一番の方法〈2〉


 そうして一週間も暮らすうちに、私は屋敷での生活に馴染んでいた。

 すべての部屋を掃除し、暖炉を甦らせ、庭の雑草をむしり、三度の食事を準備して――。

 誰かの身の回りの世話をして過ごす、昔と同じような暮らし方に安心感さえ覚えた。しかしそれは、私に欠落を思い出させる何よりの条件だった。

 ここはあの屋敷ではない。

 この屋敷の主は彼ではない。

 私の旦那様は、もうどこにもいない。


「……」


 ため息をつくと埃が舞った。思わず顔を背ける。

 百年も閉ざされていたような裏庭の納屋を開け、中を覗いていた。

 まるで記憶の扉を開き過去を覗き込むようで、つい、考えてしまったのだ。

 過去の暮らしと、彼のことを。


 改めて、納屋の中へ首を突っ込む。

 日光に温められた埃と黴の匂いがする。

 今日はここを整頓しようと思っていた。

 想像したよりも中は整然としていて、意外にも散らかってはいない。

 使い古した農具や、栽培用品が几帳面に並んでいた。

 長らく使われた様子はない。

 これなら簡単な掃除だけで済むだろう。


「――ごめんください」


 ふいに、人の声が聞こえた。

 埃っぽい闇から目を逸らし、ここからは見えない玄関の様子を伺う。


「ごめんください」


 男の人の声だった。

 か細く不安そうだ。ルクレイには聞こえていないのか、ドアの開く気配はない。

 仕方なく納屋を離れ、屋敷の庭先へ向かう。


「何かご用でしょうか」


「わあっ」


 男はあとずさった。

 人を呼んだくせに、いざ人が姿を表すと、それが信じられない出来事のように動揺している。

 男の旅支度は軽装で、濃い金髪が日の光を受け輝いている。ずれた眼鏡を押し上げて彼は居住まいを正した。


「あの、突然すみません。僕はビクトル。噂を聞いて――」


 柔和な物腰と言動が、無害な印象を受ける。

 いかにも噂などを頼りにここまで来てしまいそうな、善良な人間に見えた。


「噂とは?」


「森に入ると、嫌なことを忘れられるって……」


「何か忘れたい記憶がおありですか」


「……それが、迷っています。だから、まずは訪ねてみようと……

 あなたがそのカウンセラー?」


 噂をどう解釈したのか。

 彼は私を見つめてそうたずねた。


「いえ。私は……屋敷の使用人です」


 私も立場としては彼と同様の客人だ。

 しかし、詮索されると面倒だから事実を伏せた。

 咄嗟の判断だったが、これは都合がいい。


「屋敷の主を呼びます。客間で少々お待ち下さい」


 ビクトルを居間へ通し、ルクレイの姿を探した。

 彼女の日課の散歩はもう済んでいる。

 戻ってきた姿も見たから、間違いなく屋敷のどこかに居るはずだ。

 二階に上がり、少女の部屋のドアを叩くが返事はない。

 その隣室の、緑色の扉を眺めた。

 この部屋に入ったことは一度もない。

 鍵がかかっていて、ルクレイでなければ入れないのだ。

 念のためにノックをして、反応がないことを確かめる。案の定、気配はない。

 残るはサンルームだ。



 屋敷の隣に建つ、巨大な鳥篭を思わせる建物。

 サンルームの窓は積年の汚れで曇っていて、中の様子は窺えない。

 ドアを開けてすぐに、私は少女を見つける。

 たっぷり日の光の降り注ぐソファの上で、少女は横になっていた。

 

