EP08:一番の方法

一番の方法〈1〉

 

 その森で、人はひとつ記憶を失う。

 噂を確かめるために、私は森へやってきた。

 嘘か、真実か、どちらであれば私は満足なのだろう。

 迷いの霧に包まれて、自分でも本心が分からない

 一歩ごとに惑う心を抱えながら、森を進む。


 ――彼もこうして歩いたかしら。


 薄暗い森を、微かに踏み均された痕跡を選びながら、魔女の住む屋敷を目指したのだろうか。

 そんな屋敷が見つかるわけがない。

 ただの噂だ。ありえない。人が記憶を失うなんて。

 でも、噂が本当だったらいいのにと願う自分がいる。

 なぜなら、噂がただの噂だったら、私は酷く傷つくだろうから。

 でも、噂が本当だったところで、少しも慰められないだろう。


 一歩踏み出すことに、定まらない気持ちが揺れる。

 やがて、木々が開けた場所に、その屋敷が現われた。


 見つけてしまった。


 驚きと、落胆と、まだ半信半疑の気持ちを抱え、私は屋敷に歩み寄る。

 まだ、分からない。全くの無関係な家かもしれない。

 屋敷のすべての窓をカーテンが覆っていて、なかの様子は窺えない。


 今、二階の窓で何かが動いた。


 開いた窓からカーテンがはためいて、やがて、屋敷の住人が私を見つけた。


 にっこりと、笑う。


 その姿はすぐに窓の奥へと遠ざかる。

 小柄な体格だった。遠目には子供に見えた。

 女の子だ。


 立ち尽くす私を出迎えるために、玄関から元気よく飛び出してこちらへ歩み寄る。 

 一見すると少年のようだ。

 しかし白くきめの細かい肌が、血色の良い唇の赤さが、華奢な首筋が、彼女の性別を示していた。

 

 彼女が魔女? 魔女の召使だろうか。

 それとも、ただ偶然ここに暮らしているだけ?


「いらっしゃい。道に迷ったの? それとも――」


「私は。……ここに、森に、用があって……」


 強く脈打つ心臓が会話の邪魔をする。

 少ない言葉で私の伝えたいことをすべて察したように、少女は小さくうなずいた。

 受け入れないで欲しかった。否定して欲しかった。

 噂のせいで迷惑してるって言って、追い返してくれたらよかったのに。

 そしたら私も『あんな噂信じて馬鹿だったわ』って腹を立てて、来た道を引き返すことができたのに。


「ぼくはルクレイ。お客さんは大歓迎だよ」


 快く迎え入れられ、私は従った。

 迷いの霧はもう晴れた。

 ずっと揺らいだままでいた覚悟が固まった。

 私は、この屋敷で、きっと目的を果たすだろう。


 1.


 屋敷には、ほかに人の気配はない。

 ルクレイは私を居間に案内するとどこかへと姿を消した。

 そのあいだに、部屋をじっくりと観察する。

 暖炉は火が絶えて久しい様子で寒々としている。

 大きな来客用のソファとテーブルが並び、床に読みさしの本が積み上げられていた。埃をかぶっているところを見ると、しばらく放置されているようだ。


 本当に、少女はここで暮らしているのだろうか?

