EP04:いつか見た食卓

いつか見た食卓〈1〉

 まどろみの向こうで誰かが階段を上ってくる足音を聴く。

 そろそろだな、と準備をはじめた体はもういつでもベッドを出て行けるのに、その声が楽しみでついまた毛布をかぶり直してしまう。


 ノックの音が二回。

 返事も待たずにドアが開く。


 静かに歩み寄って、その人はこの身を優しく揺すった。

「いつまで寝てるの? 起きて。朝食ができたわ」


 触れられた腕に温もりを感じる。

 嬉しくて、毛布のなかで笑みを作る。


「おはよう、ルクレイ」


 呼びかけられて、とっくに目を覚ましていた少女はようやく体を起こした。

 たった今カーテンを開けられた窓から差す陽射しに刺激されて、あくびを一つ漏らす。


「――おはよう。シュティ、今朝も早いんだね」

「ええ。毎朝気持ちがいいもの。空気が良いせいかしら」


 応える痩身の女性は、まだベッドのなかでぐずぐずしている少女から毛布を奪った。

 そのまま抱きかかえて「干しておくね」と言い残して部屋を出ていく。

 背に翻る金髪が朝日を受けて輝いている。

 それを見送って、ようやく少女はベッドを降りた。

 大きく伸びをして、一息。

 キッチンから良い匂いが漂っている。

 今朝もおいしい朝食が期待できそうだ。

 

 1.

 

 あの子が身支度を調えてダイニングへ現れるまでにスープを温める。

 熱すぎないちょうどいい温度にしたら、完璧だ。

 食卓というパズルの最後のピースを嵌めて、私は頷いた。


「うん」


 すべての食べ物は温かそうな湯気を立てている。


「美味しそう」


 ようやく姿を見せたルクレイが目に焼き付けるように食卓を眺めた。

 こういう時、この子はいつも妙に大げさだ。

 次いで私を見上げ、嬉しそうに笑う。私もつられて微笑んだ。

 彼女の寝癖をくしで梳かしつけたのは使用人のメルグスだろうか。

 リボンも左右均等に、きれいなちょうちょ結びになっている。

 男の子っぽいズボンから、膝小僧が今にも外へ出掛けたそうなやんちゃな顔で覗いていた。


「さ、いただきましょうか」

「うん!」


 向かい合いに座って食卓を挟む。

 焼きたてのパンにラズベリージャムを塗ると甘酸っぱい香りに鼻腔がくすぐられる。

 腕によりをかけたと言うほどのこともない手軽な朝食なのに、不思議と美味しい。

 窓から差し込む明るい陽光が、森の清涼な空気が、町にはなかったものたちが、余計にそう感じさせるのかもしれない。


「そうだ、洗濯物をぜんぶ出してちょうだいね」


 窓の外の景色さえ曖昧になるほどの輝き。

 明るい日差しを見て、ふと思いつく。


「今日はとても天気が良いから、この機会にみんな洗ってしまいましょう。

 メルグスと二人なら今日中に終わるから」

「そんなの、昨日までにほとんど出しちゃったよ。あとは、もうカーテンしか残ってない」

「じゃあ、良い機会ね、カーテンを洗いましょう。お屋敷の、全部よ」

「全部? そんなの大変だよ。ぼくも手伝う」

「子供はいいの。外で遊んでいらっしゃい。私は働きたいんだもの。

 休みすぎたせいで体がなまっちゃって仕方がないわ」


 大きく伸びをすると関節が鳴る。

 しばらく寝たきりの生活をしていたから、こうして体を動かすだけでも喜びだった。


「もう随分よくなったみたいだ。安心した」


 ふいにルクレイは目を細める。

 彼女は時折、歳にそぐわない表情を作ることがあって、とくに私のことを案じている時は今みたいに大人びた顔をした。

 心配は嬉しいけど、過ぎたそれは心苦しい。

 どうやったらこの子は安心するのかしらと、最近はそればかり考えてしまう。

 私はもうすっかり元気だ。


「でもね、シュティ、無理はしないで。それに、あなたはお客さんなんだから……」

「運動しないのも体に悪いから。もう平気よ、ルクレイ。好きにさせてちょうだい。ね?」


 まだ少し案ずる様子ながらも、ルクレイは理解を示したように微笑んだ。

 ほんとうに、心配性なんだから、この子は。


「怪我がまた悪くならないように、気をつけてよ」

「わかりました。約束します」


 食卓の中ほどまで腕を伸ばして小指を突き立てる。

 照れたように苦笑しながら、ルクレイも小指を差し出した。

 二人の小指が重なって、約束が交わされる。

 それからふいに、顔を見合わせて可笑しそうに笑った。

 なぜだろう。この子と、ここで、ずっと、こんなふうに暮らしていた気がする。

 陽だまりの食卓のなかで、穏やかな時間が過ぎる。

 

