いつか見た食卓〈2〉


 2.

 

 一日を終えて部屋に戻る。

 日中たっぷりと陽が差した部屋は暖かく、明日も良い天気になる予感がした。

 明日は何を着ようか。

 ベッドに入る前にクロゼットを開けて中を物色する。

 荷物のひとつも持たずに屋敷にやって来た身だが、幸いメルグスと体型に差がなく、着替えは充分にあった。

 これだけの選択肢がありながら、彼女は似たような服を着まわして済ませている。勿体無いことに、着飾ることに興味がないようだ。


 ふいに黒い服が目に入る。

 膝下の丈のスカートは大きく裂けて、繊維が枯れ枝のように垂れ下がっている。

 袖も何かに引っ掛けたような傷み方をして、あちこちにほつれが生じていた。

 木の枝に引っ掛けてきたのだと想像がつく。

 手にとると、まだ土がどこかにこびりついているのか、乾いたそれが床にさらさらと零れ落ちた。


 クロゼットの扉を開き、姿見になっている内扉へ向き合う。

 寝間着の上からドレスを重ねて、鏡の中の私を見つめた。

 木の枝で引っ掻いたような傷が、白い腕に筋を描いている。森の中で作った傷だろうか。

 琥珀色の瞳が、鏡に映る己の白い肌を、淡く赤い傷跡を眺める。

 それから己の金の髪を確め、鼻や頬に散るそばかすをおざなりに数え、再び黒いドレスを見た。


 これは、多分、喪服だ。


 一体いつ、誰の葬儀があったのか。

 ――もう、覚えていない。

 この森に来た日のことを、ほとんど思い出せなかった。



 気付いたときは、自分がなぜここに居るのか分からなかった。

 パニックを起こすほどの情報もなく、ただ黙って周囲を見渡した。

 暗い部屋。どこかで灯りが揺れている。

 燭台の上で、蝋燭が燃えている。

 私はベッドに横になっていて、毛布の柔らかさと温かさに、妙な安堵を覚えていた。

 身動きが取れないほどに疲労しているのに、とても安心していた。

 そっと触れられて、誰かがそばにいると気付く。


 子供のかたちをした人影に、一瞬、胸が押しつぶされるように痛んだ。


 傍らの少女が私を覗き込む。

 私が目を覚ましたと気付くと、涙を滲ませるほどにほっとして、その様子に私まで胸が熱くなる。

 私が無事でいることを喜んでくれる存在がいる。それが誰かも分からないのに、妙に嬉しかった。


「目が覚めた? よかった。ぼくはルクレイ。森であなたを見つけたから、家まで運んだの」


 少女が甲斐甲斐しく声をかけて、名を尋ねたり、痛む箇所を確かめたり、何か足りないものはないかと気遣ってくれた。

 そのすべてに曖昧に応じて、私は少しずつ現状を認識していく。

 知らない場所にいて、知らない子供に介抱されているのだ。

 身体の上にはいくつもの小さな痛みと、手当てのあとが残っている。

 そう理解できて、やっと、礼を言えた。


「ありがとう。あなたは、親切な人ね」


 ルクレイは小さく首を横に振る。


「目が覚めてよかった」


 そう言って心から安堵した様子に、私もつられてほっとした。

 自分の容態のことなのに、妙に他人事だった。


「シュティ。私の名前、多分そう。シュティだわ」


 先に名乗った少女へ遅れて申し出ると、ルクレイはさらに安心したようだ。

 体から力を抜いて、傍らの椅子に腰掛ける。

 夜の何時かも分からない。いつからそばに居たのかしら。ずっと付き添ってくれていた?

 少女の献身が温かく身に染みて、胸が詰まる思いをする。

 体は痛む。なぜ今自分がこの状況にあるのか理解できない。

 それでも、親切な人と出会えたのだと分かったから、不安は急速に消えていった。


「何から逃げていたの? とても怯えていた」

「私、逃げてきたの? 思い出せないわ……」

「そう。――大丈夫」


 ルクレイが頷く。


「この森へは皆、何かを忘れるために来る。

 あなたも同じだ。きっと、忘れたいことを忘れられたのだと思う」


 意図したのか、少女の声は明るく響いた。

 その明るさに励まされ、不安の霧が払われる。


「そう。私は逃げ切ったの」


 安心感が胸に満ちて、それから再び眠った。

 傷が癒えるまでという約束で屋敷への滞在を決めて、今日までずっと暮らしている。

 傷はもう癒えた。

 それでもルクレイは私を追い出そうとはしない。帰るようにと促すこともない。

 まだ胸の内で、傷が疼いている?

