迷い子〈3〉
分厚いマグカップに注がれたスープが少しずつ陶器に熱を伝えて指先を温める。
じんわりと指先がしびれたような感覚があった。
それがどこか心地よくて、しばらくカップに触れていた。
僕のあとに入浴を済ませたルクレイがまだ髪も乾かさずに居間へやってきて、客人の様子を確かめると安心したようにうなずいた。
「美味しい?」
「うん」
この屋敷ではじめて食事をしたような心地だった。
「――美味しい」
今朝の朝食だって、もっと味わって食べればよかったと今になって悔やむ。
「よかった」
ルクレイは破顔すると椅子に座った。
「なんだか懐かしい。不思議だな、こんなこと初めてなのに」
素直な感慨を呟く。
雨に降られて家に帰るとスープが用意されていて、着替えたあとでゆっくり味わう。
身体は芯から温まって、このまま眠ってしまいたいような安らかな心地になる。
幼い頃にそんな経験をしたような錯覚を抱いた。
ルクレイが僕を眺めて微笑んでいる。
彼女とも、昨日初めて会ったようには思えなかった。
いつか、どこかで、出会い、別れ、こうして再会した――そんな気がして不思議だった。
「ネインのお母さんはスープを作ってくれた?」
メルグスが運んできたカップを受け取って、なにげなくたずねる。
僕の手から空のカップを預かって侍女はおかわりを提案したが、それを断ってコーヒーを頼んだ。
「今は、母は食事を作る。でも、昔は何も作らなかった。
僕が幼い頃、母は病気で、そのせいで僕は家族に構われずにいた」
子供の頃に感じた強い疎外感を、それこそ忘れたい記憶だったのに、鮮明に思い出せる。
多分――それは思い出ではなく、今この瞬間に至るまで、常に途切れることなく僕に寄り添っている感覚だった。
「さっき穴の中で懐かしくなった。
子供のころにかくれんぼをした。探してほしかったんだ。
みんなに慌ててほしかった。
ネインが居ないぞ、あの子はどこに行ったんだ、って。
――根負けするのはいつも僕のほうだ」
情けない打ち明け話が抵抗なく声になる。
ずっとこうして誰かに話したかったのかもしれない。
「誰も気にしてはくれなかった。僕がいても、いなくても」
森ではほかに誰の聞く耳もなく、ここでの会話は夢の出来事のように霧散して、明日にはなかったことになる。だから弱音を吐いても構わない。
そう思えて、口が滑らかになった。
「おかげで母は普通になって、今になって取り返そうとしているのか、よき母らしいことは全部する。家族で家の仕事を分かち合って、美味しい食事をはりきって用意して、誰かの誕生日にはケーキを焼く。彼女、プレゼントの箱を隠すのが下手で、みんなで気づかないふりをするのがひと苦労だ」
想像をしたのかルクレイが微笑を浮かべて、僕もつられて頬をゆるめた。
同時に、胸を冷たい何かが圧迫して、息が苦しくなる。
「彼女は悪くない。それは理解できる。
でも、まだ僕の中に生きている子供の僕が、どうしてとたずねる。
どうして、あのとき、そうしてくれなかったのか――」
僕にはよく思い出せない。
僕は一度だって探してもらったことがあっただろうか。
「転んだときに、すぐ抱き起こしてほしかった。
でも誰も抱き起こしてくれないから、僕はひとりで立ち上がった。
誰の手も借りられなかったから。
ひとりで立てたなら、じゃあ手助けはいらないと思うかもしれない。
でもそうじゃないんだ。
結果としてそうなっただけで、僕はあのとき手を借りたかった。
今じゃない、あのときに」
もしかしたら誰かが、ひょっとしたら母が、探してくれたのかもしれない。
転んだときにも抱き起こしてくれたことが、一度くらいはあったのかもしれない。
その記憶を失って、今こうして頼りない気持ちが膨らんでいる。
そうだとしたら、やはり記憶を取り戻さなくては。
再び焦燥感が滲み出て、身体中を熱くした。
降り止まぬ雨が恨めしかった。
早く、探しに行きたいのに。
「ネイン。ここには、きみのように記憶を失くしたひとが、時折訪れる」
