空の寝台〈3〉
3.
「これから町へ行きます」
そう言ったのは相変わらず感情の窺えない顔をしたメイドだった。
また一晩屋敷で過ごし、ここで二度目になる朝食後のコーヒーを貰ったところだ。
彼女はエプロンを外し、出かける支度を調えていた。
「食材と日用品と、薬と、何か栄養のあるものを買いに」
「それじゃあ――」
彼女について行けば町に出られる。家へ帰れる。
だけど。
もしルクレイが目を覚まして、屋敷に誰もいなかったら。
――こんな森の奥の、一人で暮らすには大きな屋敷で。
どんな気分になるだろう。
身体が弱れば心も弱る。
一人で残される心細さは、容易く想像できた。
「俺、様子を見ています。迷惑でなければ」
「では、お願い致します」
それだけ答えると、メイドはさっさと出かけていった。
ルクレイの分の食事がトレーの上に用意されている。
それを二階まで運び、そっと部屋のドアを開ける。
新しい寝間着に着替えたルクレイがベッドと毛布の間に挟まって大人しく目を閉じていた。落ち着いて見えるが、体力を消耗して動けずにいるようでもある。
汗で額に張り付いた前髪を指で払った。
少女は少しも動かない。よく眠っている。
食事をサイドテーブルに置いて、起こさないように部屋を出た。
◆
適当に昼食をとった後。
少女のベッドの傍らで本を眺めていた。
ルクレイは良く眠っていて、少しの物音では目を覚ましそうにない。
テーブルの上には勝手に入れてきたコーヒーが湯気を立てている。
本は客室の本棚に一冊だけ差してあった、意外にも流行の恋愛小説だ。
メイドのものだろうか、あるいはほかの客の忘れ物かもしれない。
この屋敷に人が訪れては去っていった気配がなんとなく感じられる。
「ん。メルグス……?」
毛布が喋ったような、くぐもった声がした。
顔の半ばまで毛布に埋めたまま、少女が目だけで俺を見る。
「お。起きたか。彼女は町へ出かけたよ。買い出しだ」
「まち」
それってなんだっけ、みたいな顔をしている。
まだ頭の半分は夢を見ているようだ。
「腹は減ってる? 飯があるけど」
「ん……まだいらない」
「じゃ、水分をとるんだな。白湯がいいか?」
枕に埋めたままの頭が小さく左右に動いた。
水の入ったグラスを差し出すと、のろのろと上体を起こす。
心配だったから、そのまま手を離さずにグラスを支えた。
白い喉が水を飲み下す。
唇の端からこぼれた一筋が衿に染みこんだ。
タオルを押し当て、ついでに汗もぬぐって、グラスを取り上げる。
「まだ寝ていたほうがいい」
「うん」
素直に頷いてルクレイは毛布を被り直す。
「……メルグスは、いつ出かけたの?」
毛布の中からそう尋ねた。
ルクレイは顔の半ばまで覗かせて俺を見上げる。
案の定、病気で弱気になった顔だ。
一人で残さずに済んでよかった、と自分の判断を褒めたい気持ち。
椅子を寄せ、もう少しベッドに近づく。
「今朝だ。町までどれくらい?」
「分からない。でも、いつも昼過ぎには戻るから」
「じゃ、そのうち帰ってくるだろ」
窓の外は明るい。
少女は悔しそうな眼差しを窓の外へ向ける。
「元気なら出かけていったのに」
ため息を吐く。その頭をごしごし撫でた。
「寝てなきゃだめだ」
言い聞かせると、少女は枕に頭を預けて素直に目を閉じる。
だから俺も、本を手に取って続きを読み始めた。
吐息が聴こえる。まだ鼻の詰まったような呼吸だが、昨日よりは落ち着いている。
眠りと目覚めの合間を行き来するように寝返りを打ち、時折苦しげに唸る。
「ハウザー。……いる?」
「いるよ。何か欲しいものは?」
「ううん……。メルグスは帰ってきた?」
「まだ。っていうか、さっきの確認から一時間も経ってないぞ」
眠りに落ちて、目が覚めて、時間の感覚がつかめないのだろう。
ルクレイは暑くなったのか毛布の上に腕を出した。
ちょうどいいタイミングだから、よく絞ったタオルを額に乗せる。
と、心地良さそうに目を閉じ、深く息を吐いた。
「ありがと」
「どういたしまして」
瞼を薄く開き、また閉ざして、少女が囁く。
「ハウザー、あのね。ぼく……メルグスが町へ出かけるとき、いつも不安になる」
「どうして?」
「またここへ帰ってきてくれるのかなって」
「なんでだよ。使用人なんだろ、彼女。仕事なら、放り出さないだろ」
「仕事じゃないんだ。給金を出してない」