 

 食事を終え、後片付けも済ませて、屋敷中の部屋という部屋からカーテンを外してまわった。

 途中で、玄関へ向かうルクレイと出会う。

 出かける支度は薄手のカーディガンが一枚だけ、ほかには鳥篭をひとつ提げている。


「手を貸そうか?」

「大丈夫よ。あなたよりずっと私のほうが力持ちなんだから。さ、行ってらっしゃい」


 この期に及んで手伝いを申し出る彼女をきっぱりと断って玄関へと送り出す。


「それ、まだ捕まえるつもりなの? あんまり追い回しちゃ、かわいそうよ」

「うん。でも、心配だから」


 空っぽの鳥篭は邪魔そうに見えるのに、彼女は出かけるときには必ずそれを持っていた。

 なにか珍しい鳥がいると言って、先日からずっとその鳥を捕まえようと森へ通っている。

 子供の好奇心が微笑ましい。

 あんなふうに、なにか一つのことに夢中になった時代は、もう思い返すと遠い昔になっている。

 それでも、私はルクレイのように活発な女の子じゃなかったから、なにかに強く執着したことはなかったように思う。

 森へ駆けていく少女の後姿を眺めた。夢中で駆けるから足元が疎かになって、危うく転びかけたところを持ち直す。


「お転婆ねぇ」


 こっそり笑って、遠ざかる後姿が見えなくなるまで見送った。

 そこに広がっているのは、どこまでも果てなく続くように思える深い森だ――。

 まだ朝の靄が残っていて、木々たちは曖昧な、眠たげな姿をしている。

 ここは、忘却の森。

 そんな噂を聞いたのは、いつ、どんな時だったか。

 大人になるまでにはもう知っていて、身近だけど縁遠い、不思議な場所だと思っていた。

 そこに今こうして自分が立っているなんて、妙な気持ちだ。

 町の気配は遠く、近隣に他の建造物は存在しない。

 少女と使用人の二人が暮らすこの屋敷だけが、森の中に秘密めいた暮らしを築いている。

 外界と切り離された寂莫感は、一方で何にも気遣いのいらない気楽さを持ち合わせていた。

 とても、ほっとするのだ。

 私を知っている人は、ここには一人も居ないから――。

 カーテンを抱えなおし庭へ運ぶ。

 先に相談していた通りなら、メルグスが屋敷でいちばんおおきな桶を用意してくれているはずだ。

 果たして、それは庭にあった。

 傍らに、メルグスが昨日と印象の変わらない深緑色のドレスに前掛けをつけて立っている。


「これが一番大きい桶?」

「不足でしょうか」

「いいえ、想像以上だったから。充分よ! ありがとう」

「では、井戸から水を引きましょう」


 裾を翻し、メルグスは裏庭へ消えていく。

 表情の変化は乏しいが決して不機嫌なわけではないらしい、彼女がこの屋敷の唯一の使用人だ。

 編みこんだ黒髪を結い、前髪も上げて、潔癖な性質が見て取れる。

 年の頃はまだ娘のようにも、とうに成人しているようにも思えて掴みどころがない。

 裏庭の井戸から運んだホースに水が通って、桶に流れ込んだ。

 カーテンを放り込んで、石鹸をわんさとふりかけ、布がたっぷり水を含むまで見守る。

 カーテンは長いこと放置されていたのか、間もなく汚れが浮いて、すぐに水が濁っていった。


「これは、大仕事になりそう」


 私は改めて意気込んで、服の袖をまくる。邪魔にならないようにスカートの裾を結ぶ。

 メルグスに水を足すように命じて、カーテンの山を眺めた。


「手ごたえのある相手だわ。退屈しそうにない」


 あの子の帰りを待つあいだ、家の仕事を済ます。

 そうして夜には再び食卓をともに囲むのだ。

 それまでにお腹空かせておくために、こうして仕事をしておかないと。

 

 ◆

 

