『空の寝台』

 なんだこれ。

 破れかぶれにそう叫んだ声も豪雨がかき消してしまう。

 絶えず降り注ぐ雨に視界が遮られ、目も開けていられない。

 眼鏡が邪魔だ。

 もう視力の問題ではない。かけていてもいなくても、どうせ同じこと。

 もぎ取ってポケットに押し込む。

 すごい雨だった。

 それも、いきなりだ。

 軽い気持ちで森へ入った自分を呪った。

 ほんの少し前のことだ。

 あのときは何も考えちゃいなかったのだ。

 帰り道を見失うことも、突然雨に降られることも。

 しかも、こんな豪雨に遭うだなんて。

「ちくしょう」

 注意深い大人になりなさいね。

 そう言った母の忠告を聞き流して、あの時俺は何をしていたんだっけ。

 腕で顔を風雨から庇い、前を見る。

 木。葉。地面。また木、木、木。つまりは森。それ以外の情報を何一つ得ることのできない景色が広がっている。

 それも五歩先までのこと。

 勢いを増す一方の雨と風が視界を奪い、方向感覚を狂わせる。

 あと六歩も歩けば公道に出るような気もすれば、あと七歩で崖から真っ逆さまに転落する姿も想像できて、とうとう一歩も踏み出せない。

 ここで立ちつくしたまま雨が止むのを待つべきか。

 その頃には夜になり、体力も消耗して、行き倒れて熊の餌かもしれないぞ。

 と、悲劇的な結末を想像したときだった。

「あ――!」

 雨に煙る視界で何かが動いた。鮮やかな青。

 こっちへ来る。人間だ。

 すがる思いで駆け寄ると、雨具もなしに一人の少年が歩いていた。

 俺と同じように突然の雨に降られた様子で。

 鮮やかな青は彼の持つ荷物に被せられている。

 それは雨具で、荷物を雨から守っているらしい。

 気付いて欲しくて駆け寄って、無遠慮に腕をつかんだ。

 こんな森で、ほかに人に会えるとは思えない。この機会を逃したくなかった。

 彼は驚いたように俺を見て目を瞬かせた。

「町はどっちですか!」

 激しい雨音の中、ほとんど怒鳴るように尋ねる。

 声は届いただろうか、分からない。

 少年は微笑むと、頼もしげに頷き、俺の手を引き歩き出した。

 よかった。これで安心だ。町まで帰れる。俺はついてる。

 やっぱり、生きていればどうにかなるのだ。

 途端に気が楽になって、手を引かれるまま彼のあとをついて行った。


1.

「町じゃない」

 思わず呟く。

 森の中に唐突に現れたのは、一軒の屋敷だった。

 玄関に連れ込まれ、その場で脱げるものは脱いで、メイドからタオルを受け取る。

 ポケットに仕舞いこんだ眼鏡を拭いて顔にかけ、改めて周囲を見渡した。

 古びた、でもしっかりした作りの家だ。

 案内してくれた少年を見下ろす。

 髪の水気をタオルで拭っている。

 身体に湿ったブラウスが張りついて肌の色が透けていた。

 その背中の曲線が妙に滑らかで、こちらを振り仰いだ顔を見て気付く。

 女の子だった。

「町って?」

「俺、さっき、町への道を尋ねたんだけど……」

「あれ。お客さんじゃなかったの?」

 目のやり場に困ってそらした視線を追いかけて、少女がこちらの顔を覗き込む。

 思わず仰け反ると、不思議そうに首を傾げた。

 メイドが察したように少女の肩にタオルを掛ける。

「ちょっと気分転換の散歩のつもりで森へ入ったんだよ。で、道に迷ってあの雨だ。町へ戻る道を知りたかったんだけど……お邪魔じゃないかな」

「お客さんは大歓迎、なんだけど――そっか。雨が上がったら案内するよ。濡れたままじゃ風邪を引くでしょ。メルグス、お湯は沸いてるの?」

「ええ、準備は整っています」

「じゃあ、きみ。先に入って」

「え。いや、悪いよ」

「いいの。ぼく、その間にやることがある」

 それならと頷いて、メイドに案内を任せる。

 濡れたままで大丈夫だろうか、と振り返って少女を窺うと、鮮やかな青い雨具を荷物からどけて、それを抱え上げたところだった。

 荷物は鳥篭だ。中に鳥が入っている。

 雨の中、庇っていたのはあの鳥だ。

「どうぞこちらへ」

 メイドが廊下を突き進む。慌ててその背を追いかける。

「こちらが浴室です。すぐにタオルと着替えをお持ちします」

「どうも、ありがとうございます」

 一礼して、言葉に甘えることにした。

 何にせよありがたい。雨をしのぐ屋根も、濡れた服の替えも。

 願ってもない幸運だ。


     ◆


 外ではまだ激しく雨が降っている。

 その様子が浴室の窓から窺えた。

 この調子では一晩中降り続くのではないか。

 ため息をついて天井を仰ぐ。

 立ちのぼる白い湯気をぼんやりと眺める。

 温かい。

 あの雨の中、身体が冷え切っていたようだ。

 ――なぜ、森へ行こうなどと思いついたのか。

 それは、噂に興味を引かれたからに他ならない。

 この森で、人は記憶を奪われる。あるいは、記憶を取り戻す。

 新しい町に来てまだ二日だ。噂話は昼食のパンを買いに訪れたベーカリーで偶然耳にした。愚図る子供を叱る母親が言うのだ。

『あの森に連れていって、うちの子だってことを忘れさせるからね』と。

 聞き慣れない言い回しで子供を躾けているなと思った。

 子供のほうは必死で母親の足にしがみついて『ママを忘れたくない』と泣く。

 忘れることは恐怖だ。

 あれくらいの歳の子にもそう理解できるんだな、と妙に感心した。

 なんですかあれ、と店員のおばちゃんに尋ねると、この噂話を教えてくれたのだ。

 へえ、と思った。

「忘れたいことかぁ」

 そんなものは山ほどある。

 若気の至りで起こした行動。仕事でやらかした失敗の数々。

 思い出すだけで頭をかきむしりたくなるような、自惚れた故の勘違い。

 褒められていると思ったら皮肉だったと後で気付いたあの言葉。

「忘れたいなぁ――!」

 しみじみと、そう思う。

 でも待てよ。

 それを忘れてしまったら、また同じ過ちを犯すのでは?

