ピジョン・ハウス〈4〉
4.
『紳士、淑女の皆様方。
そして、お坊ちゃんにお嬢ちゃん。
お集まりいただき誠にありがとうございます。
今宵サーカスの目玉はウィル・メラヴィリアの奇術。
命をかけた入れ替わりの奇術をご覧いただきましょう!』
遠くから、サーカスの音楽が聞こえる。
天幕の向こうで、もうショーが始まっている。
夜空の下で淡く輝くテントは巨大なランプのようだ。
胸がわくわくして落ち着かない。
あの中で、一体どんな素晴らしいショーが行われているのだろう。おれは鳩舎の仕事を抜け出してきたから、団員に見つからないようにこそこそとテントに潜り込む。
客席の最後尾、観客の合間からステージを眺める。
そこに、彼がいた。
燃えるような赤い髪を逆立て、滑稽な化粧を施して、上品なスーツをきっちり身につけた、紳士めいた奇人。
ウィル・メラヴィリア。
ステージに立つことが楽しくて仕方がない、という満面の笑みを浮かべている。
ああ、間に合った。彼のショーがこれから始まる。
照明が消え、テントの中はにわかに真っ暗になった。次の瞬間、目も眩む光があふれて、おれはぎゅっと瞼を閉じる。
おそるおそる目を開くと、ずらりと並んでこちらを見つめる観客の姿が眼前にあった。
頭上から降り注ぐスポットライトが熱い。
おれは、いつの間にかステージに立っている。
スーツに身を固め、ステッキを握り締め、この身に観客の注目を浴びている。
彼はどこだ? さっきまでここに立っていたあの男は。
視線を巡らせると、観客たちの合間から、客席の最後列に潜む彼の姿が見えた。
化粧を落とし、赤い髪をひとつにまとめて、特徴のない着古したシャツに身を包んでいる。
彼は、笑っていた。
身体を揺らして、鷹揚に腕を広げて、喝采を浴びるような仕草で、満足そうに笑っている。
自分のトリックが成功することが、彼にとっては何より重要だ。今、このテントの中で、彼の奇術は成功した。
命をかけた入れ替わりのイリュージョン。
彼はゆっくりと背を向けて歩み出す。
おれは、ステージを駆け降り、観客をかき分けて彼を追いかけた。何か、彼に伝えなきゃいけないような気がした。
まだ、彼と話し足りない。
言いたいことも、聞きたいことも、まだ尽きない。
無我夢中で、彼が消えたテントの向こうへ飛び出していく。一歩踏み出したそこに地面はなく、おれは虚空に投げ出されていた。落下して行く。どこかへ。
もがく足元から羽ばたきの音が聞こえた。
おれの足元から、おれの身体が崩れていく。崩れた欠片が、落ちていくおれとは反対に、空へ羽ばたいていった。
欠片は、鳩のかたちをしていた。
◆
目覚めた瞬間、浮遊感があった。身体がびっくりしていて、鼓動がどくどくと早鐘を打つ。落ちる夢を見ていたらしい、と気付いてなんだか懐かしくて笑ってしまう。成長期の子供みたいだ。
懐かしいサーカスの夢を見た。
でも、それ以上の印象はもう憶えていない。
サーカスを引退してもう何年経つだろう。
火災保険の営業になって、今のおれはどこにでもいるありふれたサラリーマンだ。時折、余興として手品を見せる。
一芸があると助かる局面もある。もう単純な手品しか出来ないが、その場しのぎに人を喜ばせるには充分だった。
つい最近喜んでくれた子の顔が目に浮かぶ。そうして自分が今どこで何をしているのか認識できた。
おれは記憶を失う森にいる。
いや、記憶を取り戻す森だったか。
少女の厚意に甘えて、二日も滞在してしまった。
身体を起こすと、窓の外が一面真っ白になっていることに気付く。
もう雪は止んでいて、眩い日射しを照り返して真っ白い庭がきらきらと輝いていた。
ベッドを降りて、ふと違和感を覚える。
何か、昨日と様子が違う。
着替えながら間違い探しをして、それを見つけた。
部屋の中に鳩がいる。鳩の篭に寄り添って、あたかも最初からそこに居たような顔をして、見知らぬ鳩が一羽、増えていた。
一体どんな手品だろうか。
呆気にとられ、一瞬後には笑みが浮かんだ。
きっと、ルクレイのいたずらだ。
手品のつもりの真似事だろうか。
それとも、単純に驚かせようとしたのだろうか。
鳩を抱き上げ、部屋を出た。
ちょうど、階段を下りる足音が聞こえる。
「ルクレイ。おはよう」
「ウィル。――その鳥」
階段を下りたところで、ルクレイが立ち止まった。
おれは彼女の腕に鳩を預ける。
「驚いたよ。朝起きたら、鳩が増えていたんだから。きみの鳥だろ」
腕に抱いた鳩を見下ろし、ルクレイは黙りこむ。
鳩のほうも彼女を見上げて、忙しなく首を傾げていた。
双方とも、不思議そうな顔をしている。
まるで初対面の相手を見つめるようだ。
やがて、ルクレイがおかしそうに微笑んだ。
「そう。ぼくの鳥。部屋に連れて行くね」
足音は再び階段を上っていく。
なんとなく気になってルクレイを追いかけた。鳥篭の部屋はドアが半ば開いていて、覗き込むと、少女が鳥篭を選んでいる様子が窺えた。