ずっと耳を傾けていたルクレイが口を開いた。
「彼らはそうとは気づかないけれど、多くの場合、鳥と一緒にやって来る」
「鳥?」
心当たりのない話だった。
森へ入って鳥を見た覚えもない。
今までの暮らしで鳥を育て飼ったこともない。
「来て。きみの鳥に会えるかも」
ルクレイは席を立つと、僕の返事も聞かずに歩み出した。
途中でタオルをメルグスに取り上げられて、代わりに差し出されたニットを羽織る。
それから二階へ上る階段でようやく少女に追いついて、同じものを見上げた。
緑色の扉だ。
鍵穴から気配が漏れ出している。
何かが棲んでいる。
きっと、それが鳥なのだろう。
「待っていて、今……」
そう囁いて、少女は鍵を開けた。
扉を押し開くと、静かで湿った空気が漏れ出して、雨音が近くなる。
そうして僕は見た。
――部屋中に、見渡す限りに鳥篭がある。
吊るされ、置かれ、並び、連なって、大きさも意匠も様々な鳥篭が、それぞれに鳥を抱えている。
「ああ――」
唐突に理解が訪れた。
これはきっと記憶にかたちを与えた姿だ。
鳥の姿をした記憶が鳥篭の中に閉じ込められている。
「全部、誰かの……こんなにたくさんの、記憶を。ここに捕らえているのか」
「ここで、鳥たちは羽を休めている。
彼らは篭を出たいときは鳴いて合図をするよ。
それまでの仮の宿だ」
ルクレイは慣れた様子で部屋に入って、近くの鳥篭を覗き込んだ。
梁から下がるその鳥篭はルクレイの丁度顔のあたりに鳥が覗いて、鳥は警戒する様子もなく羽ばたいて少女に寄り添った。
指先を篭に差し込んで鳥の胸の辺りを撫でる。
気の置けない態度が僕には信じがたくて、扉の手前でずっと立ち尽くしていた。
「森の外から来た人はここへ記憶を預けていく。
鳥を迎えにくる人もいれば、鳥が帰るのを遠くで待つ人もいる。
きみはきっと鳥を迎えにきたんだね。
もっと早く教えてあげればよかった」
その言葉をどこまで受け入れるべきか分からない。
本当にここで記憶を取り戻せたら、信じていいのだろう。
迷いながらも一歩部屋へと踏み出した。
部屋中の鳥が一斉に僕を見た気がしたが錯覚で、彼らは篭の中で思い思いに過ごしている。
ルクレイは部屋の奥へと歩んで振り返る。
僕を誘うように。
それからまた手近な篭の中を親しげに覗きこんで、柔らかな微笑を浮かべる。
僕も傍らの鳥篭を覗いた。
白い文鳥がこちらをじっと見つめ返した。
視線を外した先にも鳥篭があって、そこには見慣れない鳥が眠っていた。
黒い羽毛に、白い斑点。
見ようによってはみすぼらしい毛並みで、まだらな模様が余計にそう感じさせた。
心のどこかでこの鳥をもっと見ていたい気持ちが湧いて、同時に、もっと綺麗な鳥を見つけたくなった。
あまり執着すると、間違っていてもそれが自分の鳥になってしまうような気がした。
「その子、星鴉だ」
「星鴉?」
「黒い身体に白い斑点。羽の模様が夜の星みたいだから」
改めて鳥篭を覗きこむ。
確かに言われたとおりだが、星なんて名前は大仰に感じた。
小さくうずくまっている鳥は噂されているのも知らんぷりで眠っている。
「その子かな、きみの鳥」
「わからない」
観察をやめて顔を上げると、まだたくさんの鳥篭が眼前に並んでいた。
「……こんなにたくさんの人が、皆、記憶を奪われたのか」
「奪わないよ。みんな、忘れたい記憶だけ置いていく。自分を苦しめる記憶を一度手放すんだ。嫌な思い出、辛い経験、向き合えない過去……それから、幸せな思い出、快い経験、喜びに満ちた過去を」
思いがけない言葉に少女を振り返る。
彼女の横顔は鳥篭を眺めていて、鳥たちの挙動をただ見守っていた。
「――幸せな思い出を、なぜ?」
「なぜだろうね。どうして、手放したりするのかな。どうして、それが、その人を苦しめるのかな。ぼくには不思議だ」
信じられない思いで閉口する。
にわかに反感の気持ちを抱いた。
彼らは苦しむから幸せな記憶を手放したのか?
