EP07:空の寝台

空の寝台〈1〉

 なんだこれ。

 破れかぶれにそう叫んだ声も豪雨がかき消してしまう。

 絶えず降り注ぐ雨に視界が遮られ、目も開けていられない。

 眼鏡が邪魔だ。

 もう視力の問題ではない。かけていてもいなくても、どうせ同じこと。

 もぎ取ってポケットに押し込む。

 すごい雨だった。

 それも、いきなりだ。

 軽い気持ちで森へ入った自分を呪った。

 ほんの少し前のことだ。

 あのときは何も考えちゃいなかったのだ。

 帰り道を見失うことも、突然雨に降られることも。

 しかも、こんな豪雨に遭うだなんて。

「ちくしょう」

 注意深い大人になりなさいね。

 そう言った母の忠告を聞き流して、あの時俺は何をしていたんだっけ。

 腕で顔を風雨から庇い、前を見る。

 木。葉。地面。また木、木、木。つまりは森。それ以外の情報を何一つ得ることのできない景色が広がっている。

 それも五歩先までのこと。

 勢いを増す一方の雨と風が視界を奪い、方向感覚を狂わせる。

 あと六歩も歩けば公道に出るような気もすれば、あと七歩で崖から真っ逆さまに転落する姿も想像できて、とうとう一歩も踏み出せない。

 ここで立ちつくしたまま雨が止むのを待つべきか。

 その頃には夜になり、体力も消耗して、行き倒れて熊の餌かもしれないぞ。

 と、悲劇的な結末を想像したときだった。

「あ――!」

 雨に煙る視界で何かが動いた。鮮やかな青。

 こっちへ来る。人間だ。

 すがる思いで駆け寄ると、雨具もなしに一人の少年が歩いていた。

 俺と同じように突然の雨に降られた様子で。

 鮮やかな青は彼の持つ荷物に被せられている。

 それは雨具で、荷物を雨から守っているらしい。

 気付いて欲しくて駆け寄って、無遠慮に腕をつかんだ。

 こんな森で、ほかに人に会えるとは思えない。この機会を逃したくなかった。

 彼は驚いたように俺を見て目を瞬かせた。

「町はどっちですか!」

 激しい雨音の中、ほとんど怒鳴るように尋ねる。

 声は届いただろうか、分からない。

 少年は微笑むと、頼もしげに頷き、俺の手を引き歩き出した。

 よかった。これで安心だ。町まで帰れる。俺はついてる。

 やっぱり、生きていればどうにかなるのだ。

 途端に気が楽になって、手を引かれるまま彼のあとをついて行った。


1.

