迷い子〈2〉

 翌朝、雨は止まなかった。


 行く手を阻む意図を感じ、余計に森を憎らしく思う。

 ろくに眠れなかったのに眠気はもう消えている。

 それよりも、逸る気持ちが僕を動かしていた。


 昨晩彼女も遅かったはずなのに、とっくに起きていた様子でルクレイは食卓でお茶を飲んでいる。遅れてやって来た僕を出迎えて、何か言いたげに視線を寄越した。


「森へ行くの?」


 と、ようやくそうたずねる。

 どうやら心配してくれているらしい。


「昨日よりも雨脚が弱い。行くなら今のうちがいい」

「ぼくも一緒に行く」

「この雨の中を? 楽しいことは何もないよ」

「雨だから。ひとりじゃ危ないよ。少しなら森の中を案内できる。

 きみが道に迷っても、ぼくが一緒ならここまで戻れるよ」


 探索を邪魔される懸念もあったが、ルクレイの申し出はもっともだ。

 承諾すると、ルクレイは使用人に言いつけてふたり分の雨具を用意してくれた。


 食後の休憩もそこそこにレインコートとブーツをまとって、雨降る森へ出かけていく。

 僕は借り物のランタンを掲げて、先頭を歩いた。

 背中に、雨に紛れて声が聞こえる。


「……ねえ、やっぱり、雨が止むまで待てない?」

「待つつもりはない。きみも、飽きたら帰って構わない」


 どうせ子供の気まぐれだろうと思っていた。

 しかし、ルクレイは根気強く僕のあとをついてくる。

 道の悪さに文句を言い出すこともなく、歩き疲れたと愚図ることもない。

 僕が何も喋らなくても、ただ黙々と、見守るように後ろを歩いている。

 その危なげない足取りは、確かに彼女が森に慣れているのだと窺わせた。


「ここでの暮らしは長いのか」

「うん。もうずっとここで暮らしているよ」

「ずっと。何年くらいになる?」

「さあ……忘れちゃったな。あんまり気にしてなかったから」


 変な話だ。

 だけど、少し羨ましい。

 時の経過に急かされることなく、誰に都合にも煩わされずに、思うままの暮らしをする。

 自由だ。でも、到底真似できるようには思えない。

 普通は、そんな生活は長くは続かないだろう。

 生きていれば必ず何かに縛られるからだ。


 彼女を縛るものは何もないように見える。

 それとも、彼女も何かに縛られてここにいるのか。

 あるいは。


「きみの探している記憶について、聞いてもいい?」


 ルクレイは思い切ったように問いかけた。

 今までずっと言い出す機会を待っていたのだろう。

 雨音に紛れて消えないようにと、屋敷での会話よりもずっと大きな声を出す。


「どんな記憶を探しているの――?」

「分からない」


 立ち止まって振り返る。

 答えを待って、ルクレイはこちらを見上げていた。

 レインコートを着ていても少女の前髪や頬が雨に濡れている。

 まつ毛の先に滴る雫に、朝露をつけた若草を連想する。


「どんな記憶か分からない。当然だ。

 奪われて、僕はその記憶を忘れてしまった。

 だけどそのせいでこんなにももどかしい。

 足りないんだ。それだけは分かる」

「きみの不足を補うものなんだね」


 理解を示して少女が確かめる。

 僕はうなずいて答えた。


「あてのない探し物だよ。無理に付き合う必要はない」

「ううん。一緒に行く」

「わかった。好きにするといい」


 再び前を向いて足を踏み出す。

 雨の音に紛れて、背後に足音を聞く。

 少女の聞き分けのよさや根気強さを不自然に感じた。


 昨晩の暖炉にあたっていた姿を思い返す。

 どこかこの世のものではないような、澄んだ横顔があかい灯に照らされていた。


 もしかしたら少女は生きている人間ではないのかもしれない、と不吉な想像がよぎる。

 だから平気な顔で暮らしているのだ。

 人から記憶を奪う森で、普通の人間が生活できるとは思えない。


 森の幽霊だ。


 人の記憶を、この少女こそが奪っている。


 急に憎悪が膨らんで、背後について歩く少女を遠ざけたくなった。


 そもそも、なぜ僕について来た?

 心配だから?

