太陽と月〈3〉
◆
ずっと本を読んでいた。
でも、じきに集中できなくなった。
本はお屋敷から持ってきた一冊で、もうとっくに読み終わっている。
何もすることがないから手をつけただけで、取り組む気なんてそもそもあんまりなかったのだ。
部屋の外、居間のほうで話し声がする。
夕食をご一緒したのは一時間ほど前のこと。
まだルクレイとハルは一緒にいて、楽しそうにおしゃべりをしている。
笑い声が弾けるたびに、私は疎外感を覚えて、何にも集中できなくなってしまう。
それなら今すぐ部屋を出て、居間へ行けばいい。飲み物をもらおうか。
私が顔を出せば、ハルは絶対に引き留めて、お話の輪に誘うはずだ。
分かっているからこそ試したくなかった。
意識を窓の外へ向けると、森は耳が痛いほどに静まり返っている。
でも、遠くで雪の崩れる音がする。
その音に耳を傾けていれば、居間の話し声は遠ざかった。
ハルの声が遠い。
――誰と喋っているのだとしても、あなたの楽しそうな笑い声は好き。
ノックの音に飛び起きた。
一瞬か、数分か、眠ってしまっていたらしい。
『アヤ様。入浴できますよ。お先にどうぞ』
「あ……。ありがとう、ハル」
ドアの向こうで頷く気配がある。足音が遠ざかっていく。
入浴を済ませて部屋に戻った。
消灯し、毛布にもぐる。
わけもなく眠れずにいると、ノックの音が聞こえた。
それはごく小さく遠慮がちに響く。ハルが寝る前に私の様子を見に来たのだ。
ほんの小さく開いたドアの隙間から廊下の淡い光が差した。
「……おやすみなさい、アヤ様」
もう私が眠ったと判断して、ハルは囁く。
迷ったけれど、私が挨拶を返す前にドアが閉ざされた。
ため息さえ頼りない。私自身、呆れてしまうほどだ。
目を閉じた。何も考えずにいよう。そうすれば眠れるはずだ。
――夢を見た。
森に入る前のこと。昨日のこと。
寒さに震えて目を覚ます。
「……」
一瞬のようで、もっと長いような、時間の感覚が曖昧になっている。
でもまだ窓の外が暗いから、ほんのうたたねだったのだと分かった。
身体の末端が冷えていて、眠気はあるのに眠れそうにない。
かといって積極的に身体を動かして熱を得る気にもなれない。
そんな折、空耳のような物音を聞いた。
たとえばリスがくるみをかじるような、ほんの小さな音。
ノックの音だ。
「――アヤ。眠った……?」
「ルクレイ?」
私の呼び声は、音を伴わなかったはずだ。
それでも気配が伝わったのか、そっとドアが開く。
廊下ももう夜の暗さに沈んでいた。
そこに立つのは真っ白い少女。
パジャマが白くて、肌も白くて、髪も淡くて、幽霊みたい。
「一緒に寝ても、いい? ……寒くて」
私も寒い。
だから断る理由はなかった。
うなずくと、ルクレイが喜んでくれたのが伝わってきた。
表情や息遣いが、ぱっと明るくなる。
ドアを閉めてこちらへ来る。
忍び足なのに、どこか弾むような嬉しげな足取りでベッドまでやってくる。
「ありがとう、アヤ。……あのね、ごめんなさい」
「……なに?」
「寒いっていうのは、半分本当。でも半分は……アヤとお話してみたかったから」
囁き声にともなう呼吸は、熱を持って温かい。
ルクレイの目は狡猾さとは程遠い色でこちらを見つめている。
「かまわないわ。私のほうこそ……ごめんなさい」
「どうして?」
「冷たくしたかと思って……」
うっすらと罪悪感を抱いていた。
ハルと親しく喋っているところを見て、どうして一緒に輪に加われなかったのか。
つまらない嫉妬心が親切な少女を遠ざけようとしていた。
この子は、見知らぬ旅人に宿を貸してくれたのに。
「アヤは、温かいよ」
ルクレイは身を寄せて囁く。
この遠慮ない接触を許すことが、彼女へ詫びる何よりの方法に思える。
それよりも単純に、彼女の温もりが嬉しくて、私は腕を伸ばした。
抱き寄せる身体は、確かに少し冷たい。でも、次第に温もりが伝わってくる。
ほっとした。
幽霊が、こんなに温かいはずがないだろう。
「アヤ、もう眠い?」
