おとぎ話の森で〈2〉


 

 2.


 眩しい朝日が瞼の隙間から寝不足の眼を刺激する。

 頭の奥が少しだけ鈍く痛んだ。瞼を開けて、瞬きを繰り返す。

 窓の外に森の景色が広がっていて、僕は自分がどこにいるのかを思い出す。

 昨晩、僕は寝つきの悪い思いをした。

 この屋敷で過ごす夜としては珍しい。

 いつもなら、自分のベッドよりもよく眠れるのに。

 寝る間際になって、ついリラのおとぎ話の印象が甦って、森の木々の音をいつも以上に不吉に感じてしまったためだ。

 おとぎ話の内容は、言ってしまえば他愛のないものだった。

 魔女が人間に恋をする。

 しかしそれは掟破りで、魔女は死んで樹になる。

 かいつまんで話せばそれだけの、些細な物語だった。

 ルクレイは、昨日のおとぎ話についてどう思ったのだろう。

 部屋を出ると、ちょうどルクレイが二階から降りてきたところだった。とっくに着替えを済ませた様子だから、もっと早くから起きていたのだろう。


「おはよう、ネイン。よく眠れなかったの?」


 確かめるように、僕の顔を覗き込んだ。

 咄嗟に目をそらして、「いや」と誤魔化しを口にする。


「少し、夜更かしをしていた」


 心配をかけまいと言い繕うと、少女は笑って流してくれた。


「朝食が済んだら森へ行くよ。ネインも行くでしょ? 今、お昼ご飯を用意している」

「ありがとう。急ぐよ」

「もうリラは準備万端だよ。ネインも早く」


 誰かと一緒に森へ行くのが楽しいようで、少女は浮き足立っていた。食卓には、僕一人だけ遅れていたにも関わらず、熱々のトーストとスープと、昨晩の余りのポトフと、淹れたてのお茶が用意されていた。

 

 

 雲ひとつない空を貫くのは背の高い木々たちだ。

 寝不足の目を覚ますために空を見上げた。

 空を仰ぐと方向感覚が狂って自分の居場所が判らなくなるような不安さえ抱くのに、先を歩むルクレイの足取りはいつだって迷いがない。

 少女は外出着のローブを翻して、細い足を投げ出すように歩く。楽しそうな様子だ。

 片手に提げた空っぽの鳥篭が、歩くたびに揺れている。

 その後ろについて、歳のわりに確かな足取りでリラが続く。

 僕は昼食のランチボックスの入った篭を抱えて運んだ。

 三人分だから重たいかと思いきや、女性二人はそれほど食べないから、大した苦労ではない。


「リラ、疲れてない? 平気? 足元に気をつけてね」

「ええ、大丈夫。散歩は大好きなの」


 時折足を止めて、木々を見上げ、空を仰ぐ。

 リラはすれ違うどんなものをも嬉しそうに見つめた。木の枝や葉のひとつひとつの形まで楽しく眺めている様子だ。

 少しずつの進行だから、振り返ればまだ屋敷が見える。

 すぐに二人に追いついてしまうから、僕は時々足を止めて周囲を眺めた。

 当たり前だけれど、どこを見ても樹が視界に入る。

 そのなかで、とりわけ大きく存在感を持った一本が、木々の向こうに見える。

 森の中央を示すというあの巨樹をとりあえずの目的地として目指していた。

 こんなにのんびりした足取りで、お昼時までにたどり着けるだろうか。


「ネイン。置いていくよーっ」


 いつのまにか、思わぬ距離をあけられていた。

 二人は丁寧にも立ち止まって待っている。慌てて走って、二人に合流した。

 

 

 昼には目的地にたどり着いた。

 リラがてきぱきとランチの準備を整えて、みるみるうちに木陰に立派な食卓が広がる。昼食を運んだ篭にストールをかけて簡易のテーブルにして、その上に食器を並べる。魔法瓶の中の温かなお茶をカップに注ぎ、あらかじめ切り分けられたサンドイッチを配った。