 過去は自分にブレーキをかける。

 同じ事故に遭わずに済むのは、危ない目に遭った経験があるからだ。

 若気の至りも、失敗も、勘違いも、あの皮肉も、時には自分を助けることがある。

 ならば、不快感と共に思い起こす記憶でも、忘れるべきではないのだ。

「はぁ」

 それはともかく。

 こんなにのんびり入浴するなんていつ以来だろう。

 ずっと忙しくて、そんなことに使う時間はなかった。

 雨が建物を叩く音が鈍く反響する。

 閉塞的な印象だが、それは何かに包まれているような安心感を抱かせる。

 湯に全身で浸かることのできるゆったりとしたバスタブに身を預け、ついつい長湯をしてしまった。



 メイドにコーヒーを貰って、内側からも身体を温める。

 温めすぎた身体はもう汗を滲ませるほどだが、通気性の良いシャツが快適に保ってくれた。リビングのソファに腰掛け、することもなく雨の音に耳を傾ける。

 ほんの少しの散歩のつもりだったから、財布も何も持っていないのだ。

 不安を感じるが、解放感も確かにあった。

 新しい職場で働くのは一週間後。

 それまでは仕事のことは考えない。

 ほどなく少女が戻ってくると、まだ髪も乾かさないうちにソファに上がり、好奇心旺盛な瞳を俺へと向けた。

「ぼくはルクレイ。きみは、どうして森に?」

「ハウザーだよ。色々ありがとう。おかげで助かった。森へ来たのは、興味を引かれたからだ。知らない? この森で、記憶を失ったり取り戻したりするらしい」

「ハウザーにも、忘れたいことがあるの?」

 少女にも噂はお馴染みらしい。

 驚きもなく受け止めて、そう尋ねた。

「いや。さっき考えてみたんだけど。どうやら、そうでもなさそうだ。ただでさえ経験不足の若輩者だからな、俺は」

「ハウザーは大人に見えるけど」

「とんでもない。まだ若造だよ」

 本心からの言葉だが、それを疑うような顔でルクレイは首を傾げた。

 この子供には俺の姿はどう見えているだろう、とふと気になる。

 頼もしい大人に見えているのだろうか。

「ねえ、雨はしばらく続くみたい。それで提案。メルグスが夕飯の支度をしている。もし良かったら一晩泊まっていって。明日、町の近くまで案内するから。どう?」

 頭に乗せたタオルを弾ませ、少女が俺を見上げる。

 期待に満ちた眼差しが、滞在を願っているのだと教えてくれた。

 幸い予定は空いている。

 ついでにお腹も空いている。

「そんなにお世話になっていいの?」

「勿論」

 風呂上りの上気した頬を緩めて、ルクレイは笑った。


2.

