いつか見た食卓〈3〉

 3.

 

 まだ夢を見ているのだろうか。

 それとも、夢こそが現実で、今この瞬間こそが夢なのだろうか。


 いつもと変わらない時間に目が覚めて、ここでの習慣になった行動をひとつずつこなして、その間にも繰り返し疑問が浮かんだ。


 あれは夢なのか。

 それとも、今この瞬間のほうが夢なのか。


 確かめるのが怖くて、ドアの前で立ち尽くす。

 目の前に、緑がかった青いドアがひとつ。

 二階にはドアが二つあって、こっちはそのうちの小さいほうだ。

 少女の寝起きする部屋に繋がっている。

 昨日まで、毎朝、私がノックして彼女を起こしていた。

 あの子は、人に起こしてもらうのが嬉しいらしく、目が覚めていても寝たふりをするのだ。

 それが私にはなんだか嬉しくて、微笑ましくて、少し胸が苦しくなる。

 私をそんな気持ちにさせる、あの女の子は、本当にいたの?

 昨晩の夢が、私を怯えさせた。

 このドアをノックしたら、一体誰が出てくるの――?

 音を立てることを躊躇った拳は宙に浮いたままだ。

 やがて、ドアの向こうから足音が近づいてくる。目の前で、内側からドアが開く。

 その隙間に覗くのは、間違いなくルクレイの姿だ。


「シュティ。おはよう。どうしたの」


 いつもは目を覚ましていても私が起こすまで待っているのに。

 そうと気付かれていないつもりで寝たふりをする姿が私は好きだ。

 でも、今日は寝たふりにも限界があったのだろう。それだけ待たせてしまったのだ。

 私は一体いつから、ここにこうして立ち尽くしていたのだろう。

 首を傾げるルクレイにつられて私も首をかしげる。


「おはよう、ルクレイ」


 その声は妙にのんびりと響いた。


「……起こしちゃ悪いかと思ったの」

「へんなの。気にすることないのに」

「そうよね。へんね。どうしてかしら」


 もしかしてまだ体調が悪いのだろうかと慮る眼差しに気付き、私はつとめて優しく微笑んでみせる。


「心配かけちゃった? 大丈夫よ。ご飯にしましょう」

「うん。待っていて、すぐ行くから」

「ゆっくりでいいから。先に毛布を干してきちゃうわ」


 毛布を抱え、部屋を出た。背中にまだ、心配そうな視線を感じた。

 

 

 着替えを済ませて降りてきたルクレイへスープをよそる。


「ごめんなさい。少しスープを煮詰めちゃったの。美味しくないかもしれないわ」

「そんなことないよ、おいしい。温まってほっとする」


 不出来な料理を褒めて少女は笑う。きっと本心からの言葉だ。

 私もつられて頬を緩ませて、しかしすぐに笑みを潜めた。

 食事の手を止めたままルクレイを眺める。

 木の器に盛られたサラダは裏の菜園で取れたもので、この子はなんでも好き嫌いせずに食べた。

 量はそれほど摂らないものの、心配になるほどの小食ではない。

 果実を好んでパンにはジャムをたっぷりつける。

 小さなガラスのボウルに今朝取れたばかりのラズベリーがいっぱいに盛られていて、それに気づくと嬉しそうに手を伸ばした。食事を続ける。

 呼吸をする。水を飲み、またパンを食べる。生きている。


 生きているの?


 小さな泡のように疑念が浮かび上がる。

 子供一人、女一人で。親子でもないのに。

 町から隔絶された、こんな場所で。

 どうやって生きているのかしら。


 不自然さを感じて、これまでの暮らしのどこかに何か重大な嘘があったような気がして落ち着かない。でも、もしこの暮らしに嘘があるとしたら、それは間違いなく私の中にある。

 私の中に――。


 ルクレイ、あなたは生きているの?


