ピジョン・ハウス〈2〉

 2.


 ウィルと出会ったのは駅の裏の公園だった。

 表通りよりも人気がなくて、雨を凌げる東屋があって、身体を洗える噴水があって、近所には飲食店も多い。家も財産も家族もない人間が住み着くには持ってこいの場所だ。

 日銭を稼いでは飲み代に費やす生活を続けていたあの頃。

 ウィルは、日曜日になると公園に来た。

 仕立てのいいスーツを着て、顔には滑稽な化粧をしていた。

 上背があり痩せていて、奇妙なパントマイムをするから、不気味な人形がひとりでに動いているように見えた。

 彼は手品を披露しては、おひねりを集めていた。

 ありふれた、他愛もない手品だ。

 ウサギが鳩に変わる。口から薔薇を吐く。水が炎上して、炎が凍りつく。

 ウィルの堂々とした大胆な手際で見るそれらは、懐かしいのに新しい、不思議な魅力を持っていた。

 しかし、最初にそう思っていたのはおれ一人で、ウィルの周辺はいつも閑散としていた。

 散歩中の老人や、乳母車を押した母親が、休憩がてらに足を止めてぼんやりと眺めている。そんな光景をよく見かけた。時折子供たちが来たが、侮る言葉を投げつけて、はしゃいで去っていく。彼らには、手品以上に面白くて価値のある娯楽が身近にあったのだろう。

 それでも、ウィルは毎週公園に来た。

 おれは、おれだけは、毎週彼を見ていた。

 その日は、朝から天気が崩れて、昼過ぎにとうとう雨が降り出した。ウィルがいつものようにウサギを鳩に変身させたところだった。

 彼はおれの住まいと化した東屋に雨宿りに来て、雨に濡れた鳩の身体を撫でていた。

 今までに会話をしたことはなかった。

 でも、お互いにお互いの存在を知らないはずがない。

 ウィルにとって、おれは観客ではなかっただろうが、おれはいつも彼の手品を見ていた。そのことに、彼も気付いていたはずだ。

「おれのことも鳩にしてくれよ」

 意図せず、そんな言葉が口をついた。

 ウィルは怪訝な顔をしておれを見上げた。

 そのときはじめて、彼がおれより年下なのだと気付いた。

 濃い化粧のせいで分からなかったが、思っていたよりもずっと若者だ。

「鳩になったら、気ままに生きられるだろうな。羨ましい」

 家もなく、財産もなく、定職もない。

 充分に気ままな人生だった。

 でも、そのときやっと自覚した。

 おれは、こんな生き方がいやだった。

「まだ、人を鳩にするほど上手くない」

 ウィルは、真顔でそう答えた。

「でも、いつかそのときがきたら、あんたを鳩にするよ。――名前は?」

 ずっと、おれはウィルの口上を聞いていた。

 だから、彼が奇術師ウィル・メラヴィリアだと知っていた。

 すっかり顔馴染みのつもりでいたけれど、おれは彼に名前すら知られていなかったのだ。

「ジェイだ。頼むよ、ウィル・メラヴィリア」

 差し出した手を、ウィルが握った。

 細長い指が印象的だった。繊細な技術を扱う指だと感じた。

 次の日曜日、彼はおれに旅行鞄と列車の切符を持ってきた。

 旅行鞄には清潔な服や髭剃りが入っていて、片道切符の行き先は知らない街の名が刻印されている。

「ぼくのサーカスに来い。あんたを雇うよ」

 彼に引きずられるように列車に乗って、見慣れない景色を眺めた。少し開けた窓から頬に当たる風を冷たく感じた。久しぶりに髭を剃り落として、髪も切りそろえて、おろしたてのシャツを着て、そうしていると生まれ変わった心地だった。

 化粧を落としたウィルは彼の少年時代を容易に想像させるような朴訥な顔をしていた。一心に何かに夢中になる素直な少年だったのだろう。燃えるような赤い髪を少し伸ばしてひとつに結んでいる。

「ぼくはまだ前座の奇術師だ」

 ぼくのサーカス、と言った口で彼が打ち明けた。

「でも、じきにぼくが目玉になる。みんなをあっと言わせる、最高のショーを見せるんだ」

 野心を宿らせた目は獰猛に輝いていた。

「サーカスはいま、西の町にいる。あんたの町にも行くつもりで下調べをしていた。あの町での興行の許可を取り付けるのがぼくの最近の丁稚仕事だったんだ。そのついでに腕試しをして、あんたに出会ったってわけ」

