つがいの鳥〈4〉
◆
朝は寒かった。
雨が降りそうな空模様。
温かい紅茶がありがたい。
隣の椅子にはルクレイがいて、彼女はわたしたちより先に朝食を終えてお茶を飲んでいた。
天気が心配なのか、窓の向こうの空を見上げている。
わたしはカップを包んで手を温めて、グリヴの食事をする様子を眺めた。
彼の口元を見つめていた。
なにか話してもらえるんじゃないかと思って。
説明を待っていたのだ。
眺めているうちに、トーストもソーセージも、サラダボウルのなかのどんな野菜も、黙々と彼の口に入って、上品に飲み下されてしまう。
好き嫌いの少ない彼はオリーブだけは苦手で、皿の端に寄せてしまう。
横合いからつまみあげてそれを口に含むと、お行儀の悪さを咎めるためにグリヴがわたしを見下ろした。
「こら、ユーニス。人の皿の上に手を伸ばしちゃだめだ」
「大丈夫。グリヴにしかやらないわ」
「だめだ。……家の中だけの癖が、いつか無意識に外でも出る」
いつもより一言多い。
最近はずっとそうだ。
今までの習慣や、二人だけの癖。家の中だけの特例。
そういうものを、彼はひとつひとつ否定していく。過去を否定するみたいに。
たちまち悲しい気持ちになった。
こんな時、グリヴにカメラ越しに見つめられたらいいのにと思う。
そうしたら、わたしは彼の理想の女の子になれるのに。
強くなって、些細なことなんか気にしないで笑っていられるのに。
気にしないでいようと思ったことが、やっぱりどうしても気になってしまう。
「ねえ、ルクレイ」
呼ぶと、彼女はわたしを見て「何?」と尋ねる。
「昨日、遅くにグリヴと一緒にいたのはどうして? 二人で何を話していたの?」
夜中に気付くと、ルクレイがいなかった。
気になって、こっそり階下へ降りて、窓越しに影を見つけた。
二人分の人影。ルクレイとグリヴの隣り合う姿。
思い出すと、胸がぎゅっと潰れるように痛む。
見えたのは、カーテンに透けた姿だけ。二人の表情も、そこで何をしていたのかも分からない。
「ユーニス」
窘めるようにグリヴが呼んだ。
焦っているんだ。どうして。
どきどきと鼓動が上ずって、嫌な想像ばっかり浮かんでしまう。
ありえないと思うのに、ばかげた話だって分かるのに、想像力は止まってくれない。
どうしよう。グリヴがルクレイに、わたしへするのと同じように触れていたら?
どうしよう。わたしは彼にキスをしてもらえないのに、ルクレイはキスをしてもらっていたら?
「昨日はたまたま眠れなくて、ルクレイが話し相手になってくれたんだよ。泊めてもらったお礼を言っていた」
「そう。それだけ?」
ルクレイに視線を向ける。
「あと。ユーニスの話をした」
彼女はグリヴの焦りに気付かず、思いついたままを口にした。
「わたしの話……? どんな話?」
ふいに気付いてルクレイがグリヴを仰ぐ。
彼の意思を尊重しているのだ。グリヴはうなだれている。
言いたくないんだ。内緒話をしたんだ。わたしのことなのに。
不機嫌なわたしに気付いてグリヴが困り果てている。
彼のことを困らせる自分への嫌悪感が一瞬で膨れ上がって、わたしは何も喋れない。
「――ユーニス。きみのことで、相談に乗ってもらっただけだ。
女の子のことは、女の子が分かるかと思って……」
「わたしのことなら、わたしに聞けば、一番よくわかるわよ」
嘘だ。わからない。
わたしは、どうしてこんな嫌な子みたいに振る舞ってしまうのか全然わからない。
良い子でいたい。彼を困らせたくない。彼を守りたいのに。
早く大人になりたいのに。
そうじゃなきゃ、もっともっと子供でいたかった。
そうして、彼の優しさを素直に受け取れたらよかった。
自分の頭で考えたりしないで、望んだりしないで、彼の満足のいくように従えたらよかったのに。
「っ……」
涙が視界を滲ませた。泣くのはぜったいに嫌。泣き顔を見られるのも嫌だ。
席を立って食堂を出る。
「ユーニス? どこ行くの」
聞こえたのはルクレイの声だ。追いかけてくるかもしれない。
わたしは急いでその場所に駆け込んだ。
ガラスの温室に足音が響く。ドアをしっかりと閉めて、鍵を掛けた。
一人になって、頭を冷やしたかった。
世界にひとりぼっちみたい。
ソファに横になって、高い天井を眺める。
アパートのソファが懐かしい。
まるで、お留守番の日に戻ったみたいだ。
心細くて、寂しくて、でもグリヴが帰ってきた瞬間にすべてが報われた。
今まで、わたしたちは世界に二人だけだった。
それでよかった。だって幸せだったから。
二人しか暮らしていない鳥篭を覗きこむ人が外から何を言ったって、わたしたちの暮らしは変わらない。そうでしょ。グリヴにもそう思って欲しかった。
「……グリヴ」
囁いた名前が室内に反響し、次第に濁っていく。
ガラス越しの歪んだ空は灰色で、あの日の空を思い出す。
墓標と、グリヴの大きな手。
あんまり小さな頃だったから、覚えているのはそれだけだ。
やがて雨が降り出した。
ガラスの表面を覆うように水が流れていく。
ひょっとしてわたしも泣いているのかしら。心配になって目元を拭うと、ちゃんと涙を我慢できていたから、少しだけ誇らしい気持ちになった。
わたしは雨音に耳を傾け、目を閉じる。
ほかに何も聞こえない。わたしの吐息と心音以外は。
本当に、世界にひとりぼっちみたい。
◆
いつの間にか雨は止んでいた。
目を開けると、うそみたいに真っ青な天井が見える。空が晴れているのだ。
わたし、眠っちゃっていたんだわ。
「――あれ」
傍らに寄り添って、ルクレイも天井を見上げている。
「あ。おはよう、ユーニス」
「いつから――どこから?」
ルクレイは手の中の鍵をわたしへ見せた。
当然だ、ここは彼女の屋敷なのだから。おかしくなって笑ってしまう。
「お昼ご飯。持ってきたの。一緒に食べよう」
ソファの正面、テーブルの上に食事を乗せたトレイが運ばれていた。
身体を起こしてテーブルに向き直る。
ルクレイがグラスに注いでくれた水をもらって、ごくごくと飲んだ。ぷは、と息を吐く。
「わたし……さっき、嫌な女の子だった。
ありえないって分かっているのに、やきもち焼いちゃったの。ばかでしょう」
ごめんね。
囁くと、ルクレイは頭を振って笑う。
「ううん。――内緒話されたのがいやだったんだよね。
だから、ぼく、昨日グリヴと何を話したか全部教えようと思って。グリヴもそうして欲しいって」
「……うん。ありがとう」
お昼ご飯のサンドイッチを食べながら、ルクレイは昨晩の話をしてくれた。
「グリヴは、昨日、森の景色を撮影したよ」
「わかってた。そうに決まってる。グリヴのしたいことなんて、そう多くはないもの」
簡単に想像できる。森へカメラを向けて、ファインダーを覗き込む彼の姿。
ルクレイにキスをしているよりも、ずっとずっと簡単に想像できる。
ルクレイは続けて話をした。
彼の足の怪我は嘘だってこと。
忘却の森の噂話。
鳥篭の部屋。つがいの鳥の寓話。思い出せない結婚相手のこと。
わたしを愛している、ってこと。
それを忘れたがったこと。
「――足の怪我、嘘だったのね。よかった。彼、ばかね……」
「グリヴ、さっき自分でもそう言ってた。僕はばかだ、って。どうしてわかったの?」
ルクレイが素直にびっくりしたのがおかしかった。
「……あとは、何も話してないよ。全部伝えた」
「うん。ありがとう、ルクレイ。お願い、彼から記憶を奪わないで。わたし、彼に愛されていたい」
「ぼくは何もしないよ。グリヴが心から望まなければ、彼は忘れない」
「それなら――」
それならきっと、彼は何も忘れないだろう。
わたしは、そう信じたい。
「あのね。今までは、ずっと……もっと、二人ともお互いに素直だったのよ。
でも、あの時から彼は変わってしまったの。
自分を責めるようになった。難しいことばかり考えるようになった。
わたしのことを、わたしには尋ねないで、勝手に思い込んでいるのよ。
わたしが傷ついているはずだ、って」
「なぜ、グリヴはそうなってしまったの?」
天井を見上げる。目の前に、ぼうっと、黒い文字が浮かび上がる。
「――グリヴって、これまでも時々わたしに隠しごとをしていたの。
でも、わたしにはわかった。
彼がファッション誌の仕事をする前、どんな写真を撮っていたかも知っているわ。
男の人向けの、本屋さんの高い棚に置いてある雑誌よ。
わたし、その写真を見てもちっとも嫌じゃなかった。
グリヴの写真は全部きれいよ。
撮られている女の人たちも、みんなどのページの人よりも上品そうに見えたわ。毅然としていた」
ルクレイは漠然と想像して「へぇ」と声を漏らす。
「少し前にね、彼は有名なファッション誌に写真が載って、とっても褒められたの。わたしも少しだけ写っていた。彼はすごく嬉しそうで、やっと自分の好きな仕事ができそうだってはりきっていた。
でも、そのすぐあとよ――」
くしゃくしゃの記事。
ゴミ箱から零れ落ちたそれを広げると、わたしの良く知っている人の名前がそこに印字してあった。難しい表現が沢山出てきたけど、それはこの前グリヴの写真を褒めてくれた記事とは全然調子が違うってこと、すぐに分かった。
彼がわたしに隠していた仕事のことも、詳しく書いてあった。
同じページに載ったモノクロの写真のなかに、わたしとグリヴがいた。
撮影の仕事で町へ出かけた時の、食事中の写真だ。
彼の頬についたクリームを舐めとって喜んでいた、あの瞬間の写真。
ほかにもいくつかの、わたしと彼の親密さを示す写真が並んでいた。
「……雛鳥は、卵から孵ったときに見たものに従う。知ってる?」
「うん。知ってる」
「わたしとグリヴもそれなんだって。グリヴはわたしを支配しているのですって。
