一番の方法〈3〉
「とてもよく眠れた」
翌朝、彼は欠伸交じりにそう言った。
出ていく準備を済ませたビクトルが玄関先でルクレイとの別れを惜しんでいる。
「本当に、もう帰っちゃうの?」
「うん。長い間泊めてくれてありがとう。
もっと早く発つつもりだったのに、居心地が良くて長居をしてしまった」
「いいの。ぼくも楽しかった。そうだ、見送りに行くよ。途中まで送っていく」
「そうしてくれると嬉しいな」
「支度をするから、待ってて。ちゃんと待っててね」
玄関にビクトルを待たせ、少女が慌しく二階へ駆けていく。
私は注意深く彼を眺めた。濃い金髪にフレームのない眼鏡。
柔和な顔と物腰が、いかにも人が良さそうだった。
来たときより少し髭が伸びている。ほかに変わったところは見あたらない。
それなのに、なぜだろう。
彼から受ける印象が少しだけ変わった気がした。
「あなたの忘れたいことを、忘れられましたか」
直接、そうたずねる。
「いや。何も。何も忘れる必要はない。
そう気づいたんだ。あなたの言う通りだ」
ビクトルは苦笑いを浮かべて答えた。
結局、彼は何も忘れることなく森を去るのか。
つまり、噂はやっぱり噂でしかなかったのだ。
「どうして忘れようなんて思っていたんだろう。
彼女のためにも、僕は幸せにならなくちゃいけないんだ。
やっと、前向きに考えられそうだ」
「罪を忘れずに、耐えられますか……?」
「罪――。うん。これは罪だ。僕ひとり、残された。
でも、それこそが罰でもある。
大丈夫だよ。これ以上ミリヤムを悲しませるような生き方はやめる」
なにかを愛おしむように目を細め、決意を言葉にする。
やっぱり、何かが変わった印象を受ける。
一体何があったのだろう。
変化が起きたとすれば、それは森の中での出来事だ。
私の見ていないところでルクレイは彼になにかをしたのだ。
そう考えれば辻褄が合う。
なにかがおかしい。
けれど、その原因が分からず気持ちが悪かった。
なにが変わったのだろう。
だまし絵でも見ているような気分になる。
「お待たせ、ビクトル。行こう」
「ルクレイ。出発しよう。
それじゃあ――改めて、色々お世話になりました。ありがとう」
「いえ。道中お気をつけて。ルクレイも、気をつけて行ってらっしゃい」
「うん」
元気良くうなずいて、少女はビクトルの手を引き出発した。
二人の姿が見えなくなるまで見送って、扉を閉める。
ビクトルは何も忘れずに去った。
この森で人が記憶を失うなんて嘘だ。
だとしたら、彼は。私の旦那様は――。
私の復讐は。
的外れなのだろうか。
すべては無駄なことだったのか。
胸の内で渦巻く感情が行き場もなく濁っていく。
私がここに居続ける意味も、もう、ないのかもしれない。でも。
でも――。
ビクトルの滞在初日から、今日までのことを回想する。
何か。変わったところはなかったか。
彼は何を忘れるためにここへ来たのか。
本当に何も忘れずに去って行ったのか。
先刻の彼の言葉に抱いた違和感も、ただの気のせいだったのだろうか。
『これは罪だね。僕ひとり、残された。でも、それこそが罰でもある』
彼はそう言った。
「――違う。違うでしょう、ビクトル」
すでに去った客人を呼ぶ。
彼は自責の念に苦しんでいたのだ。
己の過失で最愛の妻を亡くし、自分を責めていた。
己に原因があることを誰にも認めてもらえず苦悩していた。
彼の罪を知る者は彼以外に誰もいない。
ミリヤムは彼に幸福の記憶を与え、彼の悲しみを和らげる。
けれどミリヤムの存在が彼を罪人にし、彼を苦しめ続ける。
妻を忘れられたら彼は楽になる。
だからこそ、彼は『妻のことを忘れたいという気持ち』を忘れたいと言った。
己を罰するために。
彼は本当に何も忘れなかったの?