「いいえ。一度眠ったから」
少女が何を期待しているのか、分かった。
来客を泊めるかわりに、彼女が求めたのは、物語りだ。
お話を聞きたい。そう言った。
最初の晩は、ほとんどハルだけが喋っていた。ハルは話し上手だし、聞き上手だ。だから、ルクレイもハルの話を楽しんで喜んでくれていた。
私はあんなふうには喋れない。今だって、何を話せばいいのか分からずにいる。
「何か困ったことはない? 明日もまだ、ここにいる? ハルに聞いたよ。帰らなきゃいけない日が、決まってるんでしょう」
ああ、そうだった。
不思議と忘れていた。
私には、帰るべき場所がある。帰るべき期限がある。そうだった――。
それがずっと私を煩わせてきたのに、言われるまで忘れていたなんて。
森の向こうの世界に対する現実感が薄れていて、ちっとも焦りを感じない。
むしろ私を焦らせたのは、別のことばかり。輪に入っていけなかった、そのことだけ。
「……ルクレイは、ハルに似てるわ」
「えっ。そうなの?」
「話しやすいところ。初対面の人にも親切なところ。優しくて、私は好き」
「そうかなぁ。ありがとう、アヤ」
照れ臭いのか、少し身じろぎをする。でも、嬉しそうに笑う。
その隙だらけの笑い方も、ハルとちょっと似ている。
「アヤは、ハルが好きなんだ」
「――ええ、好きよ」
意外にもルクレイは私の言葉を深く察した。
ルクレイを褒めた言葉は、そのまま、ハルを褒める言葉だった。ルクレイへ告げた好意も同様に。でも、当然、ハルに向ける想いは、昨晩出会ったばかりの少女へ向けるものとは全く違う。
私は、ハルが、好き。
「私、結婚するの」
「本当! おめでとう」
素直な祝福に、私の唇は皮肉な歪みかたで微笑みをつくった。
「……結婚式が控えてる。だから、その日までには帰らなくちゃいけない」
「アヤは、帰りたくないの?」
頷いた。
でも、帰らなくちゃいけないって分かっている。
私は目を閉じる。いっそう低い囁き声で、ルクレイに、ここへ来た日のことを話した。
――あの日。
日暮れ前に、最後の衣装合わせをした。
ハルが控室で待っていて、もう何度目かになる私の着飾った姿を見て嬉しそうな顔をしていた。
本当に晴れがましい思いでいるのだろう。
彼は様々な表現で私を褒める。心から誇る。
結婚式までもう間もなく。
結婚相手は嫌いじゃない。親切で素晴らしい人だと思う。ああいう人を夫にできたら、きっと幸せなんだろうな、と他人事に感じた。
妻になる者が、私でさえなければ、この婚儀はすべてうまくいくはずだ。
お膳立てが済んだ婚姻は、私だけが誤った部品であるようで、しかし誰一人そのことに気付いていない。その居心地の悪さを、分かち合うことは誰ともできなかった。
「アヤ様。よく似合ってますよ」
姿見を覗き込むのは見慣れた少年。
姿見を占める娘は、見慣れぬ格好をしている。
私ではない何者かが、鏡に映っている。
そういう気がして、まるで他人事だった。
そこにいるのは誰。
「アヤ様」
と、彼は鏡に呼びかける。
「幸せになってくださいね」
鏡に映るのは、屈託のない笑顔。
本当に彼は笑っているのだろうか。鏡は真実を映すだろうか。
振り返って確かめると、ハルは驚いた顔をした。
どうしたんですか、と問うような、その顔はまだ笑顔の温度を保っている。
「――ハル。遠くに、行きたい。どこか……もう自由にどこへ行くことも、できなくなる。だから私……私のことを知っている人がいない場所に、行きたい」
咄嗟に言葉が口をついた。
それは、ずっと頭の中で渦巻いていた益体もない妄想のはずだったのに。
行き場のないまま飲み込んで消化しなければならない本音だったのに。
ハルに願ってはいけなかったのに。
だって、頼れば彼は叶えてくれる。
「分かりました。案内しましょう。――アヤ様の望むとおりに」
まるで散歩へ出かけるような気軽さで彼は答えた。
でも、私が要求しているのは気晴らしに近所を散歩することではないと彼も気づいているはずだ。
