宝石の庭〈3〉
ベッドに入ってから眠れない時間を過ごした。
明日が楽しみだった。
今すぐにでも描き始めたかった。
もう夜は遅く、明日に始めることにしたが、今になってそれを悔いる。
まさか朝を待ち遠しく思うなんて。
今まで何度の夜を、明日が来ないように願いながらやり過ごしたことか。
わくわくする気持ちを抑え、無理にでも目を閉じるなんて――まるで子供に戻ったみたいだ。
誕生日の前夜のような、待ち遠しい楽しみを控えた夜の、嬉しくたまらない気分を思い出す。
楽しみにしすぎて、楽しみにしている日々が楽しくて、いっそ明日が来なければいいと本末転倒なことを考えて笑ったあの頃。
もうだめだった。
とても眠れる気がしない。
フクロウの姿を思い描き、キャンバスに写し取る手順を考え、ますます眠りは遠ざかっていく。
◆◆◆
久しぶりによく眠れた。
本当は早起きをして、朝から絵を描き始めたかったのに。
目を覚ましてダイニングへ行くと、とっくに昼食を済ませた様子のルクレイが日当たりのよい窓辺の椅子に身体を沈めて本を広げていた。
「おはよう、ウォード。よく眠ってたね」
「起こしてくれて構わなかったのに」
「大丈夫、鳥は逃げたりしないよ」
少女が笑う。
ようやく、僕は自分が子供じみた言葉を吐いたことに気づいておかしくなった。
これじゃ彼女のほうがよっぽど大人びている。
「メルグスにホットサンドを作ってもらおうか。そのあいだに絵を描く支度を進めたらいい」
「素敵なアイディアだ、ルクレイ。お願いしても?」
「もちろん」
ルクレイはメイドを呼ぶと昼食についての注文をつけ、僕に付き添ってサンルームへ移動した。ガラス越しの日差しの下に即席のアトリエを設ける。
フクロウの鳥篭は大きくて、メルグスの手を借りて、ふたりがかりでの運搬になった。
その間もフクロウは賢そうにじっとしていて、決して騒ぐことはない。
「準備ができた。ありがとう」
テーブルには、片手でとれる食事と温かい飲み物の入ったポットが用意されている。イーゼルと高さのあう椅子は、昨日運び込んだものだ。
見物人の立場になったから、ルクレイは昨日よりずっと気楽な様子でソファに腰かけていた。
「見ていてもいい?」
「いいよ。もちろん」
喜びをあらわにして、少女は好奇心むき出しの視線を遠慮なく寄越した。
それを受けても気負うことなく、自然な気持ちで筆を動かせた。
鈍い金の鳥篭と向き合う。
フクロウの大きな身体に見合う、ゆったりとした住み処だ。
凝った作りで、屋敷を模したかたちをしている。
こちらが視線を投げかけると、フクロウは思慮深いまなざしで受け止めた。
赤褐色の虹彩の奥、真っ黒な瞳孔が、夜の空に通じている気がする。
フクロウは決して落ち着きを失わず、どちらが観察されているのか、次第に曖昧になっていく。
理知的な瞳は、語りかければ言葉を理解し答えを返してくれそうだ。
その目が僕を見ている。
まるで心の奥まで見透かすように。
それは悪い心地ではなかった。
僕自身に見つけられない僕の心の奥を、見つけてほしい。
僕の代わりに見透かして、それがどんなかたちをしているのか、教えてほしいのだ。
無心で絵を描いた。
フクロウも昨日のモデルと同様に根気強い。
こちらが求めることを分かっているみたいに、同じ姿勢でじっとしている。
いつしか、ソファのほうから健やかな寝息が聞こえた。
僕も疲れに気づいて休憩を挟む。
画布の上に、闇から浮かび上がるように、仄かに光を帯びて、フクロウが羽を休めている。
鈍い金の格子の向こうから賢者の瞳でこちらを見ている。
充足感はある。
しかし、出来上がったものに満足はできない。