 雨は眠りを妨げることなく、夜が明けるまでに止んでいた。

 洗われた大気が窓の向こうで輝いている。

 目覚まし時計の助けもなしに起きる朝はなんと自由で気持ちの良いことか。

 ふかふかの毛布も離れがたく、この屋敷に可能な限りの長居をしたくなる。

 ただ、気になるのは、森の奥の屋敷に子供とメイドの二人暮らしということだ。

 そのうち顔を合わせるかと思った父親や母親は気配さえ窺えない。

 一体どういう事情だろう。

 着替えを済ませてリビングへ。

 食卓にはメイドが朝食を準備してくれた。

 焼きたての分厚いトーストにバターをのせて、溶けて染みるのをじっくり待つ。

 その間に熱いコーヒーを味わい、目玉焼きの黄身を崩す。

 ああ、忙しい朝の味気ないシリアルだけの食事が遠い過去のようだ。

「ずっとここに暮らそうかな……」

 軽率な呟きを聞く者は誰もいない。

 冗談は空気に溶けて、ついでにバターも溶けきった。

 ここから町まで、歩いてどの程度だろうか。

 町に出たらルクレイに昼食でもご馳走してやろうか、などと考えて財布を持ってこなかったことを思い出す。つくづく、俺は格好のつかない大人だ。

「ルクレイは、まだ寝ている?」

 食後のフルーツを運んできたメイドに尋ねる。

「はい。降りてこられないので、まだ眠っているのでしょう」

 それからふと気付いたように窓の外を見た。

「――珍しいことです」

 何が珍しいのかは分からない。

 が、お互いに別々の疑問を浮かべて、二人でしばし顔を見合わせてしまった。



 ううぅぅん……。うぅぅん――。

 咳になりそうでならない、もどかしげな唸り声が聞こえた。

 屋敷の二階。少女の部屋の奥、窓辺に寄せたベッドの中からだ。

 ルクレイはベッドにへばりついて身を丸めて、赤い頬を枕に押し付けている。

 寒気がするのか少し震えていた。

 ふいに瞼を開けて、ぼんやりした目でこちらを見上げる。

 くしゅんっ、と小さなくしゃみをひとつ。

「あ。おはよう、ハウザー」

 じゅるじゅると水っぽい声。

 鼻の詰まった苦しそうな呼吸音。

 触れて計るまでもなく体温の高そうな顔色をしている。

 メイドは窓を大きく開けて新鮮な空気を取り入れ、次々に洗面台やタオルや水差しを運び込んだ。

 一度少女の身体を起こし、ベッドのわきの椅子に座らせる。

 その隙に汗を吸ったシーツと毛布を取り替え、ベッドメイクをする。

 椅子の上でもぐらぐらと身体を支えきれずにふらつく少女の肩を捕まえた。

 触れた肌が熱く、しっとりと汗をかいている。

「ハウザー。町の近くまで送っていくから。ぼく……着替えなきゃ」

 もたもたとパジャマを脱ごうとして、力が足らずに奇怪なポーズで停止する。

 それを手助けして姿勢を戻してやると、ルクレイは不思議そうな顔をした。

 身体が言うことを聞かない理由がまだ分からないみたいだ。

「ルクレイ、風邪を引いたね? 今日は一日大人しくしなきゃダメだ」

「でも……家に帰るの、遅くなっちゃうよ」

「大丈夫。地図か何かあれば自力で道を探すさ」

「道に迷うよ、送っていく」

 方向感覚を信頼されていないらしい。

 ここへ来たのも道に迷ったせいだから、その認識は間違ってはいないが。

「ルクレイ。ベッドに戻って」

 ベッドメイクが済んで、メイドが向き直る。

「ううん、起きる。着替える……」

「だめです。横になってください」

「こんなに晴れているのに」

 口答えをしながらも、少女はもたもたとベッドに這い登り、再び毛布の下で丸くなった。背中を丸め、苦しげに息をする。

 その姿はどこからどう見ても病人だった。

「泊めてもらったお礼がしたい。何かできることは?」

 椅子に腰掛けたメイドへ尋ねる。

 彼女はマスクを着用し、看病に集中する準備を完璧に済ませている。

「ルクレイに尋ねてください」

 感情の乗らない声でそう答えた。

「何かある? ルクレイ」

 しばらく荒い吐息だけが聞こえる。

 もう眠ってしまったのだろうか。

 やがて少女がこちらを見上げて、薄く開けた瞼の向こうに潤んだ瞳を覗かせる。

 ぜーぜーと途切れる息の合間から、ぽつりと一言、呟いた。

「鳥」

「とり?」

 意図がつかめず復唱する。

「迎えに行って……」

 毛布の奥から腕をつき出し、何かを指差した。

 ドアのそばに空っぽの鳥篭がひとつ。

 あれで鳥を捕まえろ、とルクレイはそう言っているのだ。

「――どんな鳥?」

「森にいるから」

 それ以上詳しいことは言わず、少女は瞼を閉じてしまう。

「眠ったようです」

 メイドが冷たく言い放つ。

 邪魔だから出ていけと横顔が告げている。

 鳥篭を抱えて部屋を出た。

 空っぽのそれを見下ろし、首を傾げる。

「鳥……?」

 与えられた道具はひとつ。捕獲に役立つものはない。

 罠を張ってあるのだろうか。

 巣箱か何かが用意されているのだろうか。

 ――とりあえず、行ってみよう。

 昨日、外から戻ってすぐに身体を温めていれば、ルクレイは風邪を引かなかったかもしれない。俺がいなければそうなっていたはずだ。

 急な雨のせいとはいえ、俺も責任を感じる。

 だから、鳥くらい。

「よし、捕まえてやる!」

 気持ちよく晴れ渡る空の下、まだぬかるんだ土を踏みしめ、森へ出かけた。


     ◆


「いや……、無理でしょ」

 挑戦を始めて一時間も過ぎただろうか。

 次第に分かったことがある。

 まず、足場が悪い。雨でぬかるんだ地面が機動性を奪うのだ。

 それに、鳥が見当たらない。

 俺自身の視力は確かに良くないが、それにしたって見当たらない。

 動物の気配が掴めない。

 音がした方を見ても、すでに音を立てた生き物はそこを去った後だ。

 空の鳥篭を木の根元に置き、身軽になって探索を続ける。

