迷い子〈4〉

 柔らかな毛布に包まれて、息を殺して時を待っていた。

 今になってようやく雨音が止んだ森は、音という音を吸い込んでいるような、不穏な静けさを抱いている。


 先ほどまでは部屋の向こうに会話の気配があった。

 ルクレイとメルグスが何か短く言葉を交わしている。女性同士のお喋りとは思えない淡白さで、母と娘のそれともまた違う、穏やかで気の知れた空気をもっていた。

 壁越しに聞き取れるルクレイの声の響きに耳を傾けていると、うっかり眠ってしまいそうだった。

 けれどどうにか耐え切って、今ひっそりとベッドを抜け出す。


 足音の響くのを恐れて裸足のままで廊下を進んだ。


 少女の部屋を探す。

 客室の隣から順番にドアを開いてみるが、空っぽの部屋ばかりが続く。


 僕はひとりで鳥の部屋へ行きたかった。


 鳥たちを鳥篭から解放して、記憶を森から奪い返す必要がある。

 不当に奪われたものを皆が取り戻すべきだと思った。

 森の仕組みを知ってしまった以上、そうする義務があると感じた。


 だから、少女が眠っているうちに鍵を借りて、知られる前に事を済まなくてはならない。


 ルクレイは怒るだろうか。

 傷つくだろうか。

 きっと彼女は残念がるだろう。

 なにせ鳥たちに触れる少女の姿はとても朗らかで、嬉しそうだったから。


 リビングを覗き込む。

 期待を裏切って、火の絶えた暖炉と空っぽのソファが横たわっていた。


 また通路を進むと、その扉を見つけた。

 誰かがちょっと立ち寄ったふうに半開きになっている。


 それは、サンルームへ続く扉だった。


 もし怪しまれたら、眠れなくて散歩をしていたと言い訳をしよう。

 心に決めた行動をいま一度確認してサンルームへと踏み入った。


 すぐ、少女の足が見えて動悸が早まった。


 力なくソファにもたれている華奢な身体が視界に入る。

 どうやらここで過ごすうちに眠りに落ちたようだった。

 寝間着にブランケットを巻きつけ、あどけない顔をソファにこすりつけて眠っている。


 周囲にメルグスの姿はない。

 ふいに天井を見上げると、その思いがけない高さに浮遊感を抱いた。


 そこに、星の海がある。


 ルクレイもきっとこれを眺めていたに違いない。

 雨に洗われた窓ガラスはとてもよく透きとおって、頭上いっぱいに広がる星空を映していた。

 投げ出されたような心地で足元が揺らぐ。

 思いがけない光景に先刻見た鳥の姿が結びついた。

 この星空には及びもつかないけれど――星鴉を思い出した。


 あの鳥は一体どんな記憶を抱いているのだろう?


