太陽と月〈2〉
◆
水の滴る音が目覚ましだった。
水槽の中にいるような湿った閉塞感が奇妙に落ち着く。
窓の外は暗い。でも、雪は止んで、日が出ている。
遠くからきれぎれに差す朝日は、おそらく反対側の窓に惜しみない輝きを注いでいるのだろう。
ハルは日の出に急かされ目を覚ましたに違いない。
もう部屋の外で足音がする。
屋敷の主人という少女――ルクレイの軽い足音とは違う。
男の子がしっかりと踏みしめて活動する、元気な足音。
それからもう一つ、気配の薄い静かな歩調。
それは、昨日は立ち往生したという使用人の足音かもしれない。
窓の暗さに気付かなかったけれど、私はずいぶん眠っていたらしい。
『アヤ様。お疲れでしょうか。もう少しお休みになりますか?』
ドアをノックする音が声に重なった。
「ごめんなさい。今、目が覚めたの」
『おはようございます! お身体の具合は? 昨日はずいぶん歩きましたから』
「なんともないわ。いつもの通り。すぐに支度をするから」
心配する気配を追い払いたくて、声を張った。ドアの向こうで苦笑の気配。
『ルクレイが待ってますよ。雪が綺麗なんで、庭で遊んでます。朝食も準備できてるので、使用人に声をかけてください。居間で待ってるそうです。それじゃあ』
しばしの間があって、足音が遠ざかった。
私がドアの向こうを見透かせるはずもないのに、律儀に一礼した光景が目に浮かぶ。
洗い古した麻の服に分厚いセーターを羽織る。
厚手の毛糸の靴下は膝の上まであって温かい。
柔らかい革製のブーツを履く。歩くたびに、コツコツと床が鳴る。
居間には一人分の食事が用意してあった。
ルクレイもハルも、もうとっくに済ませたらしい。
使用人は背の高い女性で、私よりいくつか年上に見える。
「足りないものがあれば仰ってください」
事務的な対応が、むしろ安心できた。
私たちにどんな疑問も抱くことはない、という態度が窺える。
この屋敷には突然の来客が多いのかもしれない。そしてそれを家主も使用人も歓迎しているのだ。
食事は今朝は使用人が作ったものだった。
「温かい紅茶を淹れます」
食事の終わる頃合いに、また使用人が現われる。
「どうもありがとう。いただきます」
待っている間、窓の向こうで声がした。
振り返ると、薄いカーテンの向こうで動く人影がふたつ。
雪玉を作って投げ合っているのは、ルクレイとハルだ。
追いかけっこをして遊んでいる。
はしゃぐ笑い声が彼女の年齢より少し幼く感じる。仲の良い兄と妹のよう。
「アヤ様!」
庭へ出ると、すぐに私を見つけてハルが呼ぶ。
ハルの後ろに姿を隠したのは、昨日私たちを迎え入れてくれた少女だ。
もう彼女の信頼を得ているらしい。ハルは人懐っこい男の子だ。
「見てください、雪うさぎです。笹の葉がないんで、なんだか耳がぎざぎざになっちゃったんですけど」
「アヤ、ハルはすごいよ。雪でこんなにかわいいものを作る人、ぼくは初めて出会った」
「幼い頃から、雪が積もるといつも作ってたんですよ。ね、アヤ様のお気に入りなんです」
ルクレイの手の中には、雪を楕円形に固めて作ったウサギが収まっていた。
少女の手の中に納まるほどの大きさで、絶妙な丸みを帯びている。
赤い木の実で目を、ぎざぎざの葉っぱで耳を作っている。
ハルがいつも私に作ってくれた雪うさぎ。
でも、それは子供の頃の話だ。
「……昔の話よ」
「そうですね。思い出の話です」
ハルは頷いた。
ルクレイの手の中で少しずつ溶けはじめた雪うさぎに、親しみ深い眼差しを向ける。
「ねえ、アヤ。ベッドは固くない? 寒くない? よく眠れたかな……」
ルクレイはハルの背後から言葉をかけた。
私は声が小さいから、答えが届くか不安になった。近くへ行こう。
しかし、私が一歩を踏み出すと、ルクレイが一歩退いていく。それでいながら、私を見つめる彼女の好奇心旺盛な眼差しは、答える言葉を待っていた。
「あの……ルクレイ?」
怪訝に思い呼びかけると、ハルが笑った。
「あはは、ルクレイ、大丈夫だって。アヤ様は優しい人だよ」
「分かるよ。でもなんだろう……どきどきするから。アヤは、とても綺麗」
「私が?」
ルクレイは頷く。
誉め言葉をどう受け取っていいか分からずに、私は立ち尽くす。
その代わりに、ハルが嬉しそうに胸を張った。
「そうでしょう。アヤ様ほどきれいな人は、東西巡ったって滅多に出会えませんよ。まっすぐな黒い長い髪、涼やかながらに優しい目元。肌は透き通った白さがあって、まるで月のお姫様です」
「ハル。過ぎた言葉だわ。でも、ありがとう」
彼がいつもの調子だったから、私もいつもの調子で答えてしまった。
不思議な場所に迷い込んだと思ったけれど、ハルがいれば安心だ。
彼がそばにいれば、いつも通りだって気がするから不思議だった。