結婚式を控えた花嫁が、使用人とはいえ幼馴染の少年と、どこかへ出かけるなんて。
そんなこと、きっとお父様もお母様もお許しにはならないだろう。
でも、私にとっては、彼だけが現実的な手触りを持っている。
――そうして私は身軽な服に着替えて、ほとんど何も持たず、彼の手を信じて歩み、森へきた。
ここには、私を知る者は誰もいない。ハルだけだ。
「当日までに帰らなければ、私は相手の顔に泥を塗ることになる。きっと許されない。私の家も……立場を悪くするでしょう。私は帰らなくちゃ……」
「でも、帰りたくない? まだ」
私の本心を言い当てる、ルクレイの声はとても遠慮がちな囁きだった。
「ぼくは、いつまでいてもらっても大丈夫」
「ありがとう、ルクレイ。まだ何もお礼ができていないわ……」
「お礼なんて、いいの。お話してくれるから」
「でも、それだけじゃ気が済まないわ。……何か、考えておいて」
滞在を許してもらえる。それは嬉しい申し出だった。
でも、のんびり悩む時間はもうない。
決断しなければならない。
私は家に帰って決められた役目を果たすのか。
それともすべてを台無しにしてしまうのか。
「――アヤは木から生まれてきたってほんとう?」
「木?」
なんの話をしているのか、分からなかった。
「ハルが言ってた。光る木から生まれてきたから、すごく綺麗なんだって」
「ああ――おとぎ話よ。いつも大袈裟なんだから」
ルクレイにとっても、そんなことは承知の上のようだ。
気分を切り替えるために話題を変えてくれた。
くすくす笑って、ルクレイは喜んでいる。
「ハルはアヤのこと大好きだね」
「ありがたいことに、そうみたいね」
幼いころから一緒に育った。
彼の厚意を、疑う余地もない。
分からないのはただ一つ。
知りたいけど、知りたくない。だけど知らなければ、私は決断できない。
「ここまで連れてきてくれたのも、ハルよ」
――それは何故? 私が望んだから?
それだけでしかないのなら、私はもう、家へ帰ろう。
彼も望んでいたのなら、私は、私の望みを叶えたい。
「……おとぎ話というなら、この森こそおとぎ話の舞台みたいね。鬼が、人の魂を食べるの。ハルに聞いたことがあるわ。鬼が魂をかじる。その人は、何かを忘れてしまう。でもそんな恐ろしい場所には思えない」
「魂を、かじるの? どんな味がするかな」
ルクレイは自分の空想に、しばし夢中になる。
その様子が意外で、私は驚いてしまう。
「味なんて気にしたことない。……ずっと怖い話だと思ってた」
「この森では、怖いことなんかない。大丈夫だよ」
仮にもルクレイが暮らす森に失礼なことを言ったかと思った。
でも少女は慣れっこのようで何気なく答える。
その言葉が私に暗示をかけるように作用して、眠気を誘った。
大丈夫。怖いことなんかない。
目を閉じると、柔らかな安眠の気配が私を包む。
「ねえアヤ。ハルに好きって言った?」
もうほとんど眠りの中にいるような、もごもごした声が問いかける。
「……どうかしら」
「アヤみたいな子に、好きって言ってもらえたら、きっと嬉しいのにな」
素直で単純な言葉だった。
私も不要なすべてを削ぎ落して、それくらい簡単な考え方ができたなら、きっと楽になれると思う。好ましくて、羨ましくて、私は少しだけ笑う。
「私、あなたが好きよ。ルクレイ」
「ほんと? ありがとう、アヤ。ぼくもきみが好き」
照れくさそうな笑い声が、寝息に変わっていく。
なんの根拠もなく、なんの価値も持たないからこそ、その言葉は私に響く。
私は夢を見る。
幼い頃、私は神に誓った。生涯この人だけを愛そう。
それはおままごとだったのだけれど、私は密かに真実に変えて胸にしまった。
彼にとっては子供じみた真似事に過ぎないとしても、私にはこの誓いこそが本物だ。
だから、これからどんなことがあっても耐えられる。
そう信じていたのに。
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