「えっ。じゃあ、家族なのか? 姉とか?」
まさか、と思った通りにルクレイは首を横に振る。
奉仕活動なのか。何か金にこだわらない理由があるのか。
様々な可能性が浮かんでは、あの冷徹な横顔に結びつかずに消えていく。
例えばこの環境を気に入っているとか、少女を心配して世話を焼いているとか。
善意を理由に行動しているようには思えない。
そうではなく、もっと確かなもの、つまりは賃金やそれに準じた見返りに応じているように見える。
もっとも、動かない表情筋の向こう側、彼女の内心までは計り知れないが。
「メルグスがここへ戻らなかったら、彼女にとっても、それは良いことなのに……」
何の話か分からない。
少女の声は夢の中から喋っているみたいにぼんやりと響く。
「大丈夫。戻ってくるよ。さすがに、なにも言わずに消えたりしないだろ」
「……分からない」
「仕事じゃなくて、家族や友人でもなくて、縛るものは何もない。それでもそばにいるのなら、そこまで不安になることはないと思うけど」
つまり、まあ、一般的には。俺は、そう考えるけど。
そこまで伝えると、ルクレイの眉間からふと力が抜けたのが分かった。
少しは安心しただろうか。
病気になると、それまで気にも留めなかったことを不安がってしまう。
その気持ちが分かるから他愛ない心配ごとにも耳を傾けてやりたかった。
「大丈夫だって。もう一眠りしたら帰ってくるよ」
「うん。分かった。帰ってきたら、起こして……」
「了解」
頭をぽんと撫でて、ほっぺたをつまむ。
ルクレイはぎゅっと目をつぶって嫌がってみせ、くすくすと笑った。
それから、大きく息を吐く。
「おやすみ」
囁いて、少女は目を閉じた。
やがて規則的な寝息が聞こえてくる。
懐かしい。こうして、人の寝顔を眺めたことがあった。
何もかも手さぐりで、体当たりで挑んでいた、あの頃だ。
たくさんの失敗を重ねて、恥をかいて、人に迷惑をかけて、皮肉も言われたっけ。
でも、あの過去があるから今に繋がっているのだと思うと、決して消し去りたい記憶でないのだと思う。
忘れたくても忘れられない、というやつだ。
穏やかな寝顔を眺めているうちに、俺まで眠気に襲われ瞼が重くなる。
窓から吹き込む新鮮な風と、静かな木々のざわめき。
カーテン越しの柔らかな日差しと、誰かの深い寝息。
すべてが俺に促している。
眠るべきだ。今なら最高に気持ちいい、と。
喜んで誘惑に応じた。ここで眠っても誰も俺を咎めない。
起きていたって、褒めてくれる人もいないのだ。
この環境の中、眠らないのはむしろ罰当たりだと言えよう。
◆
『私のことなんか忘れていいよ』
そう言ったのは誰だっただろう。
夢から覚めきらない意識の隅で、懐かしい声が聴こえた。
目が覚めて、あまりによく眠った実感があった。
だから、こうしてどれだけ時間が経ったのかすぐには分からなかった。
更に言えば、今がいつなのか、過去に立ち戻ったような気がして、すぐに現状を把握できなかった。
俺は以前の職場にいるのか。
ここは病棟の十階で、このベッドは南最奥の部屋の窓際のベッドなのではないか。
錯覚に混乱する。
顔を上げるとそこには彼女がいて、窓の外に広がる都市を、人の営みを眺めている。彼女はこちらを振り返って、ふわりと笑って、こう囁くのだ。
『私のことなんか忘れていいよ』
忘れていた。
今もはっきりとは思い出せない。
彼女はどんな顔をしていたのか。名前をなんと言ったのか。
微笑みを浮かべる口元と、その声。
姿に影が落ちて、曖昧な印象だけが記憶にある。
――頭を起こすと、まだ窓の外は明るい。
ルクレイが起きていて、何をするでもなく外を眺めていた。
窓の向こうに見えるのは、オフィスビルや大学の学舎ではなく、どこまでも広がる森だけ。
ここは病室ではない。この子はあの人ではない。
「ハウザー、おはよう。よく眠っていた。ぼくよりも」
揶揄するように言う少女は、すっかり調子が良さそうだ。
ずいぶん回復したらしい。
「ルクレイは、いつから起きてたんだよ」
なんとなく悔しい。
悔し紛れに尋ねると、少女は時計を探した。
壁に掛かっている文字盤を数えて「三十分くらい前から」と答える。
振り返って時計を確かめると、思ったより時間は経っていない。
短い間に深く眠る、とても良質な睡眠を取っていたらしい。