何か別のものを求めているのに結局届かなかった無力感だけが募る。
――もう一度、描いてみよう。
身体を休め、空腹を満たすと、再び意欲が湧いた。
フクロウは促すような目をしている。
僕と目が合うと、一度、短く鳴いた。
膨らんだ胸を縮こまらせて、空気を吐き出すように。
落ち着いた身体に似つかわしくない、甲高い音だ。
それから一度、翼を広げようとする。
「外へ出たいのか」
思わずたずねた。
フクロウがもう一度鳴いた。
それを、答えだと思った。
導かれるように鳥篭へ歩み、留め金を外す。
少女に許可を得なければ――
そう思ったときにはもう、僕の手は扉を開けていた。
羽ばたきの音がする。
思わぬ強い風を感じて目を閉じた。
甲高く、フクロウの鳴き声が部屋にこだまする。
その声がいつまでも耳に残って、鳴いたのが一度か、あるいは何度も鳴いたのか、よくわからない。
目を開けたときには、フクロウの姿を見失っていた。
「ウォード」
声をかけられ我にかえる。
少女が身を起こして、空っぽの鳥篭を見つめている。
「すまない。ルクレイ。鳥を、逃がしてしまった」
もっと言葉を重ねるべきだと思ったのに、それ以上何も言えなかった。
少女を悲しませるだろうか。
それだけが心配だった。
嫌われてもいい、叱られてもいいから、彼女をがっかりさせたくない。
「ううん。いいんだよ。あの子は巣箱を見つけたんだ」
予想に反して少女の反応は穏やかだった。
無理や強がりは感じられない。
素直で静かな喜びを滲ませて、鳥篭を見ている。
「あの鳥は、預かりものだから。鳥は帰る場所を見つけたから鳴くんだ。巣箱へ帰っていった」
「巣箱へ……?」
「うん。もう、鳥篭はいらない」
どこへ消えたのだろうか。
不思議に思って天井を見上げる。
ガラス窓の並ぶ壁を見渡す。
どこにも、フクロウが抜け出ていける穴はない。
「だからね、ウォード。
ぼくは怒ってない。悲しくもない。
きみが、そんな顔をする必要はないんだよ」
案ずるように寄り添って、指先が、俯いた額に触れる。
触れられて、自分がどんな顔をしているのか気づいた。
眉間に皺が寄って、頬が強張っている。
鼻の奥が熱く痛む。
泣き出すのを我慢する顔で、子供みたいな顔で、フクロウの行方を捜していた。
「もっと、描いていたかったんだ」
少女の手のぬくもりを頬に感じて囁く。
「うん」
小さな、手のかたちをした淡い熱が、頬を包む。
慰めるように少女の手が頬を滑る。
ふいに少年の頃を思い出した。
何かを失くし、情けない気持ちで家に帰ったあの夕暮れ。
それでも母親が迎えてくれて、強く抱きしめてくれた。
何を失くしてもいい、この家に帰ってきてくれるなら。
優しく囁いてキスをくれた。
あの姿を、今までなぜ思い出せなかったのだろう。
わが子が無事に帰ってきた安堵を滲ませ、愛おしげに微笑む。
何かを失くして、きっと叱られる思って落ち込む僕は、その笑みにいつも救われていた。
あの家にはいつから帰っていないのだろう。
母が亡くなり、庭が荒れ、僕が絵に対価を貰い始め――
それから、一度でも家に帰ったことがあっただろうか。
一瞬のうちに、愛しさや寂しさが、幸福と後悔が、僕の胸で渦を巻く。
「ウォード」
頬に触れる温もりに己の手を重ねた。
気遣わしげに呼ぶ、その声にうなずく。
優しい指をそっとほどいて、再び画布に向かった。
「そうだな、描こう。描けばいいんだ」
フクロウは鳥篭を去った。
けれど、まだ画布の中にはその姿が残っている。
絵を一度見つめると、ためらいなくフクロウを塗りつぶし、再び描き始めた。
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