空の寝台〈2〉


2.

 雨は眠りを妨げることなく、夜が明けるまでに止んでいた。

 洗われた大気が窓の向こうで輝いている。

 目覚まし時計の助けもなしに起きる朝はなんと自由で気持ちの良いことか。

 ふかふかの毛布も離れがたく、この屋敷に可能な限りの長居をしたくなる。

 ただ、気になるのは、森の奥の屋敷に子供とメイドの二人暮らしということだ。

 そのうち顔を合わせるかと思った父親や母親は気配さえ窺えない。

 一体どういう事情だろう。

 着替えを済ませてリビングへ。

 食卓にはメイドが朝食を準備してくれた。

 焼きたての分厚いトーストにバターをのせて、溶けて染みるのをじっくり待つ。

 その間に熱いコーヒーを味わい、目玉焼きの黄身を崩す。

 ああ、忙しい朝の味気ないシリアルだけの食事が遠い過去のようだ。

「ずっとここに暮らそうかな……」

 軽率な呟きを聞く者は誰もいない。

 冗談は空気に溶けて、ついでにバターも溶けきった。

 ここから町まで、歩いてどの程度だろうか。

 町に出たらルクレイに昼食でもご馳走してやろうか、などと考えて財布を持ってこなかったことを思い出す。つくづく、俺は格好のつかない大人だ。

「ルクレイは、まだ寝ている?」

 食後のフルーツを運んできたメイドに尋ねる。

「はい。降りてこられないので、まだ眠っているのでしょう」

 それからふと気付いたように窓の外を見た。

「――珍しいことです」

 何が珍しいのかは分からない。

 が、お互いに別々の疑問を浮かべて、二人でしばし顔を見合わせてしまった。



 ううぅぅん……。うぅぅん――。

 咳になりそうでならない、もどかしげな唸り声が聞こえた。

 屋敷の二階。少女の部屋の奥、窓辺に寄せたベッドの中からだ。

 ルクレイはベッドにへばりついて身を丸めて、赤い頬を枕に押し付けている。

 寒気がするのか少し震えていた。

 ふいに瞼を開けて、ぼんやりした目でこちらを見上げる。

 くしゅんっ、と小さなくしゃみをひとつ。

「あ。おはよう、ハウザー」

 じゅるじゅると水っぽい声。

 鼻の詰まった苦しそうな呼吸音。

 触れて計るまでもなく体温の高そうな顔色をしている。

 メイドは窓を大きく開けて新鮮な空気を取り入れ、次々に洗面台やタオルや水差しを運び込んだ。

 一度少女の身体を起こし、ベッドのわきの椅子に座らせる。

 その隙に汗を吸ったシーツと毛布を取り替え、ベッドメイクをする。

 椅子の上でもぐらぐらと身体を支えきれずにふらつく少女の肩を捕まえた。

 触れた肌が熱く、しっとりと汗をかいている。

「ハウザー。町の近くまで送っていくから。ぼく……着替えなきゃ」

 もたもたとパジャマを脱ごうとして、力が足らずに奇怪なポーズで停止する。

 それを手助けして姿勢を戻してやると、ルクレイは不思議そうな顔をした。

 身体が言うことを聞かない理由がまだ分からないみたいだ。

「ルクレイ、風邪を引いたね? 今日は一日大人しくしなきゃダメだ」

「でも……家に帰るの、遅くなっちゃうよ」

「大丈夫。地図か何かあれば自力で道を探すさ」

「道に迷うよ、送っていく」

 方向感覚を信頼されていないらしい。

 ここへ来たのも道に迷ったせいだから、その認識は間違ってはいないが。

「ルクレイ。ベッドに戻って」

 ベッドメイクが済んで、メイドが向き直る。

「ううん、起きる。着替える……」

「だめです。横になってください」

「こんなに晴れているのに」

 口答えをしながらも、少女はもたもたとベッドに這い登り、再び毛布の下で丸くなった。背中を丸め、苦しげに息をする。

 その姿はどこからどう見ても病人だった。

「泊めてもらったお礼がしたい。何かできることは?」

 椅子に腰掛けたメイドへ尋ねる。

 彼女はマスクを着用し、看病に集中する準備を完璧に済ませている。

「ルクレイに尋ねてください」

 感情の乗らない声でそう答えた。

