宝石の庭〈4〉
サンルームには絵の具の濃密な匂いが充ち、外に出なければ呼吸をした気にもならないほどだ。
あれから意欲は止まることなく、衝動となって、果てには恐怖心とも思える強さで、僕を画布へ駆り立てた。いつから傍らのソファで寝起きするようになったのだろう。この部屋で朝を迎えるのは何度目になるのだろう。
眠ると夢の中でも絵を描いていた。
だから、次第に夢と現実の境界も曖昧になって、自分が起きているのか寝ているのかも分からなくなる瞬間があった。
それが、僕には嬉しい。
昔はもっとこんなふうに何もかもをなげうって絵を描く日々があった。
あの頃はただ必死だったけれど、今になって思えば、あれは得難い時間だった。
苦しくて、楽しい瞬間だった。
「――ウォード。起きてるの?」
声が聞こえて、目を覚ます。
そうしてやっと、今まで夢の中に居たのだと気づいた。
傍らにルクレイがいて、丁度食事を運んでくれたようだ。
彼女はサンルームのドアを開け放ち、気休めばかりの換気を試みる。流れ込んだ新鮮な空気を吸い込むとたちまち目が冴えた。
「ルクレイ。ありがとう」
「起こしちゃった? ごめん」
「いいや、いいんだ。寝ているのは、惜しくなるから」
汗の染みたシャツの袖をまくる。
肌のあちこちに絵の具の汚れがついていて、自分が得体の知れない病にかかったような気がする。
「今日は気持ちいい風が吹いているから、しばらく窓を開けるといいよ。この部屋、窒息しちゃいそうだ」
「ごめん。迷惑かな」
「ううん。ただ、心配になって様子を見にきた」
窓から吹き込む風が少女の髪を、服の裾を、リボンを揺らす。
森の息吹を身に浴びて、自然体で伸びをする。
眩しくて目を細めた。
いつか見た景色に似ていた。
庭から匂いが運ばれる。
清潔な洗剤の香りだ。
庭でメルグスが洗濯を始めたようだ。
昔を思い出して胸が痛む。
脳裏にちりちりと光が瞬いて、瞼の裏が焼けそうに熱い。
僕は画布へ向かった。
今この瞬間思い出した感覚を忘れないうちに描こうと思った。
はやく描きあげなければ失ってしまう。
今まで失っていたものを、再び取りこぼしてしまう。
不安に駆られた衝動が身体を動かす燃料だった。
まだ窓辺に少女が立っていて、僕を眺めて苦笑をこぼす。
ルクレイはしばらくそこにいた。
まるで僕を励ますように見守ってくれる。
そうした彼女の気遣いに、懐かしさを感じた。
◆
昼も夜も分からなくなって、もはや世界にはこの部屋しか存在しない気さえした。
永遠にこの瞬間が続けばいいと願う。
描き上げるために描いているのに、描き終えるのが怖い。
この充足感に、ずっと、甘えて浸っていたい。
――なんて楽しいのだろう。
幼い頃の僕にとって、絵を描くことは、それ自体がご褒美だった。
いつからか、絵を描くとご褒美をもらえるようになった。
きっと、誤解はそのときから始まったのだ。
意識が過去へ遡る。
すべての誤りをほどいて結びなおす。
何があれば満足だったかを思い出す。
小さなスグリの実、それを摘む白い指。
空にかざすと、光が透けてスグリは赤く輝いた。
鳥が指に止まったときの、心を許しあった喜びの震え。
こちらを見守る暖かな眼差し。
今はもう、どこにもない宝石の庭。
ああ、と自然に吐息が漏れた。
「描けたの?」
いつからそこに居たのか、少女の囁き声が問う。
僕はうなずいて、彼女の接近を許す。
改めて画布に向き直り、完成した絵を見た。
フクロウの姿はどこにもない。
光の中に女性がひとり。
やわらかな白い服に身を包んで立っている。
慈愛の眼差しは思慮深いフクロウのそれを思わせた。
差しのべた手の中には雫を固めたような赤い実が、それを求めて今しも鳥が飛んでくる。
傍らに寄り添って、ルクレイも絵を眺める。
眩しそうに目を細めて僕を見上げ、囁いた。
「あなたに似ている」
ルクレイは絵の中の女性と視線を通わせ微笑みを浮かべる。
彼女の手には、透き通った赤い実がある。
彼女の背には、光溢れる庭がある。
宝石の果実と、訪れては去っていく鳥々の庭。
あの庭では、芝生の上にイーゼルを立てて、小さな男の子が絵を描いている。
きっとそうに違いない。
「ぼく、この絵が好きだ。鳥の鳴き声が、聞こえそう」
僕は素直にうなずいた。
「よかった」
心からの安堵の呟きが、胸のつかえとともに身体の外へと溶けだしていく。
身体が震え出しそうだ。
たまらず少女を抱きしめた。
強くかき抱き、頬を寄せる。
ルクレイは絵の具の汚れがつくのも構わず僕の抱擁を受け入れた。
母親の真似事のように、背中に腕を回し撫でる。
深い安心感に満たされて、もう一度呟いた。
「よかった」
◆
絵が乾くまで屋敷で過ごし、帰途へついた。
思いがけず長いことのんびりしてしまった。
焦る気持ちも、ないとは言えない。
それでも、満足感が大きくて、構わないと思ってしまう。
また描こう。
絵を描こう。
仕事にするのは、もう難しいかもしれないけれど。
誰に言われるでもなく、描きたいものを描こう。
そうした絵を誰かが気に入ってくれたなら、それはとても嬉しいことだ。
誰にも見てもらえなくても、落ち込むことはないだろう。
なぜなら僕は描きたいのだから。
描く、それだけのことに没頭したいのだ。
昔のように。
あの頃背中に感じた、見守る眼差しが、今もまだそこにあるように思う。
それはきっと、ずっと僕を見守っていた。
だというのに、いつからだろう。
それを忘れることが一人前になることだと勘違いして、顧みなくなってしまったのだ。
大丈夫。
もう一度会えた。
だから僕は、また歩み出せるだろう。
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