おかげで眠気もすっかり消えて頭が冴え冴えとしている。
いつも仕事中こんなふうにすっきりしていたらいいのに、とつい願ってしまう。
「メルグスは戻ってきた?」
少女は「まだ」と首を横に振る。
そしてまた羨むように窓の外を眺めた。
「日が暮れる前に外に行こうかな」
「何言ってんだ、ダメだよ。治りかけが肝心だ、寝てなきゃ」
「もう治ったよ。元気になった」
こんなに良い天気なのに、と惜しむような目で森を見る。
「ちょっと寝て体力が回復しただけだ。ここで動くと悪化して、元よりひどい状態になるぞ。もっとずっと寝込む羽目になるかも。それでよければ出かけたらいい。今日大人しくしておけば明日には治るのになあ」
う、と押し黙る気配に『勝った』と思った。いや、勝負はしていない。彼女を心配しただけだ。
「ちぇ……。寝すぎて、もう眠れない。退屈だな……」
「こんな森の奥で、いつも何をして退屈をしのいでいるのか想像がつかないよ。……鳥か。鳥を捕まえるのか」
「そうだけど」
事もなげに肯定して、不思議そうに首を傾げる。
若い時間をこんなことに浪費していいのだろうか、とふと疑問がもたげたが、俺だって人のことは言えないか。
若い時間を勉強だけに注ぎ込んで、志した職について、でも結果として田舎に飛ばされて、こんな場所で休日を潰している。
「ルクレイは将来何になるんだ?」
過去を振り返ったせいか、思わず過干渉な質問が口をつく。
「将来、なる……?」
はじめて覚えた単語を反復するような調子で呟く。
まったく身に覚えのない言葉を口にするみたいに。
「就きたい仕事とか。行きたい場所とか。やりたいこと――夢とか。何かないのか?」
「あるよ。森に来るすべての鳥に会う」
これしかない、みたいな顔でそう言う。
「そうか」
肩から力が抜けた。苦笑交じりに答える。
「その野心がどれだけ大きいのか、見当もつかないな」
「ハウザーは何になりたかったの? お医者さん?」
「そうだな……。医者になりたかった。ずっと」
そのために、出来る努力はしてきたつもりだ。
勿論、いくつも誘惑はあって、それなりに嗜んだ。
けれど、熱中できることも、夢中になれることも、他に何もなかった。
「なりたいものに、なったんだね」
「そうなるのかな」
結果として、俺は設定した目標を達成して、それは親や他人から見ると『夢を叶えた』という綺麗な言葉で表現できた。
でも、どうだろう、実際は。
俺は、一体何がしたかったんだろう。
「話をしようか。眠れそうな、退屈な話。聞く?」
にわかに少女の瞳が好奇心に輝く。
妙なほどに食いつきがいい。他者の体験談を聞くことで己の不足を補うような、そんな切実さが見えた気がする。――考えすぎか。
彼女は、ただ退屈を紛らわせたいだけだ。
「聞かせて、ハウザー」
頷いて、冷めたコーヒーで舌を湿す。
少し考えてから、あの言葉を復唱した。
◆
『私のことなんて忘れて良いよ』
そう言った女の子がいた。
俺は彼女にそう言われて悲しくなって、言い返したんだ。
『忘れない。絶対。ずっと覚えている』
でも、気付くともう名前も顔も思い出せない。薄情だよな。
あの頃、俺はまだ研修医で、実際に長期の入院患者と接するのは彼女がはじめてだった。
難しい病気だったけど希望もあった。だから自信をもって励まし続けた。
絶対に家に帰れますから。年内には退院させますから、って。
彼女はやっと二十歳を越えた頃で、だけど長い病気のせいで身体が小さく、まだ少女に見えた。
十五歳って言われても信じられないかもな。ルクレイより幼く見えたよ。
いつも笑っている子だった。
明るくて、たくましかった。
『私はね、今まで一生分の苦しい思いをしたから、この先には幸運しかないって信じているんだ』
そう言って、見舞いに来た家族や友人のほうが励まされて帰っていった。
俺も尊敬したよ。
強い子だなって感心したし、頼もしく思えた。
人が訪ねてくると、あの子の病室には笑い声が溢れた。
見舞い客も、看護師や医師も、彼女の様子を見にいっては、言葉を交わして笑っていた。
すごく難しい病気でさ。
何か一つ、これといって確かな病名がなかった。
あれとこれと、それと、これ。
そんなふうに、幾つもの病状が並んでいた。
来る日も来る日も、検査と治療、検査と治療を繰り返して過ごした。
