宝石の庭〈2〉


 サンルームのソファの上で、少女は身じろぎをする。

 ソファにいくつかクッションを並べ、そこに身を横たえていた。

 白い肌着の上に日の光が降り注ぐ。

 身体の上に窓枠の影が歪んだ線を走らせる。


 筆で画布をなぞる、そのほかには何の音もない。


 こちらが観察のために視線を投げると、ルクレイはそれを受け止めようと目を泳がせた。

 見られることを意識して落ち着きをなくしているようだ。

 何かで気を紛らわせないと、あれではすぐに疲れてしまう。


「ここには、ふたりだけで住んでいるの? きみと、お手伝いさんと」

「あ、……うん、そう」

「普通に喋っていいよ。緊張しているみたいだから。自由にお喋りして」

「喋っていいの?」


 ルクレイは意外そうに、でも安堵交じりに確認する。

 すぐにうなずいて答えた。


「いいよ。話したことは絵に描けないから、内緒話でも平気だ」

「内緒話は、ないけど……」

「それじゃあ鳥の話は? この森にはほかにどんな鳥が来る?」


 思いつきの話題選びは、果たして成功したようだ。

 少女は何から話したものかと思案を巡らせて、考えがまとまる前にもう口が動いている。


「いろいろ。たくさん。ほんとうにたくさんの鳥がやって来る」

「そう。ずっと、ここで飼うの?」

「ううん。外に出たがる鳥は放してあげるの」

「何か、印象に残っている鳥は? 好きな鳥とか、嫌いな鳥」


 ルクレイは唇を閉ざした。

 思いがけない質問に躊躇しているようだ。

 誰とも話題にしたことのない内緒の話の気配に、息を潜めて答えを待つ。


「ぼく……好きな鳥がいる。誰にも見せたくないって思う」

「うん。どんな鳥?」

「真っ黒な翼の鳥。身体にあちこち小さく模様が入っているの。白い点々……夜空の星みたいに。目はスグリの実にそっくり」


 スグリの実。ふいに胸の痛みを感じる。

 いまはもうない庭に思いが飛ぶ。


「ぼくは、その鳥をずっと自分のものにできたらって考える。でも、それは……きっと、いけないことだと思う」


 もしかして、何かのたとえ話だろうか。


 僕は推察を始める。

 彼女が話題にしているのは、実際には鳥ではなく、何か別のものかもしれない。

 ものごとのたとえ話に鳥を引き合いに出している。

 そう考えれば、なんとも普遍的な願望で、微笑ましくもあった。

 いたいけな独占欲を抱き、罪悪感に戸惑っているのだ。


「……大切な鳥なんだね」

「そう。大切なの」


 次第に少女は見られていることを忘れていく。

 物思いに沈む顔が、今までよりも大人びた姿に見せる。

 俯く頬に髪が流れて、それまで隠れていた耳が露わになる。

 光を透かす薄い耳殻。頼りない頬の線がのぞく。


 一瞬だけ窺えた少女の一面を画布へと描きとめていく。


 過ぎ行く瞬間をそこに縫いつけようと試みる。


「きみは、なぜこんな森の奥に?」

「ここで、待っているの。あなたのような人に出会うことを」

「僕のような? よく絵描きが鳥を追ってここへ迷い込む?」


 自嘲気味に問いかける。

 それを受けても、ルクレイは少しも態度を変えない。


「いいえ。絵描きに会うのは久しぶり」

「絵描きじゃないその人たちはなぜ森へ? きみに会いに来る?」

「彼らは鳥を連れてくる」


 また鳥の話だ。

 鳥は何を象徴するのだろう。

 つい深読みをしてしまう。


 鳥。飛ぶもの。

 浮かぶ。羽ばたく。

 自由なもの。


 唐突に、胸の奥から憧れが湧き出て身体が熱くなる。

 何に焦がれているのか判らぬまま絵を描き続ける。


「鳥を連れてくるか、迎えにくる。

 この森でぼくは鳥たちの番をしている。

 誰にも傷つけられないように。

 正しい巣箱へ、正しいときに帰れるように」


 ルクレイの瞳に静かな責任感がよぎった。

 まだ若い彼女のほうが、自分よりも確かな生き方を定めている。

 そう思えて、焦りが胸を焼いた。


「不思議な話だね。いつから鳥を飼うのが流行ったんだろう」


 動揺を押し隠すように少しだけ軽薄な口調になる。

 対するルクレイに、冗談めいたところは少しもない。


「みんな、自分の鳥を抱えているよ。ウォード、きみも」

「僕も?」


 唐突に腑に落ちた。

 自分が何に焦がれているのか。

 本来ともにあるべきはずの、いつしか失ってしまった鳥を求めている。

 身体の中に、からっぽの鳥篭がひとつある。





 画布の上で少女の姿が具体性を帯びるとともに、手ごたえが薄れて行った。

 同時に自分自身への落胆も強くなっていく。

