EP11:ピジョン・ハウス
ピジョン・ハウス〈1〉
陽だまりの匂いがするサンルームの高い天井に、青空が透けている。
ガラスに阻まれた空に向かって鳩が飛んでいった。
羽ばたきは天井に近づくにつれ躊躇いがちになり、じきにおれの肩へと戻ってくる。
「ご覧いただき、ありがとう。これでショーはおしまいだ」
一礼をすると、まだぽかんと口を開けたままの少女の隣で、黒衣の女性が控え目に拍手をした。
「すごい。ウサギが鳩になったよ。見た? メルグス」
ソファの後ろに立つメイドを仰ぎ見て、少女がはしゃいだ声を上げる。メイドのメルグスは小さく頷いて応えた。
少女はソファを立って、好奇心で輝かせた目を鳩に向ける。
「この子、またウサギになるの? それとも、もう鳩のまま?」
「気まぐれな子だからね、好きなようにすると思うよ」
純真な感想がくすぐったくて、なんだか懐かしい気持ちだ。
「こんなに驚いてもらえるなんて、嬉しいな。道具を持ってきてよかったよ」
おれは肩に乗せた相棒に手を差し出し、鳥篭の中へと案内する。
「びっくりした。こんな不思議なもの、見たことがない」
「昔はよく言われた。現役の頃はね」
かつての商売道具を片付ける。少女の目につかないように、鳩に変身したはずのウサギが入った箱を旅行鞄に隠す。
「ウィル・メラヴィリア――希代の奇術師。
背中に、懐かしい呼び名が聞こえた。
「これは嬉しい。ご存知でしたか」
メイドがこくりと頷く。もしかしたら、彼女は一度くらいは公演を観に来てくれたのかもしれない。そうでなくても、何かのメディアでおれの姿を見ただろう。
だとしたら、彼女はおれの過去を知っている。
「ウィルも魔法使いなの?」
少女が問いかける。
「ま、タネも仕掛けもある。手順を覚えれば誰にでもできる。繊細に組み上げ、大胆に披露する。それができれば誰もが奇術師だ」
「本当の魔法じゃないの?」
打ち明けた事実に、少女はがっかりするだろうか。
伺い見ると、しかしまだ興奮の冷めない赤い頬をして、「すごいね」と繰り返した。
それが、妙に嬉しかった。
「これを仕事にして暮らしていたんだ。もうずっと昔のことだけど、今でもときどき披露する。人に喜んでもらいたいときにね」
「新聞で見ました。サーカステントの大火事のあと、引退したと……」
メルグスが言葉を濁す。
その先に続くのは、きっとこうだろう。
「あの事故で生死の境をさまよって、目を覚ましたら、何も覚えていなかった。それで廃業ってワケ」
「そうだったの」
得心がいったように少女が呟く。
「だから、森へ来たんだね」
おれは少女へ頷いて見せた。彼女は歓迎するように微笑みを浮かべ、導くように手を差し出した。
「来て。案内するよ」
その手を取って、彼女の後に続いた。
1.