違うだろう。
わざわざ幸福な思い出を捨てたい人間なんているものか。
この森が奪ったのだ――
きっと、僕の記憶もそうやって奪われた。
もしかしたらルクレイはそうと気づいていないだけで、森の悪行の片棒を担がされているのかもしれない。それが人のためになるからと、幸せな記憶を人から奪って、森へ捧げている。
「ネイン。どう、きみの鳥に会えそう?」
「どうかな。わからない。少し休んだら、またここへ来ようと思う。鍵を借りても?」
「そのときはぼくを呼んで。一緒に来るよ。夜遅くても、朝早くでも構わないから声をかけて」
「わかった。そうする」
意図を悟られただろうか。
僕はひそかに少女の様子を窺う。
こちらを警戒しているようには感じられない。
無邪気に鳥と戯れている。
その首から下がるリボンの先に小さく古ぼけた鍵が、少女が動くたびに弾んでいた。
◆◆◆
夕食までの時間を過ごす場所としてサンルームを提案された。
ルクレイの案内に従ってそこへ足を踏み入れる。
ガラスでできた建物は、今は雨の音が響いて閉塞感がある。
不思議と心地よくて、ルクレイに賛成した。
ガラス窓を雨水が滴って、風景を曖昧に遠ざけている。
それを眺めて、会話はないのに焦りも感じなかった。
いつも、誰か知り合いと時間を過ごすときは沈黙を恐れて絶えず会話を繋いでいたのに。
会話が弾まないことで相手に悪い印象を与えるのが怖いのだ。でも今は気にならない。
「雨、止むといいね」
ルクレイが囁いた。
それも沈黙を恐れた言葉ではない。
思いついた瞬間に思いついた言葉を素直に声にした調子だ。
明日の天気について、僕はどっちつかずな気持ちだったから、言葉を返さなかった。ルクレイはその沈黙に気分を害することもなくソファの上で気楽にしている。
「ここへは、よく人が訪れる?」
「時々だよ。続けて毎日人が来るときもあれば、長いこと誰も来ない時期もある。最近は、退屈しないくらいには人に会っているかな」
「彼らは、どうなる? 記憶を忘れて――あるいは、取り戻して」
「その人がするように。新しい生活を始めるか、そうじゃなければ今までの暮らしに戻っていく。もう一度ここへ来る人は、ほとんどいない」
ルクレイの表情がふいに翳ったように見えた。
ふたり暮らしには広すぎる屋敷。町を隔てる深い森。
この年頃の少女が過ごす環境としては、あまりに物寂しいと気づく。
家族や知人についてたずねる勇気がついに湧かず、僕はただおぼろげな想像をめぐらせる。
「心細くはならない?」
「ここでの暮らしが? とんでもないよ」
ルクレイは笑った。
その顔に無理は見てとれなかった。
「見たでしょ、たくさんの鳥たち。それにメルグスもいる。彼女はとても頼もしいんだ。きみも知ってのとおりだよ」
「それは――確かに」
先ほどの救出劇を思い返して気恥ずかしさを覚える。
ルクレイがなんてことないように笑っているから、少しだけ救われた気持ちだ。
「きみは? 思い出したら、どうするの――?」
また来てくれる?
――そう問いを続けたかったのかもしれない。
ルクレイは中途半端に開いた口を閉ざす。
物分りのいい諦めの気配を感じて胸が痛くなる。
それは、わからない感情ではないから。
安請け合いの返事で済むものではないことも、よく知っていた。
「今までの暮らしを続けるだけだ。何も変わらないよ。ただ、そうなることを納得するためにも僕は知っておきたい」
「失くした記憶について?」
うなずく僕へ、少女は話を続ける。
「手放したくなかったはずなんだ。何かの手違いでこうなった」
沈黙の間に、しばし雨音が響く。
ルクレイは窓越しに歪んだ森を眺めていた。
「同じことを言って思い出を手放す人がいた。何かの間違いでこうなったって。その人の鳥はやがてここから出ていった。きっと思い出す準備が整ったんだね」
ルクレイの横顔はまだ森を見ている。
心配事に捕らわれた表情が浮かんでいた。
「受け入れるために時間が必要なのかもしれない。鳥を迎える準備が済んで、はじめてそれを自分のものだと認められる。そうしてやっとひとつになって、鳥と生きていく」
ふいにサンルームのドアが開いた。
通路からメルグスがワゴンを押してやってくる。ティーセットが載ったワゴンが移動すると、滑車のまわる音が鈍く響く。ルクレイは彼女を手伝うために立ち上がって、去り際、僕へこう告げた。
「重たい荷物なら、一度、床に置いちゃえばいいんだ」
「そのとおりだ。重たい荷物なら、そうすればいいよ。でも、貴重品の入った鞄は肌身離さず持っておかないと」
僕は納得のいかない思いで言葉を返す。
ルクレイは困ったように笑って、メルグスの給仕を手助けした。
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