 ――ルクレイはそう思っているのかもしれない。

 実際のところは、私にもよく分からない。実感がないのだ。


「……」


 傷ついたドレスが映る。

 私は、誰を亡くしたのだろう。

 きっと近しい人間だったに違いない。

 折角忘れられたその人のことを、なるべく考えないようにする。

 帰るべき場所や待っている人の存在をぼんやりと思い浮かべることはできた。

 しかし、そこへ戻る勇気は今はない。

 きっと、ようやく忘れられた事実と向き合うことになるだろうから。

 まだここで休んでいたい。

 その欲求のままに滞在を続けている。

 ルクレイは私を受け入れて、気の済むようにと勧めた。

 だから、ずっと彼女の心遣いに甘えている。

 黒い服をクロゼットの奥深くへ押し込んで、逃れるようにベッドに潜る。

 暖かな陽光を吸い込んだ毛布は働いた体によく馴染んで、すぐに眠りに落ちた。

 

 

 心地よく深い眠りは、明け方唐突に断ち切られる。


「あっ」


 自分が上げた声に驚いて目を覚ました。

 いま、誰かに腕を引かれた気がした。

 強く、抜けそうなほど乱暴に引っ張られた、その感触だけが生々しく残っている。

 腕を胸元へ引き寄せてそれを抱きしめた。

 治ったはずの傷が痛み疼いている。

 もう一度毛布を深く被り直して息を潜めると、心臓の鼓動が大きく聞こえた。

 焦ったように収縮している。

 逃げ延びた、そのはずなのに。

 目に見えない存在となって、誰かが追って来た。漠然とした恐怖が私を脅かす。

 いつか自分を呼び招く声が聞こえてくるような気がして、いつまでも毛布の中で体を固く強張らせ、耳を塞いでやり過ごす。

 

 ◆

 

 今朝も早くから厨房に立つ。

 まだ夜の気配に満ちた静かな早朝に、ふいに鳥の鳴き声を聞いて窓を開けた。

 厨房の窓から眺める森は靄がかかっていて、声の主を見つけ出せそうにない。

 澄んだ冷たい風に体が震えて、あわてて窓を閉めた。

 肩にかけたストールを体に巻きつけなおして、かまどの火に近寄って鍋をかき混ぜる。

 こうして朝食を用意するのは、眠りが浅いから、朝の時間を持て余すためだ。

 もちろん、客人として何か仕事をせずには居たたまれないし、家主の少女にお礼をしたい気持ちも大きい。

 けれど、何も夜明け前から始めることはないのに。

 自分の融通の利かない体質を恨んでそっと息を吐く。


「――早いね、シュティ」


 声に降り返ると寝間着のままのルクレイが立っていた。

 裸足が寒そうで、慌てて駆け寄ってストールを譲る。

 時計を見上げて、まだいつもの起床時間よりずいぶん早いことを確認した。


「ルクレイ。どうしたの、眠れなかったの?」

「ううん。鳥が鳴いたから。でも、見失っちゃった」

「もう。夢中なのねぇ。ベッドへ戻って、もう少し寝てなさい。朝食までまだかかるわ」

「ううん、いいよ。ぼくも手伝う」

「そう? なら、着替えていらっしゃい」

「うん」


 素足の少女は足音も立てずに走り去って、じきに着替えを済ませて戻ってきた。

 長く感じる朝のひと時を、ともに料理をして過ごす。

 調理の手順を指示して、少女の手元を見守る。

 トーストを卵に浸してフライパンで焼く、それだけのことが少女には新鮮なようで手つきは危なっかしい。

 トーストをうまくひっくり返すと、いかにも美味しそうな焼き目がついていた。


「できたよ」


 そう言って頬をほころばせこちらを見上げる様子に私も心を和ませた。

 胸が温かくなって、しかし不思議と切なく痛む。

 いつか、同じような経験をしたような、奇妙な既視感があった。


「上手よ、ルクレイ」


 こうやって同じように褒めてあげた。

 いつか、誰かを。

 あの子の名前は何だったのか。

 ルクレイは満足そうに微笑んで、要領を得たのかもう片面も難なく焼いた。

 お皿に移し、ラズベリージャムを添え食卓へ運ぶ。

 熱いお茶を淹れて寒い朝に対抗する。

 いつもは向かい合って座る食卓に今日は隣り合って身を寄せた。

 暖かさが伝わってくる。子供の体温は高い。

 少女はふと己を見つめる視線に気付いて、私を見つめ返した。


「シュティ? 顔色が悪いよ、今日はまだ寝ていたほうがいい」

「もう、心配いらないわ。ちょっと寒いだけよ」

 