 まるで、あの子の魂が姿を変えて私に会いに来たような――。

 何かを問いかけるために。


「どうしたの、シュティ」


 ふと、見られていることに気付いてこちらを見上げ、不思議そうに首をかしげた。

 手付かずのままのトーストを見つけて尋ねるルクレイの声は心から案ずる響きを持っている。

 もしかして、まだ具合が悪いのではないか。そう懸念している眼差しを投げかける。

 咄嗟に答えることもできず、彼女のまっすぐな目から逃れたくて、私は顔を手で覆った。


「なんでもないの。なんでもない」


 見ないで欲しい。見透かさないで欲しい――。

  

 

 寝ていたほうがいいよ、と勧められるままに部屋へ戻った。

 眠るまでそばにいるというルクレイの申し出は断って、一人で部屋に居ても、屋敷に心配する少女の気配が漂っていて息が詰まる思いだ。

 信頼と親愛の眼差しを受け止めることが、急に難しく感じられた。

 なぜなら私は、誰かに親切にされるような人間ではないからだ。

 それを、今日までずっと忘れていた。

 あの瞳に見透かされて、すべての過去が暴かれてしまう。

 寝台に体を横たえながらもとても眠る気にはなれない。

 夢の余韻が醒めないままに、その続きを見るのが怖かった。

 己を責め立てるように疼く腕をきつく掴んで、痛みを紛らわせる。

 夢なんかじゃないと訴える、過去がつけた傷跡は、今も肌の上に赤く残っている。

 部屋を出て廊下を歩くと、リビングからルクレイが姿を覗かせてこちらを窺っていた。


「もう、大丈夫?」

「ええ。昨日寝すぎちゃったせいね。

 少し調子が戻らなかったのだけど、あまり寝ていてもよくないから、散歩へ出ようと思うの。

 ルクレイも、森へ行くでしょう?」

「ほんと? ぼく、お昼ご飯を作ったの。外で食べよう。気分もきっとよくなるよ」

「そうしましょう。ありがとう」


 そう言うと少女が笑い返してくれたので、ちゃんと笑顔が作れたのだと分かって安心した。

 

 ◆

 

 少女は空の鳥篭を提げ、昼食の入ったバスケットを抱えて森を歩く。

 枝葉を抜けて差し込むまばらな陽光が、風が吹くたびにちらちらと踊っていた。

 新鮮な空気と心地よい風、あたたかな陽射し。

 それらをもってしても、気持ちは沈んだままだ。

 ルクレイはふいに立ち止まっては頭上を見つめ、木々の枝上に何かを探した。


「鳥? 見つかるかしら」

「うん……どうかな」


 捜し物に集中していて、少女の答えはぼんやりしている。

 昨晩出会い、別れた鳥を思う。

 もしルクレイが求めているものが、同じ鳥だとしたら、あれはもう近くにいないと確信があった。


「どうしても捕まえなくちゃいけないの?」

「放っておいても、大丈夫なときもある。


 でも、出来る限りは守ってあげたいんだ。森にいたら危ないことも多いから」


「鳥は、元々森に暮らすものでしょう」


 諭す言葉にルクレイは理解を示すように微笑む。

 空の鳥篭を見下ろして、その瞳に陰りが落ちた。


「ここまで来る鳥は、ほとんどの場合、旅して来た子たちなんだ。

 ここで生まれ育って暮らすわけじゃない。遠くからやって来て、またどこかへ帰っていく。その前に傷つけたくないから」


 戯れに鳥を所有しようという欲のために捜し歩いたわけではない。

 そうと知って、ふいに焦りに駆られた。

 あの鳥は、どうなってしまうのだろう。

 ルクレイの庇護を受けることなく、森を彷徨い傷ついていくのか。

 ――あるいは既に、鳥は住み処へ帰ったのだろうか。


「休もうか。歩き疲れたでしょ?」


 ルクレイの提案に従う。

 少女はランチに最適な場所へ案内してくれた。

 

 