この森で、人は一つ記憶を失う。
失った記憶を求める人は、何かを思い出す。
それが、街で聞いた噂話だった。
ここまで足を運んだ理由は、家に帰りたくなかったからだ。
噂を頭から信じ、期待を傾けたわけじゃない。
だから、森の奥にこんな屋敷があって、そこに人が住んでいたことにはとても驚いた。
おれを出迎えてくれた少女は、まるで予め来訪を知っていたみたいに受け入れてくれて、初対面とは思えない親しみを持って歓迎してくれた。
手品を見せたのは、そのお礼のつもりだったのだが。
喜ばせるつもりの芸に、思った以上に喜んでもらえたから、こっちまで嬉しくなってしまった。
ルクレイは、階段を上ったところで足を止めた。
目の前には緑色の扉がある。
「ここに、きみの鳥がいるかも」
「おれの鳥?」
思い浮かべたのは、先ほど共に芸を披露した鳩の姿だ。
この扉の向こうに、いつのまにかその鳩が移動している手品だったりして。くだらない想像をしたところで、ルクレイが部屋の鍵を開け、そっと扉を押した。
「そう。この森で、記憶は鳥に姿を変えるんだ。探してみて。きみの鳥が、きみに何かを思い出させるかもしれない」
開け放たれた扉の向こうに、予想外の光景が広がっていた。
無数の鳥篭が部屋を埋め尽くしている。
鳥篭の中で、鳥たちは各々気ままな様子で過ごしていた。来客に興味を示すもの。忙しなく毛繕いをするもの。知らん振りで眠るもの。それが、おれに強烈な郷愁を抱かせる。
今はもうない、あの場所。
当時の匂いまで鮮明に甦った。鳥の餌と糞の匂い。生き物が発する臭い。日射しに乾かされた埃っぽい空気。
「懐かしいな。昔、こんな部屋でずっと過ごした。サーカスに入ったばかりの頃、鳩舎当番だったんだ」
「ウィル。それって……」
記憶が戻ったのかと期待をこめた明るい声で問いかけた。
おれよりもずっと背の低い少女がこちらを伺っている。
好奇心と、疑問を、そのまるい瞳に浮かべて。
「鳩舎って、どんな場所だったの?」
「ここよりもっと味気ないな。鳩はみんな、靴箱みたいな棚で暮らしている。でも、案外居心地が良さそうだった。番号を振って管理していた。餌をやって、健康状態を確認して、出番の順を決めて、寝床を掃除して。ショーに出演する鳩のほうが、おれより身分が上だった。おれは鳩の召し使いだ」
「それは、事故よりも昔の話……?」
こちらを見上げる少女の頭を雑に撫でた。そうして言葉を濁して、もう一度部屋を眺める。
この部屋は、記憶の中の鳩舎を思い起こさせる。けれど、その一方で、鳩舎とは全然違う場所なのだと感じた。
生き物の匂いがしなかった。だというのに、何か、息衝く気配だけは濃厚に漂っている。
まるで鳥の亡霊が鳥篭の中に捕らわれているみたいだ。
「ルクレイ。おれのことを誤解しているよ。話をしよう。長くなるから、お茶が欲しいな」
遠慮のない申し出に、ルクレイは快く頷いて、そうと決まれば待ちきれないという様子で部屋を出た。
おれが部屋を出るのを待って扉に鍵をかける。
駆け足で階段を下りていく少女の後に続いた。
『紳士、淑女の皆様方。
そして、お坊ちゃんにお嬢ちゃん。
お集まりいただき誠にありがとうございます。
今宵サーカスの目玉はウィル・メラヴィリアの炎の花園。
奇跡の夢、《薔薇の園の夢》をお目にかけましょう!』
高らかに宣言すると、波がさざめくように観客が沸いた。拍手は次第に音楽に合わせてステージをあおるような手拍子へ変わっていく。
照明が眩しくて、客席はほとんど見えなかった。蠢く、何か。熱っぽい視線が、照明と交じり合い、ステージを焼いている。
外では雪が降っている。そのはずなのに、テントの中は熱がこもって、服の下にぐっしょりと汗をかいていた。
ステージに上る緊張感と高揚感と、人を欺く焦燥感。太陽のように輝く照明と、期待に満ちた観客の眼差し。
そして、トリックのために用意された仕掛けに火が灯され、会場内は熱狂していく。
《薔薇の園の夢》。
炎を赤い薔薇の花に見立てた、派手で危険な演目だ。
芸術的とも評されたウィル・メラヴィリアの代表作だった。
燃え盛る花園の中、炎にまかれたウィルが鉄の檻から脱出してみせる。
それはあたかも、悪夢の一幕のような迫力をもって、観客たちの視線を釘付けにした。
