EP03:宝石の庭
宝石の庭〈1〉
少女がひとり。
こちらを見つめて、戸惑いを隠すように笑っている。
ソファの上に身を投げ出す、たったそれだけのなにげないことが難しい様子で、身体を強張らせていた。
「気楽にして。いつもと一緒だと思って」
「でも、いつもがどんな風だったか忘れちゃったよ」
「なにげないことって、だからこそ、再現が難しいんだ。分かるよ」
理解を示すと、束の間、少女が安堵して表情を和らげる。
僕は画布に視線を戻し、彼女のことを気にしていない風を装った。
もちろん実際にそんなことはなく、モデルの緊張を解すためのポーズにすぎない。
「僕のことは気にしないで。そうだ、何かお話をしてよ」
「お話? うん。ん……」
話題を探して少女の目が泳ぐ。
注意が逸れたこの隙に、再び彼女へ視線を向けた。
短い髪がクッションの上に広がっている。
薄手の肌着が陽を受けて、素肌の色がうっすらと透けていた。
その色の輪郭は衣類が描く線よりも細く頼りない。
肉づきの薄い手足が普段どおりの仕草を忘れ、糸の切れた人形のようにぎこちなく投げ出されている。
「そうだね、それじゃあ、ひとつ。前に、ここを訪れた人に聞いた話――」
少女が話に集中すると、彼女は見られている意識を次第に薄れさせていく。
いまが機だ。
僕は絵筆に絵の具を取って画布に色を置く。
色を、また色を。
彼女を見て、眺めて、思うままに絵筆を動かしていく。
森の匂いの色と、空の温度の色と、彼女が紡ぐ物語の色で、画布を埋めていく。
この森で出会った少女の名を、ルクレイといった。
1.
ここへ来たきっかは、鳥だ。
一羽の鳥を追いかけてきた。
軽い気持ちで画材を担ぎ、スケッチの対象を探しに出かけて、鳥を見つけたのだ。
とくに変わったところのない他愛ない鳥だ。
けれど、妙に気になってあとを追った。
どうせすぐに見失う。
見失ったら途端に執着も消えていくだろう。
それから引き返して次の対象を追えばいい。
そう思った僕をどこかへ案内するように、鳥はつかず離れずの絶妙な距離感のまま飛び続けた。
気づけば景色は町から森へ。
いつの間にか人気のない、木々に囲まれた場所へと迷い込んでいた。
それはまるで、現在から過去へ遡るような道のりだった。
生まれ育った家には広い庭があって、母がいつも精力的に手を加えていて、僕はその庭で過ごす時間が何よりも好きだったのだ。あの庭がなければ、僕が絵を描くこともなかっただろう。
もしかして、この森は、今はもう朽ちてしまったあの庭へ繋がっているのではないか。
奇妙な予感に突き動かされるまま、いつしか足は必死に鳥の行き先を追っている。
置いていかないで。見失わないように。
鳥よ、僕を導いてくれ。
切実な願いに応じるように、鳥はいつまでも僕の視界から消えることなく、森を進んだ。
次第に、そこには不思議な絆さえ感じられた。
鳥はやがて目的地に辿り着いたようだった。
木々の合間に覗く、屋根の煙突から煙が上っている。
鳥は屋敷の窓辺に止まった。
その来訪を予期していたかのように窓が開く。
顔を覗かせたのは淡い色彩の少女だ。
短い髪を風に弄ばれ、手のひらで押さえる。
もう片方の手を伸ばし、その指に鳥を迎えた。
とてもよく慣れ親しんだ様子だ。
ここがあの鳥の家だったのか。
少女は窓から森を一望し、ふと僕に気づいて目を細めた。
見つかった――そう思って胸が鼓動を打つ。
知らん振りして引き返そうかと訴える僕と、彼女に出会いたいと望む僕。
前者は後者の勢いに飲まれ、僕は屋敷へ歩みだした。
森と境目のない庭に少女が立っている。
ちょうど屋敷から出てきたばかりの様子で、背後では玄関の扉が開け放たれたままになっていた。
肌も髪も色が淡く、褪色した絵のような娘だ。
それでも膝小僧の血色のよさや、微笑む唇のふっくらした様子は、彼女の快活な一面を窺わせる。
ずっと追いかけてきた鳥は、今は少女の持つ鳥篭の中にいた。
ひと仕事を終えたふうに羽を休めて落ち着いている。
その大儀そうな姿につい微笑みが浮かんだ。
「きみの鳥?」
たずねると、少女は小さく首を横に振る。
「迷い鳥だ。ここで預かるの」
「僕、その鳥を追ってここへ来たんだ。……絵に描きたくて」
少女が改めて僕を見た。
その目に好奇心の色が灯る。
きらきらと、元気のいい眼差しが僕の姿から情報を得て、理解が広がっていく。