――いいえ、彼は忘れてしまった。
それが違和感の正体だ。
彼の抱く罪悪感は『妻を殺したこと』ではなく『自分だけが生き残ったこと』で生じたものに変わってしまった。
結局、己を苦しめる罪の記憶を忘れてしまったのだ。
「ただいま」
いつの間にか、扉の向こうで声がした。
「そこにいるの? ドアを開けて」
私は自分の身体でドアを塞いでいたようだ。
「ごめんなさい。おかえりなさい、ルクレイ」
ドアを開け、屋敷の主を迎え入れる。
「ビクトルは、なにかを忘れたでしょうか?」
答え合わせをしたかった。
ルクレイは私を見上げて、ふと微笑んだ。
「うん。よかった」
「――よかった?」
忘れられてよかった、と彼女は言った。
「彼はもう大丈夫だよ。
幸せな日々は、そのままの幸せと一緒に思い出すことができるから。
そのことに、彼はもう怯えなくていいから」
「罪悪感が消えたから、ですか?」
「彼が何を忘れたか、確かめることはできないよ。
彼は、きっと本当に忘れたかったことを忘れた」
罪だ。
罪の意識から、彼は逃げ延びた。
それを卑怯と言うつもりはない。
けれど、救いだとも思えない。
何かを誤魔化されたような心地になって少女を見下ろす。
ルクレイは、それを救いだと信じている。
だから言ったのだ。『良かった』と。
思い出を忘れられて良かったなんて、私には認められない。
だって。
そのせいで、私は――。
「そうだ。まだきみを案内していない部屋があったよね」
物思いに沈む私の意識を少女の声が引き上げた。
彼女はいつのまにか手の中に一本の鍵を持っていて、私をその部屋へと招いた。
◆
緑色に塗られたドアが開く。
寸前、なぜか肌が粟立った。
気配を感じた。
何か、蠢いている。
部屋の中には無数の鳥が棲んでいた。
そうと分かって首筋がぞわりと怖気立つ。
こんなにたくさんの生き物を閉じ込めていたなんて今日までまったく気づかなかった。
「ここは、鳥篭の部屋」
ルクレイは部屋を歩き、私へ入室を促す。
一歩、踏み入った。
侵入者の一挙一動を鳥が注意深く見ている。
そう錯覚して、自由に身動きが取れない。
「鳥を――こんなに、なぜ?」
ゆっくりと見渡して、ふいに錯覚した。
この鳥たちはすべて剥製の贋物で、一羽だって本当には生きていないのではないか。そう感じた理由は、生き物にあるべき匂いがしなかったからだ。陽射しが部屋を暖めた匂いと、埃っぽい空気の匂いだけ。
「みんな、森の外からきた。これが昨日の新入り。彼の鳥だ」
「ビクトルの? どういうことですか」
「記憶の鳥だよ。
この森で、人はひとつ記憶を失う。
記憶は鳥の姿になって、ここへくる。
いつか彼らが元の居場所へ帰るときまで、ぼくは鳥たちに棲み処を与える」
「……彼の記憶? その鳥が?」
ルクレイは鳥篭の格子を撫でている。
昨日森へ出かけたときに携えていた鳥篭とは違う。
鳥の大きさに合わせて住み換えたようだ。
深い灰色の翼を持つ鳥だった。
大きな鉤爪は猛禽の特徴だが身体はやや小柄で、真っ赤な目でルクレイを見上げている。
「この部屋の鳥、すべてが。誰かが手放した、誰かの記憶だ」
不意に胸の奥が疼いた。
声が出せず、吐息を飲み込む。
それじゃあ、彼の鳥もここに居るかしら。その鳥を鳥篭から解き放てば――。
でも、手遅れだ。
いまさらそんなことをしても、なんの意味もない。
「私の中にも、鳥がいる?」
話を合わせようと思った。
少女はうなずいて、「もちろん」と答える。
ばかばかしくて笑ってしまいそうだった。
「こんなに大勢の人が、皆、記憶を預けにここへ来たのですか」
「そう」
「記憶を失くしてしまって、困らないでしょうか?」
「それでも構わないからここへ来るんでしょう? ……きみも」
まさか。
正直に答えそうになる唇を引き結ぶ。
今までの生活が激変しても構わない――それほどまでに何かを忘れたいと求めたことは、私にはない経験だ。
すべてを失ってでも逃れたい過去なんて。
それはどんなものだったのか。
血の気が引いて、寒気を感じた。
己の肩を抱いて部屋を眺める。
そうするつもりはなくても、私は無意識に彼の鳥を探していた。
見たって分からないのに。
自分への苛立ちが、別の言葉になってルクレイに向かっていった。
「守っている必要がありますか? だって、捨てられた記憶でしょう?
