つがいの鳥〈3〉


3.

 僕たちの出会いを遡ると、必ずあの墓地に辿り着く。

 その墓標の前で二人は立ち尽くしている。

 まだ幼いユーニスは真っ黒いワンピースを着て、真っ黒いストラップシューズのつま先をじっと見つめている。何も言わず、唇を引き結んで、ただ眼差しだけまっすぐ墓標に注いでいる。

 僕は彼女の手を握った。

 強く強く、痛いほどにだ。彼女は嫌がらず、僕の手を握り返してくれた。

 だから、あの日から、二人で生きていこうと決めた。



 窓から差す月光に手のひらをかざす。

 左手の薬指の上で、古びた銀細工の指輪が青白く輝く。

 誰もいない居間は静かで、屋敷まで眠りに就いているみたいだ。

 窓から見える景色を眺めカメラを取りに戻ろうかと思う。

 現実感を失う光景だった。

 森と夜。それだけが世界を占めている。

 こんなにも人の気配の絶えた場所で暮らす日々は想像もつかない。

 こんな場所でなら、何をしたって誰も文句を言わないだろう。

「眠れないの?」

 突然の声に振り返る。

 少女がドアの向こうに立っていた。ルクレイだ。

「きみは?」

「喉が渇いて」

「僕も同じだ。ここへ来たら窓の外の光景に圧倒されて。眺めていた」

「写真、撮る?」

「実はそうしようかと思っていたところだ」

 僕の答えに、少女が嬉しそうに笑う。



 カメラを取りに戻って、庭先へ出る。

 新鮮な冷たい空気を吸い込むと、身体の細胞が入れ替わるような清々しさがある。

 木々は霧の紗幕の向こうで、青みがかって見えた。

 青白い大気と深い森と、ビロードの空と真珠の月。

 この光景を覚えていたいと思った。

 ルクレイは二人分のお茶を庭先へ運んでくれた。

 二人分のマグカップから湯気が立ち上る。

 受け取ると、カップから漂うさわやかな香りが鼻腔をくすぐった。

 並び、森を眺める。

「ユーニスはきみを困らせなかったかな?」

「全然。いま、よく寝ているよ」

「よかった。……何か聞いた?」

「うん。色んなお話。都会のこととか、グリヴの仕事のこととか、ユーニスの好きな本の話」

 他愛のない雑談を交わしたようだ。安堵してソファに腰掛ける。

 温かいお茶を飲み、いつのまにか冷えていた身体に染み渡らせた。

「あとね、早く大人になりたいって」

「そう――」

 ふいに胸が痛む。どんな話の流れでその考えを口にしたかは分からない。

 ただの憧れなのか、服のサイズがないからという不満なのか。あるいは。

 ――目に浮かぶのは、黒いインクの染み。文字の羅列。

 まだ鮮明に思い出すことができる。

 呆れるほどに汚い単語の見本市。人を貶めるための言葉の数々。

 振り切るように頭を振る。

「明日にもここを発つよ。ルクレイ、色々親切にしてくれてありがとう」

「そっか。ぼくも楽しかった、ありがとう」

「写真を現像したら、時間はかかるかもしれないけれど、必ず届けるから」

「うん。楽しみにしてる。……ユーニスと一緒に寝てあげないの? 彼女、残念がっていた」

 何気なく問いかけられて、咄嗟に少女を見た。

 その顔に浮かぶ感情を確かめた。

 当然、そこに悪意や侮蔑は含まれていない。

 浮かぶのは単純な疑問だ。

 確認するまでもなく分かることだ。

 過敏になった神経が体中に悪寒を走らせ、鼓動を早める。

「もう、ユーニスはお姉さんだ。父親と一緒に寝る年頃じゃないよ」

 今まで僕とユーニスの世界は二人だけしかいなかった。

 最初のうちはお互いの悲しみから立ち直るのに必死だった。

 次第にお互いの存在で満ち足りた。しかし、それが他者の目には常識外れに見えたらしい。

 幸せだと思っていたこの小さな世界が彼女を傷つけるかもしれない。その可能性に僕はずっと気付いていなかった。

「グリヴとユーニスは、親子なの」

「どう見えていた?」