「それ、画布? その箱の中身は絵の具と絵筆だ。そうでしょ?」
「ご明察。もし迷惑じゃなければ、ここで描いても構わない? その子を」
「もちろん。歓迎するよ!」
快く受け入れて、少女は名を名乗った。
◇◇◇
晴れた空の下にイーゼルを立てる。
庭先に椅子を運んで、画布に向かった。
絵を描く様子が珍しいのか、少女は庭にもうひとつ椅子を運んできて、遠慮がちに距離を置いてこちらを眺めている。
鳥は篭を出ても空へ飛び立つ気配がない。
この屋敷こそが己の居場所だと弁えているみたいに庭木の枝に大人しく止まっていた。
絵を描くには好都合だ。
広げた画布に丸いかたちを、次第に詳細な陰影を描き、鳥の姿を写し取っていく。
なんて単調な作業だろう。
絵を描くたび、その思いが募っていた。
白い画布に、線を引く。
最初の一本を引く直前まで期待や興奮が膨らんでいるのに、画布の上に線が増えるたび、それまでの気持ちは次第に萎んでしまうのだ。
白が、くすんでいく。
どれだけ時間が経ったのか。
少女はまだ後ろから作業の様子を見つめている。
「……退屈じゃない?」
訊ねると、少女は首を横に振って、まっすぐに僕を見つめた。
「とんでもない。楽しいよ、ウォード。どうやってそんなふうに描けるの? とても不思議。驚くよ」
あんまりな感動ぶりを見せられて、卑屈な感情が消えていく。
人の気分なんて単純なものだと思う。
ルクレイの言葉が新鮮だった。
振り返った少女は目を輝かせて、鳥と画布を見比べていた。
ただのスケッチだ。
気兼ねなく気負いのない手遊びにそこまで言われるなんて。
「きみも描けばいい。ルクレイ、画材を貸すよ」
「いいの? ぼくにもできる?」
「もちろん。誰にでもできる」
その言葉に含まれる自嘲と自戒に少女が気づくはずもない。
誰にでもできる。
自身に言い聞かせた言葉にうなずいて、ルクレイは期待に瞳を輝かせた。
少女のために新しい画布を用意する。
ルクレイは立ち上がって、それまで座っていた椅子を抱えて僕の隣へと運んだ。
椅子が適度な距離を置いてふたつ並ぶ。
少女はイーゼルに向かい、おそるおそる画布の上に筆を走らせる。
「鳥をよく見て。見たまま描くんだ」
言葉にうなずいて少女はまっすぐ鳥を見る。
その小さな鳥は甘い緑色をしていて、目のまわりを白く縁取られている。
少女の筆致はひと筆ごとに緊張が乗っていてぎこちない。
彼女が画布に描き出したものは、果たして鳥と呼ぶにははばかられるが、色合いはそれとよく似ていた。明らかにつたない筆跡につい笑ってしまう。
途方に暮れたようにルクレイが僕を見上げた。
「だめだ。すごいよ、ウォード。ぼくはへたっぴだね」
ルクレイは恥ずかしそうに笑う。
一見平易に見えることも、実際には想像よりも上手くいかない。そう実感したようだ。
「いい絵だよ。鳥をよく見てる。うまく色を選んだね」
「モデルがいいんだよ。ごめん。かわいく描いてあげられなかった」
声をかけられて、それを理解したように鳥が首をかしげる。
羽ばたいてやってきた鳥を、ルクレイは手の甲を差し出して迎えた。
驚くほど人に慣れた鳥だ。
「だめだ、この絵はきみに見せられない」
鳥を画布から遠ざけて、ルクレイは笑う。
「でも、楽しかった」
なにげない呟きが、胸の中にいつまでも残る。
◇◇◇
日が暮れて、屋敷へ招き入れられて、そのまま泊まることになった。
少しだけ明日の予定が頭をかすめたが、他愛もないことだと考え直して、誘われるまま食事をともにした。
家族が居るのかと思ったが、屋敷には少女とメイドのふたりだけで暮らしているようだ。
建物の広さに対して寂しい人数だと思う。
寂しくないのだろうか。
深く訊ねることはできなかった。
いきなりそこまで踏み込むほど礼儀知らずではないつもりだし、仮に彼女が寂しそうな顔をしたら嫌だと思ったからだ。
「この絵、本当に貰っていいの?」
「うん。貰ってくれたら、僕が嬉しいんだ」
鳥の絵をプレゼントすると、ルクレイが本心から喜んだのがわかったから嬉しくなった。
こんな気持ちになることが、どれだけ久しいことかと気づく。
絵の中の鳥は、今はメイドが見つけてきた額の中に落ち着いていた。
「鳴き声が聞こえてきそう」
少女は飽かずに絵を眺めている。
こんなに気に入ってもらえたなら、描いた甲斐があった。