 やっぱりここだった。


 ルクレイは日光浴をして、そのまま眠ってしまった様子だ。

 僅かに開いた唇から健やかな寝息が聞こえる。

 急に、鼓動が大きくなって、私は胸を押さえた。

 どくん、どくんと脈が打つ。

 周囲を見渡し、それを見つける。

 大きな植木鉢がサンルームの壁に沿って並んでいた。

 どれでもいい。

 どれかひとつを抱えて、この小さな頭蓋骨めがけて打ち下ろすのだ。

 それで、目的は果たされる。鉢の割れる音が、同時に水の弾けるような音が響いて、ソファに赤い染みが広がる。

 私の頭の中で、少女の死体ができ上がる。

 けれど視界に映る光景は何ひとつ変化せず、動き出せない私の身体にぶら下がった腕の先で、指が震えている。

 意気地なし。

 ちがう。

 今じゃない。

 まだそのときじゃない。


「ルクレイ。起きてください。お客様です」


 頭の中のサンルームで植木鉢を力いっぱい打ち下ろした私の腕が、母親のように優しく少女の身体を揺する。


「ん――。お客さん?」


「はい。居間で待っています」


 寝ぼけた瞼がゆっくり開き、数回の瞬きのあと、また閉ざされてしまった。

 かと思うと、ぱっちりと目を開き、勢いよく身体を起こす。


「お客さんだね! ありがとう、すぐ行く」


 はっきりと目を覚ましたルクレイが弾むように駆け出した。

 私は妄想と一緒にサンルームに取り残され、傍らのソファを見下ろす。

 そこに、一瞬、少女の死体と割れた植木鉢を見た。

 一度目を閉じて、再び目を開けると、ソファの上には少女が眠っていた余韻も残っていなかった。



 ビクトルは数日のあいだ、屋敷に滞在することになった。

 客人の世話も任せてほしいと申し出ると、ルクレイは快くうなずいてくれた。

 これで屋敷の使用人だと名乗ったことも嘘ではなくなる。

 客人のための部屋を整え、三人分の夕食を用意した。

 風呂の準備も済み、あとは明日の着替えを探し出せばいい。

 あのクローゼットの中を漁ればそれらしいものは見つかるだろう。

 彼が帰るまで、今しばらくは仮の務めを果たそう。


 今日のメニューは白身魚と豆の煮込み料理だ。

 三人で囲む食卓を前に、ビクトルは胸を打たれたように硬直する。


「どうしたの? ビクトル」


「苦手な食材がありましたでしょうか。申し訳ございません」


 用意した食事に何か問題があっただろうか。

 事前の確認が抜けていたことに気づく。


「いえ、とんでもない。嬉しくて胸がいっぱいになってしまって。

 こんなふうに誰かと食事をするのがとても久しぶりなんだ。

 それで――思い出してしまった」


 俯いて肩を震わせる。

 ふいにこぼれた雫がテーブルクロスに染みを作った。

 彼の涙だった。


「すみません、食事の前にこんな……」


 ビクトルは眼鏡を外し、袖口で涙を拭う。


「……僕は妻を亡くしたんです。もう何年経つのか……

 それからこんなふうに誰かと食事をしたことがなくて。

 いつもデリバリーなんかの適当な食事でした。

 それで思い出さないようにしていた過去が、二人で食事をした思い出が、突然立ち返ってきたみたいに。まるで、まだミリヤムが――

 妻が隣にいるみたいな気がして、すぐに勘違いだと気づいて」


 彼は、喪失の痛みを再び体験したのだろう。

 もう涙の止まった顔を上げてルクレイを見ていた。

 そうして再び食卓を眺める。


「とても美味しそうです。ありがとうございます。冷めないうちにいただきます」


「うん。まずは食べて、お腹一杯にして。それからゆっくり話を聞かせて?」


「ありがとう、ルクレイ」


 涙の滲む目尻を下げ、ビクトルは微笑んだ。

 彼も親しい人を亡くしている。

 そして、何かを忘れるためにこの森を訪れた。

 一体何を忘れるために? 愛する人の思い出を?

 それとも、愛する人を亡くしてからの日々を?

 あるいは全く関係のない何か別の事柄について?


