が浅くなり、微笑みを浮かべて手を伸ばす。

 招かれるまま彼のそばに歩み寄り、たわむれの抱擁を受け入れた。


『次の休みに旅行へ行こう。海がいいな』


 彼は言う。私は喜びはしゃいで彼の膝の上に座り、彼に抱きついてキスをする。

 その約束は果たされず、彼は姿を消してしまった。

 過去の幸福が私の心に爪を立てる。

 私は彼の重荷だったのだろうか。

 彼も幸せだと思っていたのに、なぜ失踪したのか。

 お金に困っていたわけではない。犯罪に手を染めたような兆しもなかった。

 理由が分からないから、何を責めていいのかもわからない。

 この喪失感をどうすればいいのかわからない。

 せめて彼の口から説明を聞きたかった。

 もう一度だけ、彼に会おう。

 目的を見つけると、にわかに活力が戻った。

 手切れ金か、退職金か、何のつもりで寄越したのか分からない大金を元に、私は彼を探した。



 私がその街を訪れたのは、強い確信があったからではない。

 いつも同じだ。

 少しでも可能性があるのなら、足を運んで、この目で確かめたかった。

 石畳の特徴的な駅前通りを歩く。

 旦那様と暮らした都会とは違う、のんびりとした町だった。

 急いでいる人が少なく、大きな建物もあまり見かけない。

 慣れない石畳にヒールの高い靴を履いてきたことを後悔しながら、私は町を歩いた。

 それらしき人物を目撃したという情報はいくつも集まった。

 そのひとつひとつを、自分の目で確かめて、可能性を潰してきた。

 今回だってそのつもりだ。

 曖昧な可能性を潰し、また次の手がかりを探す。

 そうまでして探し求めて、何を期待しているのだろう。

 まさか私は、元通りの関係に戻れると無邪気に信じているのだろうか?