 彼女が家族と暮らしていた頃はいつもそうやって世話を焼いていたのだろうなと窺える自然な所作に、つい任せっきりにしてしまう。


「こんなに気分の良いことってあるかしら」


 リラは微笑む。


「懐かしいわ。まだ孫たちがあなたより小さかった頃、よくこうしてお日様の下で食事をしたの。鳥が寄ってくるのを喜んで、孫たちもはしゃいで……」


 眩しそうに木々を眺めた。過去の情景を重ねて目を細める。


「あれは駒鳥だったかしら。お昼ごはんのおすそ分けをつついて、かわいい声でご挨拶をしてくれた」


 ルクレイもその光景を目に浮かべるようにリラの視線を追いかける。


「ぼくも外で食事をするのって好きだよ。それに、今日はお客さんが二人もいるから嬉しいな」


 僕はとくに気の利いたことができるわけでも、何か貢献できるようなこともない。 

 手土産も、いつも持って来なかったことに気付いて後悔する。

 それでもルクレイは嬉しそうに迎え入れてくれる。

 ただ会って、時間を共に過ごす。

 それだけが何よりの喜びだというような少女の様子に僕も嬉しくなった。

 些細な食事が美味しいのは、そのせいだと思う。

 他愛もない会話を交わして笑いあっていると、昨日も一昨日もずっとこうして過ごしていたように錯覚した。

 リラが本当の祖母で、ルクレイと二人で彼女の孫であったような過去を空想した。

 

 

 食事の後片付けも、気付けばすべてリラが済ませて、それでも何の苦労もなかったような態度でにこにこしていた。

 食後の胃を休めながら、鳥の姿を探して木々を眺める。


「いるかなあ。リラの鳥」

「どうかしら。でも、会えたら嬉しいわ」


 僕も、もしかしたら森に居るかもしれない自分の鳥を探す。

 僕もリラと同じだった。

 以前、失われた記憶を求めてこの森へ来たのだ。

 この森で、人は一つ記憶を失う。

 記憶は、鳥の姿を得る。

 ルクレイの紡いだおとぎ話を信じて、僕は今までに何度も森へ通った。


「あ――」


 ふいにルクレイが首を伸ばした。ゆっくり立ち上がって、遠くを見渡すように森へ視線を巡らせる。


「鳥がいる。ぼく、行ってくる」


 空の鳥篭を掴んで、慌てたように駆け出した。

 呼び止める間もなく小さな背中が遠ざかっていく。

 木々に紛れて姿が見えなくなると、ちゃんと戻ってくるだろうかと不安が膨らんだ。

 けれど、彼女にとって森は庭のようなものだろう。心配は無用か。


「ネイン、おかわりはいかが?」


 リラがカップにお茶を注いで差し出してくれた。

 改めて、二人きりで残されたことが少し気詰まりに感じる。

 こうして向き合う彼女は、やっぱり初対面の相手で、知らない他人だ。だから、どう接したらいいのか戸惑ってしまう。

 僕の心中をよそに、リラはのんびりとお茶を味わって深く息を吐いた。

 森を、巨大な樹を仰ぐ。


「立派な樹ね」

「はい。本当に」


 僕はただ頷く。気の利いたことの一つも言えない。

 リラは朗らかに笑った。


「魔女は、いいわね」

「どうして?」

「死んでも、樹としての姿が残るのだから」


 それがいいことか、悪いことか、僕にはまだ分からない。

 だから答えられなかった。

 もしも、この樹も魔女だとしたら、一体どんな人だったのだろう。こんなに大きな樹になるくらいだ。年老いた立派な魔女だったのかもしれない。

 おとぎ話になぞらえて空想を膨らませる。

 隣で静かにお茶を飲むリラが、嬉しそうに息をついた。


「ああ――楽しかった。孫たちが懐かしい。もう、あと何度会えるのかしら。昔はこうやって公園へ出掛けたり、お庭でパーティをしたり、一緒に過ごしたものだったけれど。もう大人になってしまって、忙しく暮らしているみたいで、しばらく会っていないの」

「お孫さんが居るんですね」


 リラは頷く。


「四人よ。一番年下の子も、もう大人になるわ。私、結婚をして、家庭を作って、文句のつけようのない人生を歩んできた。主人とは、両親の薦めで出会って、お互いに気に入ったの。仲の良い家族になれた」