 ――本当にそれだけか。

 もしかして、見張っているんじゃないだろうか。

 僕が、それを取り戻さないように。

 あるいはさらに失うように。


 これ以上奪われてたまるか。

 焦り、少女の歩幅をかえりみることなく足を進める。

 背中に聞こえる足音が駆け足になっていく。

 そうと分かりながら、いまさら速度を緩めることができない。


「ネイン、待って」


 雨に紛れて声が届いた。


 気づくと少女との距離は開いていて、ランタンをかざした木々の向こうに小さく姿が見える。

 その姿は今にも靄に紛れて見失ってしまいそうなほど頼りない。

 大人気ない行動を自覚しながら、それでも受け入れがたかった。

 少女に触れられたら、何か大事なものを奪われる。そんな予感が胸の鼓動を早めた。


「そっちは危ないよ。今日は行かないほうがいい」


 立ち尽くす僕と少しずつ距離を縮めながら、彼女は忠告する。

 言われてはじめて周囲の光景に気づいた。


 濃く立ち込める霧の向こうにあるのは、当たり前に木々だった。

 さらにその向こうに、また木が――仰ぎ見ても先の見えない、天を突くような巨大な木が、立ちふさがっていた。


「足場が悪いから、晴れている日でも注意しないと転んじゃうんだ。今は暗いし、道も滑りやすいから、行くなら日を改めよう」


 ようやく追いついて、少し上がった息を整えて少女もまた巨樹を見上げた。

 仰ぐ顔に雨水が当たる。

 再び巨樹を見上げて、その存在感に圧倒された。

 誘われているような気がした。


 そこに、何かがある。

 もしかしたら、求めているものが。


 この巨大な木は、人の記憶を集めてこれほどまでに肥大化したのかもしれない。

 少女が人々をここまで導いて樹に栄養を与えているのだ。


 人の記憶を養分にして、樹が、森が、育つ。


 止め処ない想像力にかきたてられるまま、樹へ駆け寄った。


「ネイン! だめだよっ」


 どこに隠しているのかも分からない。

 けれど、この樹を探し回ればきっと取り戻せる。

 そのかたちも分からないのに、失くした記憶を求めて樹皮に触れた。

 分厚い石版のようなそれは今は水を吸って冷たい。

 間近で見る樹はますます途方もない巨大さで、ゆるぎない存在感をもって立ちはだかっていた。


「返してくれ。僕の記憶を」


 手をかけると樹皮の脆い部分がはがれ落ちた。

 樹を上るのは困難だ。

 掴めば滑るか、でなければ崩れ落ちる樹肌は、そうすることで侵略者を阻もうとしているようだった。

 いつの間にか手はランタンを捨てていて、振り返ると道の途中でルクレイがそれを拾いあげた。

 そうして、明かりの消えたランタンを掲げて僕を見上げる。

 無駄なあがきを見物して冷笑しているのではないか。

 己の想像に腹を立てて少女に背を向ける。


 諦めたくはなかった。

 絶対に、取り戻したかった。


「ネイン。戻っておいでよ。危ないから」

「だけど、きっと、ここにある。僕は、取り戻さなくちゃならないんだ」

「どうして? それなら、なぜ忘れてしまったの?」

「僕のせいじゃない。忘れたのは、奪われたからだ。この樹が奪った。あるいは、きみが。そうじゃないのか?」

「ぼくに、できると思う?」


 答えは雨の中で不思議と明瞭に聞こえた。

 それならばこの樹が記憶を奪うのか。

 問いを重ねたかったが、答えは得られないと悟って口を閉ざした。

 納得がいかない心地で黙り込む。


「ねえ、今日はもう止めにして帰ろう。このままじゃ風邪を引いてしまう」


 ルクレイの声は何か不都合なものを隠すようには聞こえなかった。

 心底から案じる調子に、僕は樹から手を離す。

 冷静になると、己の幼稚な行動に羞恥を覚えて少女の顔を見られなかった。

 上ってきた根を降り、去り際に振り返る樹は見れば見るほどに巨大だった。

 半ば目を奪われたまま足を踏み出し、ふいにルクレイが叫ぶのを聞いた。


 危ないという忠告だった。


 もしかしたら、僕自身も何か叫んだのかもしれなかった。


     ◆


 一瞬の浮遊感の直後、幕を下ろしたみたいに視界が真っ黒に塗りつぶされた。

 何かに引きずられるように、身体が地面の上を滑っている。

 そうと理解する前に感じたのは、ただ衝撃と痛みだけだ。


「痛っ……」


 目が見えなくなったと思った。

 それは間違いで、暗い穴に落ちたようだ。

 巨大な樹の根が複雑に絡まりながら地中に潜る、その隙間に落とし穴のような空隙が生まれている。


 頭を上げると僅かな光が見えた。


 自分が滑り落ちて土を削った跡が照らされている。

 ただでさえ天候が悪く暗い中で、穴に差す光は心許ない。

 それを遮ったのはルクレイの小さな頭だった。


「だいじょうぶ?」


 地面に腹這いになって、頬を土で汚すのも構わず少女が穴を覗き込む。

 僕は自分の状況を確かめた。