「考えてなかったけど……、グリヴは金髪じゃないから。黒い髪」

「確かに、似ていない親子だとよく言われる。母親の血だよ。……多分ね」

「多分?」

 不思議そうに尋ね返す。答えを示さず、誤魔化すようにカップに口をつけた。

「ここで暮らすのは、心細くない?」

「うん。鳥もいるから」

 鳥。何か飼っているのだろうか。

 両親の不在は気になるが、人には様々な事情があることは身をもって知っている。

 わざわざ人目を避けて暮らすだけの理由があるのだとしたら、それは他者が気軽に踏み込んでいい事情ではないと容易に想像がついた。

「噂を聞いたよ。この森で人は記憶を失うんだって」

「うん。……そうだ、鳥に会う?」

 話の繋がりが前後している。子供らしい唐突さだなと微笑ましくなった。

 まだ眠れそうにない。だから少女の案内に従い、屋敷へ戻った。



『鳥もいる』

 そう聞いて想像した規模をはるかに上回る物量に圧倒された。

 部屋の広さは、二階の半分以上を占めている。そこに所狭しと並ぶ鳥篭の数にまず目をみはった。

 それぞれの鳥篭に、さまざまな鳥が棲んでいる。皆息を潜めて、僕を慎重に窺っている。

「こんなに賑やかだとは――心細くないわけだ」

 僕の言葉にルクレイは嬉しげに笑ってみせた。

「鳥たちは、みんな記憶を抱えている。記憶の鳥だよ」

「記憶の?」

「そう。ここにあるのは、誰かに忘れられた思い出」

 少女は噂話になぞらえて、この部屋で鳥を飼っている。

 ごっこ遊びだ。そう解釈する冷静な自分がいる一方で、この光景に圧倒された自分が噂の実在を信じたがっている。

 人が失った記憶がかたちを得て、鳥になって森を目指すのだ。

 記憶の一部を運ぶ。忘れたい思い出を切り取ってくれる。切り取る。過去を。感情を。

「――写真みたいだ。過去を切り取って、かたちにする」

「そうか。写真って、記憶を残すためのものなんだ」

「そう。同じだ」

 今までも沢山の写真を撮った。仕事でも、私生活でも。

 自分のために撮る写真はそのほとんどがユーニスか、ユーニスとの生活が記録されている。

 成長の経過、喜びの記念、失敗の反省や成功の証拠に。

 そしてふと愛おしくなった瞬間に、少女の姿をフィルムに残す。

 忘れずにいるために。

 だが、幸福な記憶は、今はただ胸に痛みをもたらした。

 ルクレイが窓を開け、新鮮な空気を取り込む。

 それが重たく塞いだ心を少しだけ楽にしてくれる。

 窓の外にはすでに夜明けが迫っていて、朝陽の兆しが部屋に差し込んだ。

 鳥たちを眺める。陽光に気付いて羽を広げるものも、知らん顔で眠り続けるものもいた。

 ふと気付く。

 足元に、二羽の鳥を抱く鳥篭が一つある。

「これは? つがいの鳥?」

「わからない。一緒に居たがるから、ひとつにしてるの」

「そうか。……ルクレイはこんな話を知っているかな」

「何?」

「つがいの鳥の話。今、見て思い出したんだ」

 少女は興味深そうに僕を見上げる。

 その瞳が、明け方の空と同じように透き通っている。

「ひとつの鳥篭につがいの鳥が棲んでいる。

 それは、最大の幸いを運ぶ鳥と、最大の災いを運ぶ鳥なんだ。

 その鳥篭を開けた人のもとへ、一方は幸いを、一方は災いを運ぶ。

 どちらか片方だけ、ということはない。必ず両方がもたらされる。

 最大の幸いを手に入れたければ、最大の災いも一緒に抱えなければならない」

「……がんばって、災いの鳥だけ閉じ込めたままにできない?」

「できないな。難しいよ。二羽は一心同体で、常に一緒に飛ぶんだから」

 子供らしい知恵をたしなめると、ルクレイは真剣に悩んだ顔をする。

 なんとかして幸せの鳥の恩恵だけを取り出す術を探っているのだ。

「要するに、ほどほどで我慢しろという寓話だよ。

 欲張って、大きな幸いを求めてはいけない。鳥篭を開けるべきではないんだ」