「アヤ様、一緒に来ませんか? ルクレイに庭を案内してもらうんです」
「きみが、もしよければ……」
ハルの後ろからルクレイも誘ってくれた。
気を遣わせたくない。二人だけでいたほうが、きっと話も弾んで楽しいはずだ。
私は小さくかぶりを振る。
「せっかくだけれど、屋敷で待っています」
「そう。残念だけど、分かった。必要なものがあったら、メルグスになんでも言って。彼女を頼って。きみの居心地のいいようにしてくれるはずだから」
その答えから、まだ私に疲労が残っているのだと心配をしたようだった。
ハルの視線を感じる。私の様子を窺って、言葉の真意を探る目だ。
ひとりにしてほしいのか、そばにいてほしいのか。
彼は慎重に見分けて、判断を下す。
「それじゃあ、行こう、ルクレイ。アヤ様は静かに過ごしていたいみたいだから」
「うん! アヤ、またあとで」
正答を導き出して、ハルはルクレイと連れ立っていった。
誰もいない庭は真っ白く染まっていて、屋敷のそばだけが踏み荒らされ、足跡がそこらじゅうに散らばっている。
作りかけの雪だるまと、ちいさな雪うさぎたちが見える。
耳がぎざぎざで、ちょっと見慣れない姿だった。
庭の裏手から楽しそうな話し声が響く。
私は庭に背を向けて、屋敷へと引き返す。
◆
アヤ様と別れて裏庭へきた。
裏庭の菜園も、雪化粧に覆われていた。
ふとルクレイが大きな息をつく。緊張がほぐれた様子が見てとれて、ちょっとおもしろかった。
アヤ様の美しさに圧されている。そう分かると、誇らしくなる。
「アヤは疲れてるのかな? もっと暖かくしたほうがいいかな」
「大丈夫。ちょっと人見知りなんだ。アヤ様、初対面の人と話をすると緊張しちゃうんだ」
「緊張? そうは見えなかったよ」
ルクレイは、自分のほうこそ緊張していたと言わんばかりだ。
でも、アヤ様も緊張することに共感を抱いたのか、少しだけ親しみが増したらしい。
裏庭にちょうど日が差している。
空は快晴で風も少し冷たさが和らいでいた。庇の下のベンチが乾いていて、そこへふたりで腰掛けると、丁度よく日を避けられた。
森からは時折、音がする。
積雪に耐えかねた枝がしなり、その雪を地面へ捨てる音。
からからと枝がぶつかり、どさりと雪が地に落ちる。
驚いた鳥たちが、一瞬騒ぐ。
「……アヤは、はちみつは好きかな? とっておきのクッキーがあるんだ。ミルクを温めていっしょに食べたら、きっとほっとする。落ち着くよ」
「ルクレイはアヤ様と仲良くなりたい? 嬉しいな」
ルクレイは黙って頷く。
この出会いを喜んでくれているのが伝わってきて、嬉しかった。
誰かに受け入れてもらえるのは、どんなときでも嬉しい。
「ねえ、さっきハルが言ってたこと。月のお姫様って、何?」
「昔話だけど、聞いたことない?」
「うん。聞きたい!」
「ええと――そうだな。おじいさんとおばあさんが、二人で暮らしている。子供はいないから、ちょっと寂しい。おじいさんは木こりで、ある日森の中で、光る樹を見つける」
「樹が光るの?」
「厳密には、竹なんだけど。で、それを切ってみたんだ。そしたら、なんとその中に小さな赤ん坊が入ってて――その子を連れ帰る。おばあさんと一緒に育てる。ありえない速度でぐんぐん成長して、赤ん坊はやがて美しい娘になる。それはもう、どんな画家も描けない、どんな作家も言葉に出来ない、どんな作曲家も奏でられないような――だからこそ、表現したくなってしまうような……」
「それが、お姫様?」
「そう。すっごく美しくて、国の一番偉い人なんかが求婚しに来るんだ。だけど断る」
「……なぜ?」
「なんと、月からきたっていうお姫様なんだな。長く一緒にいられないから、結婚はできません、って。結局、月から迎えがきて帰っちゃうんだ」
「そうなんだ……寂しいね」
「そんな話だから、美人の誉め言葉になるんだよ。アヤ様は月のお姫様みたいだって幼いころから褒められてた。オレもまったく同意見だな」
空を見上げるが、今は昼。快晴の青が広がっている。
月はどこにいるだろう。
夜になるまで逢瀬はおあずけだ。
ルクレイも月を見たくなったのか、同じように空を見上げた。それからぎゅっと目を閉じて、くしゃみをひとつ。
「話し込んで身体が冷えたな。戻ろうか」
「うん」
来た道の反対側を回って、屋敷を一周するようにして玄関まで辿りつく。
帰りを待っていたメルグスさんが温かいお茶を用意してくれていて、冷え切った身体にとても沁みた。
アヤ様は部屋にこもって、本を読んでいるらしかった。
だから、ルクレイはまだはちみつのクッキーのお茶会にアヤ様を誘えずじまいだ。
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