 自分には関係のないことだ。

 そう考え直し、意識して床を踏みしめる。


 音の響きやすい広い空間を、息を殺して、少女へと歩んでいく。

 健やかな呼吸のたびに上下する胸元を見た。

 寝間着のボタンの隙間から、昼間に見た色と同じリボンが覗いている。

 思ったとおり、眠るときにも鍵を手放さないのだ。


 ルクレイが身じろぎをした。


 驚いて呼吸を忘れた。心臓の音が部屋中に響いている気がしていっそう焦る。

 少女は都合よく寝返りを打ってくれて、夜の闇に白い喉元が浮かび上がった。


 強い後ろめたさに震える腕を、彼女の細い首筋に伸ばす。

 その首を飾るリボンを指先に引っ掛けて、そうっと引いた。


「ん……」


 薄く開いた唇の合間からほとんど無音の吐息が聞こえる。


 お願いだから、と僕は祈る。

 まだ、眠っていてくれ。

 今はまだ。あと少しだけ。


 するすると、かすかな音を立てて鍵が少女の肌の上を滑って僕の手元へと引き寄せられる。

 ようやく襟元から古びた鍵が姿を現す。

 リボンはルクレイの小さな頭の下をくぐって、とうとう僕の手の中へ収まった。


 安堵のあまり全身が脱力しそうな感覚におそわれる。

 だが、まだ終わりじゃない。

 鍵を強く握り締めて、鳥篭の部屋を目指した。




 解錠する際に「がちゃんっ」と響く金属音は、過敏な神経を脅かす最大の化け物で、それへの恐怖をねじ伏せてようやく部屋へ足を踏み入れた。


 ひとりで訪れた部屋は昼よりも一層の気配を感じる。

 生き物の。記憶たちの。

 鳥の息衝く気配だ。


 空気はしんと張り詰めている。

 僕は侵入者だ。

 彼らに歓迎されていないように感じて一歩も奥へ進めない。

 部屋の主ではない何者かが入室したことを鳥たちは理解しているのかもしれない。


 だが、僕は使命を思い出す。

 支配者から彼らを解放してやらなければ――。


 再び足を動かして部屋の奥へ歩んだ。

 鳥たちを放ちやすいように窓を開ける。

 湿った空気が部屋に流れ込んで僕の首筋を撫でた。

 身体が震えるのは、触れた風の冷たさのせいだと決めた。


 雨をたっぷり吸った重たげな森が見える。

 もう朝が近い。


 果てなく続いているかのような、黒々とした木々がどこまでも連なっている。

 町はどの方角にあるのか、今は見当もつかなかった。


 森に背を向け、部屋を見渡す。

 幸いにも鍵がかかっているのは部屋の扉だけで、中へ入ってしまえば鳥篭に施錠はされていない。


 すべての鳥を解放すれば、自然と僕の鳥にも出会えると思った。

 それでも何も思い出さなかったら、ルクレイの話はただの作り話だと諦めて、再び森へ探しに行けばいいだけだ。


「……外へ出たいか」


 誰へともなくたずねる。

 鳥たちは警戒したように静まり返っている。

 部屋中の鳥篭のどれを最初の仕事にしようか見回して、ふいに視線が吸い寄せられた。

 黒い身体を、星に似た白い模様が覆っている。

 拙い落書きのような星空に包まれた、小さな鳥――

 星鴉。


 鳥篭の森の合間を縫ってその鳥篭へたどり着く。


 とくに凝った意匠もない平凡な鳥篭は生成り色の塗装が剥げて鉄の骨組みが覗いている。

 格子の間から星鴉は僕をじっと見上げていた。


 出してくれ、と訴えているみたいだった。


 最初の仕事がこいつになるのか、となんとなくの不服を感じながらも鳥篭を抱え上げる。

 住み処が不安定に揺らされて、星鴉は翼をはためかせた。

 そうして黒い嘴を開いて鳴き声を上げる。

 意外にも、喉の奥で転がすような、くるくるした愛嬌のある声だった。


 急かされているように感じて、僕は窓辺に運ぶ前に金具を外して戸を開けた。

 格子に邪魔されずに見た鳥の姿はまだ幼鳥に見え、飛べるのだろうかと心配になる。

 鳥は僕の手首へ登ると、こちらを見上げて再び鳴いた。


 ◇◇◇


 ――理解した。

 この未熟な鳥が、僕の記憶だ。


「嘘だ」


 認めたくなかった。

 受け入れられるわけがない。


 こんな事実なら知りたくなかった。


 こうなると知っていて、彼女は躊躇っていたのだろうか。

 僕が鳥と出会うことを、阻もうとしたのだろうか。


 部屋に滑り込む空気は冷たく湿って、雨の名残と快晴の気配を運んだ。

 半開きの扉のほうで金属質な音がした。

 差しっ放しになっていた鍵を引き抜く音だ。


 そこに、少女がいる。


「ネイン」


 名前を呼ばれて、肩がぴくりと反応した。


 いつからこうしていたのだろう。

 窓の向こうでは森に朝が訪れている。

 歩み寄る少女の足が傍目に映る。

 まだ寝間着姿で、素足が寒々しい。


「思い出したの」


 問いかけにうなずく僕の腕は、空の鳥篭を抱えている。

 星鴉の姿は今はどこにもない。


「……思い出した。全部」


 ルクレイが力ない僕の腕から鳥篭を受け取った。

 だらりと腕が垂れて、座り込んだ足の内側に着地する。

 何もない手のひらを眺めて、顔をそれで覆った。


「何も忘れてなんかいない。それを忘れていた」


 少女はどんな顔で聞いているのだろう。

 鳥篭が軋む小さな音は、彼女がそれを抱きしめたせいだと分かった。


「失くしたものがあると信じていた。

 それを取り戻せば、僕はまともになれると思った。

 でも、違った」


 これからも変わらず、僕は付き合っていかなければならないのか。

 この不足感と、わけもない喪失感と。