 求めすぎれば破滅する。そう説く例え話なのだろう。

「でも、大きな幸いが見えているんでしょう? 鳥篭の向こうに。我慢しなくちゃいけないの?」

「だって、同時に最大の災いに見舞われるんだ。躊躇うよ」

 僕はその鳥篭を開けられるだろうか。

 手を伸ばし、実際の鳥篭に触れる。

 もちろん、この二羽の鳥が何かを運んでくるわけじゃない。何も知らずに眠っている様子だ。

 鳥篭を撫でると、冷えた格子が肌に心地いい。格子を手のひらでなぞる。

 ふいに指輪が装飾の突起に当たり、小さな金属音を立てた。

 音に気付いたルクレイが僕の薬指へ視線を注ぐ。

「きれいな指輪」

「ああ――」

 腕を引き寄せ、隠すように指輪を手で覆った。

「これは、僕が何かを忘れているという証拠品だ。

 忘れたことを忘れないために、今も身につけている」

 左手の薬指。それは、僕と誰かとの婚姻を示すものだ。

「――結婚相手を覚えていないんだ。酷い話だろう」

 もしかしたら、僕の鳥もこの部屋にいるだろうか。

 ありえない想像をして自嘲に唇が歪む。

「ユーニスのお母さんのこと……?」

「そう。彼女の母。僕の妻。覚えていないんだ。顔も名前も。結婚した経緯も。

 二人の間に築いた思い出のすべてを、忘れてしまった」

 思い浮かぶのは墓地の光景。

 灰色の空と枯れた木々。

 墓標の前で立ち尽くす小さな彼女。

 黒いワンピースが風に揺れる。繋いだ手を握り返す確かな熱。

「葬儀をした――だからきっと妻は死んだんだ。

 その悲しみのあまり、記憶を閉ざしてしまったのかもしれない。

 だからって全部忘れることはないのに」

 葬儀の後、すぐに引っ越した。

 その際に破棄したのだろう。彼女へいたる手がかりが手元に何も残っていない。

 忘却によって救われようともがいていたのだろうか。

 写真も、書類も、彼女の私物も。

 彼女の存在を確かめる全ての術を、僕は思い出と一緒に失ったのだ。

 そして、思い出を明らかにする努力をも、僕は放棄した。遠ざけていた。

 忘れたままでいたほうが都合が良かったのだ。――事実を知るのが怖かった。

「ユーニスも母のことは喋らない。当時まだ小さかったから……

 それとも、彼女も僕と同じように忘れてしまったのか。

 あるいは幼いながらに気を使っているのか。今となっては、これが唯一の妻の名残だよ」

 指輪を眺める。

 長年指に馴染んだ指輪が、ふとした瞬間に異物に思えて仕方ない。

 そう感じる自分自身に嫌悪感を抱く。

「思い出したい?」

 気遣わしげな問いかけに、曖昧に首を振った。

「わからない」

 思い出せたら、僕は正常に戻るのだろうか。

 それとも、更なる罪の意識に苛まれるだけだろうか。

「忘れられたらと思ってここに留まった。すまない、ルクレイ。

 足を痛めたというのは嘘なんだ。……僕は忘れたかった。この気持ちを。欲求を、願望を――」

 打ち明けると、少しだけ胸の内が軽くなった。

 少女は何も言わず、途切れた言葉の続きを待っている。

「ユーニスを愛している」

 愛している。

 一人の女性として。

 僕とは異なる人間として。

 年齢や関係を越えて、彼女は僕の恋人だった。

 今までなんて幸せだったのだろう。

 しかし、この関係がいつか彼女を傷つけると気づいた。

 あの子の未来を奪いたくない。

 忘れるべきだ。

 彼女のためにも。

 亡くした妻のためにも。

 だから森に滞在した。もし噂が本当なら、この罪深い思いを消してほしかった。

 あるいは――ユーニスの胸の内から、僕への尊敬と親愛が消えてくれれば。

 そうすれば、僕たちは正常になれるはずだ。


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