 そもそも、私をここまで案内した少女は実在しているのだろうか。


 疑念が頭をもたげた頃にルクレイは姿を表して、何か温かな飲み物の満ちたカップを私へ差し出した。


「お茶をどうぞ」


「ありがとう」


 受け取ったカップに唇を触れる寸前、私はそれをテーブルへ遠ざけた。


「もう少し冷めたら……頂きます」


「うん。好きなように」


 私の態度に何か滲み出てはいなかっただろうか。

 こっそり様子を伺うが、こちらを怪訝に思う態度には見えなかった。

 少女は旺盛な好奇心を隠しきれない大きな瞳で私を見つめている。

 話しかけたい気持ちを抑えている。そんな様子だった。

 だから、私から口を開く。


「噂を聞きました。本当でしょうか? この森で、人はひとつ記憶を失うと……」


 ルクレイはすぐには答えない。

 カップに口をつけ、ゆっくりとお茶を飲み下す。

 焦れったくて、再びたずねた。


「あなたが、人から記憶を奪う魔女ですか?」


「ううん。ぼくは魔女じゃない。でも、この森で人が記憶を失うのは、ただの噂じゃないかも」


 だとすると、ほかに誰かが住んでいるのだろうか。

 その人こそが、魔女なのか。


「ほかにも、ここへ、人が来ましたか?」


「うん。時々ね。何かを忘れるために、お客さんがやってくる」


「そう――。誰か一緒に住んでいる人は?」


「ほかには誰も」


 少女は答える。

 ひとりきりで暮らしている寂しさは窺えない。

 ほかに誰も住んでいないというなら、やっぱり彼女が魔女ではないのか。


「きみはどう? 忘れられそう?」


 私も何かを忘れるためにここへ来たのだと思ったようだ。

 彼女にとっては、それが当然のことなのだろう。


「私は……」


「いいよ。焦らないで。もしも時間が許すなら、ここでしばらく過ごすといい」


「ありがとうございます」


 親切そうな提案が私の神経を逆撫でする。

 そうやって、彼にも促したのだろうか。

 ここで休んでいくように――すべての記憶を忘れるまで。

 私は絶対に忘れない。

 何ひとつ、忘れる必要はないからだ。


「お言葉に甘えます。お世話になります、ルクレイ」


「うん。気ままに、好きに過ごして」


「ええ。せめて、家の仕事を手伝わせてください。構いませんか?」


「いいの?」


「私、家事をするのが好きですから。そういう仕事をしていたから。

 それに、何もしないのは落ち着かない性分ですので」


 ルクレイは嬉しそうにうなずいて、私を案内してくれた。


 一階は、客間と、荒れ果てた裏庭。

 浴室、洗面所、サンルーム。

 古い厨房では調理器具に埃が積もっている。

 よく使う鍋はひとつだけ、お湯を沸かすために用いているのだろうと窺えた。


 二階には少女の寝室と広々としたバルコニーがあった。

 階段を上ってすぐに見える緑色の扉の部屋については説明されないままだ。


 屋敷の間取りを一通り把握して、分かったことがいくつかあった。

 本当にほかに誰も住んでいないこと。

 少女はあまり家事をしないこと。


 気ままに奔放に、そのときを過ごしたいように暮らしている様子が伺えた。

 私が寝起きするためにと与えられた部屋にも、放置の気配が色濃く染み込んでいた。

 長らく干していないシーツの匂い。

 埃まみれの調度品。

 生活感がないのだ。

 廃墟になりかけている家。そんな印象を受ける。

 居間へ戻ると、ここがほかの部屋より少しだけ人の気配があったのだと分かる。よく見れば、放り出されたブラシや脱ぎ捨てられたシャツが、昨日履いていたような靴下が、ソファの傍らに散乱しているのだ。


「本当にひとりで住んでいるのですね。ずっと、森の中に? 親や、家族は?」


「ずっと森の中にいる。親や家族のことは知らない」


 ほとんど復唱するだけの答えを寄越す少女の口ぶりは、それに対して少しも関心がないようだった。


「そうですか」


 でも、それが分かってよかった。

 これからやり易くなる。障害は少ないほうがいい。


「何か必要なものがあったら言って。この屋敷にないかもしれないけど……」


「お気遣いありがとうございます。大丈夫です」


 ルクレイが親切そうに振る舞うたびに、私は叫び出したい気持ちになった。

 彼女は一見すると無害な子供だ。

 その姿に来客は油断し、安心し、心を開くのだろう。

 でも、きっとそれが狙いなのだ。

 非力な少女に見せかけることで、他人の懐に入り込む。そうやって人から記憶を奪うのだ。

 彼にもそうしたはずだ。

 おさえていた憤りが胃のあたりで熱を持つ。

 身体中が怖気立って、心から少女を嫌悪した。


 ――ルクレイ。

 それがあなたの名前。

 私が復讐を果たすべき、魔女の名前だった。


    ◆


 朝六時にきっちり起床する。

 目覚まし時計がなくても、夜遅くに眠りに就いた日にも、自然と目が覚めた。

 長年染みついた習慣は、環境が変わっても揺らがない。

 とても静かな朝だった。

 人の気配がどこにもない。

 開店に備えて働き始める人々のお喋りも、オフィスへと向かう足音も、泣き出した赤ん坊とそれをあやす母親の歌声も、学校へ出かけていく子供たちの元気のいい挨拶も。 まるで、そんなものは世界に一度だって存在したことがないように、森は沈黙している。

 静寂を不気味に感じた。


 私は支度を調えて厨房へと向かう。

 埃の積もる食器や鍋を洗い、何か朝食になりそうなものがないか、貯蔵品を検討した。 戸棚に雑然と詰め込まれた品々から食べられそうにないほど傷んでいる食材をよけ、小麦と卵とバターを探し当てる。

