ピジョン・ハウス〈3〉

 3.


 洗いざらい告白すると、体中から力が抜けた。

 夕食もとらずにベッドに入り、昼まで眠って目を覚ますと、心が洗い流されたような、新鮮な気持ちだった。

 ずっと抱え込んだ秘密を、とうとう他人に打ち明けた。

 綻び始めるならこの森での告白が起点になるのだろう。

 取り返しのつかない過ちを犯したようにも思う。

 でも、今この瞬間、気分は悪くない。

 客室のドアをノックする小さな音が響いた。

「どうぞ」

「おはよう、ジェイ。起きられる?」

 ドアを開けたのはルクレイだった。

 彼女に続き、メルグスがワゴンを押して入ってくる。

 どうやら心配をかけたらしい。

「大丈夫、気分はいいよ。昨日は喋り疲れたみたいだ。長話を聞かせて悪かったな」

 少女は静かに首を横に振った。

「あ、鳩。あれ、ウサギもいる」

 ベッドの傍らに置かれた篭を見つけ、ルクレイがしゃがんだ。目線を鳩にあわせて首を低くする。

 鳩は落ち着きなく頭を動かしながら少女を見つめ返した。

「見つかっちゃったな」

 昨日、ウサギは鳩になったはずだったのに。タネも仕掛けもあることを明かしてしまった。

 ルクレイはがっかりした様子もなく鳩を眺めている。

「お食事はお部屋でとられますか?」

 運ばれたワゴンの上には朝食が載っている。どれもまだ湯気をたてて、おれは途端に夕食を食べそびれたことを思い出し、盛大に腹を鳴らした。ルクレイがくすくすと笑う。

「二人は? まだなら、一緒に」

「うん。そうしよう」

 メルグスがターンしてワゴンを運び出した。

 二人の後に続いて居間へ向かう。

 

 ◆

 

 清涼感のある空気の中、眩い日射しを遮る枝葉の下を歩いていく。

 少女の軽やかな足取りを追って、その狭い歩幅にあわせてのんびりと進んだ。

「おれは、過去を忘れたい。ジェイだったことを忘れたい。それが、ヘザーへのお返しになる」

「奥さんへの?」

「そうだ」

 振り返るルクレイへ頷き返す。

 おれは、事故から回復したあとでヘザーと結婚した。

 事故を経たヘザーの強い希望もあったが、同じようにおれもそれを望んだ。

 思いがけないことに、何もかもが、おれとウィルを入れ替えるように整っていた。

 まず、誰もおれがウィルのスタントをしていたことを知らない。ウィルの素性は秘匿されていて、その正体と詳細を誰も知らない。おれは事故の衝撃で記憶喪失になったと診断されて、ヘザーとの思い出がないことを不審に思われない。

 ヘザーの娘は幼く、パパを覚えていない。ヘザーもウィルとの付き合いを周囲に隠していたから、おれが夫を名乗ることに誰も疑問を抱かなかった。

 ウィルの親族も所在不明だ。おそらく、親族も息子が《ウィル・メラヴィリア》であることを知らずにいるだろう。

 ヘザーも、おれをウィルだと思い込んでいる。

 おれの顔は、そんなにウィルに似ていただろうか。

 そんなはずはないと思うのに、ヘザーはおれを呼ぶのだ。

 ウィル、と。

 後戻りをしようもない。

 状況に押し流されるように、おれはウィルになっていった。

「おれは、もうほとんどウィルになっているんだ。誰も疑わない。上手く行き過ぎて信じられないくらいだ。あとは、おれがおれをウィルだと疑わずに居ることが出来たら、この奇跡は完成する」