そのためにたくさん痛い思いをするんだ。
大人でも我慢できないような、痛みを伴う治療を続けた。
例えば、背骨に注射して骨髄採取と投薬を行う。……すごく痛いんだよ。副作用も酷い。
でも、病気が治ると信じて、彼女はその痛みにずっと耐えていたんだ。
耐えて、耐えて……。
『これで、私の悪いところがまた少しなくなったね』
そう言って、笑う子だった。
彼女にはドナーが必要だった。
ドナーっていうのは、患者を助けるために身体の一部を分けてくれる人のこと。
彼女に必要なのは新生児の――赤ちゃんのへその緒に含まれる血だったんだ。
これがまた嫌がらせみたいな条件なんだ。
まずはドナーが少ない。
ドナーの中で、赤ちゃんはもっと少ない。
それに、へその緒から採取できる血の量はごく僅かだ。
必要な量を確保できるかは分からない。
そこまで限定された上で、必ずしも彼女の身体に一致する保証はなかった。
でも、見つかったんだよ。
一つだけ好条件があった。
彼女の身体が小さかったこと。
そのおかげで、少ない採取量でも彼女には充分だったんだ。
『ほらね、すごい幸運。奇跡が起きたんだ』
そう言って彼女は笑った。
幸運だったら、そもそも重たい病気になんかならなかったかもしれないのにさ。
笑ったんだよな。
幸せだって。
その笑顔が、きっとこの先の人生でどんな幸運でも引き寄せるんだろうなって思った。
その子が今どうしてるかって?
ルクレイは、どうしていて欲しいと思う?
ああ、答えなくていいよ。
――俺も、多分同じ気持ちだ。
お話の結末は、もう少しあとでな。
ある日。
俺は、偶然気付いた。
夜勤の日だ。
夜中でも病院に泊まって仕事をする日が当番で回ってくる。
あの日の俺は、別の患者が具合を悪くしたから、その対応を終えて当直室に帰る途中だった。
どこからともなく聞こえてきた音が、何の音かわからなくてびっくりした。
この世のものではない何かの声かと思ってさ。
真夜中だったし、病院はたくさんの人が死ぬ場所だから。
でも、違うんだ。全然違う。生きている人の声だった。
一生懸命、今この瞬間を生きている人の、
泣き声だった。
あの子の声だった。
あの子は、夜になると怯えて泣くんだ。死にたくないって。治りたいって。
『今までの人生で、まだ何もしていない』
『病気だけしかしてない』
『どうして私だけこんなに苦しい思いをするの?』
『この先に、誰よりも幸せな未来が待っているからなの?』
彼女は問いかけていた。誰かに。もしかしたら神さまに。
その時はじめて気づいた。
あまりに当たり前のことだったのに、彼女がいつも笑っていたから、分からなかったんだ。
彼女も普通の女の子だ。
家族と離れて暮らす寂しさ、いつ死ぬとも知れない病への恐怖。
ベッドの上で過ごすことしかできないのに、時間だけは過ぎていく。
行きたい場所には行けず、食べたいものは食べられず、見たいものも見れず、会いたい人にも会えない。
多すぎる苦難に一人で耐えていたんだ。
普通の女の子なのに。
――彼女はいつだって生き延びようとしていた。
未来を信じていた。その強さが、俺には眩しかった。
俺なら途中で苦しい治療を諦めてさっさと死んだかもしれない。でも、それは呑気な想像の中の話だ。
選択肢がないなら、耐えることでしか生きながらえる術はないなら、そうする他にない。
やっと分かった。
彼女は好きで強かったわけじゃない。
強くならなければ、すぐに死んでしまうからだ。
そして彼女は、死ぬのが嫌だったんだ。
当たり前すぎるくらいに、当たり前のことだった。
彼女が強い子だと思い込むことで、俺は甘えていたんだと思う。受け止めることから逃げていたんだと思う。
彼女の泣く声がいつまでも胸の奥を引っかいた。
そこが、いつまでもいつまでも痛かった。
翌日から俺は、彼女をそれまで以上に励ました。
心から根治してほしいと思った。
長生きして、これからいくらでも幸せな人生を築いてほしい、って。
考えてみれば、彼女と俺の年は近かったんだ。心から同情した。代われるものなら代わりたかった。
俺みたいな奴が生きるより、彼女みたいな子が生きられたほうが、世の中のためだと大真面目に思った。
治ってほしかった。
あんなに何かを願ったことは生まれてはじめてだったよ。
『私のことなんか忘れていいよ。私が死んだら、そうして欲しい』