「あっ!」

 木の枝に影を見た。

 見つけた拍子に思わず叫ぶと、鳥は羽ばたいて飛び去ってしまう。

 俺は馬鹿なのか。馬鹿です。

 己のうかつな行動を反省し、再び鳥を探す。

 ルクレイは昨日、鳥篭に鳥を入れて運んでいた。

 彼女も森で鳥を捕らえたのだろう。

 道具もなしにどうやって。何かとびきりの餌でもあるのか。

 このまま手ぶらでは帰るわけにはいかない。

「――腹が減ったな」

 太陽は高く昇り、濡れた森を乾かす風が吹きぬける。

 無様な俺を嘲笑うかのように、どこかで鳥の鳴き声がした。



 見舞いの花を一輪、手折った。

 名前は分からない。

 一つの茎にいくつもの黄色い花が連なっている。

 たくさんの蝶が翅を休めているようにも見える、賑やかな花だ。

 窓辺にそれを飾り、少女の寝顔を覗き込む。

 メイドは厨房へ引っ込んで食事の用意をしている。

 ルクレイもよく眠っているようだから、起こさないうちに部屋を出ようと踵を返す。と、ふいにベッドの軋む音がした。

「ハウザー。……あ。花……、ありがとう」

 振り返ると、ルクレイはふかふかの枕にうずめた顔の上に微笑みを浮かべている。

「ごめん、起こした?」

 問いかけに、首を横に振る。

「鳥は捕まえられなかったよ。難しかった、ごめん」

「いいよ、ありがとう。無理を言ってごめんね」

 空の鳥篭を元の場所へ戻す。

 ベッドサイドの椅子に腰掛け、まだ熱っぽい顔を見つめた。

 テーブルの上に折りたたまれたタオルを取って、ルクレイの額や首筋の汗を拭う。

 少女は目を閉じて、気持ち良さそうに身を任せている。

 熱は少し下がった様子だ。おそらくこのまま安静にすれば、十中八九問題ない。

「深呼吸して。胸は痛くない?」

 念のために確認した。

 少女は言われた通りに大きく息を吸い込んで、ゆっくり吐き出す。

「痛くない」

「咳は酷くならないな。ただの風邪だ、寝てれば治る」

「そうなの? どうしてわかるの?」

「俺は医者だから」

 答えると、安心したように微笑んでルクレイは目を閉じた。

「じゃあ、おやすみ。そうだ、なにかできることがあったら、また教えて」

 役立たずだと自覚はあったが、一応そう告げる。

 椅子を立ち、ドアノブに手をかけたとき、ふいにルクレイが呼んだ。

「ハウザー」

 何かを言いかけ、逡巡する気配。

「もうひとつ、お願いがある」

 毛布の中から小さな拳が覗く。



 ――緑色のドアを開けて三歩くらい歩いて右。

『四角い篭の向こう、斜め左。空っぽの鳥篭が三つ重なっていて、その上にある。白い格子で持ち手に青いリボンを結んでいるから、すぐに分かるはず』

 どれだよ、と思った。

 部屋の中には、無秩序に、無造作に、たくさんの鳥篭が存在している。

 ルクレイから預かった鍵は、彼女の部屋のすぐ隣、緑色のドアを開けるためのものだった。遅い昼食の後、すぐに言われた通りに部屋へ入って、言いつけられた鳥篭を探した。

 歩数は彼女の歩幅で考えなければならない。

 それにしたって似たような鳥篭があり、どれが『それ』なのか分からない。

 目印の青いリボンにしても、ほかにもいくつか同じように飾られていて、確信が持てなかった。

「――これか?」

 何度目かの試行錯誤の後。

 言われた通りの『白い格子に青いリボン』の鳥篭を見つけた。

 中には白い鳥が一羽、ふっくらとした身体を丸めて目を閉じていた。

「おい。お前か」

 呼びかけると、鳥はこちらを見上げて短く鳴く。

 通じるわけもないと思った呼びかけに応えた、その偶然が面白い。

 だから、これで正解なのだと思った。

『鳥が鳴いている。外に放してあげて』

 ルクレイは随分躊躇ったあとで俺に鍵を託した。

 一度は失敗した俺だ。仕事の結果が心配なのだろう。

 でも、今度は捕まっている鳥を放すわけだから、そんなに苦労はしないはず。

 部屋の奥の窓を開け、窓辺に鳥篭を運ぶ。

 窓から森の様子が見渡せた。

 雨に降られて洗われて、空が澄み渡っている。

 町はどこにあるのだろう。

 こんなに奥まで来たつもりはなかったのだが。

 近隣にほかに建物は見当たらない。ただ森だけに囲まれている。

 ここでの暮らしは寂しくないのだろうか。

「ピィ」と鳥が急かすように鳴いた。

 鳥篭の戸を開き、外へ向かって篭を突き出す。

「ほら、行け」

 篭を揺らすと、鳥は慌てたように翼を広げ、青い空へと飛び立っていった。

 羽ばたく鳥の飛ぶ姿を見送る。

 まるで空に溶けたみたいに、やがて見えなくなってしまう。

「しかし――すごいな」

 まさかこれほどまでに鳥を集めているとは思わなかった。

 道楽にしても執着的だ。

 見渡す限りの鳥篭と、鳥。

 皆静かに、息を潜めて大人しくしている。

 かと思えば、不意に翼を広げる鳥もいる。

 見慣れたハトやカラスもいれば、見慣れぬ極彩色の鳥や、立派な尾や冠羽を持つ鳥もいる。

「業者か何か?」

 これで生計を立てているのか、と雑な想像をめぐらせた。

 まさか食用ではないだろう。

 窓を閉め、早々と部屋を出て、ドアに施錠をした。

 あの子はこの鍵を他人に預けるのが心配なようだったから、早く返却して安心させてあげたかった。

 部屋へ戻ると規則的な吐息が聞こえて、ルクレイが良く眠っているのだと分かった。

 サイドテーブルに鍵を載せ、その寝顔を眺める。

 大分落ち着いたようだ。

 まだ少し顔が赤い。頬に触れると、それでも熱は高くないと分かる。

「ん……」

 身じろぎして、寝返りを打つ。

 起こしては悪い。退室を急ぎ、足元のそれにふと気付く。

 空の鳥篭。

 もう一度試してみよう。

 篭を抱えて、また森へ出かけた。

 ――結果のほうは、まあ、物事はそう上手くいかないよな、というお話だ。


3.

