EP05:ラズベリー・デイ
ラズベリー・デイ〈1〉
カーテンを引いた窓辺に柔らかい日が差している。
窓の向こうには天気の良い庭の気配。
そこへ寄り添う椅子に身を預けて、少女は書物を眺めていた。
文字は少なく、絵が多い。絵に解釈を載せる図鑑の類のようだ。
先ほどから瞼が重たいのか、瞬きを繰り返しては目を閉じて、また瞬きを繰り返す。
本を押さえる手から力が抜けて、ぱたん、と表紙が閉じられた。
もうすぐ暮れる、暖かな日差しに温もった部屋の中で、心地よい眠りに落ちて――
間もなく、玄関から声が響く。
「ごめんください。どなたか居る? お願いがあるの」
眠りを妨げられた。そう気づいて少女はそっと息を吐く。
椅子の上に読み止しの本を置き、玄関へ歩んでいく。
1.
扉を開けたのは、意外にも同じくらいの年ごろの子供だった。
だから、わたしは素直にがっかりした。
髪の短い女の子だ。服装が男の子っぽくて余計に子供じみて見える。
年下かもしれないな、と思って、ふいに自分の考えの誤りに気付いた。
「あの、ほかにおうちの方は居ますか」
はじめて会う人と喋るのは得意じゃない。
けれど今日はどうしても用事があった。
ここまで来たのだから、なにもせずには帰れない。
「ここには、ぼくとメルグスの二人暮らしだよ。あなたは?」
「わたしはティータ。森の魔女に会いに来たの」
「魔女?」
玄関のドアにもたれて、少女が首をかしげる。
心当たりがないような仕草にたちまち不安が膨らんで、恥ずかしくなった。
胸に抱きしめた本を、ぎゅっと、もっと強く抱きしめる。
どうしよう。やっぱり、うわさは嘘だったのだろうか。
この森で、人は一つ、記憶を失う。
森に棲む魔女が、いらない思い出を取り除いてくれる。
――そんなこと、考えるまでもない。
根拠のないうわさ話だったのだ。
でも、全てが嘘じゃないから、うわさになったに違いない。
思い直して再び顔を上げた。
そこへ、黒衣の女性が通りがかった。
土にまみれた手袋を外しながら歩いてきて、来客に気付いてふと足を止める。
白い肌に黒い髪、黒いドレスに冷たい容貌。
モノトーンの配色とミステリアスな雰囲気は、思い描いた魔女の想像図によく似ている。
この人に違いない。胸がドキドキ高鳴って、じんわりと目のあたりが熱くなる。
逸る気持ちを抑えられずに、彼女の進行を妨げるように立ちはだかった。
「あなたが魔女? お願い! わたしから、ひとつ、記憶を消してください」
やっと言えた。
道すがら何度も何度も心の中で練習した甲斐があったと思う。
緊張のせいで震える声は、それでも確かに届いたはずだ。
いつの間にぎゅっとつむっていた目を開けて、そるおそる魔女の様子をうかがう。
望みを叶えてくれるだろうか。
何か代償を払うことになるだろうか。
今まで書物で読んできた様々な魔女の姿とその物語の結末が脳裏に去来する。
賢く勇敢な主人公は、悪い魔女を出し抜いて願いを叶えた。
可哀想なお姫様は、親切な魔女に救われて幸せになった。
わたしは――わたしはただの女の子だ。
不幸じゃないし、勇気もないし、背負う使命も持っていない。でも。
ほんの些細な願い事だから、どうか叶えて欲しい。
それは、わたしには重大なことだから。
今この瞬間、こうして対峙しているほんものの森の魔女は、表情を少しも変えずに、ちょっとだけ首をかしげて答えた。
「お客様は何か誤解をしているようです」
「え。あれ」
大きな失敗をした予感。もしかして、わたしは今、とんでもない恥をかいているのかしら。
それでも、指を差して笑ったりせず、魔女――ではない女性は、玄関口の少女へと提案した。
「ルクレイ。ラズベリーが収穫できます」
「ほんと。そうだ、ティータも一緒にどう? おいしいよ」
今のわたしの失態など少しも気にせずに、二人は来客を裏庭へ招いた。
どうしていいかわからずに、案内されるままに二人の後をついていく。
裏庭に作られた植え込みの中に、緑の葉が豊かに茂っていた。
その合間に黄色い果実が覗いている。
抱えていた本をベンチに置くと、ルクレイにならって庭にしゃがみこんで、果実をそっともぎってメルグスが用意した器に移した。
木の実の収穫なんてずいぶん久しぶりだから、しばらく夢中になってしまって、ふいに我に返って途方に暮れた。
なぜ、こんなことをしているのだろう。
折角、森の中をやっとの思いで抜けて来たのに。
「ティータは、何か忘れたいことがあるの?」
思い出したように口を開いたのはルクレイだった。
「あ……うん。そうなの」
そうだ。それこそ、忘れてはいけない大切な用事だ。
「ここへ来れば、魔女が記憶を取り除いてくれるって、噂を聞いたの。
魔女の棲む忘却の森よ。本当にあったなんて、驚いたけれど……」
そっとメルグスを見上げる。
魔女みたいな真っ黒な服を着た彼女は、器を手に取って収穫された実の数を確認している。
かと思うと、一つつまみあげて口の中へ放り込んだ。盗み食いだ。ルクレイは気づいていない。