 同じ絵だ、とはっきり感じた。

 大勢に求められ、飽きられたあの絵。

 退屈だと拒絶されたあの絵だ。


 同じ絵を描くつもりはないのに、結果的に印象が似通ってしまう。

 なぜだろうか。

 誰をモデルにしても、画材に何を選んでも、逃れられない。

 筆を画布から離し、絵の具でできた少女と見つめあう。


 ――この人は誰だろう。


 誰でもない。誰かであってほしいのに。

 いつからか、誰かにもう一度会うために、絵を描いていた。

 モデルの姿を借りながら、会いたい誰かを画布の上に再現しようとしていた。

 きっとその頃から、顧客の気に入る絵を描けなくなっていったのだ。


 本当に出会いたい相手は、一度も画布の上にその姿を現したことはない。

 いつも、惜しくも届かない。

 もどかしさだけが募っていく。

 誰をモデルにしたところで、見ているのはいつもたったひとりの女性だ。

 けれど肝心のその相手を思い出すことができない。


「描けたの?」


 純粋な好奇心をもった問いかけが怖かった。

 見られたくない。

 まだ何を言われる前から、少女の反応に怯えている。


「うまく描けなかったんだ。見せたくない」

「そんなの……」


 言い募るのをやめて、ルクレイは身を起こした。

 僕の怯えに気づいたようにそっと息をつく。


「わかった。ぼくは、その絵を見ない。……ぼくも、あの子に絵を見せなかった」


 小さく笑う。

 昨日の鳥のスケッチを思い出したのだろう。


「付き合わせたのに、ごめん。疲れてない?」

「大丈夫。楽しかった」


 少女は立ち上がって、凝り固まった身体を伸ばす。

 僕を見ても、絵に関心を持つそぶりはない。

 約束通りに振る舞うルクレイに感謝した。


 手早く画布から絵の具を削ぎ落とす。

 出来損ないの絵が、濁った色の塊になって消えていく。

 気づけばもう窓の外は暗い。

 昼食もとらずに筆を走らせていたようだ。

 子供は飽きっぽいものだと思っていたから、本当によく付き合ってくれたものだと少女の根気強さに驚いた。


「これでも人を描く仕事をしていたんだけどな」

「うん。女の人を描く仕事でしょう?」

「そう。だけど、たくさんの人の期待を裏切ってしまって、自信を失ったんだ」


 ルクレイは改めてソファに腰掛た。

 僕の手際を眺めている。


「人を描くのは苦手? 昨日の鳥の絵、ぼくはとても好きだ」


 問いかけにはっとする。昨日庭で鳥を描いたような感覚を、今は得られなかった。

 久しぶりに楽しいと感じたのは、ただの気まぐれだったのだろうか。

 それでも昨日は、あの瞬間は確かに充足感があったのだ。

 もしかしたら、人を描くことにこだわらなくてもいいのかもしれない。


「あのね、ウォード。見せたい部屋がある」


 打ち明け話をするように、少女は囁いた。


 ◇◇◇


 階段を上ってすぐ、淡い緑の扉があらわれる。

 少女はいつから持っていたのか、手の中の鍵で扉を開けると、部屋の中へ手招いた。


 予期しなかった光景につい声を上げてしまう。


「すごい」


 鳥篭が並んでいる。


 その数に圧倒された。


 広い部屋は鳥篭で埋め尽くされている。

 床に並ぶもの、柱に掛けられたもの、梁から下がるもの。

 そのすべてに鳥が棲んでいる。


 鳴き声は聞こえない。

 皆、息を潜めている。


 温かな気配だけを濃密に感じる。


「もし気に入る鳥がいたら、絵に描くといいよ」


 ルクレイの気負いのない勧めが嬉しかった。

 そのつもりでうなずいて鳥を眺めて歩く。


 見たことのある鳥も、まるで知らない鳥もいる。

 部屋の中に、同じ鳥は一羽もいないように思えた。


 すべてを絵に描けたらどんなにいいか。

 想像して胸が熱くなる。


 ふと、大きな鳥篭に目を引かれる。

 部屋の奥、壁際にその金の鳥篭はある。


 古びた金色は輝きを失って、それが鳥には心地よく感じられているような、不思議な調和を成している。


「フクロウだ」


 思わず呟いた。

 決して珍しい鳥ではないが、こんなに間近で見るのは初めてだ。

 しかし不思議と、そんな気がしなかった。

 ずっと以前から知っている。

 なぜそう思うのかは分からない。


「この子を描きたい」


 年を経て落ち着きを持った老人のように見えた。

 好奇心旺盛で無知な子供のようにも見えた。

 フクロウは篭の中から、真っ黒な瞳で僕を見つめ返している。

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