 こちらを見上げる不安そうな顔を、安心させたくて無理に微笑む。

 それが伝わってしまったようで、ルクレイは表情を曇らせて、食事の手まで止めてしまった。


「今日はぼくも家に居ようかな。

 家の仕事はメルグスに任せたらいいよ。彼女はそのためにここに居るんだもの」

「森へ行きたいんでしょう? お見通しよ。

 わかったわ、大人しく寝ているから。ルクレイは出掛けてちょうだい」

「でも……」


 見張っていなければ無理をするかもしれない。そう疑っているのが丸分かりだ。

 その心配は嬉しい。誰かが慮ってくれる喜びが胸に温かく満ちる。


「それじゃあこうしましょう。ルクレイ、私が寝つくまでそばにいたらいいわ。

 それなら心配ないでしょう? 私、寝つきはいいほうだから、時間はそうかからないはずよ」

「――それなら」


 渋々と納得して、ルクレイは食事を再開する。

 紅茶で体を温めて、次第に気持ちに落ち着きを取り戻す。

 朝食の後片付けをして、約束の通り寝間着に着替えてベッドに入った。

 ルクレイはベッドの傍らまで椅子を運んで、枕元にそっと視線を投げかけている。

 毛布からはみ出した私の手を案じるように撫で、手のひらを重ねる。

 じんわりと伝わるぬくもりが、まだ痛むところを癒やすようだった。


「やっぱり無理をしていたでしょう。だめだよ。ゆっくり休んで、はやく良くなってね」


 ルクレイには、出会った日のことが印象深いらしい。

 彼女の心配が私には過剰に思えるのはあの日の記憶が曖昧だからだろう。

 この子を安心させてやれないのが心苦しい。

 触れ合う手の温もりがとても心強い。――これでは与えられてばかりだ。

 しばらくのあいだ言葉を交わして、そのうちに今朝の悪夢を忘れ、穏やかな眠りに就いた。

 

 