 私が姿を見せたら、彼はなんと言うだろう。

 私を抱きしめて、再会を喜んでくれるだろうか。

 正直に言えば、そんな想像は何百回と繰り返し、現実感の伴う夢を何度も見た。

 それは私に繰り返し喪失の痛みをもたらす劇薬だった。

 分かっていたのだ。

 元通りになんてならない。

 ただ納得したかった。

 はっきりと見せつけてほしかった。

 元通りにはならないのだ、希望はひとつもないのだ――と。

 期待する甘い心を、未練を打ち壊して欲しかったのだ。

 そして、私の望みは叶うことになる。



 すれ違った男性が、なぜか妙に気になった。

 背格好は似ているけれど、彼とはまるで雰囲気が違う。

 まず、旦那様よりも若く見えた。

 眉間に皺はなく、穏やかな顔をしている。物憂げな表情など似合いそうにもない。

 頭より先に身体が動いて、男のあとをつけていた。

 彼はマーケットで買い物をして、袋を抱えて道を引き返す。

 そうして一軒の小さなアパートに到着し、ドアをノックする。

 お屋敷とは比べ物にならない平凡な建物だ。

 ドアを開けたのは三十過ぎ程の、ふくよかで幸せそうな印象を受ける女性だった。

 彼女は彼を軽く抱きしめて「おかえり」と言う。

 抱擁に応えて彼も囁く。


「ただいま」


 心臓が高鳴った。


 声で分かった。


 あれは、旦那様だ。


 二人が部屋へ姿を消してからも、私は向かいの通りに立ち尽くしたまま動けずにいた。足に力が入らずしゃがみこむ。

 息ができず胸が苦しかった。

 繰り返し意識して深呼吸を続ける。なのに、酸欠になったように気が遠い。

 何も不思議な話ではなかった。

 消えた男が、別の町で新しい女と暮らしている。

 当然、こうなる可能性も真っ先に考えついた。

 平凡でありふれた物語だ。

 どうして。言ってくれたらよかったのに。

 黙って逃げなくたっていいじゃない――。


 彼への憎しみが胸の内で燃え盛り、長続きせずに灰になる。

 ただ、徒労感と無力感が募る。


 ――彼の表情を見た。

 まるで別人だった。

 肩の荷が下りたような顔をしていた。

 今までに見たどんな瞬間よりも、幸せそうだった。

 私の前では決して見せてくれなかった顔だった。


 心を決めて立ち上がる。

 せめて彼の口から説明を聞いて、別れの言葉を交わしたかった。

 それで終わりにしよう。


 いつの間にか夕暮れが迫っている。

 私はアパートのドアへ歩み、呼び鈴を押した。


「はい」


 幸せそうな女性がドアを開ける。

 怪訝に首をかしげて、私が用件を言い出すまで待っている。


「突然訪ねてすみません。彼と話をさせてください。……ずっと探していたんです」


 女性は背後を振り返る。

 そこに彼がいた。

 すべてを理解したような顔をして、部屋を出てきた。


「少し歩きましょうか」


 落ち着いた声だった。

 その態度は、他人行儀のようにも、昔と同じようにも感じられた。


「いつかこんな日がくると思っていた」


「そう……」


 申し開きがあるなら聞こう。

 そのために来たのだから。

 彼を責め、なじる言葉を飲み込んで、私は待った。

 彼は適切な言葉を捜すように黙り込む。


「これから失礼なことをたずねる。

 気を悪くしないで欲しいと言っても無理だろうね」


 いまさらなことを言う。

 いまさら、何に気を悪くするというのか。

 構わない。どんな事実でもいい。

 何も分からずに放って置かれる日々が終わるなら、それがせめてもの救いだ。

 そうまで心構えを済ませた私の耳に、信じられない言葉だが聞こえた。


「――きみは誰?」


 咄嗟に何も言えず、気づけば立ち止まっていた。


「申し訳ない。突然、迷惑をかけたと思う。

 信じてもらえないだろうけれど、僕はこの町へ来る以前の記憶がないんだ」


 たちまち頭に血が上る。

 眩暈がしてふらついた足を踏みしめる。姿勢を持ち直して、彼を見上げた。

 見慣れた皺が、眉間に戻っている。

 私の良く知っている旦那様の顔だった。

 それなのに、彼はまるで見知らぬ相手を前にした態度でいる。


「あの、私は……」


 名を名乗る。

 彼は身に覚えがないように目を閉じ首を横に振る。

 本当に忘れてしまったの?

 そんなの嘘だ。信じられない。

 忘れたふりで誤魔化そうとしているのだろうか。

 そんな卑怯なことを。

 ――違う。彼は本当に覚えていないのだ。


 理解が訪れて、私はとうとう座り込んだ。

 彼に手を引かれ、街路樹に併設されたベンチに腰かける。

 触れ合う手が懐かしくて、身体全部で混乱した。

 事実が受け入れられなかった。


「苦労して探してくれたんだね。きみに大きな迷惑をかけた。

 本当に申し訳ない。僕は無責任だったと思う。

 許してくれとは言わないよ。どんな償いもする」


 それは、彼が繰り返し自身の境遇を検討し、様々な状況を予測して、今まで生活を続けてきたのだと分かる言葉だった。

 来るべきときには責任を果たそうと、そのつもりで覚悟を決めて暮らしていたのだ。


「いいえ、私は、あなたに償って欲しかったんじゃない。

 ただ……まだどこかで生きているって確かめたかった。

 ただ、もう一度会いたかっただけなんです。

 顔を見たかった。こうして話がしたかった。それだけなんです……」


 そう言ってから気づいた。

 私が何をしたかったのか。


 ただ、もう一度会いたかったのだ。


 生きていることを、まず確かめたかった。

 滲む涙が、悔しさのせいなのか、安堵のためなのか、自分でも分からない。


「あの。記憶を、なぜ?」


「分からない。気づいたときは森にいた。森を出たら、この町があったんだ」


 彼の身に何が起きたのかは分からない。

 何か事件に巻き込まれたのか。事故に遭ったのか。

 確かなことはひとつだけ。

 彼は、今もこうして生きている。

 それだけでもいい。

 それが分かっただけでも、十分だ。


「今は、あの部屋に住んでいるんですか? ――奥様と?」


「はい。彼女が僕を助けて、献身的に支えてくれた。

 愛している。今はとても幸せだ」


 彼の言葉に息が詰まった。

 彼が私と作るはずだった未来は永遠に失われたのだと分かったから。


「きみは、僕とどんな関係だった?」


 彼は躊躇い、怯えるようにたずねた。

 過去を取り戻すことに消極的な態度が窺える。

 すべての事実を打ち明けて、彼を罪悪感と自己嫌悪の檻に閉じ込めるのは、私には容易なことだ。

 けれど、そうすることで私が得るものは何もない。

 更に失うだけだろう。

 彼の顔をこれ以上曇らせたくなかった。


「旦那様は……あなたは私の雇用主でした。

 私はあなたの屋敷にお仕えして、とても親切にしていただきました」


 それだけの関係なら、こんなに必死に探すわけがない。

 私は内心で自分の嘘を嘲笑う。


「……急に姿を消してしまわれて、とても心配しました。

 でも、やっと安心しました。あなたが生きていたと分かったから。

 今までで一番、幸せそうに見えるから」


 先刻も私が知人だと知ると、彼は痛ましそうに謝ってくれた。

 眉間に、あの見慣れた深い皺を刻んで。

 そんな様子を見て、打ち明ける気にはなれなかった。


 私はあなたの恋人だった、なんて。

 あなたと愛し合っていた、なんて――。


 再び同じ関係に戻れる? 無理に決まっている。

 また彼を苦しめるようなことができる? もう恋人もいるのに。

 彼は今幸せなのだ。

 それを奪って、それ以上の幸せを与えることも、得ることも、私にはできない。

 歯を食いしばっても、涙は溢れた。


 安堵と深い喪失に、喜びと鋭い痛みに、ばらばらの感情に襲われていた。



「忘却の森の噂を知っている?