「本当に、本当のウィルになる?」

「そう。本物になる。事故の真相を――おれがジェイだった過去を忘れたらいいんだ」

「でも……本当はジェイだってこと、誰かに知っていてほしくならない?」

 問いかけに、言葉が詰まる。

 喉が締まって、身体がぞっとした。

 時折こういう感覚に陥る。

 誰も、おれのことをジェイだとは思っていない。そう実感した瞬間に、おれは奈落に落ちるような心地を味わった。

 誰も、おれを見ていない。

 そこにいるのは、おれじゃない。

 つまり、おれは、孤独だった。

 あのステージの上で、大勢の観客に囲まれながら、いつも孤独を感じていたんだ。

 おれがおれではない者として注目を浴びた瞬間に。

 注がれる熱量がおれの身体をすり抜けていったあの時に。

 おれは、誰にも知られずに生きている。

 だれの心の中にも、おれの居場所はない。

 そう理解して、とても頼りない気持ちになる。

「……どうしようもない。ジェイだった過去を忘れたほうが、おれも、周りも幸せになれる」

「ジェイ……」

 懐かしい名前で呼ばれて、身体が熱くなる。

 今まで眠っていた本当の自分自身が目覚めてしまうようで怖かった。

「お願いがある。おれのことは、ウィルと呼んでくれ」

「分かった。ウィル」

 ルクレイは頷いて、素直に従ってくれた。

「ウィル。これから行く場所にね、大きな樹がある。すごい大きいんだ。サーカスのテントはあの樹より大きいかな? 比べて、教えてよ」

「いいよ。見てみよう」

「うん」

 はしゃぐように駆け出す彼女をゆっくり追いかける。

 木々の合間に差す日射しが、ステージを照らすスポットライトに似ていた。

 

 

 森を歩いて行くと、広場のように開けた場所に出た。

 湿った土を踏んで、少女が立ち止まる。

 彼女の背後に、それは聳え立っていた。

「どう? サーカスより大きい?」

 不思議と、初めてテントを見上げたあの日の気持ちを思い出す。見たこともないものを見たぞ、という高揚感に浮かされた。

 ウィルに連れられて初めて見上げたあのテントは、最後にステージに立ったテントと比べると質素なものだったが、おれには巨大な建造物に見えた。

 新鮮な驚きだった。

「こんな大きな樹は見たことがない」

 呟きが呆然と響く。間もなく、ルクレイの問いかけに答えを返していないことに気付いた。

「そうだな……、サーカスと言っても色々ある。おれが知る限り一番小さなテントよりもこの樹のほうが大きいな。一番大きなテントよりは、小さい。ただ、高さはこっちのほうが上だ。一番大きなサーカスの支柱でも届かない」

「そっか。サーカスも色々あるんだ」

「そう」

 煮え切らない答えをどう受け取っただろう。少女は巨樹に重ねて、おれの話から想像しようとしているみたいだった。見たことのない未知の世界、サーカスのことを。

「おれがはじめて働いたサーカスは、この広場くらいの大きさだった。真ん中に円形のステージがあって、観客がずらりと囲んでいる。最前列はものすごく近くでライオンやキリンを見ることが出来る。唾液が飛ぶくらいの距離だ」

 おれはこの場をサーカスに見立て、ステージに向かう。

 たった一人の観客に一礼すると、たちまちサーカスの光景が目に浮かんだ。

 火薬や油や、動物たちの臭いが染み付いたあの場所。

 着飾った演者たちがステージに並ぶ。滑稽な化粧のピエロたち、肌も露わなダンサーたち、派手なレオタードをつけた曲芸師たち。宝石箱からあふれ出したような、きらびやかで夢のようなひととき。

 本当に夢を見ていたみたいだ。

 テントの中に、本当のことなんて何もなかったんじゃないだろうか。

 素性不明の演者たち。

 最後まで周囲を欺いた、ウィルと、おれと……。

 あの日死んだのは、本当にウィルなのか?

 本当は、おれが。ジェイこそが、灰になって死んだんじゃないだろうか。おれは、ウィルなのか、ジェイなのか。本当はどっちなんだ。分からなくなる。

 確かめる術は、今はもう失われている。おれが自分の記憶を信じる限り、おれはウィルの皮を被ったジェイだ。だけど、もう誰も、その正しさを証明してはくれない。

「ウィル。……ねえ、ジェイ」

 呼ぶ声に、我に返った。

 約束を破って名を呼ぶルクレイが、いつのまにかそばにいて、おれを見上げていた。

 まっすぐに、何か問いかけるような瞳だった。おれさえも知らない本心を見透かされてしまいそうで、おれは視線から逃れる。

 見上げた巨樹の枝の向こうで、快晴の空が翳り出していた。風が冷たい。天気が崩れそうだ。

「もう帰ろうか。今夜は雪が降るかも」

 温かな感触が手を包み込む。

 ルクレイがおれの手を引いて、幻想のステージの上から連れ出してくれた。

 逆らわずに歩き出す。

 誰かに手を引かれて歩くことに、安心感を抱いた。

 

