空の寝台〈4〉
4.
メルグスは日が暮れてからようやく帰ってきた。
これから一ヶ月篭って過ごすつもりかと尋ねたくなる荷物を抱えて、だ。
小麦の大袋を二抱えに、さまざまな食材と日用品。
常備薬に、よく冷えたゼリーもあった。紙袋のスタンプからレモンと蜂蜜のゼリーだと分かる。
買ってきた品をすべて所定の場所に配置しながら、ゼリーの袋と薬を俺へ差し出した。
「食欲がないようなら、これと薬をルクレイに。それですぐ良くなります」
正直なところを言えば、メルグスが帰るまでにルクレイはだいぶ良くなっていて、だけどゼリーが食べたいから、彼女の前ではまだ調子の悪いふりをした。取り上げられるわけでもないだろうに、子供らしい用心深さがおかしかった。
階下で忙しなく働くメルグスの気配がある。
ルクレイはベッドの上で瓶詰めになったゼリーを食べた。
匙ですくった透明なそれを口に含んで、目を閉じて美味に浸っている。
満足そうに吐息して、もう一匙。
「悪い子だな」
「たまにはね」
答えて、少女は笑う。つられて、俺も笑う。
くっくっく、と、堪えきれずに声が漏れた。
あんなに不安げにしていたのに。
治った途端に調子に乗って、気ままな様子がおかしかった。
ルクレイはメルグスの帰還に心の底から安心した様子で、食べ終えてすぐにまた眠りに就いた。
それから、朝までぐっすり眠り続けた。
◆
食卓からいい匂いがする。
焼きたてのパンの匂い。淹れたてのコーヒーの匂い。
はりきって働くメルグスの姿が目に浮かぶ。
――朝が来た。
離れがたい心地良さの毛布を抱きしめて寝返りを打つ。
持って帰りたい、と半ば本気で思う。でも毎日この毛布で眠っていたら、出勤が嫌になって仕方がないだろうな。
二度寝への甘い誘惑に抗ってようやく目を開けた。
柔らかな日差しがカーテン越しに部屋を照らしている。
見ずとも分かる快晴の気配が窓の外に広がっている。
「おはよう、ハウザー」
食堂ではすっかり着替えを済ませたルクレイが待っていて、もう朝食を終えてお茶を飲んでいる。
ベッドの中で小さくなっていたあの姿とはまるで別物だ。なんだかそれが笑えてきて、口の中で笑い声を堪えていると少女が頬を膨らませた。
「何笑ってるの」
「いや。元気になってよかった」
「うん。おかげさまだよ。ありがとう」
「こちらこそ、連泊してしまって。世話になった」
素直な反応を新鮮に思う。
礼儀正しく挨拶を欠かさなかったあの子を思い出した。
あの子も、些細なことにお礼を言う子だったのだ。
「お医者さまに居てもらえて幸運だった」
「何もしていないよ、俺は。風邪を引いたのも元はと言えば俺のせいだし――」
「ううん。心強かったよ。きみの忠告がなかったら、ぼくはもっと長く寝込んでいたはずだ」
そう言って笑う。
もうすっかり元気な様子に心から安堵する。
「朝ごはんを食べて。今日こそ町のほうへ送っていく。待たせてごめんね」
とんでもないよ、と頭を振った。
少女はにこっと笑って、メルグスを手伝いに厨房へ向かう。
食事が次々と運ばれてくる。
焼きたてのパン。淹れたてのコーヒー。温かい目玉焼き。準備された食後の甘味。
全てが他者の手によって用意される。
なんて贅沢な休日だろうか。
いちいち感激しながら食事をするさまを眺めて、ルクレイは終始にこにこしていた。人が何かを美味しく食べている姿を見るのが好きみたいだ。
たっぷり味わい、コーヒーのおかわりまでして、優雅な朝の余韻に浸る。
ふいにルクレイが問いかけた。
「ねえ、ハウザー。少し時間ある?」
「うん?」
「一緒に来て欲しいんだ」
どこへ。何をしに。
疑問符を浮かべて首を傾げるが、少女は説明を加えなかった。
案内されたのは、鍵で施錠されたあの部屋だった。
手にした鍵でドアを開け、少女は俺を中へと招く。
ルクレイは部屋のカーテンを除け、窓を開けた。
朝の陽射しが室内を照らす。眩しさに瞼を閉ざす。
再び目を開け眺めた部屋の中には、当然ながら先日と同じ光景が広がっていた。
鳥篭と鳥。
呆れるほどの物量。
手に負えない収集家の部屋だ。
「きみの鳥は、ここにいる?」
ルクレイは部屋の中ほどまで歩み、振り返ってそう尋ねた。
「俺の鳥? いや、俺は鳥を捕まえられなかったし――」
少女は俺の答えにゆっくり首を横に振る。
そうじゃないよ、と言うように。
「俺の――鳥?」
「そう。きみの、記憶の鳥」
それは、一体、何のことなのか。
――この森で、人はひとつ記憶を失う。あるいは、思い出す。
とっくに関心の薄れた例の噂話がふいに思い起こされた。
「鳥は森へ思い出を抱えてやって来る。また旅立つまで、彼らはこの部屋で過ごす」
改めて眺める部屋の中で、鳥たちは静かに呼吸する。
来客の動向を窺っている様子だ。
記憶の鳥。
森の噂になぞらえて例え話をしているだけかもしれない。
子供じみたごっこ遊び。そうかもしれない。
