おとぎ話の森で〈4〉
4.
今日も、巨樹を目指して森を歩いている。
二人の客人――僕とリラはそこで道が分かれるから、少女の見送りも巨樹までだ。
今日も空の鳥篭を携えて、ルクレイはリラと並んで歩く。
祖母に付き添う孫娘といった様子の二人の後ろに僕も続いた。
リラが何かを指差して、ルクレイが応じて説明する。
何か樹についての雑談を交わして、また別の話題へうつる。
そうして笑いあう二人の姿は、祖母と孫というよりも友人同士の関係に近い雰囲気だった。
リラが歳若い少女に戻ったようにも、ルクレイが同じだけ年を経た老女のようにも感じられて、不思議な印象を受ける。
既に通った道だから一同の足取りは昨日よりも調子が良い。
このままいけば昼も待たずに巨樹にたどり着くだろう。
別れが近いことが惜しかった。
けれど、この区切りを受け入れなければいつまでも長居をしてしまいそうだから、足を前へ進める。
しかしその歩みはすぐに中断した。
先方を行くルクレイが足を止めて空を仰いでいる。
「鳥の鳴き声、聞こえる?」
少女が確認するように問いかけて、はじめてそれに気づく。
高い笛の音が連なるような、かわいらしい鳴き声が聞こえた。
ルクレイは茂みを割って木々の合間へ歩む。
そうして、鳴き声を頼りにその姿を探した。
「おいで」
腕を伸ばして迎える、少女のもとへ鳥が舞い込む。
黒く縁取りのされた灰の翼をぱたぱたと羽ばたかせ、やがてルクレイの差し出す手に降り立つ。視線を交わし、鳥は何かを了解したように鳴き声を上げると、ルクレイの手に身を任せて鳥篭へと収まった。
ルクレイは鳥を運んでくる。
鳥もすべてを理解しているように、大人しく身を任せていた。
「リラ。きみの鳥?」
呼ばれ、リラは鳥篭へ歩み寄る。
控え目な冠羽を頭にかぶった鳥だ。
上品な淡灰色の翼はとても繊細で、それに覆われた滑らかな胸が呼吸のたびに小さく上下する。
リラは篭のなかを覗き込んだ。
真剣な眼差しで鳥を見つめる。
鳥も気付いてリラを見つめ、窺うように首をかしげた。
その瞬間、一羽と一人の間に何か気持ちが通いあったような親しみが感じられる。
だから、それが彼女には無関係な鳥には思えなかった。
眼差しだけで会話をしたような、静かな時間が過ぎた。
やがて否定を示すようにリラは俯く。
彼女の手から鳥篭を引き取るルクレイの頬には、小さな笑みが浮かぶ。
同じようにリラも頬を綻ばせていた。
「ありがとう。ここへ来てよかった。私、分かったわ」
この鳥が、リラの鳥ではないとすれば、リラは鳥に出会わなかったはずだ。
少なくとも僕が見ているうちには。
言葉を待って黙り込む。
リラはいつしか心からの安堵を滲ませていて、昨日見せたような怯えの気配がは窺えなかった。
「おかしいわね。私、忘れたことなんか一つもなかったの。
最初から、あの人のことを少しも知らなかった。
知り合う前に別れてしまったから。
年老いたせいで記憶が薄れてしまったのだと考えていたけれど、思い違いね」
思い出を確かめるように、リラは胸に手を重ねた。
「名前も知らなかった。
どんな歌が好きだったのかも、何を好んで食べていたかも、暮らしも仕事も、家族や友達のことも――彼がどんな人だったのか、ほとんど知らないままに恋をした。
それでもとても幸せだった」
良かった、と彼女は囁いた。
「その気持ちが、私の思い出だったの。
何も失っていない。全て、ここにあるの。ずっと」
今、彼女は勇気に満ちた眼差しで行く道を眺めている。
「もう平気。行きましょう」
再び、巨樹を目指して歩き出した。
巨樹を見上げて、おとぎ話を思い出している。
魔女は、死ぬと樹になる。
あまりにも頼り無い体躯の老婆が樹の根元に立って、それを見上げていた。
魔女を羨ましいと言ったリラは、樹を見つめて何を思っているのだろう。
「リラ。ポトフおいしかった。ありがとう」
「ええ、ルクレイ。楽しい時間を過ごせて、嬉しかったわ。二人とも、お元気でね」
「うん。さよなら」
歳のわりには確かな足取りで、決して整っているとは言えない道を、彼女は歩んでいく。リラの去っていった道を、二人で眺めている。
彼女にはもう二度と会えないかもしれない。それでも少女は、また明日何気なく出会えるような気軽さで別れを告げて送りだした。
「ネインも、気をつけて帰ってね」
振り返って、ルクレイはこちらを見上げる。
「ルクレイこそ。鳥にばかり夢中になって、転ばないように」
「大丈夫」
鳥は篭のなかでじっと静かに羽を休めていた。
僕は念のための気持ちで鳥を眺める。
やはり胸の内に『これは自分の鳥だ』という確信は沸かない。
だから、きっと無関係な鳥なのだと分かった。
それだけに、鳥がリラと通じ合っていたように見えたことが心に残っている。
「この鳥は、本当にリラの鳥じゃなかったのかな」
問いかけに、ルクレイは口を結んで微笑む。
内緒にするつもりで答えを示している様子だ。きっと彼女は嘘をつくのが下手だ。
「どうかな。でも、そうだとしたら、きっともう彼女には必要のないものだよ」
つまり彼女は、ここで何かを忘れたのだろうか。
リラの晴れ晴れとした表情を思い出す。
囚われていた何かから解放されたような、荷の下りた顔をしていた。
強張りが取れて自由になって、軽やかな印象を受けた。
「……もし、この鳥が彼女の何かだとしたら、その何かは彼女を脅かしていたもの?」
少女は否定も肯定もしない。
でも、少し嬉しそうに頬がゆるんでいる。
「ぼくはこの子を連れて帰るよ。それじゃあ――」
「また来るよ、ルクレイ」
別れの言葉を遮って再会の約束を交わすと、少女は隠しきれない喜びを滲ませて笑う。頷いて踵を返して、名残惜しい気持ちを隠すように勢いをつけて歩き出す。
その姿に励まされて、僕もまた惜しむ気持ちを飲み込んで歩き出した。
この森で、人はひとつ記憶を失う。
僕は何かを奪われた実感があって、それを取り戻したくて、繰り返し森を訪れた。
あるいは、森で失くした記憶は、取り除かれるべき不要なものだったのかもしれない。リラの鳥のように。
そうだとしたら、無理に探すべきではないのだろうか。
見つからないことを、嘆かなくてもいいのだろうか。
抱えていた焦りが少しだけ軽くなる。
いつか、もっと気楽な気持ちで森を訪れる日が待ち遠しくなった。
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