つがいの鳥〈2〉
2.
朝食の席で、すっかり疲れの取れた様子でユーニスは元気にお喋りしている。
ルクレイはユーニスの話す都会の出来事に興味深そうに耳を傾け相槌を打っていた。
「週末はたくさんの人がショッピングのために集まって、とっても賑やかなの。
遠くからも人が来るから、それを狙って普段はやってないお店も開く。
そうすると、その時しか買えないからみんな大行列を作るのよ」
「何を買うの?」
「香水とか、アクセサリーとか、靴や鞄……勿論、服も。
ほら、これもそのお店の。すっごく流行っているんだから」
ユーニスが着ている服を示す。
胸のところで切り返しのついた白いワンピースだ。
シンプルだが仕立てがよく、洗練されたデザインをしている。
「じゃあ、長い時間並んだの?」
「ところがね、わたしは並ばずに手に入ったの。グリヴがお仕事で貰ってきてくれたの」
ユーニスはお喋りに夢中になるあまり、食事への意識が散漫になっている。
頬にジャムがついていた。何かの拍子に白い服を汚してしまいそうだ。
「ユーニス、ついてる」
指先で拭うと、ユーニスが気付いて頬を拭った。
それから、僕の手を捕まえて指先を口に含む。
ちゅ、と湿った音。彼女の体温が指先から全身に伝わるような感覚に、密かに震える。
「ありがと、グリヴ」
何気ない様子でそう囁いて食事に戻る。二人の少女のお喋りが絶え間なく続く。
「出発はいつ?」
食後に僕はコーヒーを、ユーニスはミルクを貰った。
出発のことを考えてユーニスが残念そうな顔をする。
彼女はルクレイを気に入って、別れを惜しんでいるのだ。
しかしすぐに気持ちを切り替えて「もう行くの?」と問いかける。
「いや――そうしたいが、実は足を痛めてしまっていて。
もし迷惑じゃなければ、あと一晩か二晩、滞在させてもらえないかな」
「グリヴ、どうして今まで言わなかったの? いつから? 無理して歩いていたのね。
まったく、困った人……!」
ユーニスが僕へ詰め寄り口うるさく問い質す。
曖昧に笑って誤魔化すと、少女の小さな唇から案ずるようなため息がもれた。
「ぼくは構わないよ。好きに過ごして。
必要なものがあったらメルグスに聞いてみて。足にも何か良い薬があるかも」
「ありがとう。本当に助かるよ」
「じゃあ……じゃあ、まだ一緒に居られるね、ルクレイ!」
昨日出会ったばかりの友達に身を寄せてユーニスが笑う。
食卓へまで仕事道具を持ち込まなかったことを後悔するような笑顔だった。
◆
三脚を設置して、カメラを固定する。
ファインダーを覗き込むと、肌着姿の少女たちがベッドの上に広げた衣装を眺めてあれこれと検討する様子が見えた。
検討しているのはユーニスだけで、ルクレイは棒立ちになって彼女を眺めている。
「ルクレイがカメラを見たことないなんて思わなかったわ。きっと写真を撮ったこともないのね。
はじめての一枚になるなら、うんとおめかししなくちゃ」
「でも、この服みんな大きいんだよ。着たらぶかぶかになる」
「いいのよ、写るときだけなんとかなれば。針と糸、どこに入れたっけ……」
旅行鞄を漁り、ユーニスはお望みのものを見つけ出した。
「ちょこっと縫いつけたら大丈夫よ。あのね、写真はね、実物が完璧じゃなくてもいいのよ。
都合の悪いものはフレームに入れなければいいの。
写真はね、都合のいい現実を切り取る道具なんだから」
ユーニスは得意そうに僕からの受け売りのフレーズを唱える。
あれがいい、これがいい、とユーニスは衣装を厳選していく。
「これ、着てみて」
紺色のブラウスは襟がセーラーカラーになっていて、それをワンピースのように着せると袖やウェストをリボンで絞りシルエットを作った。ユーニスの提げたポシェットの中から色とりどりのリボンが何本も覗いていて、彼女は魔法のようにお望みのリボンを抜き取って衣類に結びつける。
少女たちが着付けを行う間にも何度かシャッターを押した。気づかれないよう、さりげなく。
しかしユーニスは敏感にレンズ越しの視線に気づき、僕へ目線を寄越す。
着付けられる間、ルクレイは大人しい。
緊張しているのではなく、ユーニスの鮮やかな手際を夢中で眺めているのだ。
「ほら、素敵でしょ。どう、グリヴ?」