「――勿論、それは、一歩間違えば命を落とす。でも、そうなったとしてもいい見世物だろう。刺激を求めて、観客はサーカスにやってくるんだ」
おれの話に耳を傾けて、ルクレイは心ここにあらずな顔をしている。彼女の想像力で、いったいどんなショーが思い描かれているのだろう。
「そんな危ないことをしていたの。どうして?」
「どうしてかな。おれも、刺激を求めていたのかもしれない。命を落とすかもしれない、極限状態の中で、生きている実感を得ていた」
あの頃を思い出すと、今も血が沸く。
にわかに過去に立ち返り、あの瞬間の興奮が甦る。
しかしそれも、一瞬にして消えてしまう儚い灯し火だった。もう、あれは過去だ。過去は、夢や幻みたいなものだ。
「ウィルは、そのときのことをちゃんと覚えているんだね」
「おれは、なにもかも覚えているよ。あの事故に遭う前のことも全て」
ルクレイは首をかしげて、眉間に少しだけ皺を寄せる。何がなんだか分からない、という顔だ。でもまだ説明を求めず、自分で答えを導き出そうとしている。
そこへ、厨房からメルグスがやってきて、お茶のおかわりを注いでくれた。
彼女はおれを見つめて、薄い唇を開く。
「……スタントマンがいた。ウィルが現役の頃、そう推測する声もありました。根拠のない噂話でしたが」
「メルグス、詳しいんだ」
回答の先を越されて、ルクレイが少しむくれて問いかけた。
「有名でしたから。メディアで目にしたことがあります」
何気ない様子で視線を外し、淡白に答える。彼女の手が、落ち着きなく組まれ、解かれ、また組まれて、内心の動揺を表していた。彼女はきっとウィルのファンだ。嬉しいような、でも複雑な心境だ。
「ウィルはあの大火事を生き延びました。それを、記者たちは《薔薇の園の夢》に重ねて大げさに書きたてました。死傷者を多数出した大火事からも、希代の奇術師は見事に生還してみせた、と。面白がって、散々に脚色が加えられて……」
「本当に、よくご存知で」
「はい。ごく一部では、ウィル死亡説も囁かれていました。ウィルは焼死して、生還したと報道されているのは替え玉である、という――」
メルグスは、おれの答えに察しがついたのだろう。
唇を結んで、じっとこちらを窺った。少女だけが置いてきぼりを食ってむずかしい顔をしている。
「記者たちは面白がって書き立てたんだろうな。本心から、そう疑っていたわけじゃないだろう。本気で疑って事実を確かめようとしたら、すぐ明らかになるんじゃないかな。あの事故で死んだ男が誰だったのか」
「では、あなたは……」
「ウィル・メラヴィリア。おれは、彼のアシスタントとスタントマンをしていた。本当の名前はジェイ。でも、今は誰も、その名でおれを呼ばない」
沈黙したまま目を瞠り、メルグスが静かに驚きを示す。
傍らの少女は、じっとおれを見上げて、一度頷いた。
「わかった。きみの本当の名前はジェイ。でも、周りの人からはウィルだと思われている。つまり、そういうこと?」
「つまり、そういうこと。おれは大火事から生還し、目覚めると、周囲の人間からウィルだと思われていた。以来、ウィルになりすまして生活している」
事故の後、はじめて他人に打ち明けた。
はじめて自分から『ジェイ』だと名乗った。
おれは今日までずっと、罪悪感の檻の中で窒息しそうになっていた。でも、今この瞬間、ようやく胸いっぱいに新鮮な空気を吸い込んだように思う。
「――おれは、ウィルの偽物だ。それを、誰も知らない」
「一体どうして、そんなことに? 聞かせてよ、ジェイ」
ルクレイの瞳は、好奇心で輝いていた。それは、手品を披露する直前によく見る子供たちの目と同じだ。
「いいさ、話して聞かせよう。これは、おれの、人生をかけた一大奇術。……紳士、淑女の皆様方。そして、お坊ちゃんにお嬢ちゃん。――ここにいるのは、淑女とお嬢ちゃんだけだな。ご笑覧いただくのは、おれの秘密だ。数奇な巡り合わせの結果、成功してしまった入れ替わりの大仕掛けだ」
胸の内で、深い一礼をする。
まるで、ステージの上に立っているような熱を感じた。
きっと、おれは、ずっと誰かにこの話を打ち明けたかったのだ。
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