 食事は進み、ルクレイはビクトルと他愛ない話をした。


 森へくる鳥の話。湖で見た魚のこと。

 庭で見かけた動物の話。

 ここ数日の月が眩くて夜が明るいこと。

 ビクトルは楽しそうに少女の話に相槌を打った。


「ミリヤムは料理が上手かった。レストランへ行くのがばかばかしくなったよ。

 出かけた先で食事をするのは稀だった。

 必ず家に戻ってきて、ミリヤムの手料理を食べる。それがすごく嬉しかった。

 彼女と、二人の部屋で長い時間を過ごすことが幸せだった。

 だから、彼女がいなくなった今、二人のために用意した部屋で暮らすのは辛すぎる。すべてが一揃いなんだ。僕のものと彼女のもの。

 タオル、カップ、室内履き、椅子――些細なものまで。

 持ち主がいなくなってしまったそれらを、まだ捨てることができない」


 食事を終えて、二人はリビングのソファに移った。

 彼らのもとへ食後のお茶を運び込む。


「……忘れたいの? ミリヤムのこと」


 ルクレイの問いかけにビクトルは緩慢に首を横に振った。


「分からないんだ。でも、今のままでいるのが苦しい」


「悲しみを忘れたい?」


「違う――僕は逃げちゃいけない。忘れるなんて、そんなこと許されないんだ。

 僕は――、僕は……」


「いいよ、ビクトル。急がないで。焦っちゃだめ」


 二人の前にカップを並べる。

 ビクトルはすぐに手に取って、熱い紅茶を喉へ流し込んだ。

 彼の吐き出す息は重たく震えている。

 二人の邪魔にならないよう、私は厨房へ引っ込んだ。

 会話は充分に聞こえる。

 ルクレイは彼をどうするのだろう。

 この森ではいつも何が起きているのだろう。

 私は、知りたかった。

 記憶を失うとは何かのたとえ話なのか。

 仮に事実だとしたら、ルクレイはどのような方法で人から記憶を取り除くのか。

 催眠、暗示、薬物。――魔法だとしたら驚きだ。

 私だってルクレイのことを言葉の通りの魔女だと信じたわけじゃない。

 この少女が魔法の呪文を唱えて人から記憶を抜き取る光景も、想像するのは難しかった。


「ルクレイ。この森で、人は記憶を失う?」


 落ち着きを取り戻して、ビクトルがそうたずねる。


「うん。その人が本当に忘れたいことなら、忘れられる」


「本当に忘れたいこと――」


「それは、ビクトルでさえ気づいていないことかもしれない」


「じゃあ、忘れたことに気づかないことも?」


「そういうことも、あるよ」


 沈黙が降りる。

 食事の後片づけをしながら、二人の会話を待った。


「僕は毎日悩むんだ。

 なかったことにできたら、もう苦しまなくて済むんじゃないかと。

 彼女に関わった記憶のすべてを消してしまえたら」


 ためらいながら、彼は打ち明ける。


「でも同時に、そうすると僕は今までのすべての幸福な記憶を失う。

 僕からミリヤムの記憶を取り除いたら、それは僕の人生の半分――

 いや、すべてに等しいかもしれない」


「それが本当にきみを苦しめるなら、きみはミリヤムのことを忘れるよ」


「苦しい。でも同時に救われている。それがまた僕を苦しめる。

 堂々巡りなんだ。ずっと、輪を描いている。

 苦しみも救いも同じものから与えられている。

 ミリヤムが僕を救うのに、ミリヤムが僕を苦しめる」


「ここでしばらく過ごすうちに、きっときみは何かを忘れる。

 それまでここにいるといい」


「忘れても――いいのかな。僕は。

 逃げたいんだ。苦しい記憶から。でもそれはだめだ。分かっているのに……」


「一度、休憩するだけでしょう? 大丈夫だよ」


 甘い、柔らかな言葉ばかりが聞こえる。

 すべてを許し、受け入れる、無責任な台詞ばかりを用いて、ルクレイは客人を慰めた。

 いつもそうやって客を弄んでいるのだろうか。

 それこそが魔法の呪文なのかもしれない。

 