メルグスもそれを窺い見て確認すると、再び自身の持ち場へと戻って行った。
……ただの抜け目ないお手伝いさんだ。魔女には見えない。
「――もしかして、ルクレイ、あなたが魔女?」
まさか、とは思う。
思った瞬間に、彼女からも「まさか」と否定の言葉が飛び出した。
安心したような、更に落胆したような、複雑な気持ちだ。
「じゃあ、ただここに住んでいるだけなのね。こんな森の奥に……変わり者だわ」
なんて紛らわしいのかしら、と八つ当たり半分に腹が立った。
つくづく、噂を本気にしてばかみたいだ。
あんなの子供じみたおとぎ話だったのだ。
本当に不思議なことなんて本の中にしか存在しえないのに。
――だからこそわたしは本が好きなのに。
森を歩く間、膨らまてきた期待がしぼんでしまった。その反動は大きいみたい。
すぐには立ち直れないまま、ひそかに嘆息する。
「うわさは嘘だったのね」
「そうだけど、そうでもない」
答える彼女の手元で、ラズベリーが一粒収穫された。
琥珀色をした、太陽の光を閉じ込めたみたいな果実だ。
親指と人差し指でやさしく挟んで、ルクレイは果実を眺める。
「ここは確かに不思議な森だよ。何かを忘れることができる」
「ほんと!」
「でも、自由自在に記憶を取り除いてくれるような魔女はいない。
何を忘れるかは、忘れてみないとわからない」
「じゃあ、忘れたいことを忘れられるわけじゃないの?」
「そうなるとは限らないみたい」
「なぁんだ……」
それじゃあ、来た意味がないじゃないか。
わたしが忘れたいのは、ひとつだけ。
それ以外について忘れてしまうのは、困る。例えば、自分が誰だか判らなくなってしまったり、家への帰り道を忘れてしまったり、そういうのでは困るのだ。
途方に暮れて、視線はついベンチのほうへ向いた。
そこに投げ出された厚い本を見てため息を吐く。
「あの本は?」
ルクレイが何気なく問いかける。
答える口元が強張った。
声が思うように出せなくて、かすれた囁きになってしまう。
「オリジオラの――わたしの大好きな作家の本。先月の終わりに新しく出たの」
勝手に眉間に皺が寄った。
体がずしんと重たくなってもう腕も動かしたくない。
中途半端に触ったラズベリーを放置して、わたしは膝を抱えた。
「どんな本? あ、まだぜんぶ読んでないのかな」
「読んだわ。ぜんぶ読んだ。今日までに三回読んだわ」
膝にくっつけていた頬を持ち上げて、ルクレイの鼻と鼻が触れるほどの距離にまで急に迫った。
オリジオラのファンが今日まで新刊を読了せずに居たら、それは真のファンではない。
だから当然、わたしも本を読み終えていた。
でも、そんな小さな矜持は途中で萎れて、再び俯いてしまう。
「でも……なんだか、よくわからなかったの。恋愛小説だと思うけど」
「面白くないの?」
「わたしには……関係のないお話だなって思ってしまうの」
答えて、改めて胸が痛んだ。
「今まではね、ずっと、この人の書く小説はわたしに向けられたメッセージだと思えたのに。 こんどの本はね、ぜんぜんわからない。なんだか、遠くなっちゃった」
ぷち、と果実をもぎって、手のなかで転がした。
日差しをいっぱい吸収した温もりが今はもう冷えていて、夜の訪れを予感させる。
森の向こうに飲まれたお日様はまばらな陽光を木々の合間から届けるばかりだ。
「ルクレイ。充分です。部屋へ入りましょう。お客様も一緒に、いかがですか」
立ち上がって、メルグスが提案した。
「いいね。ティータ、今夜は泊まっていくでしょう?
夜の森は危ないよ。おいで」
「あっ……」
手を引かれるまま立ち上がる。
収穫した最後の一粒をメルグスの持つ皿に載せて、ルクレイの後に続く。
こんなに気安く他人の家に宿泊するなんて、はじめての経験だから胸がどきどきした。
お母さんになんて言われるだろう。
もっと事前にちゃんと約束しなくちゃいけないはずなのに。
お土産のひとつでも持っていきなさいって言ったはずだ。
「迷惑じゃない? ほんとうに、泊まっていいの?」
「歓迎するよ。きみは久しぶりのお客さんだもの」
玄関を開けてルクレイが促すから、屋敷のなかに踏み入った。
次にルクレイが、最後に来たはずのメルグスは足が速くてもう二人を追い抜いて、廊下の奥へと進んでいく。
「今夜はメルグスがタルトを焼くんだ。ラズベリーを使うの。待っていよう。お茶を入れるよ」
ルクレイはメルグスの去った方へ足を進めて、わたしも屋敷の様子に気を取られながら歩んだ。
埃っぽい廊下だ。隅々まで森と陽光の匂いが染み込んでいる。
すっかり日が暮れた夜の森が、窓の向こうに見えた。
燭台に灯る蝋燭の明かりのみが廊下を照らしている。
一人きりだったら怯えていたかもしれない暗がりを、ルクレイと一緒だから怖がらずに歩けた。
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