 朝食のためにスコーンを作った。

 温かい紅茶が合うだろう。

 茶葉を探し出し、湯が沸くのを待つ。


「おはよう、早いね」


「……ルクレイ」


 震えずにいるのが精一杯で、声がか細く響いた。

 大きなシャツを一枚、ワンピースのように着ている。

 サイズの合わないシャツを寝間着にしているらしい。

 起きたばかりという様子でもなく、はっきりした目で私を見上げる。


「それ、朝ごはん?」


「ええ、スコーンを焼きました」


「料理、上手なんだね。嬉しい」


「食べてもらう前に褒められたら、緊張してしまいます」


「絶対美味しいよ。待ってていい?」


「ええ。でも、その前に着替えてきてはいかがでしょうか」


「着替える? 何に?」


 少女は、何を言われているのか分からないような顔をして、小さく首をかしげる。

 あまり着る物に頓着していないのか、何が不自然なのかも分からずにいる。


「――待っていてくださいね。食事が終わったら、服を探しましょう」


「うん」


 私の言葉の意図を理解しないままに、少女はうなずいて居間へと戻っていった。

 気づけばお湯が沸いていた。

 スコーンは美味しく焼けたけれど、紅茶は古かったのか淹れ方を誤ったのか、とても苦かった。



 ここは、元は誰かの部屋だったのか。

 部屋のクローゼットにはたくさんの衣類が吊るされていた。

 長い年月、誰かが過ごしたと伺わせる気配に手を突っ込んで、適当な服を探す。


「これと……これと、あと、靴下……」


 押し込まれているのは男の子の服が多い。

 大きさはぴったりとは言い難いが、今着ているシャツよりは相応しいはずだ。


「着てみて下さい」


「うん。ありがとう」


 ルクレイはわたしの見ている前で恥じることなく服を脱ぎ、長年しまいこまれた埃っぽい服へと着替えた。見立てのとおり、さっきよりもずっと『服を着ている』という感じだ。

 短いズボンの裾から覗く膝小僧は白く、きちんと肩幅の合ったシャツを着ると先刻よりも身体が一回り小さく見える。


「靴下、落ちちゃうね」


「待っていて。何か――」


 部屋を見渡す。

 ベッドがひとつと空っぽの本棚がひとつ。

 ほかにはクローゼットだけ。やっぱりこの中を探そう。

 視線を戻した先にそれを見つけた。


「丁度いいわ、これを使ってみたらいかがでしょう」


 黒い短いベルトを手に取って、少女へ見せる。

 同じものがクローゼットの扉の内側に並ぶフックにいくつか引っ掛けられていた。


「これ、何?」


「靴下留めです。……そこに座ってください」


 ベッドに腰掛けたルクレイの足下に膝をついて身を屈める。

 不思議そうに私の手元を覗きこんでいた少女が、意図を理解したように足を伸ばした。 靴下留めを少女の足に通して留め具を合わせる。

 ゆるやかな曲線を描くふくらはぎの中ほどより少し上、膝下のあたりで、締めすぎず緩すぎないよう調節を加える。

 指が当たるとくすぐったいのか、少女は時折息を漏らして笑った。


「この留め具に挟んでおけば、靴下が落ちません」


「知らなかった。こんなの、あったんだ」


「普通は服の下に隠しておくものですから――」


 だから、もし彼女が誰かと暮らしていて、その誰かが残していったものだとしても、ルクレイには使い道が分からなかったに違いない。


「便利だね。ありがとう」


 もう方足にも靴下留めを着用して、ルクレイが立ち上がる。

 部屋の中を歩いて、その着用感を確かめていた。

 嬉しそうに微笑む様子を見るに、どうやら気に入ったようだ。


「探せばもっといいものがありそうです」


 クローゼットの中は混沌としていて、奥に何があるか分かったものじゃない。

 衣服も少し黴臭いから、整頓のついでに虫干ししてもいいかもしれない。


 ――何をぐずぐずしているのかしら。


 そう焦る自分がいる一方で、冷静に思う。


 今は準備の期間だ。


 もっと、親しみを与えよう。

 もっと、無害だと思わせよう。

 私はあなたの敵じゃない。私はあなたに親切にするわ。

 そうして、油断した隙に――。


 握りしめた拳が血の気を失う。

 指先が冷たくなっていく。


     ◆


 五回。

 それは、私が今日だけで少女を殺した回数だ。


 たとえば浴室で、お湯を張ったバスタブに彼女の頭を押し込んで、その息が絶えるまで押さえつけることもできた。

 たとえば厨房で、果物ナイフを彼女の背中に突き立てることもできた。

 洗濯物を干したバルコニーで、庭からこちらを見上げて手を振る彼女めがけて、植木鉢を投げ落としてもよかった。

 暖炉のそばでくつろぐ彼女を、火かき棒で滅多打ちにすることだって。

 そして、寝室で眠る彼女の首を紐で縊ることも、私にはできた。


 そのはずなのに。

 まだ彼女は生きていて、私のことを疑いもなく信じている。

 記憶を失うために森へやってきた客人だ、と。


 ――大丈夫。焦らないわ。


 ふさわしい瞬間がきっと訪れる。

 そのときに、私は何もかもから解放されて、自由になる。

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