 冷たい風が吹いて、窓がひとつ開けっ放しだと気付かせてくれた。

 乾いたばかりのカーテンをかき分け、窓を閉める直前、森を眺める。

 夕暮れが森を朱に染めていた。

 木々の陰影は濃くなって、その合間から、あの子はまだ帰って来ない。

 煙突から登る夕餉の報せを、もう見つけただろうか。食事の支度は万全だ。

 あとはあの子が帰って来るだけ。

 そんな必要はないと分かっていても、心配になって玄関をくぐる。

 庭へ出て数歩、森へ歩み寄った。

 すると、ちょうど示し合わせたように、木々の合間の陰から、子供の姿が覗いた。


「ルクレイ」


 空の鳥篭を気にしながら、肩を落とした様子の彼女は、やっぱり今日も鳥を見つけられなかったみたい。私まで一緒に残念な気持ちになる。

 少女は、顔を上げるとすぐに私に気付いて、離れていても分かるほど顔いっぱいを笑顔にした。


「シュティ! 待たせちゃった? 遅くなってごめん」

「いいえ、今出てきたところ。そろそろかと思ったの」


 たちまち小さな体が元気を取り戻して、ルクレイが駆け寄ってくる。


「おかえりなさい」


 自然と口をついたその言葉に、ルクレイは不思議な呪文を聞いたように瞬きをして、それから大きく頷いた。


「ただいま!」

「手を洗って、うがいをして。コートを脱いだら、ちゃんと掛けておくのよ。いい?」

「はぁい」


 間延びした返事に笑いが混じっている。

 ふと自分の言動を振り返って、構いすぎかと反省した。

 私は客人で、この子が家主だ。

 その関係をつい忘れて、この空間を我が家のように感じてしまう。


「――口うるさく言っちゃった。私のほうがお客さんなのに、変ね?」


 洗面所へと向かう少女が振り返る。

 その口元は笑っていた。

 おかしな遊びを楽しむような、いたずらっぽい微笑みだった。


「うん。でも、嬉しい。世話を焼かれてる、ってかんじ。メルグスは放任主義だから、新鮮だな」


 くすくす、笑いを残して、跳ねるような足取りで洗面所へと向かう。

 その背中を見送って、私も釣られて笑った。

 

 

 最後の仕上げだ。

 お皿に盛り付け、テーブルに並べて、カトラリーにナプキンを添えて。

 湯気と一緒に良い匂いが立ち上る。

 洗面所から戻ってきたルクレイが部屋に入るなり「わぁ」と声を漏らした。

 その振る舞いが見かけよりも少女を幼く見せて、ついおかしくなってしまう。


「さ、食事にしましょう」


 少女は頷くと、私の正面の席につく。


「いただきます」

「ええ。慌てないで、ゆっくり。まだ熱いからやけどに気をつけて」

「うん」


 頷いて、それきりルクレイは食事に夢中だ。

 しばらくは会話もなくなる。

 夕暮れまで森を歩いてくたびれて、余程空腹だったのだろうか。

 けれど、旺盛な食欲が愛らしくて、私の食もつられて進んだ。


「鳥は、今日もいなかったのね?」

「うん。今日も見つけられなかった。鳴き声はするのに……」

「いつ鳴いているのかしら。私、気付かなかった」


 視界の端に、空の鳥篭がひとつ。ソファの傍らに、そっと置かれている。

 ルクレイもそれを眺めて浮かない顔をして、ふいに何かに気付いて視線を上げた。


「あ。いい匂いがするの、カーテンから?」


 清潔な石鹸の香りが漂っている。

 ようやく私の成果に気付いてくれたのね、と誇らしい気持ちで頷いた。

 ルクレイは驚きに目を瞬かせる。


「ほんとに全部洗えたの?」

「ええ! メルグス、彼女力持ちで頼もしいわね。

 干す場所が足りなくなって、バルコニーも使ったのだけど、一度に沢山運んでくれて助かったわ」

「すごい。大変だったでしょう?」

「いいえ。良い運動になった。そうだ、彼女、ほんとうに食事に呼ばなくていいの?」


 他にすることもないからと、私は家の仕事を買って出ている。

 私がメルグスの仕事を横取りしているのだ。

 しかし、彼女は私を制することもなく、好きなように任せてくれる。


「なんだか除け者にするみたいで申し訳ないわ」

「ううん、構わないよ。メルグスは食事は一人でとるんだ。ずっとそうだから。

 彼女もそれが落ち着くみたい。シュティが来てから、自由な時間が増えて気ままに過ごしてる」

「そう? なら良いけど」


 不思議な関係だな、と思う。

 仕事に矜持もなければ義務感も持たない、淡白な使用人。

 雇われているのか、厚意で少女の世話をしているのか、なにか他の理由から同居しているのか。


「そうだ。お茶、今日はぼくが淹れるよ。

 これでも少しは上手いんだ。シュティはゆっくりしていて」

「だめよぅ、そういうのは――」


 競うように立ち上がり、勢いで言いかけた言葉を飲み込む。


『お母さんの仕事でしょう』


 口を出かかった言葉を、声にする直前で躊躇った。

 どうして今、言い切れなかったのか、自分でも分からない。

 喉が塞がる感覚を、唾を飲み込んで解消する。


「――私に任せて。あなたは座っていて」

「でも、させてばっかりだから……」


 私は、母親のつもりになっているの?

 少しむきになって手伝いを申し出る少女を見て、ふと胸が疼く。

 痛むような、でも、温まるような、どっちつかずで落ち着かない。


「じゃあ、一緒に淹れに行きましょうか」


 譲歩を示すと、ルクレイは嬉しそうに頷いて私に寄り添う。

 この姿を傍から見ればきっと親子に見えるのだろうな、と他人事のように想像した。

 

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