おとぎ話の森で〈3〉

 3.


 夕食を終えて、リラはもう就寝している。

 僕はまだ眠れそうにないから、サンルームで過ごしていた。

 ここでソファにもたれて夜空を眺めるのが好きだった。

 吐息して、昼間にたっぷり降り注いだ陽射しの名残を胸に吸い込んだ。

 温かな空気がふいに流れ、新鮮な風が入り込む。開いた扉の向こうから、寝間着姿の少女が半身を覗かせていた。


「ネイン。お邪魔?」

「まさか。歓迎する」


 ルクレイは僕の言葉に微笑むと、肩で扉を押し開けた。

 両手が塞がっていて、それぞれの手にカップを持っている。慌てて歩み寄り、その手からひとつ受け取った。カップには温かな液体が満ちている。


「寒くない? どうぞ」

「ありがとう。頂くよ」


 ルクレイはカップに口をつけながら歩み、ソファへたどり着く。

 ガラスのテーブルに一度それを置くと、両手を挙げてぐっと体を伸ばした。

 まだ入浴して間もないらしく、温かな石鹸の匂いが漂っている。


「今日は嬉しかった。お客さんが二人もいることって珍しいから楽しいよ。鳥は、見つからなかったけど……」

「あの人、見つけられるかな」


 彼女の気弱な姿を思い出す。

 見た目の通りに歳を重ねてきた女性の、強さと弱さ。

 確かにリラは高齢だ。

 残された時間は限りある。

 リラが僕と同様に足繁く森へ通うことは、きっと難しい。

 だから、他人事でも気が急いた。

 リラが鳥に出会えればいいと願う。


「どうかな。見つかるといいね」


 ルクレイの言葉の響きは軽い。

 深刻な問題ではない、と判断しているように感じられた。

 問題は必ず解決されると予め知っているみたいな調子だ。

 成り行きに任せればきっとうまく行く。

 そう思わせる落ち着きを持っていたから、焦りを解いて、再びソファに深く腰掛ける。

 ルクレイと並んで星空を見上げた。天蓋の向こう、一面に、輝く小さな光の群れが広がっている。眺めているうちにようやく心が落ち着いて、気持ちは穏やかになった。


「きっと、大丈夫だよ」


 何の根拠もなくルクレイは言う。

 彼女の言葉は予言じゃなくて願望だ。

 僕も同じ気持ちだったから、祈る思いで頷いた。

 

      ◆

 

 木々の枝に風が絡みついて森を唸らせる。

 恨みがましくすすり泣くような声に、魔女の恋の結末が思い浮かんだ。

 叶わぬ恋に落ちた魔女のおとぎ話。本の中では美しく描かれていても、それは虚しい悲恋の物語に違いない。

 今夜の風は、まるで彼女の悲嘆の嗚咽のよう。

 私はベッドの中でそれを聴いていた。

 夜は深まって、それでもまだ朝は遠い。

 屋敷から人の活動する気配は消えて、私の他には誰もいないみたいだった。

 心細い気持ちを抱えたまま目を閉じる。

 こんなときに考えるのは遠い記憶の恋人のこと。

 それを、いつしか己が作り上げた虚構の存在ではないかと疑う瞬間があった。

 恋人だったはずの彼なんて実在せず、過去を捻じ曲げて生み出した幻なのかもしれない。

 幾度となく自分を励まし支えてきた彼の存在を、彼との過去を、疑うことが多くなった。

 だから、彼のことをもっとよく思い出したかった。

 どんな歌が好きなの。

 吸っていた煙草の銘柄は何だったかしら。

 一番好きな本は何?