辛い過去なのでしょう? それを、こうして住まわせておくのはなぜ?」
理解できない状況は、言葉にすると余計に納得し難く思えた。
嫌悪感が膨らんで抑えきれないままに、言葉が口をついている。
「いらない鳥なら、殺してしまえばいい」
「だめだよ」
静かに、しかし強く、少女は答えた。
「それだけは、絶対にだめだ」
この子が何かに対してこんなに強い意志を示したことが意外だった。
思いがけない反応に驚いて、咄嗟に何も言えなくなる。
「……ごめんなさい」
やっと、それだけ呟く。
少女はいつもの柔らかく曖昧な微笑みを浮かべてうなずいた。
「遠ざけられた思い出でも、辛いことだとは限らない。
幸せな思い出もここにはたくさんあるよ」
「どうして? 幸せな記憶なら捨てる必要ないでしょう」
ルクレイは傍らの脚立に腰を下ろす。
梁に吊るされた鳥篭を見上げ、ふと眩しそうに目を細めた。
「どうしてだろう。ぼくにも不思議だ」
ルクレイは部屋を見渡す。
沢山の鳥篭を、その中に抱かれた鳥たちを。
「――前に、こんなお客さんが来たよ。
幸せでいるのが怖いんだって。
今が人生で一番幸せだけど、それはいけないことなんだって自分を責めていた。
自分には幸せになる資格なんてないって言っていた」
少女曰く、その旅人はこう言った。
『私はそんなに善良な人間ではないのに』
幸せであることを自覚すればするほど、過去が、こちらをじっと見つめて言うのだ。
裏切り者、と。
幸せになる以前はこんなに辛くなかったのに。
幸せになってから、毎日が不安だ。
いつかひどい出来事が起きてこの幸福が終わるのではないかと怯えて暮らすようになった。
それはほとんど妄想になって、毎晩毎晩彼を襲った。
だから彼は苦しみ悩んで、森を訪れたのだ。
自殺のための道具を持って。
まだ幸せなうちに、せめて自分の手で終わらせるために。
「幸せな出来事が苦しみを与えることもあるんだ。
あまりに身に余る幸福に戸惑って、押しつぶされてしまう人もいる。
満たされていないほうが安心できる人もいる。不思議だね」
ビクトルもそうだった。
彼がもし幸福な経験を持たなければ、あれほど悩みはしなかっただろう。
「――そういうお客さんも、いたよ」
ルクレイは話を終えて息をつく。
私の胸のなかで、うるさいくらいに鼓動が打っていた。
「その旅人は、どうなりましたか?」
「それまで暮らしていた場所とは別の町へ行った」
それは、誰?
声になる寸前でその問いかけを飲み込む。
どんな客だったのか、事細かにたずねたかった。
もしかして彼ではないかと確かめたかった。
でも、何もかもがもう手遅れだ。いまさら、意味はない。
「いつか、その思い出が必要になるかもしれない。
またその思い出に励まされるときが来るかもしれない。
そのときのためにも、鳥を傷つけてはいけない」
「忘れたくて手放した記憶を、もう一度必要とするなんて、都合のいい話です」
「そうすることで前に進めるなら、ぼくは賛成だ。
苦しみ続けるくらいなら、手放しちゃえばいい。
いつか準備ができたとき、もう一度出会えばいい」
ご立派な御託を並べ、少女は微笑む。
不快感が抑えられなくて、私は胸を押さえる。
「……あなたは人助けをしているのですか?」
「ぼくが?」
少女は意外そうに目を開き、首を横に振った。
「ぼくはここにいるだけ。
もしお客さんが助かったっていうなら、それは彼らがそう望んだからだ。
自分で自分を助けただけ」
少女がここで暮らす理由が分からず気持ちが悪かった。
なんの見返りもなく他人の世話を焼く暮らしをしているなんて不気味だった。
何が目的なのか、どんな利益を求めているのか。
せめて自己満足の人助けでもしているのであれば理解できる。
何か対価を求めているのであれば。
「じゃあ、なぜあなたはここにいるのですか?」
「ぼくもみんなと同じだよ」
「同じ……?」
ルクレイにも、忘れたいことがあったのだろうか。
意図の曖昧な答えは、推察するにも情報が不足していた。
少女は勢いをつけて脚立を降り、手からぶら下げた鍵を揺らす。
「お腹空いちゃった。何か、おやつを作ってよ。ぼくも手伝う」
「そうですね――」
部屋を出る少女のあとに続き、立ち去る寸前、もう一度鳥篭と鳥の群れを眺めた。
彼女の話を頭から信じたわけじゃない。
けれど不思議と、頭のどこかで『そうなのかもしれない』と説得されている私もいた。
こんな場所で、当たり前のように不思議なことを言う子供。
尋常ならざる出来事を信じたくなるような演出が整っている。
これが手口なのだ。人を騙し、惑わし、操る。
何が目的かは知らないけれど、私は騙されない。
――彼を殺したのはこの森だ。この少女だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます