つがいの鳥〈5〉

4.

 あの小さな手のひらに灯った熱を覚えている。

 今も拳を握ると、その中に感触が甦った。

 灰色の空。黒いワンピースの少女。誰かの墓標。

 硬く強張った横顔が印象的だった。

 彼女が泣いているのが分かった。

 決して涙を流さず、身の内で激しい悲しみと戦っている。痛ましく、勇ましい横顔。

 彼女を守りたいと思った。空っぽだった人生に意味を貰った。

 もう一度やり直せると信じられた――。

 それが、どれだけ幸福なことだったか。



 ファインダー越しに眺めると、屋敷は実際よりも古ぼけて見える。

 今は火の絶えた暖炉。灯棚の上に飾られた鳥の絵。

 それから、僕の座っているソファ。その上にいくつかのクッション。

 テーブルと、もう冷めたコーヒーに満ちた陶器のカップ。

 廊下に続くドア。

 その向こうに立つ最愛の少女の姿。

 シャッターを押すと、くすくすと笑い声が響く。

「やめてよ、グリヴ。わたし、いま可愛くないわ」

「そう。貴重な瞬間だったよ。意義のあるフィルムになった」

「やだ、もう。ばか……」

 少女は僕へ歩み寄る。やがてレンズは彼女の身体で覆われて、細い指が僕の顔に触れた。

 カメラを下ろすと、間近にユーニスの顔がある。

 笑みをひそめ、僕を案ずるような表情を浮かべていた。

「――そうだよ。僕はばかだ」

「知ってるわ。賢かったら、もっときちんと隠せたはずよ。わたし、あの記事を見たわ」

 そんな気がしていた。あの時は気が動転して、冷静な処理ができなかったから。

「グリヴ。あのね、わたし、雛鳥なんかじゃなくて女の子よ。

 まだ子供かもしれないけれど、自分のことは自分で考えられる。

 くちばしの代わりに唇があるから、嫌なことは嫌だって言える」

 ユーニスの身体が僕に寄り添う。

 抱きとめた身体はまだ小さくてとても細い。壊れ物みたいで触るのを躊躇ってしまう。

「だからね、言うわ。わたしはグリヴが好き。あなたを愛してるの。

 何かの間違いじゃないし、あなたが望んだからでもない。

 わたしが自分でこの気持ちを見つけたの」

「ユーニス……でもきみは、まだ」

「子供だって言うんでしょう。経験もない、知識もない。

 だから、この気持ちが本当は愛じゃないのかもしれない、って。

 そう思うなら、いいわ。すぐに大人になるから……待っていて。

 そのときまた、同じことをあなたへ伝えるから」

 強い意志を灯した瞳が、僕を見上げる。

 ずっと否定してきた熱が僕の身体を駆け巡る。

 僕は幸せだ。彼女に愛されている。彼女を愛している。

 この幸福を受け取るのは罪だと思っていた。受け取ることで罰が下るのだと恐れていた。

 その罰は、僕ではなく彼女に及ぶかもしれないと怯えていたのだ。

 でも、もう目をそらすことができない。彼女の強い瞳が僕を捉えている。

「考えたんだ。これからのことを。

 僕は五年後に、あるいは十年後に、もっと未来に、どうしたいのか。誰と一緒にいたいのか。

 どうなっていたら満足なのか――」

「聞かせて、グリヴ。どうしたいの?」

「きみを幸せにしたい。その時隣に居るのが僕でなくても構わない。

 きみが幸せでいれば、僕は満足だよ。見守っていたい」

「グリヴ」

 ユーニスは僕の頬に頬を押し付ける。

 身体の上に彼女の体重がかかって、その重みを心地よく感じた。

「私を幸せにするのはあなたよ。ほかの誰が隣にいたって無理なんだから」

 やっと彼女の身体を抱きしめた。

 彼女も腕を伸ばし、僕の身体を捕まえる。

 彼女に望まれる限り、僕は彼女のそばにいたい。それが僕の最大の幸いだ。

「大好きよ、グリヴ。ねえ、キスして?」

「――わかった、いいよ」

 言い終わる前に、少女の唇が頬に触れている。

 いたずらっぽく微笑みを浮かべ、ユーニスは目を閉じた。

 あなたの番よ、と言うように。



 灰色の空。

 硬く強張った少女の横顔。

 彼女が眺める視線の先には墓標がひとつ。

 ――そして、もうひとつ。



 早朝の出発を望んで、もう一晩を屋敷で過ごした。

 まだ夜明け前に目が覚めて身体を起こす。

 傍らで眠るユーニスの腕を逃れ、彼女の肩まで毛布をかけてやる。

 それからそっとベッドを抜けて、かすかな予感を抱いてその部屋へ向かった。

 鳥篭の部屋の扉がわずかに開き、室内の光が廊下に差している。

 控え目にノックをして入室すると、ランプの光のそばにルクレイが座っていた。

 鳥篭の中を覗き込み、慈しむように鳥を見つめている。

「グリヴ。どうしたの。また、ユーニスがやきもちを焼くよ?」

 ルクレイが思いがけないことを言う。きっとあの子の入れ知恵に違いない。

 ユーニスにとって好ましくない事態だとは理解しているらしいが、それがどういう意味かは漠然としている調子だ。

「改めてお礼が言いたかった。泊めてくれたこと、ユーニスのこと」

「お礼は昨日も聞いた」

「今日の分も聞いてほしい。ここに立ち寄らなければ、僕たちの関係はこじれたまま悲しい思いをしていたかもしれない」

 少女は首を横に振る。

 穏やかな横顔がランプの明かりに照らされている。

 鳥を眺めることが楽しいのだろう、その表情は写真に撮りたいほどに魅力的に見えた。

「それに、思い出したよ」

「ユーニスのお母さんのこと?」

「そうだ。――いや、結婚なんかしていない。それを思い出した」

 ずっと薬指を締め付けていた指輪を外す。

 僕もルクレイにならって座り込み、指輪を床の上に寝かせた。

「ユーニスの父親になろうと決め、既婚者を装った。

 煩雑な事柄を避けるために、そのほうが都合が良かった。

 あの葬儀は、あの墓標は、ユーニスの両親のものだ。――僕と親しい間柄だった。

 彼らに代わって僕はユーニスの親になった」

「そうだったの……」

 鳥を見つめながら、彼女の返事は曖昧だ。

 彼女にしてみればどうでもいい話かもしれない。

 でも、彼女に聞いてほしかった。僕のこの考えを。

 抜け落ちた記憶を補うような夢を見た。

 僕は、それを信じることにした。

「一つ頼みたい。この指輪を処分して欲しいんだ。

 持っていてもいいし、どこか適当な場所に捨ててもいい。頼めるかな?」

「いいの? きれいな指輪なのに」

「ああ、構わない。僕はもうユーニスの父親をやめようと思うんだ」

 僕を苛んでいたのは、ありもしない罪の意識だったのだ。

 罪の意識に苛まれ、躊躇うことが、ユーニスを傷つけていた。

 もう恐れることは何もない。躊躇う理由は何もない。

「わかった。その頼み、聞くよ」

 ルクレイが指輪を拾い上げ、手のひらに乗せた。古びた銀が鈍く光る。

 途端に、何か重たいものから解放された心地になって、強い眠気に襲われた。

「邪魔して悪かった。もう少し眠るよ。おやすみ、ルクレイ」

「うん。おやすみ、グリヴ」

 少女を残して部屋を出る。

 帰り着いたベッドのなかでユーニスが安らかに眠っていて、僕もすぐに彼女と同じ場所へ向う。

 彼女の体温や重みを感じ、それを抱きしめて眠った。



 別れを惜しむ少女が、最後にルクレイの髪を編み、リボンを結んだ。おそろいの白いリボンだ。

 忘れないわと囁いて、ぎゅっと抱きしめて、彼女は森を歩んで行った。

 彼としっかり手を繋ぎ、二度と離れないように寄り添って。

 少女は鳥篭の部屋に居る。

 出窓に座って、抱えた膝の上、手のひらの中のそれを眺めていた。

 託された指輪だ。

 ふいにルクレイは指輪を覗き込む。

 カメラのファインダーを覗き込むようにして、指輪越しに部屋を見渡した。

 かしゃ。かしゃ。口の中で呟くのは、シャッター音の真似事だ。

 ふいに、それに気づく。

 指輪の内側に文字が刻印されていた。

「この、……愛、を……忘れない――」

 ――この愛を忘れない。永遠に。

 誰が刻んだ言葉だろう。どんな思いを込めたのだろう。

 今となっては確かめる術はない。

 ルクレイは指輪越しに眺める景色にその鳥篭を見つけた。

 ひとつの鳥篭のなかに、二羽の鳥が寄り添っている。

 髪を結ぶリボンを解き、少女は床へ降りた。

 鳥篭に歩み、解いたリボンで格子に指輪を結びつける。

 陽射しを受けて、古い銀細工の指輪が鈍く輝いた。

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