「これから町へ行きます」

 そう言ったのは相変わらず感情の窺えない顔をしたメイドだった。

 また一晩屋敷で過ごし、ここで二度目になる朝食後のコーヒーを貰ったところだ。

 彼女はエプロンを外し、出かける支度を調えていた。

「食材と日用品と、薬と、何か栄養のあるものを買いに」

「それじゃあ――」

 彼女について行けば町に出られる。家へ帰れる。

 だけど。

 もしルクレイが目を覚まして、屋敷に誰もいなかったら。

 ――こんな森の奥の、一人で暮らすには大きな屋敷で。

 どんな気分になるだろう。

 身体が弱れば心も弱る。

 一人で残される心細さは、容易く想像できた。

「俺、様子を見ています。迷惑でなければ」

「では、お願い致します」

 それだけ答えると、メイドはさっさと出かけていった。

 ルクレイの分の食事がトレーの上に用意されている。

 それを二階まで運び、そっと部屋のドアを開ける。

 新しい寝間着に着替えたルクレイがベッドと毛布の間に挟まって大人しく目を閉じていた。落ち着いて見えるが、体力を消耗して動けずにいるようでもある。

 汗で額に張り付いた前髪を指で払った。

 少女は少しも動かない。よく眠っている。

 食事をサイドテーブルに置いて、起こさないように部屋を出た。


     ◆


 適当に昼食をとった後。

 少女のベッドの傍らで本を眺めていた。

 ルクレイは良く眠っていて、少しの物音では目を覚ましそうにない。

 テーブルの上には勝手に入れてきたコーヒーが湯気を立てている。

 本は客室の本棚に一冊だけ差してあった、意外にも流行の恋愛小説だ。

 メイドのものだろうか、あるいはほかの客の忘れ物かもしれない。

 この屋敷に人が訪れては去っていった気配がなんとなく感じられる。

「ん。メルグス……?」

 毛布が喋ったような、くぐもった声がした。

 顔の半ばまで毛布に埋めたまま、少女が目だけで俺を見る。

「お。起きたか。彼女は町へ出かけたよ。買い出しだ」

「まち」

 それってなんだっけ、みたいな顔をしている。

 まだ頭の半分は夢を見ているようだ。

「腹は減ってる? 飯があるけど」

「ん……まだいらない」

「じゃ、水分をとるんだな。白湯がいいか?」

 枕に埋めたままの頭が小さく左右に動いた。

 水の入ったグラスを差し出すと、のろのろと上体を起こす。

 心配だったから、そのまま手を離さずにグラスを支えた。

 白い喉が水を飲み下す。

 唇の端からこぼれた一筋が衿に染みこんだ。

 タオルを押し当て、ついでに汗もぬぐって、グラスを取り上げる。

「まだ寝ていたほうがいい」

「うん」

 素直に頷いてルクレイは毛布を被り直す。

「……メルグスは、いつ出かけたの?」

 毛布の中からそう尋ねた。

 ルクレイは顔の半ばまで覗かせて俺を見上げる。

 案の定、病気で弱気になった顔だ。

 一人で残さずに済んでよかった、と自分の判断を褒めたい気持ち。

 椅子を寄せ、もう少しベッドに近づく。

「今朝だ。町までどれくらい?」

「分からない。でも、いつも昼過ぎには戻るから」

「じゃ、そのうち帰ってくるだろ」

 窓の外は明るい。

 少女は悔しそうな眼差しを窓の外へ向ける。

「元気なら出かけていったのに」

 ため息を吐く。その頭をごしごし撫でた。

「寝てなきゃだめだ」

 言い聞かせると、少女は枕に頭を預けて素直に目を閉じる。

 だから俺も、本を手に取って続きを読み始めた。

 吐息が聴こえる。まだ鼻の詰まったような呼吸だが、昨日よりは落ち着いている。

 眠りと目覚めの合間を行き来するように寝返りを打ち、時折苦しげに唸る。

「ハウザー。……いる?」

「いるよ。何か欲しいものは?」

「ううん……。メルグスは帰ってきた?」

「まだ。っていうか、さっきの確認から一時間も経ってないぞ」

 眠りに落ちて、目が覚めて、時間の感覚がつかめないのだろう。

 ルクレイは暑くなったのか毛布の上に腕を出した。

 ちょうどいいタイミングだから、よく絞ったタオルを額に乗せる。

 と、心地良さそうに目を閉じ、深く息を吐いた。

「ありがと」

「どういたしまして」

 瞼を薄く開き、また閉ざして、少女が囁く。

「ハウザー、あのね。ぼく……メルグスが町へ出かけるとき、いつも不安になる」

「どうして?」

「またここへ帰ってきてくれるのかなって」

「なんでだよ。使用人なんだろ、彼女。仕事なら、放り出さないだろ」

「仕事じゃないんだ。給金を出してない」

「えっ。じゃあ、家族なのか? 姉とか?」

 まさか、と思った通りにルクレイは首を横に振る。

 奉仕活動なのか。何か金にこだわらない理由があるのか。

 様々な可能性が浮かんでは、あの冷徹な横顔に結びつかずに消えていく。

 例えばこの環境を気に入っているとか、少女を心配して世話を焼いているとか。

 善意を理由に行動しているようには思えない。

 そうではなく、もっと確かなもの、つまりは賃金やそれに準じた見返りに応じているように見える。

 もっとも、動かない表情筋の向こう側、彼女の内心までは計り知れないが。

「メルグスがここへ戻らなかったら、彼女にとっても、それは良いことなのに……」

 何の話か分からない。

 少女の声は夢の中から喋っているみたいにぼんやりと響く。

「大丈夫。戻ってくるよ。さすがに、なにも言わずに消えたりしないだろ」

「……分からない」

「仕事じゃなくて、家族や友人でもなくて、縛るものは何もない。それでもそばにいるのなら、そこまで不安になることはないと思うけど」

 つまり、まあ、一般的には。俺は、そう考えるけど。

 そこまで伝えると、ルクレイの眉間からふと力が抜けたのが分かった。

 少しは安心しただろうか。

 病気になると、それまで気にも留めなかったことを不安がってしまう。

 その気持ちが分かるから他愛ない心配ごとにも耳を傾けてやりたかった。

「大丈夫だって。もう一眠りしたら帰ってくるよ」

「うん。分かった。帰ってきたら、起こして……」

「了解」

 頭をぽんと撫でて、ほっぺたをつまむ。

 ルクレイはぎゅっと目をつぶって嫌がってみせ、くすくすと笑った。

 それから、大きく息を吐く。

「おやすみ」

 囁いて、少女は目を閉じた。

 やがて規則的な寝息が聞こえてくる。

 懐かしい。こうして、人の寝顔を眺めたことがあった。

 何もかも手さぐりで、体当たりで挑んでいた、あの頃だ。

 たくさんの失敗を重ねて、恥をかいて、人に迷惑をかけて、皮肉も言われたっけ。

 でも、あの過去があるから今に繋がっているのだと思うと、決して消し去りたい記憶でないのだと思う。

 忘れたくても忘れられない、というやつだ。

 穏やかな寝顔を眺めているうちに、俺まで眠気に襲われ瞼が重くなる。

 窓から吹き込む新鮮な風と、静かな木々のざわめき。

 カーテン越しの柔らかな日差しと、誰かの深い寝息。

 すべてが俺に促している。

 眠るべきだ。今なら最高に気持ちいい、と。

 喜んで誘惑に応じた。ここで眠っても誰も俺を咎めない。

 起きていたって、褒めてくれる人もいないのだ。

 この環境の中、眠らないのはむしろ罰当たりだと言えよう。


     ◆


『私のことなんか忘れていいよ』

 そう言ったのは誰だっただろう。

 夢から覚めきらない意識の隅で、懐かしい声が聴こえた。



 目が覚めて、あまりによく眠った実感があった。

 だから、こうしてどれだけ時間が経ったのかすぐには分からなかった。

 更に言えば、今がいつなのか、過去に立ち戻ったような気がして、すぐに現状を把握できなかった。

 俺は以前の職場にいるのか。

 ここは病棟の十階で、このベッドは南最奥の部屋の窓際のベッドなのではないか。

 錯覚に混乱する。

 顔を上げるとそこには彼女がいて、窓の外に広がる都市を、人の営みを眺めている。彼女はこちらを振り返って、ふわりと笑って、こう囁くのだ。

『私のことなんか忘れていいよ』

 忘れていた。

 今もはっきりとは思い出せない。

 彼女はどんな顔をしていたのか。名前をなんと言ったのか。

 微笑みを浮かべる口元と、その声。

 姿に影が落ちて、曖昧な印象だけが記憶にある。

 ――頭を起こすと、まだ窓の外は明るい。

 ルクレイが起きていて、何をするでもなく外を眺めていた。

 窓の向こうに見えるのは、オフィスビルや大学の学舎ではなく、どこまでも広がる森だけ。

 ここは病室ではない。この子はあの人ではない。

「ハウザー、おはよう。よく眠っていた。ぼくよりも」

 揶揄するように言う少女は、すっかり調子が良さそうだ。

 ずいぶん回復したらしい。

「ルクレイは、いつから起きてたんだよ」

 なんとなく悔しい。

 悔し紛れに尋ねると、少女は時計を探した。

 壁に掛かっている文字盤を数えて「三十分くらい前から」と答える。

 振り返って時計を確かめると、思ったより時間は経っていない。

 短い間に深く眠る、とても良質な睡眠を取っていたらしい。

 おかげで眠気もすっかり消えて頭が冴え冴えとしている。

 いつも仕事中こんなふうにすっきりしていたらいいのに、とつい願ってしまう。

「メルグスは戻ってきた?」

 少女は「まだ」と首を横に振る。

 そしてまた羨むように窓の外を眺めた。

「日が暮れる前に外に行こうかな」

「何言ってんだ、ダメだよ。治りかけが肝心だ、寝てなきゃ」

「もう治ったよ。元気になった」

 こんなに良い天気なのに、と惜しむような目で森を見る。

「ちょっと寝て体力が回復しただけだ。ここで動くと悪化して、元よりひどい状態になるぞ。もっとずっと寝込む羽目になるかも。それでよければ出かけたらいい。今日大人しくしておけば明日には治るのになあ」