そう思う一方で、心のどこかで何か騙しているような居心地の悪さを感じているのはなぜだろう。
「実は、町じゃ、昔すこし流行った画家だったんだ」
「そうなんだ。そうだと思った」
自分が価値を見出したものが周囲にも認められている。
少女にはそれが誇らしいようで、ぱっと表情を輝かせた。
「だけどね、流行るとよくない。流行は必ず飽きられる。僕も同じだ。皆、散々僕を褒めた。同じ口で僕を貶した」
「どうして? ……なぜ、嫌われてしまったの」
納得がいかない顔をしている。
ころころ変わる表情が、少女の偽りない気持ちを表しているのだと分かって微笑ましい。
この子はきっと嘘をつくのも下手だろう。
「退屈だったらしい。僕にそのつもりがなくても、皆、言うんだ。何を描いても同じだ、って」
なにげなく口をついた言葉は相応に軽い響きを帯びてくれた。
だから、少し気が楽になる。
炉棚の上のそれを再び眺めて、少女は頬をほころばせた。
「こんな絵を何度も描けたら素敵なのに」
ルクレイの言葉は素直に響いた。
そう考えてくれるのか。
なんて単純な思いつきなのだろうか。
思いがけない言葉につい笑ってしまった。
こんなに穏やかに笑ったのも、一体いつ以来だろう。
「うん。それでよかったと思う。僕は欲張りだな……それでよかったのに」
話の続きに耳を傾ける気配に僕の舌はつい滑らかになった。
こんなこと、誰にも話したことがない。
話をしたって仕方がないと思っていたから。
元より話す相手なんて居なかった。
僕の周囲に居たのは、価値のある絵を描く僕を気に入る人間ばかりで、今では彼らとも疎遠になってしまった。
「生活をかけていた。それに、認められるのは嬉しかった。評価を失うのは恐ろしいことだった」
額の中の鳥を見る。
今日描いたばかりのはずが懐かしく感じられた。
少年の頃、こういう絵を描いたのだ。
誰にも求められず、手遊びのままに筆を動かした。
「昔は頼まれもしないのに絵を描いた。人に頼まれて描くのは心地よかった。いつからか頼まれないと描かなくなって、求めてほしくなった。僕はいつでも描いてよかったのに……。一銭にもならないのに筆を動かすのが億劫になった。気づいたときには、何もかもがおかしくなっていた」
一体いつから、順番を間違えたのだろう。
何が手に入れば、僕は満足だったのだろうか。
本当は誰に求めてほしかったのか。
「でも、今も、絵を描きたい?」
「不思議だな。今日までそう思わなかったのに。今はそういう気分だ」
明日の約束事がまた頭によぎる。
落ちぶれていく僕を最後まで見限らずにいてくれた、まだ若いパトロンと会食する予定だった。
気が向いたら来てほしいという軽い約束事だが、断りもなく欠席してしまうことになる。
きっと、もう二度と仕事が来ることはない。
今日は気持ちを確かめるために、久々に画材に触れ、絵を描こうと思って家を出てきたのだ。
もし、まだ僕の中に執着があるなら、パトロンに会って話を聞くつもりだった。
結果を言えば、絵は描けた。
でも、これを仕事として続けられるか、まだ分からない。
「鳥を描くの、好きなの?」
ルクレイは好奇心を必死に堪えた声で問う。
また絵を描くところが見られると予測して、喜びが抑えられないのだ。
「どうだったかな……昔は、よく描いていた気がする」
幼い頃の光景が甦る。
庭の広い家に住んでいて、母はよくスグリのジャムを作った。
赤く小さな、雫を固めたような木の実が庭で採れるから。
それを目当てに鳥がきた。
僕はその鳥をよく描いた。
「これまでずっと、人の絵を描いていた。女性が多かったよ。きみよりも大人の……、お金のある人が僕に依頼する。それで、たくさんの人を描いた」
「へぇ……」
感心するような呟きに、少女自身も自覚していないような憧れが混ざっている。
「そうだ。明日、きみを描いてもいい?」
「ぼくを? いいの?」
「お願いするよ。モデルになって。ずっとスランプが続いていて何も描けずにいたんだ。だから、うまくは描けないかもしれないけど」
「ううん、ううん! 楽しみだよ。明日、きっとだよ」
素直な反応に、僕まで強張りが解れていく。
安堵した自分に気づいて、まだ絵を描きたいのだと自覚できた。
そう思えたことに重ねて安堵した。
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