EP02:迷い子
迷い子〈1〉
雨が降り出した。
霧のような小雨はただでさえ悪い視界をさらに遮って、頼れる道しるべは何もない。
もっとも、確かな道を選ばずに来た。
ただ曖昧な予感を抱いて歩いていく。
雨を含んだ土が足元を濡らし、靴を泥で覆った。
次第に服が重くなる。
髪を伝う雫が目に入って涙のように頬を流れた。
それを拭う袖もまたすでに濡れている。
滲む視界を見渡した。
何か、兆しがほしかった。
望むものの在り処を示す目印が。
今は何も、特別に気を引くようなものはない。
――落胆するのはまだ早い。
この広い森を探しつくすまで、一体どれだけかかるだろう。
今日が最初の一日だ。
まさか一日目で見つかるほど容易い探し物だとは思っていない。
ここは記憶を奪う森。
この森で人はひとつ何かを忘れる。
だから、僕は探しに来た。
――失くしたものを。
目前に滲んで広がるのは、霧のベールに包まれた、果てしなく広がる木々の群れ。
求めるものがどこにあるのかまったく見当がつかない。
それでも構わず前へ進んだ。
腹の底に燻る憤りだけに突き動かされて、奥へ歩んだ。
1.
景色の変化を、何かの合図のように感じた。
木々が開けて屋敷が現れた。
唐突な出現に、夢でも見ているような心地になる。
屋敷は世界から忘れ去られたように建ち、今は雨に濡れて鈍い色をしていた。
色あせた風景の中、庭先に点在する花だけが鮮やかだ。
ほのかに灯る窓の明かりが人の気配を感じさせた。
ふいに視界に光が増えて揺れる。
誰かがランタンを手に玄関から外を眺めていた。
何かを探すような様子だ。
僕は咄嗟に姿を隠した。
しかし、その動きがきっかけになったようだ。
「そこにいたら濡れてしまう。来て。着替えを貸してあげる」
子供の声が無防備に響く。
警戒心はなく、それどころか見ず知らずの他人を心配する声だった。
探し物をするにはこの天候は不都合だ。
着替えもあるならありがたい。
何を対価に求められるかは分からないが、ひとまず交渉をしよう。
そう判断し、木々の間から出て屋敷へと歩んだ。
離れた場所からではランタンの光がまぶしくて、その姿は近づくにつれ明瞭になる。
十代半ばくらいだろうか。
血色のよい頬や唇が健康そうで、まだどんな悪意にもさらされた経験がないようなまっすぐな目をして僕を見上げる。
瞳に映るランタンの灯が、あかく揺れている。
「これを使って」
彼女は大判のタオルを差し出して微笑んだ。
「ぼくはルクレイ。きみは?」
戸惑う僕に半ば強引に押しつける。
意外な積極性にたじろぎながら、ようやく僕は答えた。
「ネインだ」
◆◆◆
あらかじめ来訪を知っていたように、バスタブには温かな湯が張ってあった。
充分な入浴のあとに、濡れた衣類と引き換えに受け取った服へ着替える。
シャツの襟に頭をくぐらせると、天気のいい日に干したのだと分かる心地よい匂いがした。
すべての後始末を侍女に任せて、暖炉の明かりに照らされる居間へ足を踏み入れる。
「暖炉に当たって。身体が冷えたでしょ。お腹は空いている? すぐに準備するよ」
入室に気づいて、ルクレイがお茶を運んでくれた。
繊細なカップの中に褐色の液体が揺らいでいる。
勧められるままソファに腰掛けて暖炉の火と向かい合った。
断りもなく当たり前のようにルクレイが隣に腰掛ける。
そうしてはじめて、僕の胸にいくつもの疑問が浮かび上がった。
「この森で暮らしているのか。こんな場所で?」
視線をめぐらせる。
雨のために取り込んだ洗濯物。
食事の準備が進められる食卓。
読み止しの本や途中になっている刺繍。
そんなものが目につく。
部屋の中には、つまり生活感が満ちている。
僕にとっては信じがたい光景だった。
彼女は知っているのだろうか。
ここが一体どういう場所なのか。
「こんな場所って?」
少女は確認するように問いかける。
僕の言葉の否定的な意味合いを感じ取ったのだろう。
もしかしたら何も知らないのかもしれない。
言っても信じてもらえるかは分からない。
「ここで、人はひとつ記憶を失う。……そういう噂が、ある」
結局、迷った挙句に切り出した。
少女は続きを促すようにうなずいて、僕を見上げる。
「僕は、失った記憶を取り戻すために、ここへ来た」
「失くしたものが、ここにある?」
「そうだ。絶対に探し出して、思い出さなくちゃいけない。そうしないと……」
言葉を躊躇って、誤魔化すようにお茶を飲んだ。
胃の中がかっと熱くなって身体の芯から温まっていく。
少し混乱していた気持ちが落ち着いて、深く息をついた。
「雨が上がったら森へ戻る。もう一度探しに行く」
「うん。失くしたもの、見つかるといいね」
僕の話が信じられないのだろうか、少女の声は何か物言いたげな含みをもっている。
別に、彼女に信じてもらえなくても構わない。