「何かある? ルクレイ」

 しばらく荒い吐息だけが聞こえる。

 もう眠ってしまったのだろうか。

 やがて少女がこちらを見上げて、薄く開けた瞼の向こうに潤んだ瞳を覗かせる。

 ぜーぜーと途切れる息の合間から、ぽつりと一言、呟いた。

「鳥」

「とり?」

 意図がつかめず復唱する。

「迎えに行って……」

 毛布の奥から腕をつき出し、何かを指差した。

 ドアのそばに空っぽの鳥篭がひとつ。

 あれで鳥を捕まえろ、とルクレイはそう言っているのだ。

「――どんな鳥?」

「森にいるから」

 それ以上詳しいことは言わず、少女は瞼を閉じてしまう。

「眠ったようです」

 メイドが冷たく言い放つ。

 邪魔だから出ていけと横顔が告げている。

 鳥篭を抱えて部屋を出た。

 空っぽのそれを見下ろし、首を傾げる。

「鳥……?」

 与えられた道具はひとつ。捕獲に役立つものはない。

 罠を張ってあるのだろうか。

 巣箱か何かが用意されているのだろうか。

 ――とりあえず、行ってみよう。

 昨日、外から戻ってすぐに身体を温めていれば、ルクレイは風邪を引かなかったかもしれない。俺がいなければそうなっていたはずだ。

 急な雨のせいとはいえ、俺も責任を感じる。

 だから、鳥くらい。

「よし、捕まえてやる!」

 気持ちよく晴れ渡る空の下、まだぬかるんだ土を踏みしめ、森へ出かけた。


     ◆


「いや……、無理でしょ」

 挑戦を始めて一時間も過ぎただろうか。

 次第に分かったことがある。

 まず、足場が悪い。雨でぬかるんだ地面が機動性を奪うのだ。

 それに、鳥が見当たらない。

 俺自身の視力は確かに良くないが、それにしたって見当たらない。

 動物の気配が掴めない。

 音がした方を見ても、すでに音を立てた生き物はそこを去った後だ。

 空の鳥篭を木の根元に置き、身軽になって探索を続ける。

「あっ!」

 木の枝に影を見た。

 見つけた拍子に思わず叫ぶと、鳥は羽ばたいて飛び去ってしまう。

 俺は馬鹿なのか。馬鹿です。

 己のうかつな行動を反省し、再び鳥を探す。

 ルクレイは昨日、鳥篭に鳥を入れて運んでいた。

 彼女も森で鳥を捕らえたのだろう。

 道具もなしにどうやって。何かとびきりの餌でもあるのか。

 このまま手ぶらでは帰るわけにはいかない。

「――腹が減ったな」

 太陽は高く昇り、濡れた森を乾かす風が吹きぬける。

 無様な俺を嘲笑うかのように、どこかで鳥の鳴き声がした。



 見舞いの花を一輪、手折った。

 名前は分からない。

 一つの茎にいくつもの黄色い花が連なっている。

 たくさんの蝶が翅を休めているようにも見える、賑やかな花だ。

 窓辺にそれを飾り、少女の寝顔を覗き込む。

 メイドは厨房へ引っ込んで食事の用意をしている。

 ルクレイもよく眠っているようだから、起こさないうちに部屋を出ようと踵を返す。と、ふいにベッドの軋む音がした。

「ハウザー。……あ。花……、ありがとう」

 振り返ると、ルクレイはふかふかの枕にうずめた顔の上に微笑みを浮かべている。

「ごめん、起こした?」

 問いかけに、首を横に振る。

「鳥は捕まえられなかったよ。難しかった、ごめん」

「いいよ、ありがとう。無理を言ってごめんね」

 空の鳥篭を元の場所へ戻す。

 ベッドサイドの椅子に腰掛け、まだ熱っぽい顔を見つめた。

 テーブルの上に折りたたまれたタオルを取って、ルクレイの額や首筋の汗を拭う。

 少女は目を閉じて、気持ち良さそうに身を任せている。

 熱は少し下がった様子だ。おそらくこのまま安静にすれば、十中八九問題ない。

「深呼吸して。胸は痛くない?」

 念のために確認した。

 少女は言われた通りに大きく息を吸い込んで、ゆっくり吐き出す。

「痛くない」

「咳は酷くならないな。ただの風邪だ、寝てれば治る」

「そうなの? どうしてわかるの?」