 やがてビクトルは浴室へ向かう。

 少女は居間に残った。


 私は新しいお茶を淹れなおし、彼女のもとへ運ぶ。


「ありがとう。きみの淹れるお茶、美味しいよ」


「気に入っていただけて何よりです」


 私は少女の挙動を見守る。

 ティーカップを持ち上げて、少女はお茶の香りを楽しんだ。

 適温を待っているのかすぐには口をつけない。


「きみはどう? 忘れられそう?」


「まだ分かりません。何かを忘れたようには思いません」


「うん。焦らないで、のんびり待つといいよ。

 その必要があれば、じきに忘れられる」


「不思議なお話です。どうして人は記憶を失うことができるのでしょう。

 ここは魔法の森?」


「さあ、どうだろう」


 ルクレイは微笑んで、カップに口をつけた。

 その微笑みの下に、何を隠しているのだろう。

 この森には一体どんな仕掛けがあるのか。

 今は様子を見よう。



 ビクトルは滞在日数を重ねながら、少しずつ事情を打ち明けた。

 そうして、とうとう、彼は告白した。

 朝食にほとんど手をつけず、コーヒーを飲んでいた。

 彼の様子は、まるで熱した鉛でも飲んでいるかのように苦しげだ。


「僕がミリヤムを殺したんだ」


 そうして、深く息をつくと、彼は話をはじめた。

 自身が妻の死因を作ったこと。

 それは過失から起きた不幸な事故だったこと。

 法で裁かれることはなく、周囲の誰もビクトルを責めなかった。

 ビクトル以外の誰も、ミリヤムの死の原因が彼にあることに気づいていない。

 いまさら言ったところで周りの人間はそれをビクトルの自責の念だと解釈する。

 ミリヤムを失ったことに伴侶として責任を感じているのだ、と。

 そして、今まで以上に彼を慰め励ますのだ。


『君は悪くないよ、ビクトル』


『あれは不幸な事故だ。君のせいじゃない』


『ミリヤムが君を責めると思うか? 事故に遭ったのは君のせいだと?』


『仮にそれが事実でも、ミリヤムは君を恨みはしないよ。君を愛していたんだから』


 降り積もる自責の念と、ミリヤムとの幸福な思い出が、彼を苦しめ続けている。


「忘れちゃだめだ。忘れることは罪だ。

 忘れずにいることが、せめてもの償いだ。

 分かっている。

 ミリヤムは僕を恨まない。憎まない。

 だからこそ、僕だけは、僕を罰していなくては」


 厨房に入り、居間から響く声に聞き耳を立てている私には、二人が互いにどんな表情をしているのかは窺い知れない。

 しばしの沈黙が降りたところへお茶を運び、古いカップと取り換える。


「だから――僕は、『忘れたい』というこの気持ちを忘れたいんだ。

 忘れて楽になりたいなんて考えてしまう、この気持ちを。

 僕はずっと覚えていなくてはならない。彼女を殺したのは僕だ」


「大丈夫。忘れられるよ。それが、きみに必要なことなら」


 少女は断言を避けた。いつもそうだ。

 曖昧な言い方で来客を丸め込む。


「――そうだ、散歩に行かない? 見て、今日はいい天気。

 日の光を浴びよう。きっと気分が変わる」


 ルクレイの言う通り、今日は清々しい快晴だ。

 お茶に口をつけて、ビクトルは窓の外を眺める。


「行こうかな。森を案内してよ」


「うん。そうだ、鳥篭を持っていこう。鳥が見つかるかも」


 ルクレイは出かける支度のために居間を出た。

 私も一礼し、居間に客人を残して厨房へ戻る。

 去り際、背中に彼の声が聞こえた。


「あなたも、ここで何かを忘れましたか?」


「――いえ。私は、何も」


 振り返ると、色濃い迷いを浮かべてビクトルがこちらを見ていた。

 忘れるべきか否か、彼はまだ迷っている。

 私には理解できない。


「私は、何かを忘れたいと思ったことはありません」


 突き放すような言葉になってしまった。

 けれど、ビクトルは表情を変えずにうなずく。


「そうですよね」


 そうだ。私は、忘れてはいけない。

 ここへ何をしにきたか、それは何のためなのか、はっきりと覚えている。

 忘れられるわけがない。これまでの苦しみを。

 それが一体誰のせいで訪れたものだったかを。


「お待たせ、ビクトル。出かけよう」


 ルクレイが戻ってきた。

 身体をすっぽりと覆うローブを着て、空の鳥篭を提げている。


「留守番を任せてもいい?」


「ええ。もちろんです。行ってらっしゃいませ」


「行ってきます」


 客人の手を引き、少女は庭へ飛び出した。

 そのまま庭を横切って、木々の向こうへ姿を消した。



 夕食の下ごしらえを始めた頃に、二人は帰ってきた。

 携えられた鳥篭には、鳥が一羽。

 大人しく捕まっている。


「ただいま。ぼく、この子を部屋に置いてくる」


 ルクレイはローブを着たまま二階へ上がった。


「ビクトル様。居間へどうぞ。お茶を入れましょうか?」


「いえ、ありがとう。久々に歩き回ったからか、とても眠いんだ。

 夕食まで部屋で休むよ」


 すでに夢を見ているような目をしてビクトルが答える。

 それから彼は部屋に引っ込み、夕食になっても姿を現さなかった。

 そのまま、朝になるまで、部屋から出てこなかった。


 

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