「お見事だよ」
オーバーサイズのブラウスが元から少女のためのワンピースだったように仕上げられている。
急場しのぎの着付けだから、大きく動けばシルエットは崩れてしまうだろう。
しかし、ユーニスの言うとおり、写真に写る間だけ維持できれば問題ない。
ユーニスはルクレイをカメラの前へ押し出して、自らもレンズを見すえる。
レンズ越しの視線が、まっすぐ僕を見つめているように錯覚する。
「あ、待って。ルクレイ、ほら」
気付いたようにルクレイの髪束を手に取ると素早く三つ編みに編みこむ。
それを白いリボンで結び、満足そうに頷いた。
「リボン、おそろいねっ」
ユーニスの髪にも同色のリボンが飾られている。
ユーニスの手仕事に圧倒されっぱなしのルクレイはユーニスを見上げ、屈託のない笑顔を見せた。
「ありがとう」
「うん、どういたしまして。今度こそいいわ、グリヴ。撮って」
ユーニスがルクレイの腕に腕を絡める。
頬を寄せ合い少女たちが笑う。
昨日出会ったばかりとは思えない親しげな笑顔が、ファインダーの向こうに並んでいた。
撮影をしたいと言ったのはユーニスだ。
彼女は何か宿泊のお礼を考えていて、僕の仕事に言及した。
現像までに時間がかかる上、それをまた届けに来るのがいつになるかは分からない。
だからお礼としては不適当だと思ったが、彼女は自分の考え付いた名案をルクレイに伝えて、少女もまたカメラに興味を示したのだ。
客室は即席のスタジオに、ベッドは楽屋にと変貌し、ユーニスは二度目の撮影に備えて衣装を再検討している。
「わたし、大人になったらモデルになるの。
色んな服を着て、色んな場所に行って、いろんな人が私を撮影するの」
自らの美貌の兆しを自覚し、それを誇っている。
ユーニスの自信に満ちた横顔をフィルムに記録する。
「それが、ユーニスの『将来の夢』?」
「夢じゃないわ。あとほんの四、五年もすれば本当になるんだから」
傍らで広げられた旅行鞄からごそごそと何かを取り出す。
出てきたのは昨年に発行されたファッション誌だ。
開き癖がついており、ユーニスはすぐに目当てのページを開いてみせる。
ルクレイは興味深そうに覗き込み、驚いたように吐息する。
「ほら、これ。わたし、もう雑誌にも載っているんだから」
「ほんとだ。ユーニスだ」
僕が担当したスナップ写真のなかにユーニスの姿も混じっている。
数合わせの必要があり、咄嗟に彼女を引き入れた。
それが評判で、時折頭数が足りないときにユーニスをモデルに写真を撮った。
ほかにもエキストラが必要なときや、背景の一部としてたびたび彼女を使っている。
ユーニスはそれを大いに誇りに思って、わざわざ雑誌を取ってあるのだ。
重たい荷物になるだろうに、転居先にまで持ち込むつもりだったとは。
「これが、ユーニスの暮らしていた町?」
「そうよ」
「すごい……。人がこんなに」
「まだまだこんなものじゃないわ。あっ、ほら、このページにも、わたし。
ぜんぶグリヴが撮影したの。良く撮れているでしょう?」
見開きの写真を示す。メインのモデルが当時最新だったコートを着て都会の町を歩いている。
その背景にユーニスが映っていた。
エキストラの中でも目を引く綺麗な金髪が、すぐに彼女だと分かる。
何気ないショットだが魅力的な笑みを浮かべた一瞬がしっかりと記録されていた。
「そうだっ。次はわたしの服を貸してあげる。
せっかくだから色んな場所で撮りましょう。あの温室は? わたし、あそこへ行ってみたい!」
「いいよ。行こう」
少女たちはまた着替えはじめる。ユーニスは旅行鞄をひっくり返し、ノースリーブのワンピースを見つけ出しルクレイを着せ替えた。
はしゃぐ少女たちの姿をファインダー越しに捉え、シャッターを切る。
◆
お部屋は客室よりも小さくて、ベッドのほかには椅子と小さなテーブルがひとつ。
壁に作りつけられた棚に何冊か本が並び、瓶詰めのキャンドルをブックエンドにしている。
「なーんにもないのね」
眺め回して、ついそんな感想が浮かんだ。
ルクレイの部屋には、ぬいぐるみも、雑誌も、衣装棚も、化粧台も、ラジオもない。
映画や歌手のポスターも貼ってない。
彼女は、何も欲しくならないのかしら?