 身体のあちこちに痛みはあるが、あとを引くようなものではない。

 手足も不自由なく動く。

 口の中は土の味がした。

 袖で舌を拭いたかったが、もっとひどいことになりそうだ。


 結論としては無事だった。


「服をひどく汚した。申し訳ない」

「そんなの、ネインが無事ならどうでもいいよ。上って来られる?」


 ルクレイが白い手を差し伸べる。

 反射的に手を伸ばしかけて、ふと躊躇って引き戻す。

 触れたらまた記憶を奪われる。

 その思いつきは、しかし今は先刻ほどの真実味を帯びてはいない。


 腕をいっぱいに伸ばすと僅かに指先が触れた。

 何かを奪われたようには感じなかった。


「届かない? がんばって」


 這い登ろうと踏ん張ると足場を崩す結果に終わる。

 ルクレイもますます身を地に押しつけて細い腕を伸ばしたが、それでもやっと手のひらを重ねる程度だ。

 ルクレイは僕の指をとらえて指先を絡めた。

 雨に冷え切った指だった。

 しかし次第に熱が通う、生きた人間の指だった。

 どうやら幽霊ではないようだ。


「ルクレイ。いいよ、自分で登る。地面に寝たままだと汚れるし冷えるから。どこかで雨をしのいで待っていて」

「屋敷に戻って、メルグスを呼んでくる」


 繋がる指がするりとほどけて、熱が冷めていく。

 少女の気配が遠ざかって雨音だけが耳に届いた。

 それは次第に勢いを増して僕の耳を塞いでしまう。


 暗闇にひとりで残される。

 覚えのある経験だった。


 濡れた地面に腰を下ろして土壁に背を預ける。

 ひんやりとした土に体温が奪われていくようで、歩き疲れた身体に少し心地がよかった。


 視界には何も映らない。

 濃い土と雨の匂い、高い湿度に息が詰まりそうだ。

 次第に雨に紛れて自分の鼓動の音を聞いた。

 そのほかに聞こえるものは何もない。


 今の今までひとりきりだったようにも思う。

 さっきまで触れていた温もりが嘘みたいに指先は冷え切っていた。


 ここまでひとりで来たのではないか。

 そう思い当たった途端に、ルクレイの存在を希薄に感じた。


 再び会えるのだろうか。

 このまま、自分は一生穴の中から出られないのではないか。


 冷たく湿った穴から這い出ることもできず、ここで命が潰える。

 そうなっても、きっと傍から見れば何も変わらない。

 僕の消滅は、誰の人生にも影響しないだろう。


 ここは、今までいた場所にとてもよく似ていた。

 冷たくて窮屈で、光も遠く、誰もいない。

 誰の声も届かず、誰にも声が届かない。

 そういう場所から来た。


 それでも今まで生きてきたのは、欠けた記憶に縋っていたからだ。

 それさえ取り戻せば、すべての我慢が報われる。

 そうして初めて、本当の自分自身になれる気がした。


 だから、この穴から出なくてはいけない。

 確かめる前に諦めるのは嫌だった。


 もしかしたら、その記憶は大したことのない経験にすぎないのかもしれない。

 蓋を開けてみて『なんだ』と思うようなことかもしれない。

 それでも構わない。

 この欠けた身を補うのなら、どんなものでもよかった。


 立ち上がって、頼りなく霞む光を見上げた。

 もう少しだけ試してみようと思った。


 爪に泥が入るのも構わず土壁を掴んで登る。

 何度滑り、再び底に転がり落ちても、立ち上がって手を伸ばした。

 レインコートは用を成さず、身体中が泥に塗れる。

 髪の中から滴り落ちるのは土と混ざって濁った雨水だった。

 目を瞬いて涙で汚れを流す。

 いま一度見上げた光に手を伸ばす。


 それを、誰かの手が掴んだ。




 思わぬ力で引きずり出され、慌てて地面を掴む。

 コートや手袋で隙なく対策をしたメルグスが事も無げな顔をして立っていた。

 汚れた手を軽く払い、土を落とした手にランタンを受け取る。


 傍らで、ランタンを差し出したルクレイが心配そうにこちらを窺った。


「遅くなってごめん」


 差し出されたタオルで顔を拭うと、泥に紛れて少し血が滲んでいた。

 それもすぐにまた泥に紛れてしまう。


「面倒をかけた。すまない」

「ううん。ぼくも引き止めたらよかった。もっと、はじめに説明するべきだった。ごめんね」

「きみが謝ることじゃない。僕が耳を傾けなかった。でも、もう頭が冷えたよ。無理はしない」

「うん。帰ろう、ネイン」


 泥を拭った手をとって、ルクレイが歩み出す。

 気遣うような足取りでゆっくりと前へ進む。

 繋いだ手は冷え切った僕の身体に熱を伝えて、その温もりに導かれて歩んだ。

 先を行くメルグスは雨など降っていないかのような足運びで、ふたりの進む道を照らしている。


 やがて辿り着いた屋敷には明かりが灯っていて、僕はそれを眩しく思った。


 こうして帰り着く場所に、とても憧れた。

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