でも、何故か胸が高鳴る。
その鳥に会いたい、と期待してしまう。
「いるのか、ここに」
少女は控え目に頷いた。
それを取り戻したら、どうなるのだろう。
俺の中で何かが変わるのだろうか。
それとも、何も変わらずにまた同じ日々に戻るだけだろうか。
確かめるのは怖い気がした。
でも、確かめないでいるのはもっと嫌だった。
ふいに鳴き声を聞く。
声のしたほうを振り返る。
柱に支えられた鳥篭が窓辺に立っていた。
白い格子の向こうにいるのは、淡い褐色の鳥。
胸元を染める鮮やかな黄色が目を引く。
小さな胸を膨らませて、その鳥は鳴いた。
凛とした鳥だった。
くちばしの先から尾の先まで、美しい曲線が結んでいる。
褐色の翼を広げると根元から先端へと白いラインが走っているのが特徴的だ。
「その子?」
ルクレイの問いかけに、気付けば頷いていた。
鳥篭の扉を開けて中を覗き込む。
また鳴き声が聞こえる。
鳥に向かって差し伸べた手が、ふと硬直する。
「あっ――」
鳥が羽ばたいた。風を感じ、驚いて目を閉じる。
目を閉じているはずなのに、何故か眩しい光を見て、更に瞼に力を込めた。
「先生――」
声が、聞こえた。
彼女の声だ。
目を開けると、目前に窓がある。
窓の手前にはベッドがひとつ。
窓枠で切り取る絵画のような光景。
空に浮かんで見える――
病棟の十階。南最奥の部屋、窓際のベッドだ。
「あ……」
目の前に彼女がいる。
子供同然の背格好で、頭髪が短く少年のようでもある。
細い首と華奢な肩が病の長さを窺わせて痛々しいが、僅かに膨らんだ頬を唇の端で押し上げるようにして笑っていた。
深いえくぼが、彼女の内面の明るさを表している。
森に似た深い緑の瞳で、俺を見上げている。
「先生? どうしたの?」
「いや……」
手を伸ばせば触れられる距離にいて、それなのに動き出すことができない。
これは記憶で、あの日の焼き直しで、俺が今から彼女にしてあげられることなんて一つもない。
もうすぐあの言葉が聞こえる。
そう分かって強く鼓動が打った。
決して自棄など含まれていない、心底からそれが良いアイディアだと信じる調子で、彼女はぽつりと呟く。
「先生も、私のことなんか忘れていいよ」
その瞳が印象的だった。
いつも、笑うと泣くように濡れた瞳。
そうか、彼女には愛おしかったのだ。
彼女に喜びを与える世界が。
この世界には苦痛しかないと考えるのは間違いだと彼女は知っていた。
どんなに小さなことにも喜びを見つけ出して笑っていた。
偽りの感情で無理に笑ったことなど、一度もなかったのだと思う。
笑いたいから、笑っていたんだ。
それに救われていた。
だから助けたかった。
――悔しいな。
胸が痛い。懐かしく、それなのに真新しい痛みが胸の奥で冷たく疼く。
彼女はそっと腕を上げ、うなだれる俺の頬を撫でた。
子供のように小さく、血の巡りが悪い冷たい手。
その手に俺も手を重ねて、やっと言葉を搾りだす。
彼女の名を呼んだ。
「俺は忘れない。あなたのことをずっと覚えています。今度こそ、絶対」
彼女には不本意かもしれない。
でも、望みを叶えてあげられないことを、悪くは思わない。
彼女はまた、ふわりと笑って、困ったように眉を寄せる。
「ありがとう。さよなら」
最後にもう一言。
聞こえた言葉が胸の奥に染みこんで、それは熱になって感じられた。
冷たい痛みが溶けだして、ずっと欠けていた何かが補われたような心地がした。
◆
「ここをまっすぐ行けば、町へ出る」
白昼夢の余韻を引きずったまま、どこをどう歩いたのか、気付けば立ち止まっていた。
ルクレイが指差す先の景色は、まだ当分の間は木、木、木――つまりは森が続いている。
「ありがとう、ルクレイ」
「ううん。待たせてごめん。気をつけて帰ってね」
町でお茶でもご馳走したかったが、それよりも彼女は鳥を探しに行きたがるだろう。片手に空の鳥篭をぶら下げている様子からそう分かったから、執着せずに別れを告げる。
「じゃあ、さよなら」
「さよなら。元気で、ハウザー」
「それはこっちの台詞だ。雨に気をつけて、無茶はほどほどに」
「うん、分かってるよ」
ルクレイは苦笑した。
鳥篭を後ろ手に持ち替えて、身体はこちらを向いたままで、帰り道を一歩進んだ。
なぜだか嬉しそうに俺を見上げて、そっと囁く。
「きみはきっと、これからたくさんの人を助けるよ。今までもそうだったように」
「どうかな。でも、そうなるように努力する」
素直な励ましの言葉は嬉しい。
けれど、それに甘えるわけにはいかなかった。
「それを俺の夢にするよ」
少女は頷いて笑い、やっと踵を返す。
俺も来た道に背を向けて、まっすぐの道を歩み出す。
どこかで鳥が鳴いた。
それを追って駆け出す少女の姿が目に浮かんで、つい笑った。
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