太陽と月
太陽と月〈1〉
馴染み深い匂いが遠ざかり、深い土の香りを感じた。
木々は黒々として空を覆い、隙間からちらつくのは白い雪。
降ってきた。不安が膨らむ。
だから、繋いだ手に、どちらからともなく力をこめる。
「――あ」
そう呟いたのも、ほとんど同時だった。
木々が開けて、視界が明るくなる。
その向こうに灰色の空が広がっていて、空の下には屋敷があった。今ちょうどその煙突から伸びる煙が、まるで空を灰色に染めている、というような様子がいかにも現実感に乏しい。
けれど人の気配を感じてほっと息を吐く。
「行きましょう」
少年が言う。
「ええ」
少女が答えた。
二人はともに歩み、屋敷へと向かう。
1.
雪に濡れた身体を暖め乾かすために、暖炉のそばにいた。
アヤお嬢様はソファに腰かけて、ブーツを脱いでいる。
真っ白い足が暖炉の灯りを受けて少しあかい。お湯を張った桶を用意してくれたのはここの家主の女の子だ。
タオルも、替えの服も、必要なものをすべて用意してくれた。
「ルクレイ、どうしてドアの外にいるの?」
オレたちを快く招いてくれた屋敷の主は、今、ドアの外にいる。
呼びかけに、屋敷の主――ルクレイは気後れしたように後ずさる。
「ここから、見ていたい」
「……なんで?」
尋ねる声が、つい笑ってしまった。理由は分かる。
お嬢様のせいだ。
アヤ様はとてもきれいだから。
今、無防備に投げ出した足をオレの手に任せている。
温かいお湯に浸して固く絞ったタオルで拭き清める。他人に触らせるのは慣れっこで、くすぐったくもないらしい。涼しい顔をして、顔はこちらを見ていない。屋敷の内装を興味深そうに眺めている。
もっとも、ルクレイにはそうは見えなかっただろう。
切れ長の目は、第一印象としては、冷たげに思えるから。
美しい人にも何種類かあって、人を寄せ付けるタイプと、突き放すタイプがあるとオレは思う。アヤ様は後者だ。
「ほかに、何か必要なものはある?」
「ありがとう。でも大丈夫。何かほかにあったときはまた言うよ。親切にどうも」
「雪はこれから強くなるよ。夜じゅう降ると思う。危ないから、ここで過ごしたほうがいい。部屋には空きがあるから大丈夫」
ルクレイの言葉に、アヤ様が頷いた。
「――お気遣い痛み入ります。ありがとう。何かお礼ができればいいのだけど……」
俯きがちになると、長くてまっすぐな黒い髪がさらりと流れる。
暖炉の炎を照り返して、つやつやと蜜のような輝きを見せた。
ルクレイはその艶めきに目を奪われて、ぽーっとしている。お嬢様ほどの別嬪さんは東西見渡したって滅多にいない。
ラッキーだったな、と心の中で呼びかけた。
「お礼なんて、いいよ。でも、もしよければお話を聞かせて? ぼく、聞きたいな。もちろん、話せることだけでいい」
「それならお安い御用だ」
「お腹は空いてる? あ……!」
なにか思い出したようにルクレイが部屋に駆け込んでくる。
ソファの脇を横切って、大きな窓にはりついた。
「この雪じゃ、メルグスは帰って来ない。ごはんをぼくが作らなきゃ、だけど……」
あんまりおすすめできない、という顔をしてこちらを振り返った。
「早速、お礼をする機会ができたみたいだわ」
アヤ様が微笑む。
その笑顔に、ルクレイがどきっとしたのが傍目にも分かった。笑うと、意外と幼くて人懐っこい印象になる。アヤ様のずるいところだと思う。
「ハル。お願いできる?」
「ええ、もちろん。オレに任せてください」
アヤ様に答えて頭を垂れる。
ルクレイはその目に好奇心を宿して、台所まで案内してくれた。
台所もちょっと見慣れない感じだけど機能としてはどこでも一緒だ。
馴染み深い食材を選んで適当に玉子焼きを作る。フライパンでトーストを焼いて添えて、作り置きのスープをメインに、サラダも追加する。朝ごはんって感じになったけど、ルクレイは目を輝かせて手際を褒めてくれた。
「ハルは料理が上手だね」
「お嬢様に喜んでもらおうと思って練習したんだ」
アヤ様が小さく頷く。
オレはアヤお嬢様の使用人だ。ルクレイにもそう紹介している。歳が近いから友達みたいな感覚でずっとそばにいたけれど、線引きはわきまえている。
「美味しい。ぼく、ハルのごはん好きだな」
「私も、気に入っているの。ハルはなんでもできるのよ」
アヤ様の口調はとても静かで、それは誇らしいというよりは事実を驚きながら噛みしめている響きがあった。アヤ様はとても奥ゆかしくて、時折こんなふうに人を評価する。
「なんでもできたらいいけどさ。なるべく頑張りたいかな」
褒められると、自分の無力さを実感することのほうが多い。
アヤ様の言葉を嘘にしないように、日々精進しなければならない。アヤ様のためにできることがあるのは、オレにとっては何よりの幸いだ。
「それじゃあ、すごく頼もしいね」
ルクレイはアヤ様にそう尋ねる。
アヤ様はそっと頷いた。
それは、鈍い人が見ると見逃してしまうほどのアヤ様のさりげない意思表示だ。強い主張が歓迎されない環境で育ったから、アヤ様の反応はもどかしいくらいに控え目だった。
ルクレイはそれを見逃さなかった。
微笑んで頷いて、食事を続ける。
温かいスープが胃に入ると、体が芯から冷えていたことに気付いた。
寒さはスープの温もりに溶けて、胸の底からほっとした。
寝室は通路を挟んだ二部屋を借りる。
「一部屋でも構わないのだけど……後片付けの手間もあるでしょうから」
「いや、二部屋必要だ。後片付けも手伝うから、お願いできるかな」
ルクレイに打診したアヤ様に、慌てて口を挟んだ。
さすがに一部屋で寝起きはできない。
一方は裏手に広がる深い森。
一方は、開けた庭が窓の向こうに見える。
アヤ様は窓から見える深い森を気に入ったらしい。
入浴の順番を譲って待っているあいだ、部屋のベッドに横になった。
天井も、壁と同じく古めかしい。
ずいぶん昔からずっとここに建っている、という様子だ。
こんなお屋敷があるってことをずっと知らずにいた。
だから、もしかして、と思った。
見慣れぬ森の奥深くには、魂を食べる鬼がいて、迷い込んだものの魂を齧ってしまうのだという。魂を齧られると人は何かを忘れてしまうのだ。
似たような言い回しで表現の違うものもある。
でも、総じて大体こういう意味にまとまるだろう。
ここは、記憶を失う森。
――アヤ様を連れて来たかった場所だ。
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