 見上げても果ての見えない巨大な樹の根本に敷物を広げる。

 ここまで接近すると、それは街で一番大きい建築物をはるかに上回る規模に感じた。

 実感としてそう思うだけで、実際の数値で見れば常識的な大きさなのだろうか。


「ここは、この森の中心地なんだって」


 圧倒され見上げていると、ルクレイが解説するように言った。

 事実かどうかはさて置いて、彼女がそう言うのも分かる気がする。

 この巨樹はまるでなにかの目印のようだった。

 木々が溢れるように纏わりつき、伸びて絡み、樹をさらに樹で覆いながら、巨樹は直立している。


「立派な樹ね」


 思わず呟くと、少女はまるで自分が褒められたかのように照れくさそうに笑った。

 その無防備な表情が、誰かに似ていて胸が軋む。

 誰か、なんて他人事のようにはもう言えない。全てが鮮明に思い出せた。

 ――否、違う、あれは夢だ。寝苦しい夜に見た悪い夢だ。

 そう信じたいのに体の一部が事実だと訴えている。

 痛みの走った腕を押さえて、静かに深呼吸をした。

 ルクレイはこちらの様子には気付かずにランチを広げる。

 今朝作ったクリームサンドを分け、魔法瓶から湯気の上るお茶を注ぐ。

 私もその場にふさわしい態度を心がけ、ルクレイの手料理を褒めた。

 少女が無邪気に笑う。心の底から信頼し、親愛を寄せて、私を慕う。

 私の一言でどうしてそんなに喜ぶのか。

 彼女の寄せる好意の理由が分からない。

 だから気味が悪くなって、食事の味も分からずにいる。


 ――私は、あなたが思うような人間ではないのに。


 自己嫌悪に支配されて、心が硬直する。


 ――それとも。あなたが思うような人間ではなかったとしても、あなたはそれをも認めて受け入れてくれるの?


 全て打ち明けてしまいたい欲求が胸を衝く。

 この罪悪感を胸の内から逃してしまいたい。

 懺悔して請うたら、彼女なら赦してくれるのではないか。

 この娘が誰かを拒絶する姿が想像できない。だから、きっと、私のことを受け入れてくれる。


「シュティは、家へは帰らなくていいの?」


 何気なく投げかけられた問いかけに血の気が引いた。

 言葉を解釈する想像力が負の方向に振り切り、彼女に煙たがられているのだと感じる。

 彼女の好意は客人をもてなすための表面的な態度で、本心では早く帰って欲しいと願っているのではないか?


「……迷惑だったかしら」


 深刻になりすぎないように、努めた。この声は少女の耳にはどう響いたのか。


「あっ、そうじゃない。違うよ」


 少女は己が誤解を与えたことに気付いて、慌てて言葉を募らせる。


「誰か待っている人や、残してきたもののこと、気がかりじゃないかなって……

 勿論、ぼくはシュティとの暮らしを気に入っているよ。

 だけどね、それで引き止めているなら、気にしないで欲しいんだ」


 それは間違いなく、ルクレイの本心だった。

 客人を疎ましく思うことなく、滞在を喜んでいるのだ。

 安心して、やっと私は息を吐く。

 彼女の言葉に益々甘えが滲み出す。

 