「ウィル」
足音で分かったのか、こちらに背を向けたまま名前を呼ぶ。
「選んであげてよ。この鳩に、どの鳥篭がいいと思う?」
何故おれに託すのか分からない。けれど、それで彼女が満足するのならと思って、部屋の中を眺めた。
どこを見ても鳥篭が視界に入る。
おれは真四角の篭を見つけた。木の板を組み合わせた筒に柵を嵌めただけの、飾り気のない篭だ。大きさは鳩には勿体無いくらいだろうか。快適な寝床になるに違いない。
「こいつがいいな」
鳥篭の戸を開けて少女へ差し出す。鳩はルクレイに逆らうことなく篭の中へ入って、おとなしく丸くなった。
ふと、少女の視線に気付く。鳥を眺めているのかと思ったが、彼女の視線はじっとおれに注がれていた。
「どうした?」
「ううん」
頭を振って、誤魔化すように、少女が窓を開ける。
「雪、積もったね」
「でも、止んでよかった。今日はもう帰らないと」
「うん。足元、気をつけて。雪の下に何が隠れているか分からない。怪我をしないように」
「大丈夫。出発までには少し溶けるよ。いい天気だ」
降り注ぐ日射しは明るく温かい。雪はじきに溶けるだろう。
ルクレイは眩しそうに目を細めた。
天気はいいのに、吹き込む風はきんと冷えていて、彼女は慌てて窓を閉める。
「やっぱり、まだ寒いね。上着は足りる? 必要なら、何か持って行って」
「大丈夫だよ。お気遣いどうも」
心配する少女の頭を雑に撫でて、少女に鳥篭を託す。
「朝食を貰おうかな。昼前には出発したい」
「うん。きっともう準備出来ているよ。行こう」
ルクレイは鳥篭を日の当たる場所へ置いて、部屋を出た。
最後に、閉じ行く扉の隙間から鳩の姿を眺めた。
篭の中で、鳩は目を閉じてじっとしていた。
とても落ち着いている。
ようやく安心して休まる場所を手に入れた、というように。
その姿に、何故だか妙に、おれもほっとした。
◆
屋敷を出て、来た道を辿り歩く。
背中に、まだルクレイの見守る気配を感じられた。おれの姿が見えなくなるまでそうして見送ってくれるのだろう。
それを頼もしく感じながら、ひたすらに歩いていく。
この森で、おれは、何か忘れただろうか。
それとも、何かを思い出したのだろうか。
分からない。懐かしいことをたくさん思い返した気がする。でも、それがどんなことか、不思議とよく憶えていない。
やがて木々の間隔が広くなり、町への道が見えてきた。
誰かが、森へ向かってくる。
木々の陰から現われたその姿に驚いて、おれは思わず声を上げた。
「ヘザー。どうしたの」
「――ウィル?」
くるくるの茶色い癖毛を揺らして、彼女が駆け寄ってくる。
「こんなところへ、散歩かい?」
「あなたこそ。出張はどうしたの?」
「おれは、帰りに寄り道を。……天気が良かったから」
「わたしも、買い物帰りの散歩に。――天気が、良かったから」
顔を見合わせて、しばらくお互いに沈黙した。
ヘザーは何を言おうとしたのか、唇を開いては、躊躇って閉じる。おれは、喋り出すタイミングが彼女と重ならないように、ヘザーが話し始めるのを待った。
やがて、
「ウィル」
彼女はただ名前だけを呼ぶ。
おれは、それが、何故だか妙に落ち着かない。
「ああ。ウィルだよ」
「……ええ。そうね」
不意に訪れた違和感は、ヘザーの穏やかな微笑を見ているうちに消えていった。
おれもつられて頬を緩める。
「なあに? 嬉しそう」
「いや。素敵な奥さんを貰ったな、と思って」
「今更気付いたの?」
ヘザーは、笑うとまだあどけない少女みたいだった。
軽やかに、おれの腕に抱きついて、来た道を歩き出す。
「ほら、帰りましょう。あの子が学校から帰ってくる頃よ」
「そうだね。お姫様のご機嫌はいかがかな。早く顔を見たい」
「あなたが出張のあいだ、退屈にしていたわ。パパの魔法が見たいってわがままを言うの」
「ああ、それは急がなきゃいけないね」
手に手を取って、町へ向かう道を行く。
彼女はどうして森へ入ったんだろう。
なぜ、おれが森にいた理由を詳しく尋ねないのだろう。
そもそも、おれは何のために森へ来たのだったか――。
いまだ夢に現われるサーカスへの漠然とした憧憬が、そうさせたのだったか……。
思い出せない過去に執着したって空しいだけだ。
光り輝くあのショーは、もう終わった。
今は、たった二人の観客だけで満足だ。
巨大なテントも、激しい音楽も、きらびやかな照明も、広いステージも必要ない。
例えるなら、鳩舎程度の広さの部屋。
昔ほど派手なことは出来ないが、あの家のリビングで、おれはひと時だけ奇術師に復帰する。かわいい小さなお姫様のために。愛する素敵な女性のために。
今は、それがおれのステージ。
それがおれのサーカスだ。
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