 う、と押し黙る気配に『勝った』と思った。いや、勝負はしていない。彼女を心配しただけだ。

「ちぇ……。寝すぎて、もう眠れない。退屈だな……」

「こんな森の奥で、いつも何をして退屈をしのいでいるのか想像がつかないよ。……鳥か。鳥を捕まえるのか」

「そうだけど」

 事もなげに肯定して、不思議そうに首を傾げる。

 若い時間をこんなことに浪費していいのだろうか、とふと疑問がもたげたが、俺だって人のことは言えないか。

 若い時間を勉強だけに注ぎ込んで、志した職について、でも結果として田舎に飛ばされて、こんな場所で休日を潰している。

「ルクレイは将来何になるんだ?」

 過去を振り返ったせいか、思わず過干渉な質問が口をつく。

「将来、なる……?」

 はじめて覚えた単語を反復するような調子で呟く。

 まったく身に覚えのない言葉を口にするみたいに。

「就きたい仕事とか。行きたい場所とか。やりたいこと――夢とか。何かないのか?」

「あるよ。森に来るすべての鳥に会う」

 これしかない、みたいな顔でそう言う。

「そうか」

 肩から力が抜けた。苦笑交じりに答える。

「その野心がどれだけ大きいのか、見当もつかないな」

「ハウザーは何になりたかったの? お医者さん?」

「そうだな……。医者になりたかった。ずっと」

 そのために、出来る努力はしてきたつもりだ。

 勿論、いくつも誘惑はあって、それなりに嗜んだ。

 けれど、熱中できることも、夢中になれることも、他に何もなかった。

「なりたいものに、なったんだね」

「そうなるのかな」

 結果として、俺は設定した目標を達成して、それは親や他人から見ると『夢を叶えた』という綺麗な言葉で表現できた。

 でも、どうだろう、実際は。

 俺は、一体何がしたかったんだろう。

「話をしようか。眠れそうな、退屈な話。聞く?」

 にわかに少女の瞳が好奇心に輝く。

 妙なほどに食いつきがいい。他者の体験談を聞くことで己の不足を補うような、そんな切実さが見えた気がする。――考えすぎか。

 彼女は、ただ退屈を紛らわせたいだけだ。

「聞かせて、ハウザー」

 頷いて、冷めたコーヒーで舌を湿す。

 少し考えてから、あの言葉を復唱した。


     ◆


『私のことなんて忘れて良いよ』

 そう言った女の子がいた。

 俺は彼女にそう言われて悲しくなって、言い返したんだ。

『忘れない。絶対。ずっと覚えている』

 でも、気付くともう名前も顔も思い出せない。薄情だよな。

 あの頃、俺はまだ研修医で、実際に長期の入院患者と接するのは彼女がはじめてだった。

 難しい病気だったけど希望もあった。だから自信をもって励まし続けた。

 絶対に家に帰れますから。年内には退院させますから、って。

 彼女はやっと二十歳を越えた頃で、だけど長い病気のせいで身体が小さく、まだ少女に見えた。

 十五歳って言われても信じられないかもな。ルクレイより幼く見えたよ。

 いつも笑っている子だった。

 明るくて、たくましかった。

『私はね、今まで一生分の苦しい思いをしたから、この先には幸運しかないって信じているんだ』

 そう言って、見舞いに来た家族や友人のほうが励まされて帰っていった。

 俺も尊敬したよ。

 強い子だなって感心したし、頼もしく思えた。

 人が訪ねてくると、あの子の病室には笑い声が溢れた。

 見舞い客も、看護師や医師も、彼女の様子を見にいっては、言葉を交わして笑っていた。

 すごく難しい病気でさ。

 何か一つ、これといって確かな病名がなかった。

 あれとこれと、それと、これ。

 そんなふうに、幾つもの病状が並んでいた。

 来る日も来る日も、検査と治療、検査と治療を繰り返して過ごした。

 そのためにたくさん痛い思いをするんだ。

 大人でも我慢できないような、痛みを伴う治療を続けた。

 例えば、背骨に注射して骨髄採取と投薬を行う。……すごく痛いんだよ。副作用も酷い。

 でも、病気が治ると信じて、彼女はその痛みにずっと耐えていたんだ。

 耐えて、耐えて……。

『これで、私の悪いところがまた少しなくなったね』

 そう言って、笑う子だった。

 彼女にはドナーが必要だった。

 ドナーっていうのは、患者を助けるために身体の一部を分けてくれる人のこと。

 彼女に必要なのは新生児の――赤ちゃんのへその緒に含まれる血だったんだ。

 これがまた嫌がらせみたいな条件なんだ。

 まずはドナーが少ない。

 ドナーの中で、赤ちゃんはもっと少ない。

 それに、へその緒から採取できる血の量はごく僅かだ。

 必要な量を確保できるかは分からない。

 そこまで限定された上で、必ずしも彼女の身体に一致する保証はなかった。

 でも、見つかったんだよ。

 一つだけ好条件があった。

 彼女の身体が小さかったこと。

 そのおかげで、少ない採取量でも彼女には充分だったんだ。

『ほらね、すごい幸運。奇跡が起きたんだ』

 そう言って彼女は笑った。

 幸運だったら、そもそも重たい病気になんかならなかったかもしれないのにさ。

 笑ったんだよな。

 幸せだって。

 その笑顔が、きっとこの先の人生でどんな幸運でも引き寄せるんだろうなって思った。


 その子が今どうしてるかって?

 ルクレイは、どうしていて欲しいと思う?

 ああ、答えなくていいよ。

 ――俺も、多分同じ気持ちだ。

 お話の結末は、もう少しあとでな。


 ある日。

 俺は、偶然気付いた。

 夜勤の日だ。

 夜中でも病院に泊まって仕事をする日が当番で回ってくる。

 あの日の俺は、別の患者が具合を悪くしたから、その対応を終えて当直室に帰る途中だった。

 どこからともなく聞こえてきた音が、何の音かわからなくてびっくりした。

 この世のものではない何かの声かと思ってさ。

 真夜中だったし、病院はたくさんの人が死ぬ場所だから。

 でも、違うんだ。全然違う。生きている人の声だった。

 一生懸命、今この瞬間を生きている人の、

 泣き声だった。

 あの子の声だった。

 あの子は、夜になると怯えて泣くんだ。死にたくないって。治りたいって。

『今までの人生で、まだ何もしていない』

『病気だけしかしてない』

『どうして私だけこんなに苦しい思いをするの?』

『この先に、誰よりも幸せな未来が待っているからなの?』

 彼女は問いかけていた。誰かに。もしかしたら神さまに。

 その時はじめて気づいた。

 あまりに当たり前のことだったのに、彼女がいつも笑っていたから、分からなかったんだ。

 彼女も普通の女の子だ。

 家族と離れて暮らす寂しさ、いつ死ぬとも知れない病への恐怖。

 ベッドの上で過ごすことしかできないのに、時間だけは過ぎていく。

 行きたい場所には行けず、食べたいものは食べられず、見たいものも見れず、会いたい人にも会えない。

 多すぎる苦難に一人で耐えていたんだ。

 普通の女の子なのに。

 ――彼女はいつだって生き延びようとしていた。

 未来を信じていた。その強さが、俺には眩しかった。

 俺なら途中で苦しい治療を諦めてさっさと死んだかもしれない。でも、それは呑気な想像の中の話だ。

 選択肢がないなら、耐えることでしか生きながらえる術はないなら、そうする他にない。

 やっと分かった。

 彼女は好きで強かったわけじゃない。

 強くならなければ、すぐに死んでしまうからだ。

 そして彼女は、死ぬのが嫌だったんだ。

 当たり前すぎるくらいに、当たり前のことだった。

 彼女が強い子だと思い込むことで、俺は甘えていたんだと思う。受け止めることから逃げていたんだと思う。

 彼女の泣く声がいつまでも胸の奥を引っかいた。

 そこが、いつまでもいつまでも痛かった。

 翌日から俺は、彼女をそれまで以上に励ました。

 心から根治してほしいと思った。

 長生きして、これからいくらでも幸せな人生を築いてほしい、って。

 考えてみれば、彼女と俺の年は近かったんだ。心から同情した。代われるものなら代わりたかった。

 俺みたいな奴が生きるより、彼女みたいな子が生きられたほうが、世の中のためだと大真面目に思った。

 治ってほしかった。

 あんなに何かを願ったことは生まれてはじめてだったよ。



『私のことなんか忘れていいよ。私が死んだら、そうして欲しい』

 その日。

 いつもの世間話の終わりに、彼女はぽつりとそう言った。

 どうしてそう思うのか本気で分からなかった。

 みんな手を抜いちゃいない。

 彼女を救うために、できる限りのことをしていた。

 だから、諦めたような言葉が悔しかった。

『俺は、忘れないですよ。絶対。退院しても、あなたのこと、ずっと覚えています』

 彼女はふわりと笑って、少しだけ俯く。

 それでも口元にはまだ笑みが残っていた。

 大きな窓に接するベッドは、窓枠で切り取る絵画のように見えた。

 空にベッドが浮いている。彼女は空飛ぶベッドの上にいて、淡く微笑んでいる。

 遠くへ行ってしまいそうで怖くなった。

 なんとかして引き止めたくて、でもその方法が分からなかった。

『素敵な場所へ行って、素敵な人に出会って。それで、私のことなんか忘れるの。それがいい。みんなにも伝えたいな。忘れていいからね』

 彼女はどうしてそう思ったのだろう。

 今も分からない。

 忘れられたら悲しいじゃないか。

 それとも、悲しい思い出になるのが嫌だったのかな。

 そんなことにはならないって、咄嗟に言えなかったことが、今でも悔しい。

 ――それから程なくして、その病室のベッドは空になった。

 病棟の十階。南最奥の部屋、窓際のベッドだ。

 彼女が泣くことは、もう二度とない。

 同じように、笑うことも二度とない。


     ◆


「あんなに頑張った人にご褒美がないなんて、この世の中は心底嫌な場所だよ。俺はあのときからずっとこの仕事に就いたことを後悔している」

 こんな理不尽を知りたくなかったから。

 手を尽くして、でも救えない。

 誰よりも生きるために頑張っている人が報われない。

 だから俺は考え方を変えた。思い入れるのをやめた。

「それからは毎日――毎日、よく分からないまま働いている。この人は誰でどんな趣味があって何が喜びで、退院したら何をしたいと思っているのか、とか――耳に入れないようにした。そんなことを続けていたからかな。いつの間にか、気付いたら、彼女の名前を忘れていたんだ」