 ――全て話してしまいたい。

 その上で、それでも構わないと赦してもらいたい。

 陽だまりの食卓を共にする日々を続けていこう。

 そう提案してもらうことを、私は望み、想像する。


「あのね。ぼくには長いこと家族が居ない。

 メルグスはそばに居るけれど――でも、彼女は友達や家族っていう関係とはちょっと違った」


 思い切ったように少女が身を寄せて、肩を触れ合わせる。

 彼女の肩を抱き寄せて、そっと尋ねた。


「ルクレイ。それは……寂しかったでしょう?」


 少女ははぐらかすように笑う。

 その心境は分からないが、まるで認めてしまうのを恐れているみたいだ。


「だから、シュティが来てからぼくは毎日うれしいんだ」


 むき出しの好意をさらしてルクレイは微笑む。

 それを受け止めて、息をするのも忘れた。

 いま手のなかに溢れんばかりに与えられた親愛の情を、このまま抱きしめることができれば、救われる。

 少女の求めている役割を、受け入れることができれば、それは叶う。

 それは、きっと、私には受け入れがたい役割だ。

 どうかそれ以上言葉を重ねないで。

 その願いは、こんなにも傍にいる相手にも声なしには伝わらず、震える唇でついに言葉に出来なかった。


「あのね。シュティは、なんだかお母さんみたいだ」


 たちまち目の前に幕が下りたように錯覚する。

 視界が暗く狭まり、体中が脱力していく。

 このまま魂が抜け落ちてしまいそうだ。

 そうなってしまっても構わないとさえ感じた。

 ようやく力を振り絞って、シュティはこたえた。


「私はお母さんなんかじゃないわ」


 やっと言えた。体が軽くなって、言葉があふれ出す。


「お母さんだなんて思えたこと、一度もなかったのに」

 

 ◆

 

 ――あの子は相手に良く似た黒髪で生まれて、私に似たところは瞳の色くらいで、でもその瞳にはどんなものもぼんやりとしか映らないようだった。

 医者に「お気の毒ですが」と言われたときに本当は少し喜んだ。

 ああ、育てなくて済むのかしら。

 解放感に満ちた胸は、期待とは別の事実を告げられて重たく凝り固まってしまった。


「弱視で、生活には不便するかもしれません。

 ですが健康には問題ありません。元気な女の子ですよ」


 私の大きなため息を、彼らは安堵だと誤解したようだった。

 仕方なく。

 そんな言葉がいつも付きまとって、ため息交じりに生活した。

 どう受け止めたらいいのか、どう扱っていいのか分からない。

 娘。私の子供。

 何よそれ、冗談みたい。

 まわりの人間が自分のことのように喜ぶ姿に欺瞞を感じた。

 そんなにこの子が好きなら、あなたたちで育てたらいいのに。

 理性がぎりぎりでそんな言葉を躊躇って、愛想笑いが上手になって、いつしかそれが顔に張り付いていた。

 気付けば彼女は私のことを「お母さん」と呼ぶまでに変化して、それが恐ろしかった。

 そう呼ばれても、私はすぐには答えることができない。

 一体誰を呼んでいるの?

 いつも不思議で、返事をするのに一拍遅れた。

 この子がいることで、私の行動には制限が生じる。

 母親としての振る舞いを求められ自由を奪われる。

 恋も叶わず、夢を諦め、娘の存在を負債や懲罰のように感じる。

 もう充分耐えたのでは? よく我慢したと思う。

 だから、私は逃げてもいいんじゃないか。この、重荷から。

 

 