 また森を仰いで、リラは目を閉じた。


「でも恋とは少し違った。私が恋した相手は、あの人だけだと思うわ」


 なんだか難しいことを言う。

 僕には、その差がよく分からない。

 結婚する相手と、恋に落ちる相手は、別種の物であると考えたことはなかった。

 ともすれば不義にも思える言葉だが、リラはやましいことなどないような、潔白な感慨を口にした様子だった。

 彼女の感情にも、事情にも、理解は及ばない。

 僕は別の疑問をほどく手がかりを探った。


「恋人のこと、どれくらい忘れているか、自覚はありますか? 思い出せることは?」


 本当に、森で失った記憶を取り戻すことができるのか。

 そのためになにか手がかりがあるのか、知りたかった。

 問いかけにリラは小さく首を横に振る。


「名前も思い出せないの。長い年月が経ったせいかしら。それとも、この森のどこかにまだ残っているのかしら。そうだと良いのだけれど――もう一度、思い出を確かめたいの」


 リラの表情が曇る。

 急に、全身が萎んでしまったかのような頼りなさを感じる。

 木々の枝に似た乾いた指同士が重なって、祈り願うかたちをつくる。

 リラの不安げな横顔が、縮こまった小さな体こそが、本来の彼女なのだと思った。

 温和な態度や落ち着いた上品な所作や、幸福な人生を思わせる言動の裏に隠された、元々の彼女の姿だ。


「生きているうちに思い出しておかないと、あっちへ行ったときに、探し出せないでしょうから」


 そう言ってリラは笑う。

 言葉を軽くしようとして、無理に冗談めかしていた。

 それが判ったから僕も笑う。

 自分の不器用さから、ぎこちなくなった自覚があった。

 早くルクレイが戻ってくればいいのに。

 彼女ならきっともっと自然に寄り添って、リラを慰めてくれると思った。


「あなたも、何か思い出すためにこの森へ来たのね?」

「はい。でも、まだ何も。そもそも何を思い出したかったのかも分からない」


 答えて、不安を抱く。

 この森は記憶を奪う。

 だから、こうして森の中で過ごしている間にも、また新しく何かを忘却しているのではないかと疑った。


 相反する思いの板挟みになる。

 居心地が良いから長居をしたい気持ちと、記憶を奪われたくないから早く立ち去りたい気持ち。

 矛盾するのに、理由を作って、僕は森を訪れている。

 森で過ごす時間が好きだった。

 この場所のほかに、世界にはなにもないように錯覚する。

 普段暮らしている町も、生活も、どこか遠くに感じるのだ。

 それはとても心地の良い感覚だ。

 日々の忙しさを忘れられる。

 こうしていると、休んでいることを咎められてしまうような毎日を送っているのだと改めて気付かされた。

 でも現実から切り離されたような森の屋敷では、何も心配することはない。

 好きに休んでいい。

 時計を気にせず眠っていい。

 叱る者も、急かす者も、どこにもいないから。


 このまま屋敷に居ついて素朴な生活を送ることも何度か空想した。

 何もかもの記憶を失って新しい人生を始めたって構わないと思うと同時に、そんなに粗末にするほど自分の暮らしが悪いものではなかったことにも気付くのだ。


「もしかしたら、この森は守ってくれているのかもしれないわ。私の中で時と共に薄れてしまう大切な記憶を、外に出して取っておくのよ」


 思いつきの言葉を嬉しそうに口にする。

 それはきっとリラの希望だ。遠い過去の恋人を思い出したい彼女は、それを願って森へ来たのだ。

 僕にとっては、この森は『記憶を奪う森』だった。だから、リラが寄せる思いには素直に同調できずにいる。

 言葉を選んでいる間に、足音が戻ってきた。


「鳥に会えたよ。ほら」


 鳥篭を気遣いながらルクレイが歩いてくる。

 中には鳥が一羽、篭が揺れるたび文句を言うように翼を揺らしている。


「リラの探している鳥?」


 ふっくらと丸いかたちをした、胸の白い鳥だった。

 翼は焼き目をつけたパンのような茶色をしている。


「いいえ。この子は、私の鳥じゃないみたい」


 リラははっきりと答えて、「ごめんなさいね」と付け足した。

 ルクレイは首を横に振る。


「それじゃあ、この子は連れて帰ろう」


 鳥も不満はないようで、落ち着いた様子で翼を畳んでいる。


「そろそろ戻りましょうか。風が冷たくなってきたわ」


 リラの提案に頷いてルクレイは帰り支度を整えた。

 鳥篭の中の鳥を気遣いながらの帰り道はのんびりとした歩みだったが、日が暮れる前には屋敷に帰り着いた。

 ――結局、リラの鳥には出会えなかった。

 僕も同じだ。


「明日、帰る途中でまた探してみるわ。それでもだめなら、諦めます」


 そう言うリラの年老いた瞳には、まだ諦めは浮かんでいなかった。

 

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