 列車の中、向かい合いのボックス席でウィルの話を聞いているうちに、おれは理解した。

 ウィルは、本当におれを鳩にしてくれるつもりなのだ。

 ただし、ステージの上で。

 奇術によって、おれは鳩に変わる。

 そこにはタネも仕掛けもあって、当然、おれが本当に鳩になってしまうわけではない。

 まあ、そんなもんだ。

 拍子抜けしたけど、楽しみにもなった。

 大胆な野心を口にするウィルを見ていて、愉快な気持ちになったのだ。

 おれには家もなく、仕事もなく、財産もない。

 夢もなければ、野心もない。

 自分が失った熱を持つウィルを見ていると、おれまで熱くなった。死にかけていたおれの人生に、再び血が通ったんだ。

 西の町の、乾いた風に、雲が流れていた。

 天辺に一座の旗を立てたテントは想像以上に存在感がある。

 風にあおられて揺れる姿は巨大な動物が呼吸をしているみたいだった。

 真っ青な空の下、真っ赤なそれが、無機物のようには感じられなかったんだ。

 大きな生き物が口を開けて、観客を飲み込んでいく。

 ウィルも、おれも、サーカスに食われるんだ。

 そんな空想をして立ち尽くしたおれを、ウィルがおかしそうに笑って見ていた。

 ウィルが前座からメインステージへ上り詰めるまでそう時間はかからなかった。その間、おれは鳩舎で鳩の世話をして、ウィルに奇術を習った。ウィルは教えるのがうまくて、おれに彼のレパートリーを一通り叩き込んだ。

 二年も経つと、おれはウィルと同じ奇術を扱えるようになったし、ウィルは野望の通りサーカスの目玉の演目を引き受けるようになった。

 ウィルは、サーカスの顔になった。

 人気絶頂のスターだ。

 サーカスは西の町から東の町へ、北へ南へと興行を広げた。

 行く先々で歓迎され、去る土地では惜しまれた。

 どこにいても、名前を呼ばれるのは彼だった。

 ウィル。

 ――ウィル・メラヴィリア!

 

 

 演目が大掛かりになるにつれ、ウィルはアシスタントを必要とするようになった。

 そして、スタントマンも。

 その時にはもう、分かっていた。

 おれは、その日のために育てられたのだ。公園の東屋で手を取ったあの日から、ウィルはずっと企みを抱いていた。

 用意周到で、気の長い男だ。

 燃え尽きない野望を抱えて、密かに準備を進めていた。

 ウィルは、鳩舎当番のジェイがアシスタントだとは誰にも打ち明けなかった。

 彼はサーカスの連中にも奇術のタネを明かさない。

 おれは密かにウィルと同じ化粧をし、同じ衣装を身につけて、サーカスの連中さえも欺き、ウィルになりかわった。

 最初は危険な役目を負わされるのだと思った。

 死と隣り合わせのトリックだ。

 危険な役割は死んでもいいやつにやらせて、ウィルは難なく英雄になるつもりなのだ。おれはそう考えていた。

 実際には想像していた役割と真逆のことをしていた。

 ウィルの代わりにステージに立ち、彼になりきって観客を煽った。その裏で、ウィルは綿密な仕掛けを動かし、複雑な手順で奇術を成した。一つ仕掛けを誤ったら死ぬような危険に、彼自身が向き合った。

 誰も気付かなかっただろう。

 ステージにはウィルが二人いる。

 命をかけてトリックを実行するウィル。

 観客を煽り歓声を浴びるウィル。

 替え玉が後者を担当しているとは、夢にも思わなかっただろう。声も骨格も、顔立ちも違う。それなのに、皆、おれを鳩舎当番だとは見破れなかった。

 おれのことを、ウィルだと信じて歓声を浴びせた。

 白ける話だろ。

 ほんとうは、そこに立っているのが誰でもよかったんだ。

 それがウィルかどうかなんて関係ないんだ。

 おれは、頭の中でそう毒づいたよ。

 ステージの上は熱いのに、不思議と気持ちは冷めていた。

 ステージにいる間はいつも現実感がなかった。夢の中を歩いている気分だ。おれは、何かの間違いでウィルに取り憑いた亡霊なんじゃないだろうか。そう考えたこともある。

 サーカス団の連中も、観客の誰も、ここにおれが居ることを知らない。

 ジェイという人間は、じゃあ一体今どこにいるんだろうか。

 おれは、どこにいる。生きているのか、本当に?