 どこで生まれて、どこで育ったの。

 どんな仕事をしていたの。

 分からない。思い出せない。でも、恋をしたの。

 幸せだったのよ。

 彼の実在を信じたかった。

 二人に確かに過去があったことを、疑いたくなかった。

 不安が眠りを妨げて、森の唸りが心を脅かす。

 風の音にまぎれて控え目なノックの音が聞こえた。


「リラ。もう眠った?」


 彼女はそっと、遠慮がちに開いた扉から部屋を覗き込む。

 ルクレイの白い顔が私を見つけて微笑んだ。


「いいえ。起きてしまったところなの。どうぞいらっしゃいな」

「うん」


 ルクレイはベッドまで歩み寄る。

 場所を空けると、そこへ体を潜らせて笑った。

 遠慮をする必要がないことを、言葉もなしに分かり合って、どちらからともなく身を寄せる。


「眠れなかったの? 怖い夢を見た?」


 尋ねると、ルクレイは小さく首を振った。


「リラが起きている気がしたの。だから」


 思いがけない理由だった。

 怯えを見抜かれたように感じて己を恥じたのは一瞬で、寄り添ってくれる温かさに胸を打たれて言葉に詰まる。


「眠りが浅くて……こんな夜は考えてしまうの。もう随分年を取ったけれど、まだ怖いものがあるんだから、嫌ね」

「ぼくも、怖いもの沢山あるよ。眠れない夜もある。大人になっても、そうなの?」


 秘密を打ち明けるように、ルクレイが囁く。


「克服できるものも、たくさんあるわ。

 でも、大人になっても変わらない。

 それまで怖くなかったものに怯えたり、思いもよらないものが怖くなったり。

 だけど、がっかりしないでね。

 きっと、もっと好きなものや、素敵なものにも出会えるはずだから」

「リラも、出会った?」

「ええ――たくさん」


 真っ先に家族の姿が浮かんだ。

 愛した伴侶と子供たち。立派に育った孫たち。


「振り返ってみても満足のいく人生だったと、自信をもって言えるわ。育てた子と、その子がまた育てた子たちが、幸せそうに見えるから」


 そうだわ。

 これ以上に望めないほど、幸せだった。

 事実を確かめると、胸に根ざした不安は薄れていく。

 少女への励ましを言葉にしたつもりで、自分自身が励まされていたことに気付く。

 眼差しを受けて、少女はあどけない瞳で見つめ返した。

 まだ話を続けてもいいのだと思って、口を開く。

 彼女に聞いて欲しかった。

 弱音を誰かに預けたかった。


「幸せな思い出をいっぱい持っているわ。

 贅沢な話かしら――それでもまだ死ぬのは怖いの」


 少女は細い腕を伸ばして私の手を探った。

 二人の手は毛布の下で繋がれる。

 乾燥した冷たい肌に、少女の温かな手が嬉しくて、両手で包み込む。

 瑞々しい若い指は果実のようで、郷愁の念にかられた。

 いつか遠い昔。

 まだ鮮明に思い出せる一方で、嘘のように感じる。

 あんな日々は夢だったんじゃないかしら。

 あの日、私も少女だった。

 年老いることなんてちっとも想像しなかった。

 あの頃の私と、今の私が、同一人物だなんて。


「勿論、悔いがひとつもないとは言わないわ。あの時こうしていたら、と考えることもあった。例えば、あの人と共に歩むことができたら、どんな人生になったかしら――。きっとそれは、今とは全然違う道だと思うの」


 ありえなかったもう一方の人生では、今持っているものを持たず、その代わりに、得られなかったものを得ている。

 決してどちらが正解とは言えず、どちらも間違いとは言えない。


「恋人のこと――? 思い出せるの?」

「いいえ。ほんの少しだけ。名前も分からない。

 どんな歌が好きだったのかしら。

 何を好んで食べていたかしら。

 暮らしも仕事も、家族や友達も――

 彼がどんな人間だったのか、全然わからないの。

 恋をした。彼についての記憶は、それだけ」


 どうしても、思い出せない。


「それだけしか、思い出せないの……」


 ため息交じりの声が震えてしまう。

 好きだったものを忘れてしまう恐ろしさに寒気を感じた。

 そうして私は、今までにどれだけ大事なことを失ってきたのだろう。


「リラ……」


 少女がまた身を寄せた。

 温もりに慰められて、その髪を撫でる。


「忘れたままでは顔向けできないでしょう。

 申し訳なくて、情けなくて、その日を迎えるのが怖いの」


 いつか、間もなく訪れる、その日に備えていたかった。

 すべての準備が整ったとき、恐怖は薄れるのだと信じた。


「でも……今もその人のことを考えると、嬉しい?」

「――そうね。あの人のことを思い出すと、嬉しくなる。

 ……恋をしていたあの頃の楽しさを思い出すのね」

「それだけでも、リラが覚えていられてよかった」


 そう言われてみて、改めて気付く。

 あの頃の気持ちだけは覚えている。

 私、忘れていないのね。全てがこの手からこぼれ落ちたわけじゃない。

 そうと分かって、深い安堵に包まれた。

 その気持ちまで忘れてしまっていたら、彼のことを思い出そうともしなかったわね、きっと。


「今日はもう眠ろう? 夜も遅いから」


 ルクレイが囁く。瞼を閉ざして、私は彼女へ身を寄せた。


「ああ、温かい」


 少女の、子供らしく高い体温がありがたい。

 じんわりと伝わる熱が心地よく、いつしか穏やかに眠りに就いていた。

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