「――あなたとの日々を懐かしく思ったわ。

 でも実際にはそんな経験は一度もなかった。

 私が見たのは誰かに与えられた理想像よ。

 そうあれと、他者から押し付けられた母子像。

 あなたを使って理想的な母と娘の関係を模倣しただけだわ。

 過去に一度だって私はあの子とそんな時間を持たなかった。

 知識と経験を混同して、錯覚していただけで……」


 息を充分に吸うよりも先に言葉が走っている。

 喋りすぎて気が遠い。

 頭が痺れて、自分が今何を話しているのかもよく理解できないまま、それでも喋り続けた。


「あなたは私の娘じゃない。だから、私はあなたを受け入れられた。

 だから私はあなたを愛せたの。他人だったからよ」


 いつしか少女に縋っていた。

 そうしていないと体を支えていられなかった。

 少女の表情を確かめることはできない。

 困惑と、侮蔑と、あるいは。

 悲しみを見つけるだろうか。傷つけているだろうか。

 判断力は鈍ったまま、溜めこんだ言葉を吐き出しきるまで止まることはないのだと思った。


「ルクレイ。私は母親にはなれない。私は、娘は欲しくない。だから私は――」


 不意に痛む腕を押さえる。

 おそるおそる袖を捲くると、うっすらと残る傷跡が、確かに過去を覚えていた。

 ――落ちていく少女が咄嗟に母の腕を掴む。

 華奢な指が必死にしがみつき、肌には爪が食い込んだ。

 悲鳴を上げて手を振りほどく。

 投げ出された小さな体は青い空に抱かれ、七階建てのアパートのバルコニーから消え去っていく。

 この肌の上に残されたのは、少女の生への執着心を示した、血の滲む爪あとだけだ。

 それだけが、あの子の生きた証になった。

 弱視の娘の留守番中の事故として始末がついて、真実を知る者はこの世に私一人だけになる。


「――この罪さえ隠し通すことができれば、人生を取り戻せる。

 やり直して、幸せになれる」


 幸せになりたかったのだ。

 娘がいたら、いつまでも幸せになれないと思った。

 私はあの子に尽くしたでしょう。自分の人生を犠牲にしてまで、尽くしたでしょう。 だから、お返しが欲しかった。


「私一人、黙っていることができたら――

 そのはずだったのに。だめなの。言いたくてたまらない。

 全部、話してしまいたい。

 台無しにしてしまうって分かっているのに、誰かに聞いて欲しくなる。

 私が、殺した。あの子を殺した!」


 秘密が喉に詰まって窒息してしまう。

 だから私は森を目指して駆けて来た。

 一刻も早く忘れてしまわなければ、事実は誰かの耳へ逃げ込んでしまうだろうから。

 そうなったときには全てが水の泡だ。

 娘の死も、母の罪も、空しく無駄になる。


「――どうして思い出してしまったのかしら。

 忘れたままでいたかったのに。どうしてなの」


 恨みがましく腕を見つめた。

 ずっと、あの日に感じた重さを腕が覚えている。

 子供一人がしがみついた、肩まで外れそうなほどの負荷と、爪が肌を滑る感触。

 助けを求め呼ぶ声は、それでもやっぱり自分を呼んでいるようには思えなかった。


「後悔しているの?」


 そっと、遠慮がちに、ルクレイは問いかける。

 問いかけたのは、本当にルクレイだったのだろうか?

 娘がこの子の口を借りて問いかけたような気がして、胸の奥底が冷えた。


「ええ。忘れたままでいたかった。全部、忘れられたらいい」


 まだ痺れたままの頭で答える。

 そうしてふと、自分が今何を答えたのか、投げかけられた質問の意図はなんだったのか、理解しようとする。

 けれど、よく分からないままだった。


「ルクレイ」


 縋るように名を呼ぶ。けれど、返事は聞こえない。

 見上げた顔は影になって、そこに映る感情は読み取れない。

 いつしか彼女の体が離れていた。

 自分から距離を取ったのか、彼女から去っていったのか、よく思い出せなかった。

 そうだ。

 私が許しを請う相手はこの子じゃない。

 断罪を求めているなら、それを与えるのはこの子じゃない。

 この子は、私の娘ではないから。


「そう……」


 私はすでに、手のひらいっぱいに与えられた幸福の温もりをすべて取りこぼしていたのだ。


「そうだったのね――」


 空の手を眺めて顔を覆う。

 深い深いため息と一緒に胸の内から何かが飛び立った。

 それは灰色の翼をもった鳥だ。

 淡く青ざめた鳥が、次々に胸の内から飛び立って翼を広げる。

 幾羽もの鳥の羽ばたきは耳を聾する響きに、その翼のはためきは森の木々を揺らす風になった。

 私は、指の隙間からその光景を見ている。

 自分の中から失われていく鳥たちを見送っている。

 そうして少女の眼差しに気付く。

 その透明な瞳に映る己の姿を見たくなかった。

 ふらつく足で立ち上がって歩みだす。

 少しでも少女から遠ざかりたかった。彼女のその瞳から。

 そうしていつしか、闇雲に走り出した。

 

 ◆

 

 何かから逃れるように森を駆けている。

 一体何から逃げているのか、もう分からない。

 いつからこうして駆けているのかも思い出せない。

 どこから来たのか。どこへ行くのか。

 どうすればいいのか。どうしたいのか。

 自分は誰なのか。何をしているのか。

 もう、全てを忘れてしまって、何も残っていなかった。

 疲弊した足が走るのをやめて、這いずるように彷徨い歩く。

 やがて土の上に倒れて、頬に触れるそれを冷たいと感じた。

 それだけのことに、もう何の感情も動かない。

 すべてを失った抜け殻の体が、まだ森を迷っている。

 

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