 目を覚ます。

 窓から差し込む日は燃えるように赤く、夕暮れを迎えていた。

 丸一日眠っていたのだ。さすがに体は鈍い倦怠感に包まれている。

 屋敷には音がなく静寂に満ちている。

 誰の気配もない。最初から無人だったみたいに。

 ルクレイは、まだ帰っていないようだ。

 まだ体を起こす気にはならなくて、横たわったまま腕を上げた。

 赤い陽射しに白い腕をかざす。

 影になってほとんど見分けがつかなくても、皮膚の上に傷跡が走っているのを私は知っている。

 木の枝で引っかいたのだろうか、細く深く、そして長く、手首から肘の手前まで傷跡が連なっている。もう痛みがないことを確かめて、ようやく安堵してベッドを降りた。

 汗の滲んだ寝間着を脱ぎ、クロゼットを開ける。

 奥に押し込んだはずの黒い服につい視線が向いてしまう。

 いま一度、それを手繰り寄せ、傷ついた布地を撫でた。


「――シュティ?」


 ドアが控え目に叩かれる。

 いつの間に帰っていたのか。

 あるいはとっくに戻っていて、気遣って静かにしていたのだろうか。

 少女の呼ぶ声に答えてドアを開ける。


「ルクレイ。帰っていたのね」

「うん。ついさっき。具合はどう? もう起きていいの」

「ええ、予定より随分寝てしまったみたい。おかげさまでもうすっかり良いわ。

 ルクレイは、鳥は見つかった?」


 少女は小さく首を振る。それから私の腕にかけられた服に気付いた。


「その服……」

「ちょっと気になって眺めていたの。……お葬式があったのかしら、って」


 ドレスをベッドに重ね、クロゼットから手早く服を選んで身につける。

 麻の柔らかいシャツと丈の長いスカートにかぎ編みのカーディガンを羽織った。

 ドレスをクロゼットに戻して戸を閉める。


「誰の葬儀だったのかな。想像していたの。私は、悲しみを忘れるためにここへ来たのね、きっと。

 そうだとしたら、相手は親しい誰かで……」

「――思い出したいの?」


 少女の問いへ肯定も否定もできず、曖昧に微笑む。


「なんとなく想像はつくの」


 私は、続く言葉を飲み込んだ。

 ――だって、あなたを愛しく思うから。

 面影を重ねているのだ。

 この森で、人はひとつ記憶を失う。

 噂を頼り、望み通りの結果になった。

 そのはずなのに胸が痛むのだ。

 私は想像する。

 娘が居たはずだ。どんな顔かも、なんという名かも分からない。

 年頃も声も、笑い方も思い出せない。

 きっと、娘を失った悲しみを忘れるために、森へ来た。

 深く愛していたに違いない。

 耐え難い痛みを忘れたかったのだ。そうだとしたら、余計に悲しいと思った。

 忘却された娘に対してあまりに薄情ではないか。

 けれどまだ、その鮮やかな思い出を受け止める勇気はない。

 別離を想像するだけでも、身を裂くような苦痛を覚える。

 その痛みは、記憶を取り戻した途端に現実味を帯びて、想像をはるかに上回る衝撃でこの身を襲うに違いない。


「大丈夫。その必要があれば、あなたは必ず記憶を取り戻すよ。

 だからそれまでは、忘れていてもいいんだよ」


 寄り添う温もりに、優しい囁きに、私は身を委ねる。

 小さな身体をそっと抱きしめた。

 華奢な腕を、柔らかな髪を撫で、少女の体温を感じる。


「ありがとう。あなたが言うと、それでいいって思えるわ。甘えてしまう」

「いいよ。だってシュティは、きっとずっと耐えてきたんだから。

 少し休憩したって、誰も責めたりしないよ。そうでしょう?」

「ありがとう」


 気持ちが和らいで、再び少女に礼を言う。


「ごめんなさい。ご飯、これから作らなきゃ。お腹空いたでしょ?」

「ううん、へいき。ぼくも手伝う。一緒に作ればすぐだよ」

 手に手を取って厨房へ向かう。

 確かな体温に励まされて、それが何より私を支えた。

 

 きっと、失ったのは、こんなに頼もしく愛おしい存在だ。

 そう思うと過去の自分に同情した。あまりにも気の毒で、胸が痛んだ。

 

 ◆

 

 昼間によく眠ったせいで中々眠れなかった。

 ベッドの中で身じろぎ、寝返りを繰り返し、なんとなく寝苦しい時間を過ごしやっと寝付いた頃――また、腕を引かれる錯覚に目を覚ます。

 眠った途端にまた目が冴えてしまい、諦めて毛布を除ける。

 寝間着の上にストールを巻きつけ、足音に注意して廊下へ出る。


 仕方がない。外の空気を吸おう。


 引っ張られたような感覚の残る腕をさすり、廊下を進む。

 外には静寂が溢れていた。

 森を包む無音には圧迫感さえ伴っているように感じる。

 ルクレイはもう眠っているだろうか。――当然だ。

 ひとり、屋敷のなかを歩む。

 玄関を出て森を一望する。

 闇が木々の間から滲み出て、私へ手招きしているみたいだ。

 それは過去からの呼び声だ。

 森の向こうへ置いて来た過去が、私を呼んでいる。

 そんな予感に胸がざわついた。

 受け入れるべきか、拒むべきか、判断は揺れる。

 この腕を引くのは、一体誰なのだろう。

 私は誰を失ったのだろう。

 手がかりを求めて闇に目を凝らす。

 そこに、なにか白いちいさなものを見た。

 まるで彷徨う魂のような。

 それは、木の枝に留まる一羽の鳥だ。

 じっと、私を見つめている。そう感じるのは、ただの錯覚?

 もしかしたら、ルクレイがずっと探していた鳥かもしれない。

 でも、今わざわざ起こすのも可哀想だろうか……。

 庭を歩んで森へ近づく。その間にも鳥が飛び立つ気配はない。

 なぜか、惹かれるものがあった。

 ルクレイがあれだけ執着した鳥を見てみたいという好奇心がきっかけだったはずなのに、いつしか願う気持ちでいた。そばに行くまで、そこにいて。飛んでいってしまわないで。

 息を潜めて、その鳥の間近へ向かう。次第に姿が明らかになった。

 青白い翼。腹は白と黒の細かい縞模様が走り、形はふっくらとやわらかい。

 高い位置から私を見下ろして、興味を抱いたように瞬きをする。


「なんていう鳥かしら」


 鳥は何も応えない。

 代わりに、息を詰め、それから深く吐き出すような、特徴的な楽器の音にも思える鳴き声を響かせた。その鳴き声こそが、鳥の名を示していた。

 唐突に鳥が飛び立つ。羽音と風を感じる。

 急に、胸に強い痛みが走って思わず蹲った。

 鼓動が早鐘を打って息が苦しくなって、呼吸を整える合間に鳥のいた枝を見上げた。

 そこには、もう何の姿もない。

 ただ鳴き声の余韻だけが耳に残っている。

 風が森の木々を揺らす。しばらく風を体に感じていた。

 気付けば痛みも息苦しさも消え去っている。

 鳥の行方を追うように風の流れる方角を目で追った。

 しかし何も見つけられず、仕方なく屋敷へ引き返す。

 玄関をくぐる前にもう一度だけ森を振り返った。

 鳥との出会いがそもそも夢だったような曖昧な印象を抱いたまま部屋へ戻る。

 それからは、不思議とすぐに眠れた。

 

 ――そうして私は夢を見た。

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