 誰も知らない。その存在に気付いてすらいない。

 皆、ウィルだけを見ている。ウィル。ウィル。

 ウィル・メラヴィリア――。

 

 

 新作公演を控え、ウィルは新しい演目を制作した。

 それまでに評判のよかった大技を組み合わせ、ショーとして新鮮な演出を組んだ。

 出来上がったのが《薔薇の園の夢》だ。

 美しいとも言える炎の花園。ステージの上で燃え盛る薔薇の花束。堅牢な鉄の檻のなかに捕らわれたウィルが、火の勢いが最も高まった瞬間、炎の中から脱出して見せる。あたかも、本物の魔法のように。

 初披露のあと、たちまち話題になった。

 テントへの行列は果てしなく、腹いっぱいに観客を飲み込んで、サーカスは肥え太っていった。ウィルは妥協する男ではない。次々に改良を加え、演出を強化し、完成度を高めて行った。それを、座長も喜び支援した。

 ショーはより派手に、より危険なものになっていった。

 益々サーカスは満腹になり、夜毎重たげに身体を横たえている。

 その日は、雪が降っていた。

 凱旋公演の初日だった。

 ウィルに連れられてはじめて見上げたあの場所で、あの頃よりも巨大化したそれが天を突いていた。

 あの時見た天幕が、まるで子供だ。

 夜の暗さを追い払うほど、サーカスは眩く輝いていた。

 熱気が雪を溶かして、天幕は汗をかいたように濡れていた。

 皆がウィルを見ていた。

 ウィル・メラヴィリア。

 炎の中、鉄の檻に閉じ込められた彼は、熱風が肌を焼く中で、熱された鉄の檻を抜け出し、ステージ下の隠し通路へ身を潜める。その時、彼は防火繊維の服を着ているとはいえ、酸素も薄く、炎に炙られた後の極限状態にある。隠し通路だって快適な広さはないし、ショーが終わり火が消えるまでは死と隣り合わせだ。そんなウィルに替わって、無傷のおれがステージに登場すると、観客は皆ウィルが炎から華麗に抜け出してきたのだと誤解して歓声を上げた。

 本当のウィルは、煤けた体に汗をかき、炎のそばでじっと息を潜めているというのに。ほとんど何の苦労もしていないおれが、彼への歓声を横取りしているみたいで、いつも居心地が悪かった。

 ウィルはどんな気分だったのだろうか。きっと、彼はさして不満には思っていなかったのだろう。おれが観客に賞賛されることでショーが完成する。それが、ウィルにとっては何より重要だったのだ。

 ――いつものように、《薔薇の園の夢》は炎の蕾が咲き誇る演出から始まった。

 ウィルが蒔いた種がステージの上で芽吹き、燃える花びらを広げる。ウィルの手の中で育つ薔薇は、やがてステージを焼き尽くす炎へと肥大していく。

 思い出深い出発点の街での公演は、いつも以上に熱気が篭っていた。演者も観客も、熱に浮かされていた。ステージの上をいつもより熱く感じた。

 それは、気のせいではなかったのだ。

 いつもより、燃料が多かった。

 後の検証で判明したことだ。

 ――何もかもが終わった後で、推測された経緯はこうだ。

 注目を浴びる新作公演。話題性を重視した座長が派手な絵をほしがった。綿密な計画に基づいてトリックを実行するウィルは座長の提案に乗らなかった。

 だから、座長は勝手に、黙って燃料の量を調節したのだ。

 結果的に、薔薇は大輪の花を咲かせ、ステージを焼きつくすに止まらず、客席へ延焼した。途中までは誰もが過激なショーだと思って喜んでいた。だから余計に被害者が増えた。逃げ出した最初の客を、周囲の客は笑っただろう。

 それも束の間、エンターテイメントではない本物の炎と煙だと気付き、みんな慌てて逃げ出した。狭い入り口を奪い合うように殺到し、更なる被害者を生んだ。これは悲惨な大事故に繋がった一因だ。

 火事の間のことは、よく覚えていない。

 おれはどうやって逃げ延びたのか。

 後で想像したことと、実際に経験したことがごちゃ混ぜになって頭の中に詰まっている。今だって、あの時のことを思うと冷静でいられない。

 ただ、広がる炎を見ていた。

 客席を舐めてテントへ燃え移った炎が、夢と現実の境界を食い破る。破れた天幕の合間から、煙の向こうに雪の降る夜空が見えたのは、あとから想像力が生み出した架空の光景だったのだろうか。

 今まで客席から注がれてきた熱が、許容量を越えてあふれ返ってしまったみたいだ。

 おれは、そんなことを考えたような気がする。

 

 