 失ったものがあるに違いない。

 そう思えたから、立ち止まらずにいられたのに。

 事実は違った。

 これなら同じだ。


「暗い穴の中と何も変わらない」

「……星鴉。あの子、やっぱりきみの鳥だったね」


 ふいに視界に何かが映る。

 それは、少女の手のひらだった。

 鳥篭を片手に提げて、空いた腕をこちらへ差し伸べている。

 どうしていいのか分からずに、ただ僕はその手を見つめた。


「いいよ、ネイン。きみの鳥はぼくが預かっておく。それできみが前に進めるなら――足を止めてしまうよりは、いいよ」


 どういう意味か、分からない。

 この手を取ったら何が起きるのか。

 それでも今、すがるものがほしかった。


 転んだときに差し伸べてもらったこの手を、ただ受け取りたかった。


 だから、僕は小さな手を握り、それを支えに立ち上がる。

 ルクレイは再び立ち上がった僕を褒めるように微笑んだ。


 ◆◆◆


 瞼の上に降り注ぐ光が眩しくて寝返りを打った。

 柔らかなベッドに包まれると身体が重さを失ったように錯覚する。


 そっと目を開けた。


 窓からいっぱいに差す日が部屋を照らしている。

 暖められた空気が昨日とは明らかに違う匂いを持っている。

 降り続いた雨の気配は嘘のように消えていた。

 眠りの余韻を引きずって、苦労して身を起こす。


 ずいぶんよく眠っていた。

 こんなに長く眠り続けたのは、もしかしたら初めてかもしれない。


 まだ半分眠った頭はここがどこかを認識せず、ただ懐かしいような心地に安堵していた。

 まだ眠っていても叱られない。

 誰にも起こされることはない。

 誘惑は大きかったが、生憎、充分な睡眠を取った身体は活動に備えている。


 大きく伸びをする。

 身体中に日の光を浴びて目を閉じる。


 いい気分だった。

 久しぶりに、こんなに気持ちが安らかだ。

 そう感じる自分に、僕はなぜか少しだけ後ろめたさを抱いた。




「おはよう、ネイン。よく眠れたみたいだね」


 着替えを済ませて食堂へ行く途中で、ルクレイが通りかかった。

 洗濯物を抱え、庭へ運び出す道中らしい。

 雨の間に溜め込んだそれを侍女が庭で片づけ始めたばかりの様子だ。


「テーブルにパンがあるよ。もう少し待っていて、すぐに行って用意するから」

「お構いなく。……何か手伝えることは?」

「ありがとう! じゃあ、食事のあとで頼むね」


 山と抱えたリネンの脇から無邪気な笑顔を見せると、少女は庭へ去っていく。

 後姿を見送り、開け放たれた玄関からしばし庭を眺めた。


 洗濯桶を挑む眼差しで見つめるメルグスが腕まくりをする。

 彼女に何か命じられてルクレイが再び駆け出す。

 晴れた空の下に広がる森は若い緑が目立って、心地よい風に揺れている。

 朗らかな森の光景はとても重大な秘密を抱えているようには見えなかった。


 あの森のどこかに、きっと、僕の探し求めた記憶が隠れている。

 それがどんなかたちをしているのかわからない。

 そもそもかたちなどないのかもしれない。

 けれど、見つけ出して取り戻す必要がある。


 しかし目下のところ空腹を満たすのが先決だった。


 テーブルについてパンを食んでいると、ルクレイがやってきてお茶を淹れてくれた。

 少女は向かいの席に座って自分でもお茶を飲む。

 窺うような眼差しを向けて、僕へたずねた。


「森へ行くの?」

「――いや、一度、町へ帰るよ」


 雨の中で闇雲に捜し歩いて面倒をかけた、手ひどい失敗をした自覚はあった。

 このまま無理に続けてもいい成果は期待できそうにない。


「もう少し準備を整えてから、また来る」

「また来てくれるの?」


 少女は思いがけない勢いをもって問いかける。

 迷惑に思ったようではない。

 むしろ歓迎しているようだ。

 だから、僕は図々しくもこうたずねた。


「今度も手伝ってくれるかな」


 一瞬、迷う気配がある。

 それが何を意味しているかは分からない。

 少女は控え目にうなずいて、じきに頬を綻ばせて答えた。


「ぼくでよければ」


 その返答を頼もしく感じる。

 知らずのうちに僕も微笑んで、素直な気持ちで礼を述べた。


「ありがとう」


 ◆◆◆


 雨上がりのあとの大洗濯に巻き込まれた衣類が乾くと、客人は町へ帰っていった。

 鳥篭の部屋は久しぶりの日差しを迎えて温かな匂いに満ちている。


 ルクレイは窓枠に腰掛けて森を眺めた。

 客人が帰っていった方向を眩しそうに見つめる。


 抱えた鳥篭は何の変哲もない素っ気ないつくりで、格子の白い塗装が剥げて鉄の色が覗いている。


 その向こうには鳥が一羽。


 黒い羽に白い斑点を散らした星の翼を持つ鴉が大人しく座り込んで、ルクレイを見上げていた。


 少女も視線に気づいて鳥を見下ろす。

 両者の視線が重なる。

 ルクレイの眼差しに様々な感情がよぎって、いま、その中でも最も大きな思いが顔に表れた。


 こらえきれずに少女は笑う。


「また来る、って」


 確かな日取りは取り決めなかった。

 本当に実行されるかもわからない。

 それなのに、なにげない再会の約束が嬉しかった。


 鳥がくるくると喉を鳴らす。

 人懐っこく愛嬌のある鳴き声だ。


 ルクレイはそれを聞きながら、再びの来訪を思い描いて、森を眺めた。

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