 あの日の光景だけが印象的だった。

 窓辺の絵画。空飛ぶベッド。影の中の微笑み。それだけ。

 思い出せない顔と名前。

 それを起点にして、手のひらからこぼれ落ちていくような頼りなさを感じる。

 このまま忙しく日々を過ごすうちに、気づけば、何一つ思い出せなくなるのではないか。彼女の望み通りに。

 誰の記憶からも消え去って、死よりも徹底的な消失を迎えて――

 それじゃあ、彼女は。

 どうなるのだろう。それでいいのか。それがいいのか。

「――あれは作り笑いだったのかな」

 今ではもう分からない。

 どちらが本当の彼女だったのだろうか。

 人前で明るく笑う頼もしいあの子。

 人知れず声を殺して泣いていたあの子。

「……忘れないって、絶対って言ったのに。俺は薄情者だ」

 忘れたくても忘れられないと思っていたのに。

 あの経験があるから、俺は自分の守り方を知ったんだ。

 踏み込まず、思い入れず、仕事だと割り切って数をこなす。

 そうすれば立ち止まらずに済んだ。

 だけど、そうしているうちに、何の手ごたえもないまま時間だけがものすごい速さで過ぎていく。

「忘れることで救われたのかな、俺は。彼女の言う通りに、彼女のことなんて忘れて……」

 自分が傷つかないために。

 己を守るために、彼女のことを忘れたのか。

「……彼女は誰も傷つけたくなかったのか。だから、あんなことを言ったのかな」

 耳の奥で声が甦る。

 ほんの世間話のような気軽さで、彼女は言う。笑い交じりに。



 気付くと健やかな寝息が聞こえた。

 話の半ばで眠ったのか。どこまで聞いていたのだろう。

 少しほっとした。

 真剣に全部聞いていられたら、あとでどんな顔をしたらいいのか分からないぞ。

 真面目に語ったりして恥ずかしい奴だ。

 この日を思い出して、あとで転げたくなるほど後悔するだろうか。

 でも今は不思議とそんな気がしない。

 聞いてもらってよかった。

 彼女のことを誰かに話したのは、思えばこれがはじめてだ。

 ずっと、誰かに話したかった。今更そう気づいた。

「おやすみ、ルクレイ」

 窓を閉めてカーテンを引く。

 空のカップと読みさしの本を抱えて部屋を出ていく。

 少女の寝息を背中に聞いて、静かにドアを閉める。


4.

 メルグスは日が暮れてからようやく帰ってきた。

 これから一ヶ月篭って過ごすつもりかと尋ねたくなる荷物を抱えて、だ。

 小麦の大袋を二抱えに、さまざまな食材と日用品。

 常備薬に、よく冷えたゼリーもあった。紙袋のスタンプからレモンと蜂蜜のゼリーだと分かる。

 買ってきた品をすべて所定の場所に配置しながら、ゼリーの袋と薬を俺へ差し出した。

「食欲がないようなら、これと薬をルクレイに。それですぐ良くなります」

 正直なところを言えば、メルグスが帰るまでにルクレイはだいぶ良くなっていて、だけどゼリーが食べたいから、彼女の前ではまだ調子の悪いふりをした。取り上げられるわけでもないだろうに、子供らしい用心深さがおかしかった。