「ベッドがあるよ」
「それは知ってるわ」
だって、今わたしたちは寝間着になって、二人でひとつのベッドに入っているのだから。
ルクレイは、わたしの身体のまわりを取り巻く金の糸を指で弄ぶのに夢中でいる。
仔猫が毛糸玉にじゃれているみたいだけど、それよりももっと慎重で遠慮がちな触り方だから、わたしは何も言わずに好きにさせていた。気に入ってもらえるのは悪い気分じゃないから。
「はぁ……」
何度目のため息だろう。
憂鬱な気持ちをそれでも吐き出しきれずにいる。
「ユーニス? どうしたの」
「ううん……」
ついさっきの話だ。
入浴を終えて、部屋へ戻ろうとしたところで、グリヴに言われたのだ。
『今夜はルクレイと一緒に寝たらどう? 折角友達になったんだから、お喋りしておいで』
一緒にいたルクレイは一も二もなく賛同してくれて、こうして部屋に招いてくれた。
それはいいの。わたしも、もっとこの子とお喋りしたいし。
でも――。
「わたしね……寝るときはいつもグリヴと一緒。それが当たり前だったの。
でもね、少し前から、時々しか一緒に寝てくれなくなっちゃった」
「どうして?」
「分からない。ううん、分かってる。
多分ね、わたしがもっと大人だったら、彼は悩んだりしなかったと思うの。
……早く大人になりたい」
これが、わたしの憂鬱の種。
「大人になると、どうなるの?」
髪から手を引いて、ルクレイがわたしを見つめた。
心から不思議そうな、理解の及ばぬものを覗き込むまっすぐな瞳をしている。
彼女は大人になりたいと願ったことはないのかもしれない。
「大人になるとね、責任が取れるようになる」
「責任……」
「自分ひとりで、何でも決めていいの。責任を取ればね。
飲みたければお酒を飲んでもいいし、吸いたければ煙草を吸ってもいい。
本屋さんの高い棚に置いてある本を見ることもできる。遅い時間にやっている映画を見ることも。
買い物も自由よ。働いて、自分の稼いだお金で好きなものを買うの。誰にも指図されずにね」
ルクレイはまだ理解の曖昧な目をしている。けれど、わたしの口調から何か素敵な意味だと感じ取れたのか、目をまるくして耳を傾けてくれた。
「それに、誰に恋をしてもいいのよ」
寝返りをうって、天井を見つめる。
そうして何もない場所を見ると、目に焼きついた黒いインクがぼうっと浮かび上がった。
沢山の文字列は、ぎゅっと目を閉じると一瞬は消えるが、今度は瞼の裏に滲み出すのだ。
また、目を開ける。
ルクレイに向き直る。
「そうだ。この森って……記憶をなくすことができるの?」
少女は小さく頷き、内緒話を打ち明ける調子で囁いた。
「きみが心から望めば」
心から望めば――だとしたら、目に焼きつくこの文字を、わたしは忘れないだろう。
怖い思いをした。嫌な気持ちにもなった。でも、同じくらい、大事なことにも気付けたから。
ただ、それなら、と願う。
彼の中からは、あのインクの連なりが、書き記された文言が、その記憶が消えてくれたらいいのに。彼を傷つける沢山の言葉を、彼が忘れてくれますように。
「ユーニスは何かを忘れたい?」
「ううん。何も。今、とても幸せだから」
「恋をしているから?」
「そう。忘れたくない。どんなことでも覚えているわ」
「そっか……」
ふいにルクレイがわたしに身を寄せた。ぎゅ、っと抱きしめられる。
なぜだか急に泣きたくなった。でも硬く瞼を閉ざして、涙を閉じ込める。
「わたし――わたしね、すごく心強いの。彼に恋をしていて。それだけで、勇気が出るの。
茨の道も、星のない夜も、怖くないのよ。自分でもびっくりするくらいたくましくなれる」
わたしより背の低い、でもきっとわたしより年上の少女の胸に頬を寄せた。
声が震えてしまう。
背中に触れるルクレイの手のひらが温かくて、慰められる心地だ。
わたしの中に潜んでいた心細さが、一人きりで抱えていた不安が少しずつ拭い去られていく。
「あの人がわたしを無敵にする。でもね、あの人にだけは、わたしは無力なの」