 ◆

 

 ルクレイが言ったように、夜空には雪がちらついた。

 曇った窓の向こうで、ひらひらと雪片が踊っている。

 寝付けずに、暖炉の前に篭を並べた。

 鳩とウサギが一羽ずつ。それぞれの篭のなかで丸くなって眠っている。

「ウィル。ウィル、起きてる?」

 ドアの向こうから、囁く声がした。

 空耳みたいな声に答えてドアを開けると、そこに寝間着姿のルクレイがいる。

 薄い肌着の上にストールを羽織っているのに、足元は裸足なのが子供らしい。

「寒くて眠れない? 何か飲む?」

 暖炉の前へやってきて、絨毯の上に座りこむ。

 眠っている鳩を覗き込みながら、まるで鳩へ語りかけるように尋ねた。

「ありがとう、貰おうかな。……そうだ、雪を見たい」

「雪? 外は寒いよ」

 ルクレイはまだ鳩を見つめている。

 それからふとこちらを振り返り、

「いい場所がある」

 と思いついたように言う。

「温かいものを飲みながら、雪を見られるよ」

 すぐに、少女の言わんとすることが分かった。

 サンルームだ。

 

 

 テーブルの上にカップが二つ。

 湯気が天蓋に向かって伸びている。

 雪の降る空の下、ガラス張りのサンルームは氷の塊のようだ。気温はほとんど外と変わらないだろう。上着を着こんで、ストールを羽織り、降りしきる雪を見上げる。

 庭にうっすらと雪が積もりはじめていた。

 このまま降り続けたら、明日の朝には一面の銀世界が広がっているだろう。

「ウィルは、今も、鳩になりたい?」

 耳鳴りが聞こえるほどの静寂。

 その中に、小さくルクレイの囁きが響いた。

「そうだなあ。なれたらいいな。そしたら自由になれる」

 ソファに気楽に背をもたれ、隙だらけの格好で天蓋を仰ぐ。

 自分の吐く息が、白く立ちのぼる。

 だから、単純に、今おれは生きているんだな、と思う。

「……出来ることなら全部打ち明けたい。おれは実はウィルじゃないんだ、って。そうして、それでもそばにいていいか尋ねたい。でも、そんなことは絶対にしてはいけない。一度壊れたら二度と戻れない関係だ。もう手遅れなんだ。うまくいきすぎた。何年も見破られなかった嘘をこのまま真実にしてしまったほうがまだいい。今更正直になるよりも、余程、周囲のためになる。もちろん、おれのためにも」

「きみも、ヘザーが好きなんだ」

 ルクレイはおれの名前を呼ばなかった。

 その意図するところが分かった。

「おれも、ヘザーが好きだよ。娘のことも。愛している」

 言葉にすると息が詰まった。

 おれは、はじめて、おれ自身の気持ちとしてヘザーへの想いを言葉にしたのだ。

 誰かを欺くための演技ではなく、素直な本心だった。

 堪えていないと、嗚咽してしまいそうだった。

 もっと言いたかった。何度でも。

 おれは、彼女を愛している。そう伝えたかった。

「……だから、彼女を傷つけたくないよ」

 時々酷く不安になる。

 そもそも、おれは一度だってヘザーを騙せたことなどないのかもしれない。

 ヘザーには配偶者が必要だ。

 幼い娘にも父親が必要だ。

 だから、おれがウィルじゃないと分かりながらも、代替品として必要としているんじゃないだろうか。

 知らぬふりをしてウィルの欠けた穴を埋めようとしている。

 騙し合っているんじゃないだろうか、おれたちは。

 帰りついた家の窓明かりも、食卓を囲む笑顔も、ベッドの中の安らぎも、全てが幻だったら。

 全て、見せ掛けだけで出来ている世界だとしたら。

 サーカスのテントの中のような。

 まだ、おれは、ステージの上に立っているのか。

 ――もう疲れた。

 欺き、疑い、怯える。

 おれは、おれでいる限り、気が休まることがない。

「あの日、あの火事で死んだのはジェイだ。それでいい。それがいいんだ。ウィルは、あの日あの場所で死んでいい人間じゃなかった。おれには何もない。ウィルには未来があった。おれに、もう一度生きる場所を与えてくれたのはウィルだ。お返しにおれがこの命をウィルに与えたって構わない。……そうだろう」