「町じゃない」

 思わず呟く。

 森の中に唐突に現れたのは、一軒の屋敷だった。

 玄関に連れ込まれ、その場で脱げるものは脱いで、メイドからタオルを受け取る。

 ポケットに仕舞いこんだ眼鏡を拭いて顔にかけ、改めて周囲を見渡した。

 古びた、でもしっかりした作りの家だ。

 案内してくれた少年を見下ろす。

 髪の水気をタオルで拭っている。

 身体に湿ったブラウスが張りついて肌の色が透けていた。

 その背中の曲線が妙に滑らかで、こちらを振り仰いだ顔を見て気付く。

 女の子だった。

「町って?」

「俺、さっき、町への道を尋ねたんだけど……」

「あれ。お客さんじゃなかったの?」

 目のやり場に困ってそらした視線を追いかけて、少女がこちらの顔を覗き込む。

 思わず仰け反ると、不思議そうに首を傾げた。

 メイドが察したように少女の肩にタオルを掛ける。

「ちょっと気分転換の散歩のつもりで森へ入ったんだよ。で、道に迷ってあの雨だ。町へ戻る道を知りたかったんだけど……お邪魔じゃないかな」

「お客さんは大歓迎、なんだけど――そっか。雨が上がったら案内するよ。濡れたままじゃ風邪を引くでしょ。メルグス、お湯は沸いてるの?」

「ええ、準備は整っています」

「じゃあ、きみ。先に入って」

「え。いや、悪いよ」

「いいの。ぼく、その間にやることがある」

 それならと頷いて、メイドに案内を任せる。

 濡れたままで大丈夫だろうか、と振り返って少女を窺うと、鮮やかな青い雨具を荷物からどけて、それを抱え上げたところだった。

 荷物は鳥篭だ。中に鳥が入っている。

 雨の中、庇っていたのはあの鳥だ。

「どうぞこちらへ」

 メイドが廊下を突き進む。慌ててその背を追いかける。

「こちらが浴室です。すぐにタオルと着替えをお持ちします」

「どうも、ありがとうございます」

 一礼して、言葉に甘えることにした。

 何にせよありがたい。雨をしのぐ屋根も、濡れた服の替えも。

 願ってもない幸運だ。


     ◆


 外ではまだ激しく雨が降っている。

 その様子が浴室の窓から窺えた。

 この調子では一晩中降り続くのではないか。

 ため息をついて天井を仰ぐ。

 立ちのぼる白い湯気をぼんやりと眺める。

 温かい。

 あの雨の中、身体が冷え切っていたようだ。

 ――なぜ、森へ行こうなどと思いついたのか。

 それは、噂に興味を引かれたからに他ならない。

 この森で、人は記憶を奪われる。あるいは、記憶を取り戻す。

 新しい町に来てまだ二日だ。噂話は昼食のパンを買いに訪れたベーカリーで偶然耳にした。愚図る子供を叱る母親が言うのだ。

『あの森に連れていって、うちの子だってことを忘れさせるからね』と。

 聞き慣れない言い回しで子供を躾けているなと思った。

 子供のほうは必死で母親の足にしがみついて『ママを忘れたくない』と泣く。

 忘れることは恐怖だ。

 あれくらいの歳の子にもそう理解できるんだな、と妙に感心した。

 なんですかあれ、と店員のおばちゃんに尋ねると、この噂話を教えてくれたのだ。

 へえ、と思った。

「忘れたいことかぁ」

 そんなものは山ほどある。

 若気の至りで起こした行動。仕事でやらかした失敗の数々。

 思い出すだけで頭をかきむしりたくなるような、自惚れた故の勘違い。

 褒められていると思ったら皮肉だったと後で気付いたあの言葉。

「忘れたいなぁ――!」

 しみじみと、そう思う。

 でも待てよ。

 それを忘れてしまったら、また同じ過ちを犯すのでは?

 過去は自分にブレーキをかける。

 同じ事故に遭わずに済むのは、危ない目に遭った経験があるからだ。

 若気の至りも、失敗も、勘違いも、あの皮肉も、時には自分を助けることがある。

 ならば、不快感と共に思い起こす記憶でも、忘れるべきではないのだ。

「はぁ」

 それはともかく。

 こんなにのんびり入浴するなんていつ以来だろう。

 ずっと忙しくて、そんなことに使う時間はなかった。

 雨が建物を叩く音が鈍く反響する。

 閉塞的な印象だが、それは何かに包まれているような安心感を抱かせる。

 湯に全身で浸かることのできるゆったりとしたバスタブに身を預け、ついつい長湯をしてしまった。



 メイドにコーヒーを貰って、内側からも身体を温める。

 温めすぎた身体はもう汗を滲ませるほどだが、通気性の良いシャツが快適に保ってくれた。リビングのソファに腰掛け、することもなく雨の音に耳を傾ける。

 ほんの少しの散歩のつもりだったから、財布も何も持っていないのだ。

 不安を感じるが、解放感も確かにあった。

 新しい職場で働くのは一週間後。

 それまでは仕事のことは考えない。

 ほどなく少女が戻ってくると、まだ髪も乾かさないうちにソファに上がり、好奇心旺盛な瞳を俺へと向けた。

「ぼくはルクレイ。きみは、どうして森に?」

「ハウザーだよ。色々ありがとう。おかげで助かった。森へ来たのは、興味を引かれたからだ。知らない? この森で、記憶を失ったり取り戻したりするらしい」

「ハウザーにも、忘れたいことがあるの?」

 少女にも噂はお馴染みらしい。

 驚きもなく受け止めて、そう尋ねた。

「いや。さっき考えてみたんだけど。どうやら、そうでもなさそうだ。ただでさえ経験不足の若輩者だからな、俺は」

「ハウザーは大人に見えるけど」

「とんでもない。まだ若造だよ」

 本心からの言葉だが、それを疑うような顔でルクレイは首を傾げた。

 この子供には俺の姿はどう見えているだろう、とふと気になる。

 頼もしい大人に見えているのだろうか。

「ねえ、雨はしばらく続くみたい。それで提案。メルグスが夕飯の支度をしている。もし良かったら一晩泊まっていって。明日、町の近くまで案内するから。どう?」

 頭に乗せたタオルを弾ませ、少女が俺を見上げる。

 期待に満ちた眼差しが、滞在を願っているのだと教えてくれた。

 幸い予定は空いている。

 ついでにお腹も空いている。

「そんなにお世話になっていいの?」

「勿論」

 風呂上りの上気した頬を緩めて、ルクレイは笑った。

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