その日。
いつもの世間話の終わりに、彼女はぽつりとそう言った。
どうしてそう思うのか本気で分からなかった。
みんな手を抜いちゃいない。
彼女を救うために、できる限りのことをしていた。
だから、諦めたような言葉が悔しかった。
『俺は、忘れないですよ。絶対。退院しても、あなたのこと、ずっと覚えています』
彼女はふわりと笑って、少しだけ俯く。
それでも口元にはまだ笑みが残っていた。
大きな窓に接するベッドは、窓枠で切り取る絵画のように見えた。
空にベッドが浮いている。彼女は空飛ぶベッドの上にいて、淡く微笑んでいる。
遠くへ行ってしまいそうで怖くなった。
なんとかして引き止めたくて、でもその方法が分からなかった。
『素敵な場所へ行って、素敵な人に出会って。それで、私のことなんか忘れるの。それがいい。みんなにも伝えたいな。忘れていいからね』
彼女はどうしてそう思ったのだろう。
今も分からない。
忘れられたら悲しいじゃないか。
それとも、悲しい思い出になるのが嫌だったのかな。
そんなことにはならないって、咄嗟に言えなかったことが、今でも悔しい。
――それから程なくして、その病室のベッドは空になった。
病棟の十階。南最奥の部屋、窓際のベッドだ。
彼女が泣くことは、もう二度とない。
同じように、笑うことも二度とない。
◆
「あんなに頑張った人にご褒美がないなんて、この世の中は心底嫌な場所だよ。俺はあのときからずっとこの仕事に就いたことを後悔している」
こんな理不尽を知りたくなかったから。
手を尽くして、でも救えない。
誰よりも生きるために頑張っている人が報われない。
だから俺は考え方を変えた。思い入れるのをやめた。
「それからは毎日――毎日、よく分からないまま働いている。この人は誰でどんな趣味があって何が喜びで、退院したら何をしたいと思っているのか、とか――耳に入れないようにした。そんなことを続けていたからかな。いつの間にか、気付いたら、彼女の名前を忘れていたんだ」
あの日の光景だけが印象的だった。
窓辺の絵画。空飛ぶベッド。影の中の微笑み。それだけ。
思い出せない顔と名前。
それを起点にして、手のひらからこぼれ落ちていくような頼りなさを感じる。
このまま忙しく日々を過ごすうちに、気づけば、何一つ思い出せなくなるのではないか。彼女の望み通りに。
誰の記憶からも消え去って、死よりも徹底的な消失を迎えて――
それじゃあ、彼女は。
どうなるのだろう。それでいいのか。それがいいのか。
「――あれは作り笑いだったのかな」
今ではもう分からない。
どちらが本当の彼女だったのだろうか。
人前で明るく笑う頼もしいあの子。
人知れず声を殺して泣いていたあの子。
「……忘れないって、絶対って言ったのに。俺は薄情者だ」
忘れたくても忘れられないと思っていたのに。
あの経験があるから、俺は自分の守り方を知ったんだ。
踏み込まず、思い入れず、仕事だと割り切って数をこなす。
そうすれば立ち止まらずに済んだ。
だけど、そうしているうちに、何の手ごたえもないまま時間だけがものすごい速さで過ぎていく。
「忘れることで救われたのかな、俺は。彼女の言う通りに、彼女のことなんて忘れて……」
自分が傷つかないために。
己を守るために、彼女のことを忘れたのか。
「……彼女は誰も傷つけたくなかったのか。だから、あんなことを言ったのかな」
耳の奥で声が甦る。
ほんの世間話のような気軽さで、彼女は言う。笑い交じりに。
気付くと健やかな寝息が聞こえた。
話の半ばで眠ったのか。どこまで聞いていたのだろう。
少しほっとした。
真剣に全部聞いていられたら、あとでどんな顔をしたらいいのか分からないぞ。
真面目に語ったりして恥ずかしい奴だ。
この日を思い出して、あとで転げたくなるほど後悔するだろうか。
でも今は不思議とそんな気がしない。
聞いてもらってよかった。
彼女のことを誰かに話したのは、思えばこれがはじめてだ。
ずっと、誰かに話したかった。今更そう気づいた。
「おやすみ、ルクレイ」
窓を閉めてカーテンを引く。
空のカップと読みさしの本を抱えて部屋を出ていく。
少女の寝息を背中に聞いて、静かにドアを閉める。
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