誰が疑おうと僕にはわかる。
僕は、何かを失くした。
いつどの瞬間かはわからない。
気づけばすでに穴が空いていた。
僕は今、何かを損なった人間だ。
不足を補わなくてはいけない。
あるべきかたちを取り戻さなくてはならない。
結局、夜になっても雨は降り止まず、僕の行く手を阻んでいた。
明かりもなしに眺めた森は重たい闇に包まれている。
重さを感じるような夜の闇の中で、失くしたものを探り当てられるとは到底思えなかった。
ここまで来たのに足止めだ。
もどかしさに苛立ちが募る。
これでは帰り道を行くのも危険だからと、ひと晩の滞在を勧められ、この屋敷に泊まることになった。
案内された部屋は掃除が行き届いていて、清潔なシーツと毛布からは借りた服と同じように日の光をたっぷり浴びた匂いがする。まるで干したばかりのようなふんわりした毛布に包まれて、身体は心地よいのに気持ちばかりが焦っていった。
眠れなくて何度も寝返りを打つ。
絶えず降り続ける雨の音がうるさくてとても眠れない。
とくに窓枠を叩く雨垂れの音がひときわ大きく響いて急かされているようだった。
考えるのは、失くしたもののことばかりだ。
失くしたもの。
それ自体については何もわからない。
しかし、引き換えにもたらされた喪失感は僕の身体を重たくし、不足感が常に僕を焦らせる。眠れない夜は特に、忌々しいそいつらの存在を近くに感じた。
諦めて身を起こす。
廊下へ出て、あてもなく歩く。
突き当たりに明かりが差していて、居間からだと分かった。
ドアの隙間から光が揺らいで廊下を照らす。
そっと押し開けると、中の様子が窺えた。
ソファに座ってルクレイが暖炉を眺めている。
寝間着の上にストールを羽織って、両手でカップを掴んでいる。
何か思案するような横顔は外見不相応に大人びて見えた。
やがて来客に気づいて顔を上げる。
「眠れない?」
気遣うように微笑んだ。
「今夜は冷えるからね。きみも、ここで暖まるといいよ」
ソファに畳んで重ねられたストールを受け取り肩に羽織る。
ルクレイの隣に腰掛けて、同じように暖炉を見つめた。
「明日は、雨、止むといいね」
「そうならないと困るな」
「うん……」
少女の語尾が何か話し足りない様子で、僕は詮索を恐れて慌てて言葉を続けた。
「ほかに家族は居ないのか? なぜここに暮らす必要が?」
結果、相手を詮索する質問になってしまって居心地が悪い。
僕の中に浮かぶいくつもの疑問が、咄嗟に上から順に出てきたのだ。
「見てのとおりだよ。
ほかに住人は居ない。
きみみたいなお客さんが時々やって来るから、寂しくないよ」
答える声に無理はなく、本心を偽っている様子はない。
しかし、どうにも納得しがたい回答だ。
こんな場所で、どんな理由があって子供だけで暮らしているのか。
町から逃げるように。姿を隠すように。
何か後ろめたい理由でもあるのだろうか。
だとすれば、確かにこの森は最適かもしれない。
隠れ家としてはうってつけだ。
「この森で暮らす人間がいるなんて考えてもみなかった。
皆が遠ざける、恐れる森だ。
僕も必要がなければ足を踏み入れたりしないよ」
森は、訪れた人からひとつ、記憶を奪う。
だから誰も、森へはなるべく近づかない。
当然僕としてもできるだけ長居はしたくなかった。
これ以上記憶を奪われたら堪らない。
「こんな森の中に住んでいたら、きみも記憶を失う」
「そうかもしれないね」
少女が少し俯くと、垂れた髪が横顔を覆い隠した。
こちらからは表情は伺えない。
カップに唇をつけてひと口飲んで、再びルクレイは顔を上げ、見つめる視線に気づいて僕を振り返る。
案じるような眼差しが哀れまれているようで不服だった。
「きみの探し物は、ほんとうに森にあるのかな」
「ほかに考えようがない。僕は記憶を失くした。
この森は、記憶を奪う場所だ。
ほかのどこで、僕は失くしたものを取り返せる?」
確信があるわけではない。
不安を誤魔化すように言葉を重ねた。
ただ漠然とした予感だけが僕をここまで突き動かしている。
不確かな要素を信じて行動したことを呆れられているように感じて焦りが増した。
僕には、ほかに手がかりはない。
ほかにすがるものはない。
「森の中にあるはずだ。見つかるまで、探し続けるよ」
早く朝が来ればいい。
今からだって出かけていきたい気持ちを抑えて、膝の上で固く拳を作った。
「――明日に備えて寝るよ。邪魔をした、ルクレイ」
ソファを立ってドアへ向かう。
言おうか迷って、結局、言葉にした。
「泊めてもらえて助かった。感謝している」
少女のまっすぐな眼差しを意図的に視界から外す。
余裕のなさを見透かされるようで怖かった。
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