ええっとね『無垢な子供の純真な親愛を、都合のいいように歪めて利用している』」
わたしは黒いインクの文字を読み上げる。
この部屋のどこにもそんな文字はない。
けれど、わたしの記憶のなかに刻まれたそれは、時折視界にじわりと滲む。
「わたしが彼を好きなのは何かの間違いで、彼はその間違いを正さずに放置している。
わたしを『依存させて、服従させている。まるで、愛玩動物のように』――」
黒いインクは彼の人格を否定するたくさんの言葉を紙の上に連ねていた。
わたしは怖くなって、悲しくなって、そのあとで何よりも悔しくなった。
どうして、わたしの知らない人が、わたしの知らないところで、わたしの気持ちを決め付けているのだろう。
こんな言葉でグリヴを攻撃して、一体何がしたいのだろう。
「このままではわたしは堕落して、悲惨な人生を送ることになるんですって。
まるで立派な預言者だわ。どうしてそんなことが分かるのかしら。
わたしが幸せなのはグリヴがそばにいたからなのに。
わたしが強くなれるのは彼がいるから」
何よりも悔しいのは、あれから彼が変わってしまったことだ。
わたしを傷つけることを恐れ、臆病になっている。
何がわたしを傷つけるのか確かめもせず、彼は離れて行こうとしている。
「グリヴがわたしを傷つけたことなんて一度もない。これからだって、あるはずない」
隠さないでほしかった。あの記事を。自分ひとりで抱えないでほしかった。
わたしにだって分かるのに。一緒に考えていけるのに。
でも、わたしは子供だから――。
彼は疑っているのだ。
わたしが『未熟で、知恵と経験の不足のために彼を無条件に信じていて、ただ言いつけに従っているだけ』なのではないか、と。わたしが彼を好きでいるのは、彼が無意識にそう仕向けたからではないか、と――そう疑っているのだ。
「ほんとうに……ばかな人」
ふと、ソファに置いた手に温かいものが触れる。
ルクレイの手のひらが重なって、わたしはそれを受け入れた。
二人の指が絡み、しっかりと繋がれる。彼女の体温に、少しだけ励まされる。
話ができてよかった。
わたしの胸の内で渦巻いていた考え事が整頓されて、何をすればいいのかやっと気付いた。
「わたし、彼に全部話すわ。最初からそうすればよかった」
「うん」
記事を見たことも。
それがどれだけ的外れな内容だったかということも。
全部話そう。
わたしは子供だけど、グリヴとは違う人間で、わたしの気持ちはわたしだけのものだということも。誰が何を言ったって、ずっとグリヴを好きだということも。
「ありがとう。すっきりしたわ」
「ユーニスが元気になったなら、良かった」
ぎゅっと、繋いだ手に力を込める。ルクレイも握り返してくれた。
指先で手のひらをくすぐったり、指を捕まえたりして、ふざけあう。
楽しくなってきて、少しだけ笑った。
「ねえ。つがいの鳥の話、聞いたんでしょ?」
「うん。聞いた。最大の幸いを運ぶ鳥と、最大の災いを運ぶ鳥の話」
「ルクレイは、そんな鳥篭があったら、開ける? それとも、開けずにいる?」
「うーん……。難しいんだ。どうやって一方の鳥だけ外へ出せばいいかな?」
「だめよ。ずるっこはできないわ」
抜け道を探して真剣に悩む横顔がわたしを見た。
「ユーニスはどうするの?」
「わたしは開ける。最大の幸いが欲しいから」
「でも、最大の災いも一緒だよ? どんないやなことが起きるのか分からない。怖いよ」
「わたし、それが何か知っている」
「ほんと?」
ルクレイが興味津々の目をしてわたしに向き直る。
「この例え話はね、誰かを好きになった人のお話なの」
「誰かを、好きに……」
ぽかんとした顔だ。
意外な回答だったのだろう。思ったよりも些細な話だと感じたのかもしれない。
「そう。人を好きになると、とても幸せになるでしょう。これが最大の幸いよ。
でもね、誰かを好きになると、その人を失うかもしれない恐怖と戦うことになるの。
必ず別れは訪れる。その瞬間が、最大の災いなの」
「――別れは、必ず?」
「ええ。一緒に死ぬことができれば別だけれど。
それに、もしかしたら、何かの理由で嫌われてしまうかもしれないでしょう。
そんなの考えただけでも怖いけれど……。
でも、わたしは篭を開けるわ。
最大の災いに怯えて、最大の幸いを手放してしまうなんて、臆病者の考えよ」
「そう……」
ルクレイは何か眩しいものを見るように目を細めた。
重なる指がほどけていって、代わりにわたしの髪に触れる。
きらきらと、降り注ぐ陽射しを受けて自慢の金糸が輝く。
「ユーニス。きれいだね」
唐突に、ルクレイはそう囁いた。わたしを見つめて。
あまりに突然の言葉だったから、わたしとしたことが、照れくさくて俯いてしまった。
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