 階下で忙しなく働くメルグスの気配がある。

 ルクレイはベッドの上で瓶詰めになったゼリーを食べた。

 匙ですくった透明なそれを口に含んで、目を閉じて美味に浸っている。

 満足そうに吐息して、もう一匙。

「悪い子だな」

「たまにはね」

 答えて、少女は笑う。つられて、俺も笑う。

 くっくっく、と、堪えきれずに声が漏れた。

 あんなに不安げにしていたのに。

 治った途端に調子に乗って、気ままな様子がおかしかった。

 ルクレイはメルグスの帰還に心の底から安心した様子で、食べ終えてすぐにまた眠りに就いた。

 それから、朝までぐっすり眠り続けた。


     ◆


 食卓からいい匂いがする。

 焼きたてのパンの匂い。淹れたてのコーヒーの匂い。

 はりきって働くメルグスの姿が目に浮かぶ。

 ――朝が来た。

 離れがたい心地良さの毛布を抱きしめて寝返りを打つ。

 持って帰りたい、と半ば本気で思う。でも毎日この毛布で眠っていたら、出勤が嫌になって仕方がないだろうな。

 二度寝への甘い誘惑に抗ってようやく目を開けた。

 柔らかな日差しがカーテン越しに部屋を照らしている。

 見ずとも分かる快晴の気配が窓の外に広がっている。



「おはよう、ハウザー」

 食堂ではすっかり着替えを済ませたルクレイが待っていて、もう朝食を終えてお茶を飲んでいる。

 ベッドの中で小さくなっていたあの姿とはまるで別物だ。なんだかそれが笑えてきて、口の中で笑い声を堪えていると少女が頬を膨らませた。

「何笑ってるの」

「いや。元気になってよかった」

「うん。おかげさまだよ。ありがとう」

「こちらこそ、連泊してしまって。世話になった」

 素直な反応を新鮮に思う。

 礼儀正しく挨拶を欠かさなかったあの子を思い出した。

 あの子も、些細なことにお礼を言う子だったのだ。

「お医者さまに居てもらえて幸運だった」

「何もしていないよ、俺は。風邪を引いたのも元はと言えば俺のせいだし――」

「ううん。心強かったよ。きみの忠告がなかったら、ぼくはもっと長く寝込んでいたはずだ」

 そう言って笑う。

 もうすっかり元気な様子に心から安堵する。

「朝ごはんを食べて。今日こそ町のほうへ送っていく。待たせてごめんね」

 とんでもないよ、と頭を振った。

 少女はにこっと笑って、メルグスを手伝いに厨房へ向かう。

 食事が次々と運ばれてくる。

 焼きたてのパン。淹れたてのコーヒー。温かい目玉焼き。準備された食後の甘味。

 全てが他者の手によって用意される。

 なんて贅沢な休日だろうか。

 いちいち感激しながら食事をするさまを眺めて、ルクレイは終始にこにこしていた。人が何かを美味しく食べている姿を見るのが好きみたいだ。

 たっぷり味わい、コーヒーのおかわりまでして、優雅な朝の余韻に浸る。

 ふいにルクレイが問いかけた。

「ねえ、ハウザー。少し時間ある?」

「うん?」

「一緒に来て欲しいんだ」

 どこへ。何をしに。

 疑問符を浮かべて首を傾げるが、少女は説明を加えなかった。



 案内されたのは、鍵で施錠されたあの部屋だった。

 手にした鍵でドアを開け、少女は俺を中へと招く。

 ルクレイは部屋のカーテンを除け、窓を開けた。

 朝の陽射しが室内を照らす。眩しさに瞼を閉ざす。

 再び目を開け眺めた部屋の中には、当然ながら先日と同じ光景が広がっていた。

 鳥篭と鳥。

 呆れるほどの物量。

 手に負えない収集家の部屋だ。

「きみの鳥は、ここにいる?」

 ルクレイは部屋の中ほどまで歩み、振り返ってそう尋ねた。

「俺の鳥? いや、俺は鳥を捕まえられなかったし――」

 少女は俺の答えにゆっくり首を横に振る。

 そうじゃないよ、と言うように。

「俺の――鳥?」

「そう。きみの、記憶の鳥」

 それは、一体、何のことなのか。

 ――この森で、人はひとつ記憶を失う。あるいは、思い出す。

 とっくに関心の薄れた例の噂話がふいに思い起こされた。

「鳥は森へ思い出を抱えてやって来る。また旅立つまで、彼らはこの部屋で過ごす」

 改めて眺める部屋の中で、鳥たちは静かに呼吸する。

 来客の動向を窺っている様子だ。

 記憶の鳥。

 森の噂になぞらえて例え話をしているだけかもしれない。

 子供じみたごっこ遊び。そうかもしれない。

 でも、何故か胸が高鳴る。

 その鳥に会いたい、と期待してしまう。

「いるのか、ここに」

 少女は控え目に頷いた。

 それを取り戻したら、どうなるのだろう。

 俺の中で何かが変わるのだろうか。

 それとも、何も変わらずにまた同じ日々に戻るだけだろうか。

 確かめるのは怖い気がした。

 でも、確かめないでいるのはもっと嫌だった。

 ふいに鳴き声を聞く。

 声のしたほうを振り返る。

 柱に支えられた鳥篭が窓辺に立っていた。

 白い格子の向こうにいるのは、淡い褐色の鳥。

 胸元を染める鮮やかな黄色が目を引く。

 小さな胸を膨らませて、その鳥は鳴いた。

 凛とした鳥だった。

 くちばしの先から尾の先まで、美しい曲線が結んでいる。

 褐色の翼を広げると根元から先端へと白いラインが走っているのが特徴的だ。

「その子?」

 ルクレイの問いかけに、気付けば頷いていた。

 鳥篭の扉を開けて中を覗き込む。

 また鳴き声が聞こえる。

 鳥に向かって差し伸べた手が、ふと硬直する。

「あっ――」

 鳥が羽ばたいた。風を感じ、驚いて目を閉じる。

 目を閉じているはずなのに、何故か眩しい光を見て、更に瞼に力を込めた。



「先生――」

 声が、聞こえた。

 彼女の声だ。

 目を開けると、目前に窓がある。

 窓の手前にはベッドがひとつ。

 窓枠で切り取る絵画のような光景。

 空に浮かんで見える――

 病棟の十階。南最奥の部屋、窓際のベッドだ。

「あ……」

 目の前に彼女がいる。

 子供同然の背格好で、頭髪が短く少年のようでもある。

 細い首と華奢な肩が病の長さを窺わせて痛々しいが、僅かに膨らんだ頬を唇の端で押し上げるようにして笑っていた。

 深いえくぼが、彼女の内面の明るさを表している。

 森に似た深い緑の瞳で、俺を見上げている。

「先生? どうしたの?」

「いや……」

 手を伸ばせば触れられる距離にいて、それなのに動き出すことができない。

 これは記憶で、あの日の焼き直しで、俺が今から彼女にしてあげられることなんて一つもない。

 もうすぐあの言葉が聞こえる。

 そう分かって強く鼓動が打った。

 決して自棄など含まれていない、心底からそれが良いアイディアだと信じる調子で、彼女はぽつりと呟く。

「先生も、私のことなんか忘れていいよ」

 その瞳が印象的だった。

 いつも、笑うと泣くように濡れた瞳。

 そうか、彼女には愛おしかったのだ。

 彼女に喜びを与える世界が。

 この世界には苦痛しかないと考えるのは間違いだと彼女は知っていた。

 どんなに小さなことにも喜びを見つけ出して笑っていた。

 偽りの感情で無理に笑ったことなど、一度もなかったのだと思う。

 笑いたいから、笑っていたんだ。

 それに救われていた。

 だから助けたかった。

 ――悔しいな。

 胸が痛い。懐かしく、それなのに真新しい痛みが胸の奥で冷たく疼く。

 彼女はそっと腕を上げ、うなだれる俺の頬を撫でた。

 子供のように小さく、血の巡りが悪い冷たい手。

 その手に俺も手を重ねて、やっと言葉を搾りだす。

 彼女の名を呼んだ。

「俺は忘れない。あなたのことをずっと覚えています。今度こそ、絶対」

 彼女には不本意かもしれない。

 でも、望みを叶えてあげられないことを、悪くは思わない。

 彼女はまた、ふわりと笑って、困ったように眉を寄せる。

「ありがとう。さよなら」

 最後にもう一言。

 聞こえた言葉が胸の奥に染みこんで、それは熱になって感じられた。

 冷たい痛みが溶けだして、ずっと欠けていた何かが補われたような心地がした。


     ◆


「ここをまっすぐ行けば、町へ出る」

 白昼夢の余韻を引きずったまま、どこをどう歩いたのか、気付けば立ち止まっていた。

 ルクレイが指差す先の景色は、まだ当分の間は木、木、木――つまりは森が続いている。

「ありがとう、ルクレイ」

「ううん。待たせてごめん。気をつけて帰ってね」

 町でお茶でもご馳走したかったが、それよりも彼女は鳥を探しに行きたがるだろう。片手に空の鳥篭をぶら下げている様子からそう分かったから、執着せずに別れを告げる。

「じゃあ、さよなら」

「さよなら。元気で、ハウザー」

「それはこっちの台詞だ。雨に気をつけて、無茶はほどほどに」

「うん、分かってるよ」

 ルクレイは苦笑した。

 鳥篭を後ろ手に持ち替えて、身体はこちらを向いたままで、帰り道を一歩進んだ。

 なぜだか嬉しそうに俺を見上げて、そっと囁く。

「きみはきっと、これからたくさんの人を助けるよ。今までもそうだったように」

「どうかな。でも、そうなるように努力する」

 素直な励ましの言葉は嬉しい。

 けれど、それに甘えるわけにはいかなかった。

「それを俺の夢にするよ」

 少女は頷いて笑い、やっと踵を返す。

 俺も来た道に背を向けて、まっすぐの道を歩み出す。

 どこかで鳥が鳴いた。

 それを追って駆け出す少女の姿が目に浮かんで、つい笑った。



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