 僕はその噂通りに、森で記憶を失ったんだと言われたよ。

 僕は何かを忘れたくて森へ行き、何もかもを忘れてこの町で暮らしている。

 僕は過去への執着がまるでないんだ。きみには申し訳ないが――」


 元の屋敷へ戻るつもりはない。

 彼はそう意思を示した。

 再会の喜びが過ぎ去ると、私の胸にはひとつの決意がかたち作られた。


「ええ。旦那様の前途を邪魔するつもりはありません。

 ……もう二度と、会わないほうがいいでしょう。

 今日会ってわかりました。あなたのためには、そうしたほうがいい」


 駅まで送ってくれた彼を振り返らずに改札を抜ける。

 彼はもう私の見知らぬ男だった。

 あの人は幸せになるだろう。

 彼は何を忘れるために森へ行ったのか。私が彼の重荷になっていたのか。

 それを忘れて、彼は救われたのだろうか。

 私はそれほどまでに彼を傷つけたことがあったのか。忘れたいと願うほどに?

 ――愛していたのに。

 彼が生きていてよかった。笑っていてよかった。

 でも、私は報われない。

 報われない私はどうしたらいいのか。

 私は、彼の幸せを願おう。

 でも、誰が代わりに私を幸せにしてくれるの?

 取り残された私は、どうしたらいいの?

 そうか。

 結局私は、旦那様とは再会できなかったのだ。

 私の旦那様は、彼が記憶を失ったときに――森の中で、死んでいたのだ。



 帰りの列車の窓から、森が見えた。

 風に揺れる木々の群れは、何か大きな獣が深呼吸をしているように、夜の中で蠢いていた。

 ――その森で、人はひとつ記憶を失う。

 噂を聞いたことはある。

 でもそれは、危険な場所から人を遠ざけるために広まった噂話だ。

 昔、町から離れた森の中に工場があった。

 町から遠ざけたのは危険な薬品か何かを取り扱うためだ。

 あとになってから、戦争のための爆弾を作っていたと言う人もいた。

 工場は火災事故を起こして、周辺の土壌が汚染されたと風評が立っている。

 あれから数年が過ぎた今でも、まだ危険だと言う人もいた。

 だから、何かを忘れるなんて、子供を脅すための方便だ。

 実際にはそんなことはあるはずがない。

 でも。現に、彼は記憶を失った。

 もしあれが演技だとしたら、表彰台に上げて拍手を送りたいくらいだ。

 あれほど見事に演じ切ってくれたなら、騙されるほうとしても清々しい。

 強がりでそんなことを考えて、目を閉じる。

 瞼の裏に浮かび上がる幸福な記憶が、私の胸にいつまでも新しい傷を作るから、傷口はずっと塞がらない。


     ◆


 彼と再会を果たし、別れてから、後悔しなかった日は一日もなかった。

 後悔と、納得。諦めと、執着。

 寄せては返す波のように、私の心は揺らめいて、自分の下した選択の正否を検討し続けている。

 私は、どうしてあんなに物分りよく彼を手放したのか。

 彼が今幸せかどうかなんて関係ない。

 彼は私の恋人だったのだ。過去の責任を果たすべきだ。

 再び屋敷に帰って『旦那様』を続けるべきだ。


 そう叫ぶ自分が居る一方で、彼の幸福を心より望み、あの幸せそうな女性との未来を祈る自分がいる。


 彼が幸せならそれでいい。

 ――嫌だ。

 どうして私だけ我慢しなくちゃならないのか。

 いや、もう諦めるんだ。彼の幸せが私の幸いだ。

 ――嘘だ、いい子にしていたら神様がご褒美をくれるとでも思っているのか。

 馬鹿じゃないの。

 神様が見ていたら私はとっくに贈り物を受け取っているはずだわ。

 ――こんな不幸に見舞われて可哀想に。

 違う。私の存在が彼を不幸にした。

 だからこれは罰なんだ。苦しんで当然だ。


 私は、

 私はばらばらだった。


 彼を探す目的も失い、生きる意味も見失って、アパートの狭い部屋でただ呆然と過ごしていた。

 再び働く意味も分からない。

 この先の人生への希望が持てない。

 いっそ死んでしまおうか。

 それは、なかなか良いアイディアに思えた。

 死ぬ準備をして、ふと考えた。

 じゃあ、どこで死のうか。

 そうだ、森へ行こう。

 ばらばらの身体と心が、少しずつかたちを作りはじめた。


 ――森へ行って、確かめよう。


 本当に森で記憶を忘れられるのか。

 私は噂話を集めて、いくつもの派生を知った。

 そして、魔女の存在を知ったのだ。


 忘却の森に棲む魔女が、人から記憶を奪うという。


 そいつが、私の旦那様を殺した犯人だ。


 だから私はそいつに復讐をしよう。


 私を、私の人生を、私の幸福をばらばらにしたそいつに、復讐をしなければ。


 死ぬのは、それからでも遅くないだろう。

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