 自分自身へ言い聞かせるような、情けない響きになった。

「だから忘れたいんだ。おれの過去を。おれの中からジェイが消えれば、この先もウィルでいられる」

「……きみが心からそう願うなら、それが必要なことなら、きっと忘れられる。でも、そうなると、今ここでぼくと話しているのは、一体誰だったことになるのかな」

「ウィルだよ。そうだったことになる」

「でも……」

 ルクレイはしばらく躊躇った。考え込むように目を伏せる。

 結局、少女は口を開いた。

 まるい瞳でおれを見上げている。

「でも、きみにとっての過去がそうなるのだとしても。ぼくは、忘れないでいる。ジェイに手品を見せてもらった。ジェイとここで話をした。ジェイと友達になった。それを覚えている」

 思いを言葉にする少女の唇の間から、白い吐息が漏れている。だから、単純に、今この子も生きているんだと思った。

 おれの秘密は、きっと森の外へ出ることはない。

 何故か、そう信じられた。

 とっくに冷めたお茶を喉に流し込み、息を吐いた。

「記憶は鳥になるんだろう? おれの過去も鳥になるのか」

「うん。きっと、鳥になる」

「そりゃいいな。おれの鳥は、きっと鳩の姿をしているよ。いままで散々世話になったからな。鳥の中で、鳩がいちばん親しい」

「ぼくも、鳩は好き。彼ら、日向ぼっこが大好きなんだよ。天気のいい日によく翼を広げて日光にかざしている。のんびりしていて、笑ってしまう」

「分かるよ。働かせるのが大変だった。すぐ怠けたがるからな」

 あの懐かしい鳩舎を思い出す。

 こうして思い出すことも、もうなくなるのだろうか。

 サーカスを初めて見たときの胸の高鳴りも、ウィルに教わりながら仕事を覚えた日々も。

 毎日が充実して、泥まみれになってくたくたに疲れても、なぜか楽しかった。

 今日でお別れだ。

 ジェイは死んだ。ジェイはもう死んでいたんだ。

 とっくの昔に、あの火事に焼かれて灰になった。

 今更、何も惜しむことはない。

 ジェイは鳩になる。

 約束通り、ウィルは奇跡を起こした。鳩を好きな少女が、ジェイを大事にしてくれるだろう。

 穏やかな日々が想像できる。

 天気のいい日は窓辺で翼を干す。飛びたいときはルクレイに合図して、サンルームに連れて行ってもらうのだ。

 あの天蓋まで羽ばたいて、空を眺める。

 そうして鳥篭へ戻って、鳩舎に似たあの部屋で眠る。

 おれの魂は、そうして慰められるだろう。

 

 ◆

 

 就寝前に、ノックの音を聞いた。

 ドアを開けると、夜着をまとったメイドが立っている。

「就寝の前に失礼します」

 涼しげな顔のまま、無地のスカーフとペンを差し出しておれを見た。まさかと思って顔を見ると、彼女は小さく、しかし確かに頷いた。

「サインをいただけないでしょうか」

 まるで宅配業者みたいな響きで、とても著名人のサインを求めているようには感じられない。

 その平然とした口調が妙におかしくて、気恥ずかしさや戸惑いに勝って笑いがこみあげる。

 スカーフを受け取って、彼女の名の綴りをたずねた。

「メルグスへ。素敵なスカーフに書いてしまっていいのかな。それに、おれは偽物だ。ウィル本人じゃない」

「ええ、構いません。私は、そうは思いません。あなたもステージに立って観客を楽しませていたことは事実でしょう。二人の人間が、ともにウィル・メラヴィリアという演目を見せていた。ですので、私にとって、これは価値のある品になります。……あなたのショーが好きでした。私が笑顔にしたい人を、笑顔にしてくれたから」

 おれがサインを書く間に、彼女は静かに主張した。

 スカーフを返すと、唇の端を少しも緩めず、しかし、大事そうにそれを抱きしめる。

「ありがとう。無理を言ってしまってごめんなさい」

 深い一礼を残して、メルグスが去っていく。

「こちらこそ、ありがとう」

 彼女は振り返って、横顔を見せて頷いた。

 

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