早く大人になりたい。
そうすれば、もっと強くなれる。彼を守れるくらいに。
どうして今、わたしは子供なのだろう。
悔しさが胸を締め付ける。
それも次第に、ルクレイの撫でる手や包み込む体温に溶かされ、薄れて行った。
「ユーニス。眠ろう。おやすみ」
その声が聞こえるころには、わたしはもう返事もできないくらい眠くなっていた。
――わたしは、グリヴが好き。
恋をしてるの。
今日までずっと二人で生きてきた。あの部屋で。
狭いアパートだった。真四角のリビングの真ん中に大きなソファが一つ。
家具を詰め込んだ部屋の中は散らかっていて、いつも二人で何かをなくしていた。
大捜索しながら部屋を掃除して、三日と経たずに元通り。
慌しく、忙しく、ゆっくりする暇もない。
グリヴが家にいるといつもそんな調子だ。
彼が居ない間、わたしはずっとお留守番。
狭い部屋のはずなのに、物が沢山溢れているのに、なぜかすごくがらんとしてからっぽに思えた。
そんなとき、わたしはその本を開く。
グリヴの仕事のスクラップブックだ。
彼はいつも、仕事をしてもらってきた本に無頓着で、すぐにゴミ箱に捨ててしまう。
だからわたしがそれを拾って、勝手に彼のポートフォリオを作るのだ。
人物と、時々風景。彼の目を通して映し出した世界。
生き生きとしているのに、どこか別の世界の住人のように見える人々。
見慣れたはずの景色が、全く知らない場所のように感じる。
これが、彼の写真。わたしの孤独を埋めるもの。
スクラップブックの次は、アルバムを開く。仕事とは無関係に撮った彼の写真が並んでいる。
それは、彼の友人やわたしの姿を収めたものだ。
彼が撮ると、わたしはまるで別人になる。
この部屋で一人寂しさに潰されそうになっているわたしが、グリヴの写真の中ではどこか大人びて神秘的だ。
この子はきっと、寂しくて泣いたりしないんだろうな。
自信をもって、胸を張って立っている。
どこか頼もしい微笑みを、彼へ見せている。
わたしって、グリヴの前でこんな姿をしているのね。
彼に愛情を注がれた誇らしさがその身を包んでいる。
お留守番で不安なとき、いつも、写真の中の子が羨ましかった。
不思議ね。同じわたしなのに、なぜか励まされた。
ああ、大丈夫。わたしは、平気。
だってこんなに彼に愛されているのだから。同じように、わたしも彼を愛しているのだから。
だから、ママがいなくても平気。
グリヴは忙しいけど、ちゃんとこの部屋へ帰ってくるもの。
わたしの待つ部屋に。
愛するって、一人だけじゃ出来ない。
二人居てはじめて成り立つものだ。わたしたちはそれを知っている。
あなたがいるだけじゃだめ、わたしがいるだけじゃだめ。
わたしとあなたがいてはじめて、愛が成り立つ。
この部屋には、それがある。わたしたちの暮らしには、それがあったの。
――モデルの仕事に積極的になったのは、グリヴと一緒にいられる時間が増えると思ったからだ。
それに、グリヴの写真の中にいるわたしにもっと会いたかった。
あの子に会えば会うほど、わたしはあの子に近づける気がした。
自信があって大人びている、理想のユーニスに。
目論見は大当たりした。グリヴと過ごす時間が増えたし、わたしはどんどん魅力的になった。
けれど、それが引き金になってしまったのだ。
持てるものだけ鞄に詰めて逃げてきた。人の目と、無責任な噂話から。
あの部屋に置きっぱなしのものに未練がないといえば嘘になる。
寝心地のよかった大きなソファ。誕生日にグリヴにもらった大きなウサギのぬいぐるみ。
おそろいの食器。カバーを手作りしたクッション。スクラップブックに、アルバム――。
でも、必要最低限のものは持って来られたはずよ。
他に何もなくても大丈夫。
あなたがいて、わたしがいる。
そうしたら、ほかになにも必要ないわ。
もう一度はじめられる。
ねえ、そうでしょう、グリヴ。
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