 目が覚めたとき、病室にいた。

 火事のことを悪い夢だと思った。

 自分がどこにいるのか分からなかった。

 部屋の中はサーカスの宿舎よりも天井が高くて、照明の清潔な光に満ちている。

 体中が痛くて身動きが取れなかった。瞬きだって難しい。

 そんなおれの顔を覗き込んで、涙を浮かべる女がいた。

 美人だった。まだ娘のように若い。おれに触れたい気持ちをぐっと堪えて、そっと名前を呼んだ。

「ウィル。私がわかる?」

 おれは、戸惑って、首を横に振った。

 おれはウィルじゃないし、女のこともわからなかったから。

 でも、痛みと違和感のせいで、実際に動いたのは眼球だけだっただろう。

 どういう意図を読み取ったのか、女の目から涙があふれた。雫が頬に当たってくすぐったかったのを覚えている。なにがなんだか分からないまま、事情を尋ねることもできないおれへ、女は囁いた。

「ひどい事故だったもの……。でも、命は助かった。それだけで充分だわ」

 泣きながら、女はにっこり笑う。

 芯の強そうな女だな、と思った。

「ウィル。ゆっくりでいいから、元気になって。そばにいるから。あなたを守るわ。だからお願い。死なないで」

 愛されているのだと実感した。途端に、自分がまだステージの上にいるような気分になった。

 この女は、一体誰を見ているんだ?

 ステージの上に誰を見ている?

 そこに立っているのはおれなのか?

 それとも――

 ウィル・メラヴィリア。

 彼の姿を見ているのか。

 

 ◆

 

 彼女の名前は、ヘザーという。

 明るい茶色の髪がくるくると軽やかにウェーブしていて、肩のあたりで弾んでいた。穏やかな曲線を描く眉の下に意志の強そうな黒い目がある。笑うと、大きな口が弧を描いて、たちまち子供みたいな顔になる。

 彼女は強かだった。周囲に父親の存在を隠したまま、女手ひとつで娘を育てていた。

 時に優しく、時に厳しく、おれの入院生活を支えてくれた。

 驚いたことに、ウィルは誰にも知られずこの女性と付き合っていたらしい。

 結婚をしていなかったが、子供までいた。

 ヘザーはウィルの夢に理解を示して協力していたようだ。

 そして、サーカスの火事を知ると町中の病院を渡り歩いてウィルを探した。

 おれはステージから近い出口のそばで見つかったらしい。

 メイクや衣装の残骸から、ウィル・メラヴィリアだと誤解されていた。おれが眠っている間に、誤解を解いてくれる人は誰もいなかった。

 鳩舎当番の顔を覚えているやつは火事でみんな死んだ。

 本当のウィルが火事のときにどこに居たのか、知っているのはおれ一人だ。

 あのとき、ウィルは火事が起きたことにも気付いていなかったかもしれない。

 ヘザーは、おれのことをウィルだと誤解したまま献身的に看病を続けた。入院中の世話を全て彼女がやった。彼女の手を借りて、おれは少しずつ回復していった。あんな事故の、出火元に近かったにも関わらず、五体満足で、五感も損なわれていない。まさに奇跡だ。

 おれをネタにしようとする記者や、被害者や遺族たちに根気強く対応したのも彼女だった。

 おれは下世話な好奇心や怨恨からの暴言に傷つけられることはなく、真相解明が進むにつれ、人々の関心はサーカスの運営者たちに向けられていった。スタッフや演者も同じ被害者だと理解して、逆に同情を集めるようになった。勝手な判断で安全基準を無視した団長が槍玉に挙げられた。彼も事故で亡くなっていたから、矛先を失って、皆の関心はこの事件から薄れていった。

 おれはずっとウィルだと思われたまま、ヘザーに世話を焼かれた。

 退院の日を迎えても、とうとう言い出せなかった。

 ヘザーは、おれの回復を見て嬉しそうに笑って、嬉しそうに泣いた。

 この女から、ウィルを奪うのは残酷なことだと思った。

 そのときには、もう、決めていたのだと思う。

 おれは、ウィルになって生きよう。

 

 

 ――身元不明の男の死体が、事故現場で発見されていた。激しい炎に焼き尽くされた骨から身元を特定することは難しかったが、関係者の証言を頼りに、それが鳩舎当番のジェイでほぼ間違いないと断ぜられた。

 おれには分かった。おれだけが分かった。

 間違いない。そいつがウィルだ。

 あれだけ人々を熱狂させ、脚光を浴び、サーカスを大規模にしていった男が、最期は身元不明者として葬られたなんて、哀れだよ。でも、それを知っているのはこの世でおれ一人だけだ。おれが黙っている限り、ウィルは世間的には生き続けることになる。

 入れ替わりのイリュージョンだ。

 命がけの手品を、彼は成功させたんだ。

 おれは、鳩になりたいと頼んだはずなのに――

 気付けば、おれは、ウィルになっていた。

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