「俺は医者だから」

 答えると、安心したように微笑んでルクレイは目を閉じた。

「じゃあ、おやすみ。そうだ、なにかできることがあったら、また教えて」

 役立たずだと自覚はあったが、一応そう告げる。

 椅子を立ち、ドアノブに手をかけたとき、ふいにルクレイが呼んだ。

「ハウザー」

 何かを言いかけ、逡巡する気配。

「もうひとつ、お願いがある」

 毛布の中から小さな拳が覗く。



 ――緑色のドアを開けて三歩くらい歩いて右。

『四角い篭の向こう、斜め左。空っぽの鳥篭が三つ重なっていて、その上にある。白い格子で持ち手に青いリボンを結んでいるから、すぐに分かるはず』

 どれだよ、と思った。

 部屋の中には、無秩序に、無造作に、たくさんの鳥篭が存在している。

 ルクレイから預かった鍵は、彼女の部屋のすぐ隣、緑色のドアを開けるためのものだった。遅い昼食の後、すぐに言われた通りに部屋へ入って、言いつけられた鳥篭を探した。

 歩数は彼女の歩幅で考えなければならない。

 それにしたって似たような鳥篭があり、どれが『それ』なのか分からない。

 目印の青いリボンにしても、ほかにもいくつか同じように飾られていて、確信が持てなかった。

「――これか?」

 何度目かの試行錯誤の後。

 言われた通りの『白い格子に青いリボン』の鳥篭を見つけた。

 中には白い鳥が一羽、ふっくらとした身体を丸めて目を閉じていた。

「おい。お前か」

 呼びかけると、鳥はこちらを見上げて短く鳴く。

 通じるわけもないと思った呼びかけに応えた、その偶然が面白い。

 だから、これで正解なのだと思った。

『鳥が鳴いている。外に放してあげて』

 ルクレイは随分躊躇ったあとで俺に鍵を託した。

 一度は失敗した俺だ。仕事の結果が心配なのだろう。

 でも、今度は捕まっている鳥を放すわけだから、そんなに苦労はしないはず。

 部屋の奥の窓を開け、窓辺に鳥篭を運ぶ。

 窓から森の様子が見渡せた。

 雨に降られて洗われて、空が澄み渡っている。

 町はどこにあるのだろう。

 こんなに奥まで来たつもりはなかったのだが。

 近隣にほかに建物は見当たらない。ただ森だけに囲まれている。

 ここでの暮らしは寂しくないのだろうか。

「ピィ」と鳥が急かすように鳴いた。

 鳥篭の戸を開き、外へ向かって篭を突き出す。

「ほら、行け」

 篭を揺らすと、鳥は慌てたように翼を広げ、青い空へと飛び立っていった。

 羽ばたく鳥の飛ぶ姿を見送る。

 まるで空に溶けたみたいに、やがて見えなくなってしまう。

「しかし――すごいな」

 まさかこれほどまでに鳥を集めているとは思わなかった。

 道楽にしても執着的だ。

 見渡す限りの鳥篭と、鳥。

 皆静かに、息を潜めて大人しくしている。

 かと思えば、不意に翼を広げる鳥もいる。

 見慣れたハトやカラスもいれば、見慣れぬ極彩色の鳥や、立派な尾や冠羽を持つ鳥もいる。

「業者か何か?」

 これで生計を立てているのか、と雑な想像をめぐらせた。

 まさか食用ではないだろう。

 窓を閉め、早々と部屋を出て、ドアに施錠をした。

 あの子はこの鍵を他人に預けるのが心配なようだったから、早く返却して安心させてあげたかった。

 部屋へ戻ると規則的な吐息が聞こえて、ルクレイが良く眠っているのだと分かった。

 サイドテーブルに鍵を載せ、その寝顔を眺める。

 大分落ち着いたようだ。

 まだ少し顔が赤い。頬に触れると、それでも熱は高くないと分かる。

「ん……」

 身じろぎして、寝返りを打つ。

 起こしては悪い。退室を急ぎ、足元のそれにふと気付く。

 空の鳥篭。

 もう一度試してみよう。

 篭を抱えて、また森へ出かけた。

 ――結果のほうは、まあ、物事はそう上手くいかないよな、というお話だ。

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